第16話 私だけはいいんですよ、小戌さん

 ……その日の晩、バイトを終えて戻った時に部屋に居たのは雪常一人だった。俺はもうツッコまない、ツッコまないからな。

 そして、雪常は何故かいつの間にかあった自分のカップではなく俺のを使ってホットミルクを飲んでいる。とうとう、勝手に冷蔵庫を開けるようになったか。何も入ってないから恥ずかしいんだけど。


「まずは、お願いの数を100個にして欲しいの」


 カバンを置いて床に座るなり、挨拶もなしにそう言い放つ。一瞬フリーズしてからその意味を考えると、昼間のあの口約束が原因であることに気が付いた。


「本気にしたのかよ。つーか、それってアラジンと魔法のランプを読んだみんなが思ってたけど、何となくダメっぽいのが分かるから絶対に言わなかったヤツじゃん」

「普通に考えて、言わない方がバカなの」

「雪常って、見た目や言動の割りにやたらリアリストだよな」

「誉め言葉として受け取っておくの。ひとまず、首の匂いを嗅がせて。あと……、い、一番好きって言って」


 なんでちょっと照れてんだよ。


「一番好き」

「うぇへ、くるりもしゅき」


 そして、彼女は俺の背中に回ると抱きついて首に吸い付いた。なぁ、俺よ。お前の人生、本当にこれでいいのか?


「よくなーいッ!おいおい!エロいことはなしって言ったろ!」

「知らないの?これは海外では握手とハグに次ぐポピュラーな挨拶なの。小戌、全然グローバルじゃないんだね」

「……それ、ホントか?」

「ホントのホントなの。くるり、嘘つかない」


 マジなのか?怪しいなぁ。


「でも、ここは日本だからダメ」

「じゃあハグでいいの。ひとまず10個分くらいはギュッとして?」

「はわわ……」

「これならエロくないし、何より一絵には公衆の面前で同じことをしてたの」


 それを言われてしまうと何も言えない。何も言えないし、本当に段々恥ずかしくなってきた。


「さぁ、小戌。……いや、お兄ちゃん」

「あれ、ママゴト始まった?」

「くるり、今日の数学の小テストで満点だったの。褒めて?」

「マジかよ、それはすげぇわ」


 因みに俺は8点だった。補習は楽しかったです。


「まぁ、そう言う事なら」


 いいのだろうか。なんか、騙されてない?


「騙してないの。こいつちょろいなぁとか、そんなことは思ってないの」

「ホントに?」

「ホント」


 かくして、俺は疑いながらもその手を伸ばしてゆっくりと泥沼に浸かっていった。雪常の体は、本当に最強を争っているのかも疑わしい程に小さくて、庇護欲を掻き立てられるくらいに壊れそうだった。


「はい、あと19回分」

「増えてない?」

「増やしたの。どうせ、残り1回になったら増やすからいいの」

「ずっちいなぁ」


 しかし、これは本当に普通の事なのだろうか。何となく、男女間でのこういう行為ってスペシャルなモノだと思っていたし、俺の気持ちも累木の時と同じように変な方向へ向かっているけど。


「……って事があったんだ。ママゴトの延長なんだろうけどさ。八光はどう思う?」

「許せません。戦う事に関してだけはやたらと頭が回るのにその他の事は一人で何も出来ない無知でバカで鈍感で男女間での優しさをはき違えてるかなり残念な思考の持ち主である小戌さんをそんな風に騙して自分だけ得をす、失礼しました。自分の気持ちを満足させるなんてあり得ないです。私はもうグッド・フェローズじゃ我慢できないから毎晩寂しく泣いているのにそれって絶対おかしいですよね?あ、因みに私は言う事聞いてもらう回数を1000回にします。友達なら本来は要らないですけどせっかく貰ったので」


 朝起きてそこに居た八光に訊くと、捲し立てられた上でかなり強く抱き着かれた。あれ、痛い。心が凄く痛い。自分がどんどんクズになっていってる気がして自尊心に押し潰されそう。


「辛いですか?」

「うん、今のは結構ダイレクトに心に刺さった」


 それでも尚、自覚出来ない自分が本当に情けない。


「そうですよね。でも、小戌さんは仕方ないんです。今までずっと一人だったんですもの」


 頼む、今だけは優しくしないでくれ。


「ただ、そんなことをしても許される関係というのが存在します」

「な、なんでしょうか」

「友達です。友達相手ならいいんです。だって、小戌さんの好きな漫画にだって友情を確かめる為にハグをする事は多々あるでしょう?」

「そ、そうだな」


 手持無沙汰の手をこまねきながら答える。


「だから、私だけ。私だけはいいんですよ、小戌さん。ほら、今の小戌さんは辛くて聞きたくない言葉に呑まれて冷静じゃないんです。ですから、友達の私にその感情をぶつけてください。背中に手を回して引き寄せるだけです。簡単ですよ」


 ……そして、またしても俺は手を伸ばしてしまった。あの二人よりも身長が高いせいで上向きの吐息と髪の毛の匂いがダイレクトに来るから、頭がとんでもなくクラクラしてきた。


 そして、同時に明らかに俺が騙されていることに気が付いた。これ、DVと同じ手口じゃねえか。


「やっぱダメだ」


 呟いて、八光から離れた。男女間での優しさを履き違えてるって、それ逆説的に今の八光もだろ。


「え~、どうしてですかぁ?その方がチョロくてかわいいのに」

「どうしてって、俺が参っちゃうからだよ」


 洗い終わった顔を再び冷水で冷やして、振り払うために熱が出そうなくらい強くタオルで擦る。しかし、内側から沸いてくる熱さの方が勝っていてあまり意味を感じる事が出来なかった。


 今回の件で学んだのは、無暗に相手の言う事を訊くだなんて言わない事。その場しのぎの安請け合いは、こいつらには特に高く付くらしい。

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