夢見草の季節

笹岡耕太郎

 悟朗と亜衣、そして明日香と・・・

  

   まえがき

   

 この季節になって、改めて読み直してみました。

以前から気になっていたのですが、題名があまりにもストレートな感じがして、物語の内容にそぐわない様な・・・。

そこで『夢見草の季節』に改題させて頂きました。すでに読まれている読者には申し訳なく思いますが、耕太郎の気持ちを汲んで頂けると幸いです。





 プロローグ


 大寒を三日ほど過ぎ季節は春に向かって動き始めていた。

しかし、冬を惜しむかのように、まだ気温は下がったままである。

川島悟朗は、まだ冬の匂いが残る誰一人歩いていない歩道を急ぎ足で

歩いていた。勤務する病院から、緊急連絡が入っていたのだ。

「先生、今ユニットオーバーなので、急いで診てもらえませんか?」

初期研修医の山瀬佳世からの切迫した依頼であった。

普段、夜間の待機は八人態勢であるが、運悪く急患が重なり山瀬一人で

対応せざるを得ない状況であったのだ。


「分かった。十分後には行けるよ。容態を詳しく教えてくれ!」

川島は、ベッドから起き上がると着替えながら山瀬に聞いた。

「女性が、昏睡状態です。付き添いの娘さんが空き瓶を持って来られていて、

……睡眠導入剤です」

「バルビツール酸系か?・・・ 」川島は、患者が飲んだ薬剤を詳しく知りたかったのだ。

「そうです! 先生! 呼吸が弱く… 血圧の低下が……」山瀬の声が途切れる。

「山瀬聞いてるか? 俺が着く前に処置をしておくんだ。気道の確保をしろ!、

それをやったら、点滴だ! 出来るだけ、血中濃度を下げるんだ。分かったな」

「分かりました、先生!… でも、一刻も早くお願いします…」

山瀬の怯えた様子がスマホを通しても伝わってくる。山瀬佳世は、まだ勤務一週目での試練であった。


 湘南市民病院は、市が設置する市営の病院であり、広域をカバーする災害医療拠点と位置付けされており、DMATも編成されていた。

川島悟朗は、併設されている救命救急センターの責任者である。川島が処置室に入ると、山瀬の安堵した顔に赤みが差した。

「血圧はどうだ?」

「少し、安定して来ました」

「よし、洗浄を始めるぞ!」

患者の鼻から管が差し込まれ、水の注入と吸引が繰り返された結果、呼吸と血圧の安定をみた。

「山瀬、今日の呼吸科医に連絡を取って二、三日経過を見るように伝えてくれ」

「分かりました。センター長、ありがとうございました」初期研修医の山瀬佳世は、

やり遂げた満足感を感じながら深く頭を下げていた。

「俺が家族に説明するから、カルテを見せてくれ」

今は、電子カルテが主流であり、紙カルテの持つ暗号性に苦慮することも無くなっていた。

川島が待合室に行くと、若い女性が肩を落とし心配そうに座っている姿があった。

「菊地美奈代さんのご家族のかたですか?」

「私は、娘の亜衣です… 母は… 大丈夫なのですか?……」

「まだ、意識は戻っていませんが、命に別状はないでしょう。ただ、経過を見るために、二、三日の入院は必要ですよ」

「本当に、ありがとうございました」安堵した娘の眼から一筋の涙が流れた。

「亜衣さん、少し状況を説明してもらえるかな?」

川島は、亜衣の持つ涼やかな目を見ながら質問をしたのだが、不思議な感覚に囚われていた。亜衣の眼に以前何処かであったような既視性を感じたのであった。


「いつもは、早起きをして家族の朝食を作ってくれている母の姿がキッチンになかったのです。そこで、急に昨日の夜、母と父が口論をしていたのを思い出して……

それで、母の寝室に行ったら……ベッドの中にいたのですが、意識がなくて……」

