拾伍ノ妙 猫の怪異

 巫音が眠っていることに気付いた棗は、古文書に覆いかぶさるようにしている巫音の下から、そっと古文書を引き抜くと、それを机に置き、部屋の明かりを落とした。


 部屋は明かりを失ったにもかかわらず、窓から差し込む強い月の光によって、意外にも明るさが保たれ、古文書の解読に不都合は無さそうだった。


 棗は、元の場所に戻り、一旦、眼を閉ると、気合を入れなおし、古文書の解読の続きを始めたのだった。


「……」

「…コラ」

「コラコラ」

「お前さんよ。ほんとに不甲斐ないのー」


 棗が古文書から顔を上げると、眼の前に白衣びゃくえに身を包んだ女が立っていた。

 妖艶な妖気を放ちながらさげすむような視線で棗を見下す女。


 女の名は、葛乃葉。


 棗の首に白銀しろがね帯留おびどめを結び、ヤモリのあざの呪いともいえるじゅを施した本人だ。

 これまでの奇妙極まりない状況から抜け出せなくなっている根源的な原因でもある。


 唖然とする棗。

 ひたいに、ねっとりとした汗がにじむ。


 棗が周囲を見回すと、部屋の中には、いつの間にか白いもやが立ち込めていた。


 巫音は、相も変わらず机に突っ伏しているのだが、時間が止まったかのように、いや、何かの画面が映し出されているかのように、別世界がそこにあるかのごとく、すぐそばにいるにもかかわらず、別の空間にいるような妙な感覚にとらわれ、巫音との距離感が異様に遠い。


 声を張り上げて叫んだとしても、その声が巫音に届くことはないだろう。

 棗は、こんなふうに感じ取っていた。


 切れ長の眼を棗の方に流し、葛乃葉が続ける。


「お前さんは、本当に彩乃を守る気があるのかや?」


 まるで、今までの一部始終を全部知っているかのような口ぶり。


「あ、あや、彩乃?」


 棗は、聞き覚えのない名前に少し戸惑うが、ゴクリと生唾を呑み込み、返す言葉も出ない。


 葛乃葉は、呆れた表情で棗を見下ろす。


「呪力を持っていても使えなければ、何の役にも立ちはしないぞよ」


 棗は未だに自分に呪力とやらがあるとは信じていない。


「じゅ、呪力……」


 葛乃葉は、棗の返答を歯がゆく思い語気を強める。


「結界を破って、ここに来たときの呪力じゃよ」


 棗としては、呪力を使った覚えはないし、どうすれば何ができるのかさえ知らないのだ。


「わ、分からない……」


 葛乃葉はあきれるのを通り越して、もはやあきらめといった表情で静かに言う。


「お前さんは、阿呆あほうなのか?」


「……」


 全く返す言葉のない棗。


 葛乃葉は、棗の頭の中を整理させるために尋ねる。


「ほんっとに不甲斐ないのー。では、お前さんは結界を破るために、まず何をしたのじゃ?」


「織紙さんの動きを録画して……」


「それから?」


「足さばきを練習して……」


 葛乃葉は、うんうんと頷きながら口角をわずかに上げる。


「もう分かったじゃろ。お前さん」


「……」


 全く、ピンと来ない棗。


 その反応に苛立いらだちながらも、穏やかな口調で語る葛乃葉。


「お前さんは、本当に、ど阿呆あほうじゃのー」

「お前さんに必要なのは、学びと修練じゃ。呪力の使い方を学び、修練することによって自分のものとするのじゃ」


 葛乃葉は、一呼吸置くと、改まって続ける。


「そして、いいかいお前さん、よく聞くのじゃぞ。」

「最も重要なのは、強力な呪力が自分に備わっていると信じることじゃ。自分の力を信じられない者に、力をあやつることは出来んじゃろうて」


 穏やかな口調ながら、若干、語気を強める葛乃葉。


「けっして忘れるでないぞ」

「そうじゃ、お前さんのところに、わらわの子がこしらえた人形ひとがたがあったじゃろ。あれを使役しえきするがいい。呪力を引き出すための糸口ともなろうぞ」


 葛乃葉は、今一度、棗をにらむように見詰めると、思い出したように付け加える。


「それとそうじゃのう、お前さんに鍵をれてやろうぞ。良いかお前さん、怪異の姿形すがたかたちに惑わされてはならぬぞ。よくよく覚えておくのじゃ。人の想像が具現化して生み出されるのが怪異であり、人が望むからこそ怪異は、望むがままのよう現出げんしゅつするのだということを……」


 棗が眼を開けると、室内は月明かりではなく、にわかにしらみ始めたかすかな朝の光を受けて、薄明りの中に浮かび上がっていた。

 棗は、眠り込んでしまっていたことに気付くと、辺りを見回す。


 部屋には、棗とかすかな寝息を立てて眠る巫音。

 さっきまでいたはずの葛乃葉は、跡形もなく消え去っていた。


 棗が手元に眼を落すと、眠り込んでしまう前に調べていた古文書が、調べかけのページを開いたまま、膝の上に置かれている。

 よくよく見ると、眠り込んでしまう前には無かったはずの紙片が、しおりのように先のページの間にし込まれている。


 棗が、紙片の挿し込まれているページを開くと、そのページに書かれていたのはき物についての記述だった。


 挿し込まれていた紙片を手に取ってみると、それは五芒星の書かれた人形ひとがたの呪符。

 この人形ひとがたこそが、棗をこの神織神社までいざなった、あの時の呪符だった。


 息を呑む棗。


 棗は、人形ひとがたが動き出しはしないかと思い、指でつまみ上げるとヒラヒラと揺さ振ってみる。

 動き出す気配が微塵もないことを確認すると、とりあえず人形ひとがたを胸ポケットに入れ、ページの内容を大まかに確認してみる。


 ――猫の怪異のことは、何も書かれていないか……。


 棗は、少し落胆らくたんし、次へページをめくろうとしたとき、葛乃葉の言葉が頭をよぎった。


「怪異の姿形すがたかたちに惑わされてはならぬぞ……」


 棗は、もう一度、そのページの内容を事細かに解読してみることにした。


 棗が、難解な部分を検索するため携帯を片手に四苦八苦していると、巫音が如何いかにも起きたてといわんばかりの涙目で近づいてきた。


 棗は、解読の内容と猫の怪異の行動があながち違うものとは言い切れないことと、葛乃葉の言葉を考慮した上で、思い至った結論を言葉にする。


「怪異の正体は、いぬがみかもしれない」


 突然の棗の言葉に、眼をパチクリとする巫音。


「いぬ……?いぬ?ねこ……?ねこだよぉ~」


 寝起きのため頭が回っていないのか、それこそ子猫のように思いのほか可愛い声で、寝言のように意味不明なことを口走る巫音だった。

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