#28:無→責任×フィオリトゥーラ×絶無

 頸動脈に冷たい感触が来た、のならば、その時すでに僕の視界は傾いだり反転したりするものだと思っていたが、そのままだった。そのまま時間が止まったかのような時間が二秒、三秒と過ぎ行く。恐る恐る目線を下げて自分の状態を確認していく。


「……ッ!!」


 桃永が振り薙いだ剣撃は、僕の首元に精密に切断せんと達してはいた。いたが、そこで、まさに皮一枚の所で留まっていたわけで。無論、この中年の意図するところとは異なっているはずだった。であれば。


「……ちょっとさぁ、『支点』になりそうなとこ探してそれ経由してくんのに時間かかった。ごめんね……少年はちゃんと囮の仕事愚直にこなしてくれていたのにねぃ……」


 左斜め前からそのような気の抜けた声が、さっきまで呼気すら凍ってしまいそうなほどの緊迫しきっていた場にぷかり漂ってくる。声の主は言うまでもなかったが、先ほどのあの胸への斬撃を受けてまったくの無事?


「あのね、新兵器『編球スフェリコ』はね、攻防一体なんだっつの。おっさんの『剣と盾』みたいに役割いちいち分けてはいないんだなぁ……だから自在。その『剣』自体に絡みついて動き封じるとかさ、も、出来るわけ。さらにはこんな風に……」


 完全に調子に乗った時のねちっこい喋り方と共に、「橙」と「緑」の奔流がそのしなやかな身体から立ち昇ってくる。薄紫色のチュニックの胸元には確かに横に斬れ目が一文字に走っているが。そうか、「攻防」。「糸」を身体に巻き付けるように、例えるなら「くさりかたびら」のように纏っていたのなら、と、


「よぉーやく分かったようねぃ、鈍い君たちぃ……そう、これこそがッ!! 鉄壁のォッ!! 名付けて『聖編衣セフィィロス』、だぁッ!!」


 得意満面という字面がその整った顔面に浮かんで見えるほどにそれは得意満面に、三ツ輪さんはその何とかという「糸の衣」を見せつけんばかりに外連味ある仕草にてチュニックの裾をがばと上に捲り上げるものの。


 刹那、だった……


 そこから現れたのは、下に身に着けていた黒い全身スーツをも鋭利に横斬されていた裂け目のさらに下、露出したその流麗なカーブを描く鎖骨の下から心臓部を部分的に覆うように「編まれた」赤・橙・黄色のカラフルな糸のまさにの「かたびら」状のものであって、それにより剣撃が防がれたのだなと納得させられなくも無かったのだが、それよりも先に先の動作と共に勢いよくスーツの裂け目からにじり上がり跳ね飛びだし、弾むようにして時間差を伴って左、右の順でまろび出てきたふたつの球状の物体の方に視点は奪われてしまったわけで。


 その上下左右にたゆんと揺れ動く乳白色の球状体の真ん中あたりに穿たれた薄紅色のふたつの目のようなものと、僕の目が合った。気がした。刹那、背後からの姫宮さんの痴女ォォッ、という叫びと、慌てて胸元を庇いつつ着衣を直しつつ、見た? と猛禽のような目つきでこちらを射貫いてきた三ツ輪さんの問いに挟まれ、図らずも相対した中年と同時に首を左右にこれでもかと振ってみせるものの、


「……っ死ぬるに値する」


 物騒な言葉が鼓膜に届く前に、桃永の方はその振りかぶった「剣」ごと既に背後から「糸球」に絡め取られていたらしく、拙いワイヤーアクションのように僕から見て奥面側に間の抜けた中途半端なポーズのまま、凄まじい勢いで引っ張られていくのだが。


 距離が、稼げた。


 瞬間、僕はまだそのピンク兜の庇に貼りつくように鎮座していた「匣」を「展開」させる。白いぎらついた光が直方体の形を保ったまま中空で爆発的に膨張するやいなや、中年の身体をそこに埋め込んだまま、その身体に纏われていた全身鎧かぶと、剣と盾に至るまで、その「豆腐状」と表現するとしっくりくる微小な直方体の群体の中で分解されるようにして溶かし始める。


