外伝6 陰神 ― めがみ ―
三月下旬――残雪も消えつつある時期だ。
濃紺のコートに身を包んだ方丈日那女は、独りでバスに乗り、駅に向かった。
午前10時――バスの座席は埋まっている。
春休みのせいか、中高校生が多い。
方丈日那女は吊り革に掴まり、車内の様子に目と耳を澄ませる。
乗車口の近くに座っているのは、老夫婦らしい。
杖を持った男性は、隣の妻に何か囁いている。
車内広告を見上げると、歯科・耳鼻科・内科などの病院関係が多い。
横に立つ高校生らしき男子は、スマホのパズルゲームに熱中している。
街の景色は、ここ10年で大きく変わった。
駅舎も建て替えられて広くなり、周辺のホテルも増えた。
50年前――郊外で見上げた山々に繁っていた木々は、風に揺れていた。
その景色の中には、確かに『古き精霊』が存在していた。
言葉は成らずとも、彼らの意志を感じた。
眼では捉えられぬ息吹に畏怖した。
そうした『古き精霊』は、人の住まう領域には入って来ない。
人の領域を、不動で見守っている――。
「ひな……ああ、背が伸びたわね」
半年ぶりに会った母の髪は、短くなっていた。
グレーのコートを着て、茶色のボストンバッグを持っている。
日那女はボストンバッグを受け取り。母を見つめた。
いつの間にか、母の目線が自分より下になっている。
「お母さん。久し振り」
「中学卒業おめでとう。お父さんは元気? ちゃんと食べてる?」
「うん。週に三回、家政婦さんも来てくれるし。お母さんの……家は?」
「みんな元気よ。京くんは、小学六年生になった」
「そう……お母さん、バッグはロッカーに預けよう」
「ホテルは遠いの?」
「歩いて10分ぐらい。でも、また戻って来るの面倒だから」
日那女は、コインロッカーに母親を案内する。
駅直結のホテルに泊まるのが便利だが、今回は近くの温泉付きのホテルを選んだ。
和室で、部屋の風呂に温泉が引き込んである。
二人は荷物をロッカーに預けた後、駅前ホテル一階の釜飯屋に向かった。
予約は入れてある。
釜飯屋に着き、名前を言うと、奥の個室に案内された。
室内は四人掛けテーブルに椅子、壁には山の雪景色を描いた日本画が飾ってある。
『紅鮭釜めしセット』と『カニ釜めしセット』、ホットコーヒーとクリームソーダを注文し、釜めしはシェアすることにした。
「お友達も、同じ高校に進むの?」
「吉崎さんと田中さんは一緒。後は、みんなバラバラ」
「……入学式に出てあげたいけれど……」
「今まで通り、写真を送るね。制服はともかく、ジャージのダサさは定評があるの。写真見て、ビックリしないでね」
日那女は、先に出して貰ったクリームソーダのバニラアイスを口に入れる。
バニラの香りが口いっぱいに広がり、アイスに付いた炭酸がプチッと弾ける。
「良かったら、夏休みに札幌に遊びに来ない?」
「塾に通うつもりだし……忙しいから。高校の三年間なんて、すぐ終わっちゃう」
「……大学はどうするの?」
「え?」
「もし、札幌の大学に進学するなら……家に下宿しても良いのよ」
「でも、今はセキュリティー万全の学生用のマンションも在るし」
「……そうね。気を使うより、そっちの方が気楽かもね」
やがて、釜めしセットが運ばれて来た。
トレイの上には、釜めし・味噌汁・茶碗蒸し。大葉とさつま芋の天ぷら・酢の物・漬け物が載っている。
紅鮭釜めしには、イクラも付いている。
二人は、出来立ての釜めしを茶碗によそう。
紅鮭は身が厚く、程よい塩加減だ。
イクラと合わせるとコクが増し、ご飯の昆布風味が引き立つ。
甘いさつま芋の天ぷらを食べ、酢の物で口の中をサッパリさせ、太いカニの足を箸で摘まむ。
カニの香りと磯の香りが、口の中に溶ける。
「母さんが小学生の頃だったかな。海遠足のバスから、国道脇にカニ売りのおじさんが居た。フッと思い出しちゃった」
「そう言えば小学校の修学旅行で、岩場で小っちゃいカニ釣りをしたかな。でもカニを入れた缶を引っくり返して、みんな逃げちゃった」
「……ひな……ごめんね」
「……ううん、謝らないで。こうして会えるし、メールもしてる」
「……でも、ご飯を作ってあげられない」
「……京くんは反抗期だし……目を離しちゃ駄目だよ? 私は大丈夫だから」
「……ありがとう」
二人は、湯気の収まったご飯を口に運ぶ。
大粒のイクラの光沢が眩しかった。
食後、二人は駅前のショッピングモールの特設会場に向かう。
この時期は、学校の制服の注文と販売を行っているのだ。
日那女は合格発表翌日に採寸に出向き、今日を受取日に指定した。
合格した桜南高等学校は、複数の指定店で制服の採寸と販売を行うが、この会場で購入すると、フォトプリントサービスが付くからだ。
日那女は注文したセーラー服を確認し、試着してみた。
胸周りが少し大きく感じるが、女性店員が「これぐらいの方が、腕を動かしやすいですよ」とアドバイスしてくれた。
「まだ成長期ですし。このぐらいの余裕があった方が、よろしいかと」
「そうですね。ひな、着心地はどう?」
「うん、悪くない。スカート丈も合ってるみたい」
