拾参ノ妙 彷徨く幻妖

「お願いだから、もう何処かへ行って。ここに、たくさん置いておくから。お願い。お願い。お願いします。お願い……」


 さとみは、一際ひときわ大きなけやきの大木の前にかがみ、ペットショップで購入した袋を開けながら、どう見ても誰もいない空間の一部に向かって叫んでいた。


 そこには、けやきの大木と開け散らかされたペットフードと思われる多数の袋。

 けやきの大木の周辺には、さとみを取り囲むかのように、青白く冷たい妖気が立ち込めている。

 立ち込めた妖気は月明りさえも闇の中へ吸収し、物体の影を消し、薄黒いシルエットのみを浮かび上がらせている。


 巫音と棗は、犬飼さとみを追跡して、この公園の一画に辿り着いたのだった。


 巫音は、隠形を解いたのか、生垣の陰に身を沈め、取り敢えず、さとみの動向をうかがう。


 棗は、さらに低い姿勢で巫音の後ろに隠れるようにしながら、同じように様子をのぞき見る。

 棗の心中はというと、本当は引き返したい気持ちでいっぱいなのだが、右腕のヤモリのあざがそれを許すはずもなく、やむなく、ここにいるという状況だ。


 よくよく見ると――普通はよく見れば見えるというものではないとは思うが、一見、気が触れたように見えるさとみの行動は、当の本人であるさとみの立場に立てば、ひとちているわけではないのだ。


 棗の眼は、さとみの周りを彷徨うろつ幻妖げんようたるようの姿をとらえていた。


 それは、一見、純白の猫のように見えるが、猫からは二回りは大きく、め付けるように見開かれた異様に大きな異形の瞳は、もはや、猫というよりは爬虫類のそれを思い起こさせる光を帯びている。


 耳まで裂けた口角は、鋭い牙をのぞかせ、まるであざわらうが如く、不気味な邪悪さを振りいている。


 首から後は、白い闇が妖雲の塊のような躰を形作っている。

 そのあやふやで不明瞭で胡乱うろんな塊から鋭い鍵爪がのぞく。


 青白く放たれる異様な妖気が、現世うつしよのモノであるわけがないことを棗に知らしめていた。


 棗は、息をも止める心持こころもちで身をひそめていたのだったが、血生臭く漂う瘴気しょうきに当てられ、激しくせて、咳込んだ。


 その騒ぎにようが反応する。

 ピクッと耳を動かし異音を捉えると異形いぎょうの瞳を棗に向ける。

 先が二つに分かれた尻尾を持ち上げ、ゆっくりと向きを変えると、棗に正対する。

 棗をにらむ猫眼の虹彩こうさいが、獲物を捉えたかのように、細く絞られる。


 ミギャー。


 おぞましく響き渡る妖異の鳴き声。

 と同時に、棗に向かって高く跳ね上がった。


 すかさず巫音が地面を蹴る。

 一回転すると、妖異と棗の間に割り込む。


 膝立ちに体勢を整えると、素早く折り鶴を放った。

 三連の折り鶴が、矢のような勢いで宙を舞う。

 向かってくる折り鶴を縫うように避け、巫音の首筋をき切らんとばかり、鋭い爪が巫音を襲う。


「妙!!」


 巫音は、するどとなえると同時に、くうを両手の指で縦横に引っくようにして、縦四本、横五本の格子状の紋様――九字紋――を浮かび上がらせ、妖異との間に――呪的障壁とでも言おうか――簡易的な結界を張る。


 妖異の爪とぶつかり合い、結界が青白く光を放つ。

 結界が消えると同時に妖異が後方へはじけ飛ぶ。


 はじき飛ばされた妖異に向けて、間髪入れず巫音が折り鶴を飛ばした。

 妖異は、空中で姿勢を整えると着地、と同時に跳ね上がる。

 折り鶴を難なくかわすと、再び、巫音に襲い掛かった。


「妙!!」


 巫音の結界。

 結界との激突寸前、妖異が二つに分裂、その片割れが結界を越え巫音にせまる。


 迎え撃つ三連の折り鶴。

 向かってくる折り鶴を、またもや縫うように避け、妖異が巫音におそいかかる。


 ボズッ。


 鋭い爪が制服のそでを引きちぎり、巫音の右腕の肉をえぐり取る。

 深くえぐられた傷口から、熱いものがあふれ、したたり、白い腕を赤く染めていく。


「痛ぅ」


 巫音は、右腕を押さえ顔を地面にこすり付けるようにうずくまった。


 分裂した妖異は一つに融合すると、一度、うしろびにねて距離を取り体制を整える。

 そして、ふたたび巫音を狙って、ゆっくりと間合いを詰め始めた。


 まさに今の巫音は、完全に無防備といえる状態で、次の一撃をらえば、命を持っていかれてもおかしくない。


 ――えっ、何?これ、結構、ヤバいんじゃない?


