#29:非→常時×サルヴァヴィータ×究明

 白い、薄ぼんやりとした、闇なのか光なのか判別できないものに満たされた空間にいることを感じた。夢だろうか。覚醒しかけの、脳のどこかで「夢」と認識している、これは夢だろうか。瞼を閉じている感覚はあるのに視界は白く確かな奥行きまで感じる。


 浮いているという非現実的な感覚も、五感のどれで感じているのかは分からないがそうと納得して受け取っている。その上でその中空の一点に留め置かれているような、そんなままならなさも感覚器官のどれかで受け止めてはいる。段々と記憶が、意識が、あっちこっちにブレ飛びながらも合ってきた。


 桃永を斃し、僕も倒れた。相手の「黒い感情」を漉し取ったからだろうか。そう、と呼応するかのように白い視界の左奥の方から、「黒い」液状のものが染み出し広がってくるのだが。何らかの影響を、僕は受けたのだろうか。悪影響で無いことを祈りながらも、身体も意識も動いてくれる気配を見せない。それでも試みる。こちらに意思を持ってにじり寄ってくるかの動きを見せている「黒い染み」を見極めるために。


「……」


 目は開いた。感覚の「目」というかが。眼下に捉えることの出来た「黒染み」はそんな僕の挙動に気づいたかのように、やはり意思のあるような動きにて不自然にそこに留まる所作を見せるが。


 身体がままならないと思ったら、本当に固定されていた。いやはりつけと言うとしっくりくる。僕の背丈よりやや大きめの「十字架」のような宙に浮いている物体に、四肢を吸着させられていたのだから。両腕は肩の高さまで水平に広げられて。いや、いわゆる十字架でも無い。真っ白な脚の長い十字は前面から見ればおそらくそうだが、頭が来る部分が手前側にも突き出してきている変則な形状。そのせいで僕の首は前に傾けさせられ、やや窮屈な姿勢となっている。それよりもやはり動かない、動かせない。


 その様態を見て取って悟ったのか、また「黒染み」は何らかの生物然とした収縮と弛緩を繰り返しながら僕の足元まで迫ってこようとするのだが。何というか、本能的にまずい気がした。無理やりに首の辺りに力を入れてみるものの、やはり動かない。ぞわりという音がしそうなほどぞわりと、足元辺りに跳ね飛びついてきたものが、ぬるりと僕の足首あたりからそのまま登ってくるような感覚……


 刹那、だった。


 急速に頭の中に清浄な液体のような気体のようなものが流れ込んできたように感じた。瞬間、靄のような白に埋め尽くされていた世界は霧散し、僕は引き揚げられるかのように覚醒する。


 あ、気が付いたぁ良かった……という安堵からか空気が漏れるような声が、とても至近から響く。まだままならない瞼がそれでも左側のだけは糸ほど開いたものの、焦点は定まらない。姫宮さんの身体から漂うあの「森」の香りと、直近まで迫った顔の下半分、艶めいて見える唇だけが霞む視界の中で何とか視認できたが。


「……」


 車の中……のようだった。走行する。旅館を発った時のとは違う? 広めの後部座席の左側にシートベルトで固定されるようにして僕は、「夢」の中とは異なり、首を右側に傾けている姿勢。と、


「起きたのなら良かった。支給されてたその胡散臭い『ポーション』っていうのが効いたのか、それとも天使のキスのおかげか、まあまだ気は抜けないから状況だけ聞いてくれ。もう少しで多摩川を越えるとこまで来ているが、都心を中心として都内の路線は大混乱過ぎて正確な情報も分からない。クルマで行ける所までは行くが、そこから先はおそらく生身の方が速いと思われる」


 走行音と共に落ち着いた声が掛けられる。苦労して左瞼だけを何とか半開させると、バックミラーと薄茶のレンズ越しに、普段通りの村居さんの目が合い、少し落ち着いた。そしてこの身体に染みわたるようにしてもたらされたのは……「ポーション」? 何とも浮世離れした響きに聞こえるが、実際に僕を意識の混沌から引っ張り出してくれたわけで。姫宮さんが飲ませてくれたのだろうか。


 視界を右隣方向に移してみると、僕の方に体ごと向き直った姫宮さんの姿がようやく焦点を結ぶ。僕の選んだ黄緑色のブラウスとベージュピンクの膝丈のキュロット。その上の顔は何故か不自然に紅潮しているようにも見えたが。その細い指先で保持されていた市販では見慣れないやけに細長い試験管のようなペットボトルのようなものに入っている、これまた浮世離れした「透明感のある水色」の液体が件の「ポーション」なのだろう。本当にそれが効いたのか半信半疑未満ではあるが、まだ半身以上がままならない状態。周囲の音も様子もまだ定まらない。なので残りのそれを飲めば何とかましにはなるんじゃないかと、藁にも縋る思いを込め、それを手渡してくれるよう姫宮さんに何とか動く左手を差し出すというゼスチャーを試みてみるが。


