弐拾壱ノ妙 障りの巫女

 棗の呪文により動き出した人形ひとがたの呪符のおかげで、やっと意識を取り戻した巫音。


 しかし、棗と巫音は、狗神に、半ば、抱き込まれたような恰好かっこうとなっているため、身動きが取れないでいた。


 棗は、巫音と狗神の間に割って入ったところまでは良かったが、すでに、気力、体力共に限界で、狗神に押し負けそうな状態。


 このままでは、巫音ごと叩き切られるのも時間の問題だった。


 巫音は、もう一度、残りの折り鶴がないか、身に着けている制服の至るところを確かめてみるが、やはり、全て使い切ってしまったようだ。


 困惑して辺りを見回すと、もたれ掛かっている背後のフェンス越しの屋根に、一羽、転がっている折り鶴を見付ける。

 棗にスカートの中をのぞかれて――くどいようだが棗の主張としてはのぞいていない、投げ散らかした折り鶴の内の一羽だった。


 巫音は、フェンスの間から手を伸ばし、折り鶴をつかもうとするが、あと少しというところで届かない。

 フェンスに肩を痛いほど押し付け、筋が千切れるかと思うほどに腕を伸ばす。


 巫音の指の先が折り鶴に触れる。


「お、お、織紙ーっ」


 もうすでに限界を超えている棗。


「もう少しだよ」


 ――人さし指と中指で挟めば、何とか取れそう。


 勢い付いた巫音が、さらに腕を伸ばす。


「あっ」


 巫音が拍子抜けするような声を上げる。


 ――えっ、何?

