その弐 一戸 蓮
† 注意 †
この外伝は、物語第二部「黄泉月の物語」の重要なネタバレを含んでおります。
「黄泉月の物語」の「続・第12章 問わず語り」をお読みいただいた後に、目を通されることをお勧めいたします。
◆◆◆◆◆
夏の爽やかな空とは裏腹に、心は憂鬱である。
反省文の件は、保護者に通達される筈だ。
両親は、今日も仕事で不在だ。
瑠衣は、中学に登校。
祖母は、居る。
祖父も……
一戸漣は、ふと立ち止まる。
自宅まで、あと二分の距離だ。
横を、軽自動車がゆっくり通り過ぎる。
腕時計を見ると、午前十時過ぎ。
瑠衣からのメッセージによると、午後一時に来客があるとのことだ。
祖父と親交のある書家で、書道展で挨拶を交わしたことがある。
来客前に昼食を済ませるととして、その前の一時間は祖父の説教を食らうだろう。
目の前で反省文を書かされ、添削されるだろう。
第一志望校だった『
偏差値はともかく、この「制服がチャラチャラして、気に入らん」との理由だ。
次なる敵は、自分たちの『ニセ者』たちだろう。
現世に現れた方丈日那女と
いっそのこと、そいつも現世に現れ――祖父を黙らせて欲しい、とすら思う。
だが、その度に――『
――自分を溺愛した兄に、自分の無残な死体を見せつける。
捻じ曲がった復讐心だと思い、喉が震えたものだが――理解できなくもない。
尊敬していた兄が変わり果て、恋人を殺し、友に死罪を科し、国民たちを恐怖で支配した――
『
(……説教されるのは、今に始まったことじゃない……)
そう思いつつも……恐怖で、足が前に出ない。
まるで、幼児のように怯えている自分がいる。
『
殺されても良かった。
祖父からも、『
それに、今生は『
自分が死んでも、と覚悟を決めていたのに――
「……はは……死ねなくなったじゃないか……」
深く項垂れ、消え入る声で自嘲した。
『
『
これで、安易に離脱できなくなった。
彼を『
『
『第八十九紀 近衛府の大将』の矜持は、影の如く付いて回るのだ。
――スマホの着信音が鳴り、一戸は電話に出る。
相手は、叔父の宇野笙慶氏だった。
短い会話を交わし……三歩下がって路地を曲がる。
叔父は、近くのスーパーに居るらしい。
少し話をしたい、とのことだった。
断る理由はない。
祖父の説教が、書家の帰宅後に延びるが――。
「買い物を手伝ってくれて、ありがとう」
宇野氏は作務衣と帽子姿で、勤めている寺の食材の買い出しに来ていた。
食料品売り場で合流し、カートに膨らんだエコバッグ二つを乗せ、フードコートで一休みをする。
宇野氏は鯛焼きと烏龍茶、一戸は焼きそばと烏龍茶を注文し、向き合って
座った。
平日なので、わりと空いている。
斜め向かいの席では、老いた婦人が六人歓談している。
カウンター近くに座る同年代らしい女子三名が、チラッとこちらを見ている。
同じ学校の生徒かも知れない。
振替休日に制服を着て、僧侶と向き合っているのが珍しいのだろうか。
「昨日は大変だったね。でも、みんな無事で良かった」
宇野氏のねぎらいに、一戸は両手を膝に置いて頭を下げる。
「御心配をお掛けしました。生徒も全員無事だった様子で、何よりです」
「……君たちが負けないよう祈るしか出来なかった。情けない……」
「いえ、見守ってくださって……感謝しています」
「……そんなに、かしこまらないで」
宇野氏は微笑み、烏龍茶をストローですする。
「……沙々子さんから聞いたよ。方丈さんと君たち四人が、学校から反省文を提出するように言われたって。……帰りづらいよね?」
「叔父上……」
「僕も、そうだったからね。父が嫌で嫌で堪らなくて……君と同い年の頃は、友人の家を泊まり歩いた。今でも大嫌いだ」
「……はい……」
「君と一緒に家に行ってあげたいけれど、父は怒りを募らせるだけだろうし。ただ……気になってたけど」
「何でしょうか?」
「君の高校で、保護者説明会があったよね? 先月だっけ?」
「はい。敵が侵入して来た時です。先生が敵の二人を目撃して、警察が出動する騒ぎになりました」
「岸松さんが説明会に参加してて、その様子を聞いたよ。説明会で質問をしたのが、上野くんのお兄さんだったみたいだね。昨日、お兄さんを見て思い出したらしい」
「……それは……初耳です」
そう答えたが――上野が「兄貴が説明会に行った」と言っていたかも知れない。
その後は、綺麗さっぱり忘れていたのだが――
「もうひとり、質問をした男性が居たそうだよ」
宇野氏は、鯛焼きを半分に千切った。
詰まっていた抹茶あんが溢れ出る。
「……その男性はガッシリした白髪頭で、拳を振り上げて『子供たちを守る気があるのか』と怒鳴っていたらしい」
「……まさか…?」
「君も、そう思うよね」
宇野氏は、鯛焼きを口に入れる。
「説教する時は、必ず拳を振り上げるからね。母さん(一戸蓮の祖母)に聞いたら、父は当日の午後は外出していたそうだよ」
「…………」
「あれで目立ちたがりだからね。単に『子供たちを心配する保護者』だとアピールしたかったのかも知れない。でも、本気で怒っていたのは間違いないかな。怒る演技をするほど、器用なことは出来ない人だから」
「………」
「本当に嫌な男と思うよ。身内の男の子には、異常に厳しい。ま、保護者会のことを聞いて、マイナス200の評価が、マイナス199ぐらいには上がった。誤差の範囲だけどね」
「……焼きそば、いただきます」
一戸は顔を上げた。
箸を取り、両手を合わせ、麺と紅生姜を摘まむ。
「……いただいてから、ここで反省文を書いていきます。横のワークスペースで」
フードコート横には、学生のためのワークスペースが設置されていた。
そこなら、テーブルを占拠しても問題は無い。
「じゃ、付き合うよ。タクシーで帰るから送って行くよ」
「ありがとうございます」
――少しだけ、食欲が出て来た。
祖父が大嫌いなことに変わりはない。
叔父の言う通り、マイナス500の評価が、マイナス499に上がった程度だ。
でも――祖母に内緒で、保護者説明会に来たことだけは認める。
それでも、身は軽くならない。
背負うものは変わらない。
祖父が死んでくれたら、冷酷な涙で見送るだろう。
自分は、清らかな人間にはなれない。
仲間のために、死ぬことは厭わない。
剣道を続け、上位の成績を維持し、祖父の顔色を窺い続ける。
自分は、それだけの……卑屈で哀れな人間だ。
早く、召されますように――。
彼は、密かに祈った。
―― 終 ――
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