試着室の鏡を見て、クルリとひと回りしてみる。
紺色に青スカーフのオーソドックスなセーラー服だ。
夏服はトップスが白の半袖で、こちらにも袖を通してみる。
「追加料金で、夏服の撮影も承りますが……」
「お願いします」
女性店員の勧めに、母は即決した。
店員は、再び着心地を確認し、タグを外す。
二人はカーテンの奥に設えたフォトコーナーに案内された。
他に客はおらず、待機していた女性店員が二人を隅のドレッサーの前に案内する。
女性店員は、ビューティーアドバイザーらしく、二人の髪を整え、母親のメイクを手直しする。
中年の男性フォトグラファーが呼ばれ、母が椅子に座り、日那女は傍らに立った。
フラッシュが閃き、再び冬服に着替えた後に、同じことが繰り返される。
「写真は出来上がり次第、ご自宅に送付いたします。何かありましたから、お手数ですが、弊社までお問い合わせをお願いいたします」
女性店員は丁寧に二人を見送り、日那女は大きな紙袋を下げて特設会場を出た。
紙袋はコインロッカーに預け、笑顔で母を誘う。
「お母さん、映画を見ない?」
「はいはい。アニメ映画でしょ?」
「うん。中学生たちが、巨大ロボットに乘って闘うテレビシリーズのリメイク版」
二人は、エスカレーターで上階に行き、少しの待ち時間をゲームコーナーで過ごし、シネコンに入る。
パンフレットとキャラのアクリルスタンドを買い、二時間近くを鑑賞に費やした。
下の階にある蕎麦屋で早目の夕食を取り、一階のスーパーでお菓子や飲み物を購入し、荷物を抱えてホテルに向かった。
やや年季の入ったホテルだが、温泉付き個室が在るのは、ここだけだ、
春休みなので少々高値だったが、父の
四人まで使用できる和室は広く、座卓の横には既に二組の布団が敷かれていた。
浴衣と羽織、足袋も用意されている。
「前も、ここを取って貰えば良かったね。お風呂も、二人で入れるよ」
日那女は浴室を覗き込む。桧の浴槽は二人入れる大きさで、シャワーも蛇口も二人分ある。
「今日は、ゆっくり温泉を楽しみましょうか」
「うん!」
日那女は微笑み、制服を箱から出してクローゼットのハンガーに掛ける。
そして浴槽に湯を満たし、二人で背を流し合った。
微かに硫黄の香りがする湯は心地良く、二人は浴室と部屋を何度か出入りした。
そして何気ない会話を楽しみながら、眠りに就いた。
時折バイクの音が聞こえたが、それ以外に眠りを妨げるものは無かった。
そして、また別れの時は来る。
朝湯に浸かり、朝食のブッフェを食べた。
バター香るクロワッサンはサクサクで、注文して焼いて貰ったチーズオムレツは、ナイフを入れるとチーズがとろける絶品の焼き具合だ。
ワッフルも取り、メープルシロップを掛けて頬張る。
トマトサラダ、アロエとレモンのゼリー、プリンも取り、出て来たばかりのスープカレーもテーブルに運ぶ。
「ひな、そんなに食べて大丈夫?」
お粥に海苔、味噌汁、煮物などの和食を食べる母は、娘の食欲にビックリだ。
しかし、日那女は次々と食器を空けていく。
「平気。今日はお昼を抜きまーす」
無邪気に笑い、冷たいレモネードを飲み干し、抹茶アイスで締めくくった。
部屋に戻り、身支度を整えてホテルをチェックアウトし、徒歩で駅に向かう。
駅前の『つぼみ屋』で、『和菓子詰め合わせ』と『チョコレート食べ比べセット』を購入した母は、娘の顔をじっと見つめた。
「ひな……じゃ、またね」
「うん。制服の写真が届いたら……スマホで撮って送るから」
日那女は言った。
母の夫とその息子が居る家庭に、写真を直に送ることは出来ない。
「困ったことがあったら、すぐに連絡をしてね。お父さんにも、よろしくね」
「うん……」
去って行く母を、日那女は改札口で見送る。
「お母さん……またね」
「また、秋頃に来るから……体に気を付けてね」
言い残して、母は改札の向こうにあるエスカレーターに乗った。
その姿は小さくなり、やがて視界の外に消える。
日那女は俯いて引き返し、重い紙袋を下げて歩いた。
ショッピングモールを横切り、タクシー乗り場に向かう。
すると――近くから声が聞こえた。
聞き間違えようも無い声だ。
「母さんと映画なんて、久し振りだよ」
「あんたぐらいの年頃の男の子って、母親と映画なんて嫌がると思ってた」
「そんなことないよ。僕は平気」
ゆっくり振り向くと――
「帰りに、夕飯のおかずを買おうか」
「うん……『ごぜんや』さんのメンチカツ……いいかな?」
「昨日は給料日だから、遠慮しないの! 母さんは、プレーンコロッケにするね」
「うん!」
……親子の睦まじい風景だ。
母の苦労を知る息子は、早く大人になって家計を助けたいと思っているだろう。
だが、この日常は――数年後には一変する。
(
方丈日那女は前方を睨み、キリッと背を伸ばして進む。
ひと時の安息は終わった。
自分は、15歳の少女ではない。
今まで通り、闘いの準備を進めなくてはならない。
『近衛府の
『外伝6・完』
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