第7話

「ぐ、ぐぐぐっ、ぐえっ!」


 潰れたような悲鳴を上げ、和樹はった。

 口を開けると、花の香りのする湯気が喉に吸い込まれる。

 思わず、フリーダイバーが水面に顔を出した絵面えづらが浮かんだ。


「和樹、戻って来たか!怪我はしていないか!?」

 裕樹が、湯の下で和樹の腰を掴んだ。

「大丈夫だったか!?蓬莱さんに憑いてた『悪霊』を、追い払えたのか?」

「……とぉさん……」


 言葉にならなかった。

 目の前に父が居て、風呂に入っている。

 余りにも日常的な情景に、涙腺が一瞬で崩れた。

「やややややったけど……こ、こ、こわかったよぉ……」


 父の手を握り締め、幼児のように号泣してしまう。

 張り詰めていた糸がゆるみ、涙が止まらない。

 『魔窟』での出来事が、悪夢のように思える。

 とりたてて特技の無い自分が太刀を振るい、格闘したことが信じられない。

 だが、父の指示に従い、『門番』を倒したのだ。

 スムーズに事が運び、また浴槽の中に戻って来て、父と向き合っている。

 とにかく、自分が生きて帰って来たのは間違いない。

 


「和樹……父さんは、そろそろ帰る」

 裕樹は、湯の中で和樹の手をゆっくりと離した。

「お前に大変なことを要求してしまって、本当に申し訳ない」

「明日も……来てくれるよね?」

 和樹は、両目を拭いながら訊ねる。

 もっと話がしたい。話を聞いて欲しい。

 あの世界で出会った老人のこと、犬のこと、そして『神名月かみなづきの中将』のこと。

 そして『門番』や『影』たちとの闘い。

 何より……甘えたかった。


 でも、いつまでも入浴しているわけにはいかない。

 母に気付かれてはならない。

(そうだよ……母さんには言えないよ……)

 和樹は鼻をすする。

 母の沙々子に、心配はかけたくない。父も同じ気持ちなのだろう。

 だからこうして、自分だけに姿を見せたのだ。


「和樹。明日も来るが……そうだな。弁当用の『醤油さし』が良い。持って来てくれるか?」

「えっと……あの魚の形のやつ?」

 和樹は、親指と人差し指をくっつけて見せる。

「そうだ。それに、この湯を入れて、ポケットにでも忍ばせて置け。お前が何処に居ても、お前の声が父さんに届くだろう。父さんの声も届けられるかも知れない」

「分かった。用意するよ」


 父の言葉は心強い。

 いちいち、水滴の残る浴槽に話し掛けているわけにもいかないから助かる。

 しかし、ふと疑問が浮かび、声を掛けた。

 「あの……『悪霊』って……」


 だが、わずかに視線を外している間に、父の姿は消えていた。

 『霊界』に戻ってしまったのだろう。

 『悪霊』一体を倒せば、すぐに次が現れるか聞きたかったが、遅かった。


(今は冬休みだし、蓬莱さんと毎日会って『悪霊』が憑いているか、確かめるのは無理だろうな)

 自分の迂闊うかつさを後悔しつつ浴槽を出て排水し、風呂場をシャワーで洗い流す。

 そして、脱衣所でスウェットに着替えながら、もっとも重大なことの聞き忘れに気付いて青ざめた。

(もし、僕が『魔窟』で倒されたら……まさか、この体も死ぬとか?)

 こぶしを開いて握ってを繰り返し、ブルリと震える。

 倒されないまでも、殴られるとか斬られるとかしたら、この体も無事では済まないのでは無いだろうか?

 その答えは、明日の父との再会までお預けである。

 

 

 肩を落として脱衣所を出ると、母の沙々子は音楽特番に釘付けになっていた。

 息子の身に何が起きたか、気付いていない様子だ。

 時計を確認すると、入浴時間はいつもと変わらない。

 『魔窟』の体感時間は、現世とは異なるようだ。

 

