弐拾弐ノ妙 憑いてる棗

「怪談でよく語られる草木も眠る丑三つ時の丑三つ時とは、午前二時から二時三十分までの時間を指します。」

「江戸時代くらいまでの日本では、一日の時刻を二時間ずつ十二に分けて、年ごとに変わる干支えとと同じように十二支であらわしていました。」


「丑の刻は、午前一時から三時の二時間。」

「丑三つ時とは、丑の刻を四つに分けた内の三番目で、午前二時から二時三十分までの時間となるのです。」


 ――ということは、今は未二つ時になるのかなぁー。


 棗は、午後からの眠たい授業を受けながら、漠然とそんなことを考えていた。


 狗神の一件から、すでに三週間が過ぎようとしていた。


 あの後、棗はドギマギしながらも、人間の姿に戻った全裸のさとみを抱きかかえ、ベッドまで運んだ。


 一糸まとわぬ姿で横たわるさとみに、眼のやり場のない棗。


 しかし、少しでも鼻の下を伸ばそうものなら、ただでさえ氷のように冷たい視線を刺してくる巫音が何をしでかすか分かったものではない。

 実際、狗神の爪で受けた右肩の傷に鋭い痛みが走り、棗にはそんな余裕など全くなかった。


 ――だったら、オレにやらせるなよー。


 棗は心の中で叫ぶ。


 しかし、巫音も血走った眼で刺すような視線を送ってはいるものの、依然としてベランダのフェンスにもたれ掛かり、とても動ける状態とは思えなかった。


 夜の闇に遮られ、射すくめるような眼光以外、巫音の様子はよく見えないが、かなりの傷を負っていることは間違いない。


 ベッドに横にすると、さとみは安らかな吐息を立て、安堵した表情を浮かべる。


 巫音は、さとみの安否を見届けると、非力な重い躰を強靭な意志の力で何とか持ち上げ、足を引きりながらも神織神社へ歩を踏み出す。

 御多分に漏れず、巫音は、棗におぶってもらうことを拒否するどころか、近寄ることすら許さず、ふらついたり、倒れそうになりながら歩みを進めてく。


 棗からしたら、とても見ていられない状況だったが、そんな巫音を見守りながら後に付いて行くよりすべはない。

 しかも、巫音は、暗い道をえて選んでいるのか、巫音の姿は闇に閉ざされ、ほとんど様子をうかがい知ることができなかった。


 それでも何とか、神織神社に張り巡らされた結界内への入り口ともいえる、あの路地まで辿たどり着くことができた。


「ひとりにして」


 背中越しに訴える巫音。


「ほ、ほんとに大丈夫?」


 深手を負った巫音を、さすがに放ってはおけない棗。


 巫音は、両の手で自らの躰を抱き締めると、若干かがんだ姿勢で棗の方に向き直る。


 棗の質問には耳を貸さず、血走った瞳をやや上目遣いに棗へ向け、有無を言わせないといった表情で、訴えかけるように見つめる巫音。


 巫音は、手のひらや腕で自分の躰を出来る限り包み隠そうとしているのか。

 しかし、その大部分は隠しきれるはずもない。


 手、足、肩、躰の至るとことに、切り裂かれ開いた傷口。

 制服の袖は肩から引き千切れ、スカートの裾は切り裂かれ、腰から胸にかけて破れたセーラーは血をにじませている。


 巫音の透き通るように白かった肌は、ひび割れた壁の亀裂のようなおびただしい数の毛細血管に覆い尽くされ、赤黒い巨大な蛇の表皮を思わせる不気味な質感を帯びたモノへと変貌していた。


「う、うっ……」


 棗は、あまりのおぞましさに胃から込み上げてくるものをこらえながらも、逸らしかけた眼を真っすぐ巫音に向け、しかめかけた顔を気力で正し、何とか平静を装う。


 しかし、返す言葉すらも見付け出すことが出来ない。

 ない気持ちのまま、うなずくことしか出来ない棗。


 最早、棗には巫音に背を向け、歩き去るより手立てはなかった。

 力無ちからなく歩を進める棗の背後から、辻違えのじゅが微かに聞こえてくる。


「ありがと……」


 背後から巫音のささやくような声。


「さよなら」


 棗が振り返ると、すでに巫音の姿は無く、結界の向こうに消え失せてしまっていた。



 棗の肩の傷は、思ったより浅く、一週間ほど包帯を必要としたが、今はもう完全に治癒ちゆしていると言ってもいい状態だった。


 左腕のヤモリの痣は、如何どうやら彼女の命に危険が訪れたときに、首の帯留をみ切るということなのだろう。

 葛乃葉との約束では、彼女から一時も離れてはいけないはずだったのだが、今のところ、別段これといった動きは感じられない。


 狗神をまつるための頭蓋骨が何処かにあるのではないかと、念のため最初に猫の狗神に遭遇した公園のけやきの木の付近を探してみたが、けやきの木の根元には、何かを掘り起こしたであろう形跡は見つかったものの、頭蓋骨自体は見付け出すことが出来なかった。


 犬飼さとみはといえば、さとみを知る同級生などからは、最近はとても明るく活発で、まるで人格が変わったようだということだった。


 実は、棗も登校時に校門でよく出会うのだが……。


「おはようでーすニャ~」


 今朝も登校時に、棗が校門を通り過ぎようとすると、後ろから走ってきたさとみに不可思議な日本語で挨拶されるのだった。


 元気に走り去っていくさとみ。


 ――あの頭にある猫耳とスカートからのぞく尻尾は、付け耳のたぐいだと思いたい……。


 棗は、思い浮かぶ最悪の事態を頭から振り払おうとしてみたが、周囲の人からはいぶかしく思われていないようで、やはり見えているのは棗だけのようだった。


 結界の向こう側に姿を消した彼女は、あれ以来一度も姿を見せていない。


 彼女の安否が気に掛かる棗だったが、ヤモリのあざがピクリとも動かないということは、命に別状はないということだろうと、棗は信じることにした。


 ――えっ、誰のことだ?