「睡眠薬を飲んでいたんだね」

「そうです。テーブルの上に置いてあったお薬の瓶が空でした。それに、お酒も飲んでいた様子でした」

「お母さんは、何か悩んでいることがあったのかな?」

「そうかも知れません……」

「お父様は、来られないのかな?」

「………分かりません……」亜衣は、敢えて明言を避けていた。

おおよその状況はつかめたが、センター長としてもこれ以上家庭内の問題に立ち入ることは憚れると考えた。


 このセンターは、三次救急施設と呼ばれ、二次救急では対応できない重篤な患者に対して高度な医療技術を提供することを目的としていた。

したがって、ある程度目途が立った時点で他の専門科に引き継がれるのである。

「お母様は、少し経過治療が必要でしょう。内科医に詳しく話しておきますので、

心配しないで大丈夫ですよ」

「ありがとうございました」亜衣が川島の眼を見ながら微笑むと、年頃の女性らしい輝きが蘇っていた。

「お母様のそばに行ってあげて下さい」

川島は、そう亜衣に促すと、母のもとに歩いて行く娘の後ろ姿を追っていた・・・

「何処かで会っている」川島は確信を持った。そして、そのかすかな記憶を手繰り寄せるかのように、心の中をさらっていたのだ。


1 悟朗と美奈代


悟朗と美奈代が初めて出会ったのは、今から約三十年も前の教室の中であった。

北星高校は、丘陵の上に建てられた新設校であり、学区外から通う生徒も多かった。今では、難関校として有名であるらしい。これも優秀な先輩のお陰であると

冗談交じりの逸話となっているのだ。

北星高校は、当時から進学校を目指していて高校二年にもなると、大学受験の対策として国立系か私学系かの選択を早くも迫られていたのだった。

その国立系を目指すクラスの中に、偶然にも二人は在籍していた。

悟朗は、何時しか前の席に座っている女性徒のうなじの美しさに心を奪われるようになった。黒板を見ていても、その白い輝きが視界に入り授業に身が入らないのだ。

この時、まだ少女の面影を残す女性徒の中に初めて女の影を見たのかもしれない。

それが美奈代であった。

奥手であった悟朗の初めての恋と言えるものであったのだろう。


 丘陵に立つ北星高校から、最寄りの駅までは歩いて15分は掛かっていた。雨の日ともなるとなおさら遠く感じられたのである。北星高校の生徒は足元を見れば分かると他校の生徒に言われていた。革靴がいつも埃まみれであるかららしい。

悟朗と美奈代の距離が縮まるのに対して時間は掛からなかった。

美奈代は悟朗と同じく、学校のある茅ヶ崎市から二駅目の湘南市に住んでいたのである。ホームで美奈代を見つけると、偶然を装い声を掛けた。

「藤川さん、君もこの駅利用してるの?」

男の声に驚いて振り向いた顔が悟朗を見ると、輝いた。

「あら、川島君も湘南市なの?」

「そうだよ。駅から歩いて5分ぐらいかな。鵠沼と言ってもはずれなんだけどね」

「私は、小田急線に乗り換えて二つ目の本鵠沼で降りて、5分くらい歩いた桜が岡」

美奈代は、江の島に向かう小田急線に乗り換える必要があった。

「近いね。じゃぁ、もしかして自転車で行けば十分と掛からない距離だね」

悟朗は、二人の住む家の距離が近い事を強調することで、二人の距離を縮めたかったのである。

しかし、二人にとっては学業に専念することがすべてであり、気軽に声を掛け合える友達関係であるという事で満足をし、それ以上は望んでいなかった。


 二人は、大学受験が間近の季節の中にいた。

駅を降りると、学校に向かう通学路は霜で白く覆われている。先を歩く美奈代の吐く息も白く変化すると寒風に流され消えていく。二人の高校生活もあと、数か月を残すのみであった。