 棗は、うずくまる巫音を眼前に捉えながらも、手も足もでず、成すすべがない。


 ――オ、オレの出る幕なんか、な、ないって……。


 棗は、徐々に後退あとずさりながら、巫音が言っていたことが正しかったことを悟った。


 ――オレに手伝えることなんてあるはずがない。

 オ、オレは、ここまで。

 織紙巫音も言ってた。

 そうだ、言ってた。


 少々、後ろめたさを感じた棗は、巫音の言葉を借りることによって、自らの行動がやむを得ないことなのだと思い込もうとした。


 棗が振り返って逃げ出そうとしたそのとき、右の手首から肩にかけて、稲妻が駆け上がるような強烈なうずきが走った。


 ぎくりとして足を止める棗。


 ヤモリがおぞましく口を開き、首の帯留めに鋭い牙をく。


「どうやら、お前さんは少し痛い目に合わないと分からんようじゃのう」


 葛乃葉のいましめの言葉が、躰の奥底から直接、棗の脳裏に語りかける。


 棗にとっては、戻るにしても進むにしても死の匂いが色濃くなるばかりであるが、戻れば確実に死が待ち受けていることを考えると、進む方がまだ生還の可能性を残しているといえよう。


 ――くそっ、もう如何どうにでもなれ!!


 棗は、自棄やけになって向き直ると、何か役に立ちそうなものがないか周辺を見回す。


 小石が数個と折れた枝。

 枝は、太めで折れたところが尖っている。


 ――これ、使える?せめて木刀ぐらい手に入らないかなぁー。


 ゲームの初期武装でも、もう少しマシな武器を持っているのではないかと、棗は落胆する。


 後は、棗が背負っている、スクールリュック。

 しかし、中には当たり前の筆記具と教科書などしか入ってはいない。


 棗は、周辺に落ちている小石を拾い集め、木の枝を後ろ手にズボンのベルトに挿すと、一度深呼吸し、小石を次々と妖異に向かって投げつけた。


 いくつかのうちの一つが、妖異の腹の辺りに鈍い音を立てて当たる。


 ミギャー。


 妖異は怒りをあらわにして棗の方に向き直ると、続いて投げ付けられる小石を左右に軽く跳ねて避け、飛んでくる石がなくなったことを悟ると、棗に向かってゆっくりとを進め近づき始めた。


 わらっているかのように大きく裂けた口には、おぞましい無数の牙。

 青白く光を帯びた幻妖げんような二つの瞳が、棗をめ上げるように鋭く見開かれ、視線が固定される。


 ――や、やばい。


 顔面蒼白となり、棗の全身から冷たい汗がにじみ出る。

 次の瞬間、妖異が棗に向かってびかかった。


 棗は、素早く生垣の中にもぐり込む。

 続くようにして、妖異も生垣の中にび込んだ。


 ボズッ


 妖異の爪がくさむらの中で目標をとらえ、深く突き刺さった。


 棗は、背負っていたスクールリュックを強く前に押し出す。


 爪がとらえたのは、棗が瞬時に躰の前にかまえたスクールリュックだった。

 リュックに爪が深く突き刺さり、妖異の動きが一瞬止まる。


 棗は、ズボンのベルトに挿しておいた枝を抜いて、躊躇ためらいながらも目をつむり、妖異の脳天に思いっきり突き刺した。


 バズッ。


 うりを割るような重く嫌な手ごたえ。


 恐る恐る目を開く棗。


 枝は、妖異の頭からあごまでを突き抜けるようにして刺さっていた。

 しかし、妖異は、全くかいさずといった様相で醜悪しゅうあくわらい、不気味に牙をく。


 枝は、妖異のあごから抜け落ちると、むなしく音を立てて地面を転がった。


 妖異の牙が、ゆっくりと棗に近づく。


 棗は、出来る限りって、妖異を遠ざけようとするが、妖異は爪をリュックから引き抜いて棗ににじり寄る。

 妖異の牙が棗ののどに食い込もうとしたその時、赤い影が棗のほおかすめ、同時に妖異の背中らしき部分が吹き飛び、細かな灰となって宙に舞う。


 棗の眼に映る風景が灰に覆われる。


 背中部分がえぐれ、灰化する妖異。


 灰を振り撒く妖異の向こうに眼をやると、何とか膝立ちになり、肩で荒い息をしながらも、腕を前に振り切ったかまえの巫音。


 赤い折り鶴の翼が、妖異の背中部分をぎ払ったのだった。

 妖異が悲鳴のような鳴き声を上げながら走り去る。


 走り去った先には、わなわなと立ちすくむ犬飼さとみ。

 さとみは、瞳に涙を浮かべ、呆然ぼうぜんとした面持ちでつぶやく。


「わ、わたしは、こ、こんなことしてなんて、た、頼んでない。」


 さとみは、呆然自失といった面持ちで宙を見つめ、イヤイヤをする子供のように左右に顔を振りながら後ずさり、走り去っていった。


 残されたのは、開け散らかされたペットフードと、深手ふかでを負い息えの巫音。


 そして、腰を抜かして呆然ぼうぜんとする棗。


 けやきの大木の周りに立ち込めていた妖気はいつの間にかせ、夜の静寂の中にまばゆいほどの月明かりが降り注いでいた。

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