第27話

 何が起きたのか、和樹には理解できない。

 体も心も硬直し、目前に落下した二人を張り詰めた瞳で眺める。

 笙慶さんは両目を開けたまま、俯せに固まっている。

 父の裕樹はその下で、仰向けに倒れていた。

 独鈷杵とっこしょは、父の左のシャツ襟元を裂き、深々と突き刺さっている。


 チロが二度吠え、一戸は『白峯丸しろみねまる』を放り出し、叔父の笙慶さんを抱き起して、傍らに横たえた。

神名月かみなづき……君の……お父さん…が……」

 大きく震える声で訊ね、和樹は重い体を押し出す。

 首筋に刺さった独鈷杵とっこしょの周囲は深くえぐれ、周囲の皮膚が砂鉄のような黒い塵と化して霧散していく。

 顔から落ちたメガネが、ジュッと音を立てて消滅した。


「父さん……どうして……」

 和樹は『白鳥しろとりの弓』を地面に落としたが、気付いていない。

 崩れ落ちるようにひざまずき、父の肩を抱き起した。

 えぐれた首筋から、焼けるような音がする。

 父の魂が尽き、逝こうとしている。

 なのに、何も出来ない。

 

「……神名月かみなづきくん、と呼べは良いのかな……」

 父は、目を閉じたまま微笑んだ。

「……山の事故で死んだ時は、独りで最期の一夜を明かした……。今度は……息子に見守られて逝ける……悪くない……」

「……父さん……」

「いいか……憎んではいけない……誰も悪くない……母さんを頼む……」

「……………」


 父の体から温もりが抜けて行く。

 父は口を閉じた。

 父の重さが消え、腕の中で一瞬で黒い塵と化す。

 和樹は、塵を捕えようと手を握った。

 しかし、塵は手を擦り抜けて風に同化する。

 独鈷杵とっこしょが地面に落ち、音も無く転がった。

 


「……消えないで……いやだよ……いかないで……!」

 和樹は叫んだ。

 こんな形で、父と永遠に別れるなど、在り得ない。

 まだまだ、伝えなくてはならないことがある。

 高校の制服姿も見せていない。

 なのに、こんな所で父の魂が消滅するなど、ある筈がない。

「応えてよ、父さん……戻って来て……戻って来てよ…!!!」

 


 すると……周囲が、まばゆい光に包まれた。

 目を開けられないほどの強い光だけれど、それは柔らかく体に染み入る。

 芳香があふれ、せせらぎの音に混じって鳥のさえずりが響く。

 碧い空の色が、瞳の奥を流れる。

 果て無い緑色の草原の向こうに、人影が在る。

 その人は、長い黒髪を風に揺らし、あでやかな着物をまとって立っている。

 いつか見た光景が、奥からり上がり、弾けた。



「……あれは……!」

 上野が叫んだ。

 呆然としていた和樹と一戸は、そちらに顔を向ける。

 静止していた地蔵さまたちが、ずり下がりながら左右に分かれる。

 開いた道の向こうから、人が近付いて来る。


 それは、蓬莱さんだった。

 濃い桜色の着物を頭から被り、胸の辺り真紅の帯で結んでいる。

 下には、若草色と黄色の着物を重ね、白足袋に赤い鼻緒の草履を履いている。

 蓬莱さんは地蔵さまの間を静々と歩き、近付いて来る。

 そのりんとしたたたずまいは、高貴かつ揺るぎない意志を感じさせる。


「お姫さま…!」

 フランチェスカが叫び、走り寄る。

 蓬莱さんは立ち止まり、フランチェスカは手前に座り込んだ。

「お姫さま……お姫さまだ……! あたし、気付かなかった……初めて、ご主人様のお家に来た時……家に居たのに、判らなかった……!」

 フランチェスカは蓬莱さんの桜色の着物の裾に触れ、大泣きに泣き出した。

「『美名月みなづき』ですね……」

「ふぁい……そうれぢゅ……お姫さまの飼いにぇこだったでじゅ……」


月窮げっきゅうの君さま…!」

 今度は上野が叫ぶ。

 チロを抱いたまま、蓬莱さんの手前に走り寄り、片膝を付く。

「……姫さま……思い出しました! 我々は……」

「どうか立ち上がってください、如月きさらぎさま」

 蓬莱さんは膝を少し折り、少し微笑んだ。

「二人とも、なかなか個性的な装束をまとってますね。でも、とても似合っています」

「いや、これは……父の買って来た絵が」

「あ、あ、あの、テレビの影響でぇ……」

 

「そのままで良いと思いますよ。……私は、皆さまの仲間として、ここに参上いたしました。私をここに導いたのは、中将さま……あなたのお父上です……」

「え……」

「その……私の家の浴室に……『息子たちを救って欲しい』と懇願こんがんされ、導かれるままに、ここに来ました」


「父さんが……でも……」

「心配は要りません。あなたのお父上の魂は、もうひとりの私が保護しました。この『魔窟まくつ』の中心……『宝蓮宮ほうれんのみや』に居る『蓬莱の比丘尼びくに』が……」


 蓬莱さんは胸元の帯を外し、桜色の着物を倒れている笙慶さんに掛ける。上の着物を脱いだので、彼女が長い髪を束ねていたのが見えた。

「この方も、命に別状はありません。けれど長居は危険です。雨月うげつさま、その独鈷杵とっこしょを壊していただけますか?」

「は、はい……姫君…!」

 蓬莱さんは笙慶さんの頭を膝に乗せ、一戸は言われるままに立ち上がった。

 放置していた『白峯丸』を取り、勢い良く先端の刃を叩きつける。

 独鈷杵とっこしょは、甲高かんだかい金属音と共に砕けて消えた。

 すると、目前の『羅刹女らせつにょ』の様子は一変した。

 錆にまみれていた体は、古い塗装が剥がれ落ちるように、見る見る金色に変化し、菩薩ぼさつのような穏やかな表情になる。

 憑いていた『悪霊』が滅したのだろう。

 地蔵さま方も、何事も無かったかのように整列して並んでいる。



「よもや、そなたみずからが、出陣とは……。話をするのは、久方振りじゃのう……」

 白炎びゃくえんから降りた方丈老人は、上野の横で片膝を付く。

「……ひょっとすると、あちらの世界でも、再会できるやも知れぬな……」

「御老体……あなたさまは……」

 

 蓬莱さんは不思議そうに老人を見たが、老人は首を振った。

「この老いぼれのことは、お忘れとお見受けいたします……だが、それで良い……。さあ、皆と一緒にお帰りなされ…」

「はい……。みなさま、私のことは『月窮げっきゅう』とお呼び下さい…」


 そして、まだ呆然と座り込んでいる和樹を見る。

 蓬莱さんは、『白鳥の弓』に触れた。

 弓は元の太刀に戻り、和樹の手を太刀に触れさせる。

「帰りましょう、中将さま。みなさまの御家族や友人の待つ場所へ……」


 和樹は、彼女の手の温もりに誘われ、その名を呼ぶ。

「……月窮げっきゅうの君……?」

「はい……中将さま…」


 蓬莱さんは、少し首を傾けた。

 前髪が白い額にハラリと掛かり、和樹の目はくらむ。

「父さんの魂は……無事なんですね…?」

 それだけを聞くと、力が抜けて背中を地面に打った。

 だが、痛みは無く……何かに引き上げられて、上昇して行った。

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