「おはよう!」悟朗は、偶然を装いながら美奈代の白く細い指先にそっと触れてみる。一瞬、美奈代の体温が熱く悟朗の身体を掛け抜けたように感じた。

「あら、おはよう!」美奈代は気付かぬふりをして、冷静さを保った。

「どこ受けるか決まった?」辛うじて悟朗は、欲情を押さえていた。

「前から決まってるけど、落ちたらカッコ悪いから言わないわ。川島君は?」

「俺は、親の希望で医学部だから浪人することに決めたよ。親には悪いけど

今の実力じゃどこにも受からないと思うしな」

悟朗の父親は、駅に近い住宅地の中で、小さな開業医を開いていたのだった。

専門は、小児科医であったが、近辺に同じような開業医がなくかなり繁盛していた。

「私は、浪人なんて経済的に親が認めてくれる訳もないし、国立に受からなければ

就職ね」美奈代は寂しく笑っていた。


翌年の春を迎えていた。

美奈代は、必死の努力の甲斐もあり念願通り横浜にある国立大の合格を果たしたのだった。悟朗はといえば、既定路線の予備校通いが始まっていた。

一人残された味気のない受験勉強が続くと、恋しさが募って行った。美奈代がいて こその青春時代であった。あらためて美奈代の存在の大きさに気付いたと言える。

手紙のやり取りのみが、悟朗を支えていたのだ。  


【美奈代、合格おめでとう! 僕は君から一歩遅れてしまったけど、すぐに追いつくつもりで頑張っています。待っててください】

【五郎くん、ありがとう! 私は信じているわよ。悟朗ならきっと来年合格できるって、やれば出来るのは私が保証しますから。お互い違う場所だけれど、頑張りましょうね】


 一歩先を行く美奈代を輝かしく思う悟朗がいた。美奈代に早く追いつきたい一心が、悟朗を真剣に受験勉強に向かわせる結果となっていた。

翌年、悟朗は県内では一流と呼ばれる横浜金沢区にある市大医学部の合格を手にしたのである。

 大学生活の重なる三年間も、手紙だけのやり取りで過ぎていった。悟朗の希望にも関わらず美奈代は勉学中であることを理由にし、二人は一度も会うことはなかったのだ。

 比較的裕福な家庭に育った悟朗とは違い、美奈代の目標は大手の企業に就職をし、早く親に楽をさせることにあった。二人の関係は、将来の夢を語り合いお互いに励まし合うことに終始していたのである。

しかし、美奈代が大手銀行へ就職するという夢を果たすと、二人の間を堅く結んでいたものがいつしか無くなってしまっていた・・・

悟朗は桜舞い散る中、ただ一人キャンパスに残された自分を傍観者として見ていた。


 美奈代は、自分が勤め始めた大手銀行から見た世界の大きさに驚き、また全てが新鮮であった。行内で働いているすべての人々が、立派な社会人であり、かつ立派な大人に映っていた。美奈代の学生気分はすぐに消えてなくなり、この組織が社会を動かしていると考えるだけで心が躍ったのである。

 悟朗は医学部の三年であり、まだ三年の授業期間を残していた。しかし、その後に

医師国家試験が控えているのだ。この時点では、やっとスタート台に立ったとしか言えない。臨床研修医として二年以上の医療経験が必要とされるのである。

そして、自分の専門となる専科を決めた後、五年以上の後期研修医としての実績を積まなければならないシステムが残っていた。

 もはや二人は、青春期の甘い感傷に浸っていられる世界の住人ではなくなっていたのである。二人の記憶は、砂が堆積していくがごとく、過ぎ去る時間の重さに耐えきれず心の底に沈んで行き、お互いを思い出すことも無くなって行った・・・


2 臨床研修医と美奈代の銀行生活時代


 悟朗が医学部を卒業し、無事医師国家試験に合格出来たのは、二十五歳の時である。運よく母校の市立大附属病院での臨床研修医として働き始めることが出来た。

二十五歳にして、初めて収入と言えるのもを手にしたのであった。

やっと、精神的にも余裕と言えるものが持てたのは、三十をいくつか越えた時期であろうか・・・

 同じ空の下で生き、同じ季節という時間を消費していたのにかかわらず、日常の中で交差することもなく、別々の人生を生きて来たのだった。


 美奈代は大手銀行みずきに入行以来、八年目を迎えていた。大手町本店勤務である。窓口係から始まり、五年前に勤務の優秀さから企業戦略第二部に配属はされたが、肩書は一般行員のままである。報酬は、過不足のないものであった。