 今の「あっ」……。


 棗からは、背後で何が起きているかを知るよしもないのだが、巫音の指が折り鶴に触れた瞬間、折り鶴は屋根の下の方へ転がって行ってしまったのだった。


 屋根から落ちてしまわなかっただけ良かったものの、如何どう足掻あがいても手の届く距離ではなくなってしまった。


「お、おり、おり、織紙! も、も、もう、ダ、ダメだ」


 息絶え絶えの棗が発する、悲鳴のような言葉。


「大丈夫、もう少しだけガンバって」


 巫音は、ひとことささやくと、印を結びじゅを唱える。


「オン ボージシッタ ボダハダヤミ」

「オン サンマサヤ トヴァン」

「オン ボージシッタ ボダハダヤミ」

「オン サンマサヤ トヴァン」


 屋根に転がっていた折り鶴が、翼を正し、ふわっと舞い上がる。


 しかし、呪力の限界なのか、離れすぎているため呪力が届かないのか、折り鶴は、数回羽搏はばたくと、再び、ぽとりと屋根に落下してしまった。


 それでも、先ほどよりはフェンスに近く、十分に手が届く距離だ。

 巫音は、素早く折り鶴の尾をつかむと、手首を返すようにして軽く振る。


 バサッ。


 瞬間、折り鶴の折り目がけ、一枚の札になる。

 しゅせつと書かれた止縛しばくの呪符だ。


 狗神は、手で触れることが出来るほどの距離まで迫っている。


 棗は、丁度、巫音と狗神の間に挟まれた形で、右肩にめり込んだ狗神の爪と巫音の顔面を切り裂こうと振り上げられた腕を、両腕で懸命に抑え続けている。


「青葉君、頭が邪魔」


 棗の後頭部を見詰めながら、巫音が言う。


 棗が頭を下げようとしたとき、バランスが崩れた。


 動きを取り戻した狗神の鍵爪が、巫音の頭を真っ二つしようと、頬を引っ掻き赤い筋を引きながら、頬肉の中に潜り込み始める。


 次の瞬間、鍵爪の動きが止まる。


 狗神のひたいには、止縛しばくの呪符。


 棗がバランスを崩した、その瞬間、巫音が貼り付けたものだ。


 狗神は、時折、痙攣するような動きを見せてはいるものの、躰の動きを封じられ身動きが出来ない。


 棗にし掛かっていた圧力が一瞬のうちに消え失せる。

 それでもなお、棗は狗神の腕をしっかりと握り続けていた。


「青葉君……、邪魔」


 落ち着いた口調で言う巫音。


 巫音を守るために捨て身の覚悟で、狗神と対峙した棗にしてみれば、邪魔、邪魔、言われるのは少々癇かんに障ったが、至極当然の状況に返す言葉もない。


 狗神と巫音の間から、半ばうようにして、しずしずと抜け出る棗。


 見ると狗神は、両腕の鍵爪を振り下ろし、襲い掛かろうとした姿勢のまま動きを止められ、巫音と向かい合っていた。


朱雀すざく


 巫音は唱えながら、ある文字の最初の一画目を刻み込むかのように、人さし指と中指を揃えた印――刀印で狗神の胸辺りをなぞり始めた。


げん


 唱えながら二画目。


びゃっ


勾陣こうじん


南斗なんと


北斗ほくと


三台さんだい


玉女ぎょくじょ


 唱えるごとに一画ずつ刻み付けて行く巫音。


 狗神の胸に『妙』の文字が浮かび上がる。


 そして、巫音はゆっくりと狗神の首に両手をまわす。

 狗神の太い首に半ば強く抱きしめるような姿勢で、狗神の頭の後ろで印を結ぶ。


 そして、最後に


せいりゅう


 と唱える。


 狗神に衝撃が走り、ビクッと痙攣する。


 巫音は、『妙』の字に躰を押し付けるようにして、更なるじゅを唱える。


「オンマカヤシヤ バザラサトバジャ クウンバンクシャ ハラベイシャナウン」

「オンマカヤシヤ バザラサトバジャ クウンバンクシャ ハラベイシャナウン」


 巫音と狗神の間に、微細な稲光が交錯し始める。


 同時に、巫音の白い肌に青黒く血管が浮き出る。


「オンマカヤシヤ バザラサトバジャ クウンバンクシャ ハラベイシャナウン」


 巫音の眼が血走り真っ赤に染まる。

 交錯する光は、より強さを増し、青白い光の渦の中に巫音と狗神を包み込む。


「オンマカヤシヤ バザラサトバジャ クウンバンクシャ ハラベイシャナウン」


 狗神の中のさとみの感情が、巫音に流れ込む。


 ――美咲は、いつも一番。

 私は、いつも二番。

 美咲がいる限り、いつも二番。

 美咲がいる限り……。

 美咲がいる限り……。

 美咲がいなければ……。


「オンマカヤシヤ バザラサトバジャ クウンバンクシャ ハラベイシャナウン」


 ――いい絵を描いて一番にならなければ……。

 一番になって、パパの笑顔が見たい。

 絵を描くのは、一番になるため。

 一番になるためなら……。


「オンマカヤシヤ バザラサトバジャ クウンバンクシャ ハラベイシャナウン」


 ――絵を描くのは、一番になるため……。

 絵を描いて、一番になる。

 絵を描くのは、一番になるためなの?


「オンマカヤシヤ バザラサトバジャ クウンバンクシャ ハラベイシャナウン」


 ――ちがう、絵を描くのは一番になるためじゃない。

 絵を描くのが楽しかったから。

 たくさんの気持ちを表現できたから。


「オンマカヤシヤ バザラサトバジャ クウンバンクシャ ハラベイシャナウン」


 ――キラキラと光り輝き、金や赤に彩られた王冠や王家の意匠を模した紋章。

 上下に躍動する白馬が光の渦の中をまわり続けるメリーゴーランド。

 絵を描くのは、幸せな気持ちになれたから……。


「オンマカヤシヤ バザラサトバジャ クウンバンクシャ ハラベイシャナウン」


 狗神の爪や牙が徐々に短くなり、盛り上がった筋肉が収縮し始める。

 顔や躰が人間のそれを形作っていく。


「オンマカヤシヤ バザラサトバジャ クウンバンクシャ ハラベイシャナウン」


 巫音の首筋から頬に向けて血管が赤黒い亀裂を走らせる。

 それは、まるで悪しきけがれの全てを、巫音自身の躰で移し取っていくように見える。


「オンマカヤシヤ バザラサトバジャ クウンバンクシャ ハラベイシャナウン」


 狗神の獣毛が皮膚の中に引き摺り込まれるように短くなり、本来の姿である犬飼さとみが現出げんしゅつする。


「オンマカヤシヤ バザラサトバジャ クウンバンクシャ ハラベイシャナウン」


 狗神のさわりによって膨れ上がった負の感情をも、巫音は自らの躰に移し取り、さとみの心身から不浄のモノをはらっていく。


「オンマカヤシヤ バザラサトバジャ クウンバンクシャ ハラベイシャナウン」


 超自然的存在や力に触れることによって起きる災厄を「障り」という。

 織紙巫音、神織神社の巫女であり、障りを移し取る障りの巫女。


「オンマカヤシヤ バザラサトバジャ クウンバンクシャ ハラベイシャナウン」

「オンマカヤシヤ バザラサトバジャ クウンバンクシャ ハラベイシャナウン……」

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