 もうしばらく様子を見て、登校して来ないようだったら、一度、神社を訪れようと思っている。


 ――ん……、どこの神社?


 何気なく、いつも彼女が座っている席に眼を向ける棗。


 ――そういえば、最初にヤツに気付いたときも……。


 棗が最初、彼女に気付いたときも、こんな風にぼんやりと何を見るともなく、その周辺を見つめていたのだった。


 ――ヤツ……?


 何か大事なことを忘れているような落ち着かない気分の棗。

 頭の片隅に何かが引っかかっているのに、どうしても思い出せない。


 カツカツと小気味な音を立てて、軽快に板書をしていく教師。


 教室の中央に空いている席が一つ。


 ――あれっ? 誰か欠席してたっけ。


 ふとそんなことが頭をよぎる棗だったが、すぐに教師の板書に気を向け、ノートに重点を書き移そうとする。

 いつものことではあるのだが、特に今日は授業に集中できていない。


 ――帰りに、木田でも誘って映画でも見に行くか。


 胸の中に大きな穴が開いたような虚無感を感じ、それを埋め合わせる方法を探す棗。

 もやもやした気持ちを引き摺りながらも、何かが気になって気になってしかたがない。


 ――そう、気になる、本当に気になるヤツなんだ。


 再び、教室中央の空席が、棗の目にまる。


 スーッ。


 空席で誰も座っていないはずの椅子が、何かに引かれたように、静かに後ろに動く。


 リーン、チリーン。


 どこからともなく、微かに響く鈴の


 ――髪飾りの鈴?


 棗は、なぜか直感的にそう思う。


 しばらくして、教室後ろの扉が、かすかな音を立てる。


 棗が後ろを振り返ると、教室後ろの扉が開いている。

 もちろん、出入りした人の形跡は全くない。


 勝手に開いたとおぼしき扉が、誰もいなければ、当然、誰も触っていないはずなのにゆっくりと閉まった。


 ――そうだったのか!


 彼女の隠形おんぎょう

 彼女の隠形は、人の意識をぐことによって存在を曖昧あいまいにし、姿をかくすのに都合の良いように、ものの見方さえ変えてしまう。


 ――そう、ヤツの名前は、織紙巫音。


 棗は、手荒に席を立つと、教師の制止もかえりみず、教室から駆け出した。


 廊下へ飛び出した棗の目を引いたのは、先を歩いていく女生徒の後姿。


 女生徒は、先を急ぐかのように足早に、先へ先へと足を進める。


 透き通るような白い肌に、つややかな長い黒髪、右耳の上辺りに二つの鈴がついた変わった髪飾り。


 巫音に駆け寄り、息を切らしながら叫ぶ棗。


「お、織紙」


 躊躇しながらもやはり……。


「……さん!」


 巫音は、落ち着き払った声で言う。


「二年B組に行かなくちゃ」


 ――またですか?!


 またもや、巫音の短絡的かつ衝動的で、無茶で、無理な行動に付き合わされることになるのだろうかと、秘かにゾッとする棗。

 棗と巫音の関係は、機械的というか、事務的というか、業務遂行のために仕方なくといったものだ。


 棗は、元々、厄介なことには極力かかわらず、ほどほどに仲間と楽しんで、どう学園高校の3年間をほどほどに過ごせればいいと思っていたのだ。

 いや、今でも、出来ればそうありたい。


 そんな棗が巫音と行動を共にしているのは、白銀しろがね帯留おびどめとヤモリのあざの呪いともいえる葛乃葉の術によるもの……。


 いや、そうなのだろうか。


 こんなに織紙巫音が気になる棗は、すでに何かに憑かれてしまっているのかもしれない。


 棗の心に憑りつく巫音。

 巫音が棗に憑いている。

 いや、棗が巫音に憑いているのか。


 巫音は、棗のことなど我関せずといった面持ちで、まっすぐに前を正視し、先へ先へと足を進めていく。


 棗も、巫音の傍らを半歩ほど下がって、隠形に巫音を見失わないよう気を留めながら、同じように足を進める。


「どうなっても知らないよ」


 呟くように言う巫音。


 巫音は、気付かれないように、チラッと棗を横目で見ると、口の端でわずかに微笑む。


 棗としては、もう二度と怪異とかかわるのは勘弁してほしいのだが、織紙巫音にかかわった以上、その願いが叶うことはないのかも知れない……。


 棗は思う。


 ――御障り巫女に憑いている俺は、きっと怪異から逃れられない。

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御障り巫女に憑いてる俺は、きっと怪異から逃れられない 嘴廣コウ @KouHashibiro

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