しかし、両親が不慮の事故に会い、父母が六十歳を迎える前に亡くなってしまったのである。

美奈代にとって、両親に豊かな生活をさせてあげるのが、働くモチベーションであった。それを突然奪われてしまったと言える。

もはや、安定した収入を得ることの意味がなくなっていた。美奈代の目的は、女性が

社会の中で正当な評価を受けることに向けられていったのである。

美奈代が実績を積み組織に馴染むにつれ、その組織に内在する暗部も見えて来た時期と重なっていたと言える。

 美奈代と同期のほとんどの男性社員は、美奈代より役職的に上の主任、係長クラスに出世をしており、将来の夢を語り合った女性社員のほとんどが退職をしていたのである。女性の切り札に結婚という最後の選択肢があるのも事実であった。あれほど多かった結婚式への出席も、今ではほとんど声が掛からない現実がある。

そんな心の隙に忍び込むものがあった。

「美奈代くん、ちょっと相談事があるのだけれど、夜空けておいてくれないか?」

役席支店長代理荒木博彦の突然の誘いであった。

実際の行内での序列は、課長職よりも下であり四十二歳の年齢を考えると、むしろ

出世が遅れていたと言える。

「分かりました」荒木の声掛けに驚いた美奈代であったが、四十を越えてもなお若々しい雰囲気を持つ荒木に密かに憧れてもいたのであった。


 七時過ぎ、タクシーを降りた二人の姿が赤坂にあった。

二人の目指す京懐石『瓢喜』は、目の前である。ビルの中ではあるが、京風の庭が施され雅な雰囲気を醸し出している。お忍びには適していた。

荒木が名前を告げると、個室に通された。

「課長代理は、よく来られるのですか?」

「いや、滅多に来ないが今日は君のために少し奮発したんだ」

「ありがとうございます。でもどうしてですか?」美奈代には、荒木の真意が分からなかった。

「話は、食事をしながらという事で・・・」この時、出世を諦めていた荒木の心の中に、美奈代を同志と認める何かが存在していた。

美奈代も二十代後半とはいえ、十分に魅力的な女である。同じ匂いを持った二人が近づいても不思議ではなかった。

「荒木さん、ご相談事って何ですか?」

「僕の方はいいから、美奈代くんの方があるんじゃないのかな」

「………荒木さんは、ご存じだったのですね。私の会社に対する不満を…」

美奈代は、酒の入った勢いも手づだって、行内における男女評価の不平等感、自分自身の将来に対する不安などを一気に荒木にぶつけていた。

「分かるよ、美奈代ちゃん、君の言ってることは正論だと僕も思っているよ」

荒木は、聞き役に回っていた。

「代理、これから私どうすれば…………」

「君は仕事が出来るんだから、我慢しながらもう少し頑張ってみたらどうかな。  女性が正当に評価される時代がそこまで来てると思う。僕も陰ながら応援するから・・・」

美奈代は自分の良き理解者の出現に、心から救われた思いであった。

冷たい一人の部屋には帰りたくなかった。荒木が優しく美奈代の手を握っていた。


 目覚めた時、美奈代は荒木の腕の中であった。

カーテンの隙間から朝の光が差し込み、美奈代の顔を優しく撫でている。

「美奈代、悪かったな」荒木の意外な言葉である。

「なぜ、謝るんですか? 私達そんなに悪いことをしたんですか?」

「いや、そういう意味ではなくて、もし君に彼氏がいたならって・・・」

「いません…そんな人」美奈代は流れた涙の意味を自分でも理解出来ないでいた。

美奈代も健康な女性である。行内でもいくつかの恋愛経験はあった。