 キッチンで冷たい紅茶を飲み、母に一声かけてから自室に戻った。

 ベッドに寝転がり、あれこれ考えをめぐらす。

 自分が『神名月かみなづきの中将』なる人物で、蓬莱さんらしい女性から、『白鳥しろとり太刀たち』と着物を渡された。

 妙な老人からアドバイスを受け、敵を倒した。

 あの『影』たちが住む『魔窟まくつ』に、『ほうれんのみや』なる宮殿があって……


「ダメだ……整理しきれない」

 情報量が多すぎて、理解が追い付かない。

「疲れた……寝よ」

 和樹はハロゲンヒーターを消し、布団を被り、すぐに寝入ってしまう。

 久住さんからのメールに気付いたのは、翌朝になってからだった。


【蓬莱さんは、塾の『年末年始特別講習』に申し込みしたんだって。申し込み締め切りは、ギリ明日までだよ。ナシロくんも来ない?】





「どういう風の吹き回し?」

 出勤前に、沙々子は首を傾げて笑った。

「あんたが、年末年始の講習に申し込むなんて」

「ごめん。あの……講習代金は……」

「子供は、そんなこと心配しなくて良いの。でも、ひょっとして…志望校を変えるつもり?」

「いや、そんなんじゃないけど」


 聞かれて、和樹は思案する。蓬莱さんは、どこを受験するのだろうか。高校入学前までに、『悪霊』すべてを倒せるのだろうか。

 そして……蓬莱さんは、本当に自分の『運命の恋人』なのだろうか、と。

(あの『中将』が、僕の『霊体』ってことで合ってるのかな?あっちの世界では、僕と蓬莱さんが恋人ってこと?)


「和樹が、そんな難しい顔するなんて珍しいわね」

 沙々子はブーツを履きながら、感心したように言った。

「それと、昨日あんたが寝た後に、岸松おじさんから電話があったのよ」

「え?」

 和樹は眉をひそめる。

『岸松おじさん』とは、沙々子の伯父の岸松喜春きしまつきよはる氏のこと。

 いわゆる『霊能者』を自称する人物で、沙々子を後継者にと誘った人物だ。


「な、何で、急におじさんから電話が?」

 和樹は焦る。

 昨日の『悪霊退治』の後に電話が来るとは、信じられないタイミングだ。

「大晦日に、うちに来るって言ってた」

 沙々子はケロリと言う。

「もちろん、OKしたわよ。久し振りに、あんたと風呂に入りたいって」


「げえっ…!」

 和樹は蛙のような声を上げた。

 信じられないことだが、岸松おじさんに『悪霊退治』の件がバレている。

 補聴器を付けた高齢者、と思って甘く見ていた。

 やはり、岸松おじさんの霊感は本物と思って間違いないのだろう。

 心強い味方と思って良いのか……どうにも、判断しかねる事態だ。


「どしたの?変な声出して、カゼひいた?」

 母に覗き込まれ、和樹は慌てて首を振る。

「ううん、平気だよ。あの……講習の申し込みは、公式サイトから出来るけど……支払いは……クレカにして良いかな?」

「分かった。帰って来たら、支払いしてあげるから。じゃね」

 いつも通りの笑顔で、沙々子は出勤した。



 ひとりになった和樹は、ノートPCから塾サイトに講習の申し込みをした。

 その後は、自習にふける。

 自習と言っても、イラストを描いての検索調査だ。

神名月かみなづきの中将』が着ていた衣装を描き、そこから彼の素性が分かるのではないか、と考えたのだが……


「うーん……」

 和樹はPCモニターを前に、首をひねる。

 中将の衣装は、囲碁漫画に出てきた平安時代の幽霊に似た感じだが……

(違うな。『狩衣かりぎぬ』は着てなかった。靴は『烏皮履うひり』って奴だな。現代のローファーに似てるし)


 時代装束のサイトを見ながら、検証していく。

 方丈老人が言った『ほうれんのみや』も、『宝蓮宮』の字を当てるのが正しいようだ。

 『蓬莱』を検索すると、関連語で『宝蓮灯ほうれんとう』なる言葉が引っ掛かったからだ。

 古代中国の伝説で、天女と人間の男性との恋を描いたらしい。


蓬莱天音ほうらいあまねさん、か……」

 和樹はPCをシャットダウンして、自身が描いた下手なイラストを眺める。

 『白鳥しろとりの太刀』についても調べた。

 古代日本では、『白鳥はくちょう』は死者の魂を運ぶ鳥であるとか、死者の魂が変化へんげしたものとか、そうしたいわれがあることが分かった。


 それらを調べたものの、だが結論は出ない。

 とにかく、テレビ番組で見た「霊能者が、数珠でゲスト芸人の肩を叩いてお祓いする」だけで終わる話とはけたが違うのは確かだ。

 


 その後に、近所のスーパーに買い物に行った和樹は、『醤油さし』も忘れずに買った。

 その最中に、久住さんからメールが届いた。

【今、お弁当中だよ。明日、講習が終わったら遊びに行っていいかな?蓬莱さんも来るって】


 ……断る理由は無く、即座にOKメールを返信したのだった。

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