「……」


 伝わらなかったのか? 姫宮さんはその試験管のキャップを外すと、決然といきなり自分で一気にあおり飲み干してしまったのだが。え? この……ままならなさ、荒唐無稽さは……まだ夢の中だからなのかも知れない。早くこんな状態からは脱しなければならない事態だっていうのに……などと一向に定まらない思考にそろそろイラつきを覚えてきていたら、


 そんな思考をゆっくりと割るようにして迫ってきたのは、限界まで頬を膨らませたようなふくれっ面にしてはそのクリーム色の髪の下から覗く大きな瞳が潤んでいる真っ赤な小顔であったわけで。刹那、僕の唇にもたらされる柔らかな感触とそこから沁みこんでくる清浄な液体の感覚。夢かどうかの確認よりも先に、僕の身体はその液体を求めるかのように本能的な反射のようにして舌を伸ばしてそれを全て受けようと動いていた。


 性急に柔らかいものの間とその内側の硬いものの間を割り広げるように差し入れていくと、その隙間から一気に清浄さが流れ込んでくる。切なげな溜息のようなものが連続して鼓膜を打っているが、構わず僕はかつえた獣のように貪欲に喉を鳴らしながらそれを自分の体内へと流し込んでいく。残滓一滴も残さないように柔らかく冷たい中も拭うように、ぎこちなく絡んでくる湿った熱いものの内からも吸い尽くすかのように。


 何とか人心地ついた。しかしそれゆえに結論から言うと、夢では無かった。


 意識はほぼはっきりと戻ってきた。が、そこは先ほどまでの見慣れぬワゴンの後部座席のままであり。え?


 お、大人な、なのだったよね二人で大人しちゃったね……と、僕の方を見てくれなくなった姫宮さんからそのような掠れ声が響くか響かないかの瞬間には、助手席側からと思われる、後ろ手に投げつけられるようにして飛翔回転してきたもうひとつの「試験管」の硬いキャップ部の方が僕の左こめかみに刺さるようにしてぶち当てられて来ていて。意識はその衝撃により、よりしゃっきりした。とか思っている場合でも無さそうだったが。


 オラ口直しにもう一本飲んどきな雑菌まみれじゃ無い奴をよぉうッ、というような深紅の「針」のような言葉と、何が雑菌か乙女の甘露やぞッ、というような真っ赤な「棘」のような言葉とが応酬されていく中、身体と精神の「平常」を取り戻すため、僕はそのもう一本を一気にあおり飲み干す。


「大丈夫かい? いや単純にキミの体調コンディションという意味で」


 村居さんの言葉に、大丈夫ですこれ効きますねとの言葉を何とか平常で返せたものの、それは嘘だった。確かに意識は一応まともに動くと自分では思ったが、左脇腹付近にしこりのような重い違和感が巣くったままであり、全身も実際に着たことは無いが鎖かたびらのようなものを着込んでいるような重さだ。が、そんな事を気にしている場合でも告げてどうなるものでも無いので伏せる。ネガティブな「感情」を操り誤魔化すことはこれまでもやってきたことなので容易だ。そして、


 どうやら厚木ICでのあの「車の壁」はレクサスでは突破出来なかったらしく、壁の向こう側のキー差しっぱなしのワゴンを拝借してきたそうだ。ともあれ桃永以降は奴らの直接の妨害も入らなかったようで距離は稼げたらしい。それでも多摩川渡って以北は状況不明であるため、洗足池から直近である所の南西方向に架かる「丸子橋」を渡ってからは約四キロのランニングということに相なりそうだ。渋谷、新宿辺りではもう大規模な暴動のようなことが起こっているらしく、事態は切迫している。


 このままならない身体で数キロ走る……ことが出来るのだろうか。そしてどんな混沌に陥っているか分からないような混乱の中を無事に突っ切れるのだろうか。


 そんな逡巡が外部に漏れ出ていたのだろうか、振り向きもせずに僕の前に座る三ツ輪さんからいつもの「橙色」と「緑色」に彩られた自信を漲らせた「糸感情」が紡ぎ出されてくるのだが。


「……少年に当てはまる感情はカテゴリにあるのか知らんけど、まさにの『杞憂』よねぇん……おねいさんに任せておきなっての。四キロがとこ、軽ぅくひとっとびしてヤロウ共をまとめてキャン言わせるわよぉぉん……ッ!!」


 いつも通りの安定感に、僕らはやはり救われている。であれば僕は僕でやれることをやるだけだ。


 乗り捨てられたかのような車が目立つようになってきた国道の先が開ける。川がそこまで迫ってきていた。


「作戦変更だ、橋がここから見ても分かるくらいに埋まってるよこれは……降りる、しかないね」


 村居さんの言葉通り、通過しようとしていた「丸子橋」は既に車がオーバーフローしているように見える。とんでもないぎゅう詰め状態で、これは身ひとつで行ったところで渡れないのでは……との「杞憂」がまたぷかりと頭上辺りに浮かんでしまうが。


「全然オッケー、ほらみんな最低限の荷物だけ背負ったらそこの植え込みのところでも座んなさいな」


 ここはもう三ツ輪姐さんに任せるしかない。既に辺りは日没間近の光の質に変わってきている。時間はもう無い。行くんだ。僕は一回深い呼吸を腹底まで落として気合いを入れ込む。

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