しかし、仕事を捨ててまで一緒に暮らしたいと思える相手には、めぐり会っていなかったのである。美奈代は、荒木を意識し始めていた。唯一の理解者として……

それは、ささくれた心の隙間に雨水がしみ込むような癒される感情であった。


「博彦は、結婚してるんだよね?」

美奈代は、博彦の腕を抓りながらベッドの中で聞いた。

「妻とは、別居して三年になるかな・・・」

それがどういう意味を持つのか、美奈代には理解が出来ないまま言った。

「私、最近無性に結婚したいな、と思うようになったんだけれど………」

遠慮がちの美奈代の言葉に、二人の会話は途切れがちになった……。


 二人のこんな関係が、半年続いてた…………

季節は夏の熱い熱情を過ぎ、木々の葉が色褪せる秋に向かっていた頃である。

美奈代は、身体の中に生命のかすかな息吹を感じ始めていた。

「どうしても、産みたい…………」

美奈代を巡る環境は少しも変わってはいなかった。むしろ、行内で声を上げる度に孤立して行った。

「博彦、私産むからね」

「産むのは君の勝手だけれど・・・もう君の人生には関われなくなる。それでも良いんだな」この時になって初めて、荒木という男の本性を知ったのである。

やはり、小さな男であった。

美奈代は、銀行という組織から早く逃げ出したかった。

自分が社会の中で活躍し、両親に喜んで貰いたいと願った夢の結末がこれであったのか…… 美奈代は現実のつらさに一人で泣くことしか出来なかった…………。


 夢を語り合った時代を懐かしく思える美奈代がいた……

「悟朗はいま、どう生きてるのかな?………」

悟朗の思いを感じながらも、これを無視してまで自分の夢の実現に走った自分が少し恥ずかしかった。でも、これも私の人生なんだ、と思う心が勝っていた。

「二人なら生きていける。この生まれてくる子のためにも生きて行かなければ…」

美奈代にとって、この日が銀行生活の最後の日となったのである。卒業から八年半の季節が流れ、また冬の訪れを肌で感じ始めていた。


3 外科医 悟朗の結婚


 悟朗の専門科は、外科である。

外科での後期研修を終え、医者としても自信の出た時期であった。

「悟朗、お前もそろそろ身を固めても良い頃だろう。誰かいるのか?」

父作治郎からの電話である。

「親父、また唐突な話だな。別にいないけど・・・」悟朗は、少数派だと言えた。

ほとんどの医者が研修医時代に相手を見つけ、結婚をしているのだった。

女性達は、まだ実績のない研修医にも関わらず早めに目星をつけ篭絡をするのである。厳しい難関を潜って来た青年たちは一様に初心であり、女性の色香に弱い。

親たちの政略結婚も横行するらしい。この場合は、すでに幼少期から始まっている。

しかし、初心な青年たちも医者としてデビューすると、立場は逆転することになる。

いわば、選び放題となるのである。

 悟朗もご多分に漏れず何人かの看護師たちと交際はしていたが、遊びの範囲内でしかなかった。

「会わせたい娘さんがいるから、今度の日曜はどうだ? 気に入らなければ、別に構わんよ」父の提案に、別段他の予定もない悟朗は受けることにした。

 

 場所は、日本料理『幸庵』である。この店は湘南市でも有名店であり、悟朗も機会があれば何時かは訪れたいと思っていたのだ。

親は同席せず、久しぶりに若い女性と気軽に食事が出来ることも背中を押された理由の一つでもあった。店に入ると、個室に案内をされたが約束の五分前ということもあり先客はまだいなかった。悟朗が席に座るのと同時に、若い女性が入った来た。