 勝負はついた、と思ったが、左耳に違和感。慌てて身を引き、そこの穴向けて伸ばされてきていた三ツ輪さんの「糸」から身を躱す。記憶ヲ……耳穴カッポジッテ大脳カラ直デ消サナイト……というような感情の全く感じられない言葉を発しながら虚ろな目でこちらを窺ってくる御仁の対応は後にしよう。ともかく、助かった。桃永の剣は最初僕の胸を袈裟懸けに斬り裂いたと思った時には既に「糸」と「球」に絡め取られていたらしく。その鋭利な刃面をコーティングしてくれていたようだった。切断は免れた。僕のTシャツの胸元も切れてはいない。流石に打撃を受けて線状の痛みはあるものの、そのくらいはまあ許容ということで。


「こ、こんなバカな……何なんだこの『白い』物体はぁぁあああ……身体も!! 『感情』も!! 全てをキャンセルさせられるかのような……この感覚は? 認知できないベクトル方向への奥行きを感じる……」


 一方の桃永は首から上を「直方体」から突き出した格好にて、料金所前の地べたに鎮座しているというなかなかに違和感を覚えさせる感じで拘束されているのだが。必死で体を動かそうとするものの、ギィィッ、という金属質な呻き声を上げるに留まっている。よし、やはりこれは使える。僕にもまだ囮以外の役割はあったんだ……


「その『光匣体』は、貴方から邪悪な『感情』を『漉し取る』。もう感情を伝播させるなんてことも出来ない、ただの普通のヒトに戻す」


 殊更に噛んで含めるように言ってやる。歯噛みをする桃永の表情も素であろうものがだいぶ出始めてきていて、何というか普通の中年と相対しているようであるが。


「ま、まったく分からないが分かったとしよう……だがこの身体を動かすたびに脊髄を貫くような『絶頂感』は何なんだい? こ、こここれこそ意味不明なんだがッ」


 それは僕にも分からない。「漉し取る」ことと何らかの関連性があるのかもだが。いや内外どちらともにそんな問答をしている場合でもない。何とも締まらない決着となってしまったが、ひとまず僕は桃永を埋め込んでいる「光匣体」を回収し始める。途端にその身体を激しく震わせ始める中年だが。


「あ、あごぉぉぉおおおッ!! 『絶頂』がッ!! 『絶頂』がそんな連続はダメですぞぁぁああッ!! か、かか感情が破壊されりゅぅぅううううッ!!」


 いい大人の聞いたことも無い絶叫に面食らうものの、回収自体はつつがなく進んでいるように思えた。が、


「……フミヤくんっ?」


 今までの経緯を震えながら静観していた姫宮さんが、僕の異状を悟って駆け寄ってきてくれたのを何とか認知は出来たが。身体全体に感じる重苦しさ、内部、芯にじくじくと拡がる不快な熱、吐けそうで吐けないもどかしい嘔吐感が突然無秩序に襲ってきて僕はその場に膝から崩れ落ちてしまっていたわけで。「黒い感情」。それを漉し取れたはいいが、それは残留したままで僕の元に戻ってくると、そういうわけだろうか……であれば、


 「光匣体」が使用できるのは、あと残り何回か、そのくらい限られているのかも知れない……


 僕自身がどうなってしまうか分からない、そんな底の抜けたような冷たい恐怖のようなものを精神の奥底で感じている。でも、躊躇している場合でもない。やる。それだけだ。


「おおおおおおッ!!」

「アギヒィィィッ!!」


 意識の混濁を振り払うように腹から声を出し、すべての「直方体」を自らの内へと収納し終えた。と同時に全身を伸び切らかせた中年は、諸々を超越したかのような、白目を剥いていながらなお静かなる笑みを浮かべつつその場に倒れ伏したのであったが。


「……!!」


 僕らを前後から圧迫するかのように包囲していた車の群れからも、「黒い感情」の薄い剥離片のように視える残滓が中空へと舞い上がっていく。「伝播」もキャンセルできた……? 正気に戻ったのだろうか、異変を感じ車外に出てきたヒトたちのざわめく声をうっすらと聴きながらしかし僕は。


 少年っ、との声も鼓膜で何とか感知しながらも、意識を鋭い刃物で断ち切られるように暗い闇へ突き落

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