テラコッタ色のワンピースにベージュのカーディガンを羽織っている。

「お待ちになりました?」涼やかな声である。

「いや、僕も今来たところなんです」女性を見ながら、誰かに似ていると思った。

「僕は、川島悟朗、三十三歳、新米の医者、もっか独身です」

「独身なのは、言われなくても分かっています」女性は、言いながら明るく笑った。

「私は、森本明日香、二十八歳、目下独身、薬剤師をしています」二人の間に再び

笑いが起こった。この時、すでに悟朗の気持ちが固まっていたと言えるのである。

「絶対、この女性と一緒になろう」

 明日香の父は、同じ湘南市内で中堅の内科医院を経営していた。医師会の会合で知り合った父親たちが、二人の見合いの場を作っていた。ある意味、政略結婚と言えそうであるが、そんな形式は意味のないものとなった。

「先生、専門は何ですか?」明日香の素朴な疑問である。

「外科です」悟朗は、当然のように答える。

「お父さんは、小児科医でしょう」明日香の素朴な疑問が続く。

「たいして意味なんて、ないさ。専科を取るときカッコ良いかなと思っただけさ」


悟朗が小学二年の時である。当時は、住宅の建っていない原っぱと呼ばれる手入れのされていない広場が無数にあったのだ。ここが子供たちの遊び場であり、先輩と呼ばれる年長のガキ大将から遊びの知識を教えてもらえる教育の場でもあった。

二輪の自転車の運転を覚えたばかりの悟朗が乗る自転車が轍にはまり、自転車ごと倒れた悟朗が思わず手を突いた先に運悪く茶碗の欠片が落ちていたのであった。     

掌の中に血が泉のように溜まって行った。自宅に泣きながら駆け込んだが、小児科医である父親の手に負えるものでは無かった。運よく近所に外科の診療所があった。

運び込まれた悟朗の手のひらは、麻酔を打つ時間を惜しむように糸が縫い込まれて行った。長い間、悟朗の手のひらは、ぱっくりと口が空いたままであったのだ。 悟朗は、幼心にも手のひらを見るたびに思っていた。

「小児科医なんて、役に立つもんか。医者になるなら絶対外科医だ」

 悟朗は、幼いころの記憶には触れず、決心に至った真実を隠したのであった。


「君はなぜ薬剤師を選んだの?お父さんのように内科医で良かったのに」

「私も理由は簡単よ。注射が嫌いだったの!」

二人は、初対面から気が合い、そして、父親を話題にしては、笑い合った。

「せっかくのお料理だから、頂きましょうよ」

「そうだな。親父たちに悪いしな」

 明日香も楽しい会話が進むたびに、悟朗に魅かれて行った。


二人は、一年という交際期間を待たずに当然のように結婚に至ったのである。


4 横浜市大高度救命救急センター リーダー川島悟朗


 悟朗の勤務先が横浜金沢区にあることから、西区紅葉坂にある紅葉坂レジデンスが二人の新しい住居となっていた。仕事場には、首都高速に乗れば三十分と掛からない距離である。

結婚後の十年間という月日は、二人にとって十分充実した満足できる生活であった。悟朗は、高度救命救急センターのリーダーとして、また明日香は地元にあるドラッグストアの薬剤師として職を得ていた。 

二人は休みが合うと、よくドライブを楽しんだ。車は、明日香が選んだ赤いMINI 5 DOORで出かけることの方が多かった。悟朗が通勤に使っているCX-8では明日香にとっては大きすぎるらしいのだ。多くの観光地が近く、上手く渋滞を避ければ日帰りで十分である。明日香のお気に入りは、三浦半島にある佐島や葉山を走るルートであった。

地元で取れた魚や野菜を食べさせてくれる雰囲気の良いレストランも数多くあり、

休日に食べるランチには特別の思いがあった。

                                     不満と言えば、二人に子供が授からなかったことぐらいであろうか。

結婚して数年間は、「お前たちは、仲が良すぎるからだ」と、父親たちにからかわれたものだったが、最近はほとんど口にも出なくなっていた。

仕事が忙しかったせいもあったが、二人だけで過ごす時間を優先したことで、あえて

治療を望まなかったのであった。


「リーダー、お疲れ様でした」スタッフ全員から声が掛かった。

「あぁ、後は君たちに任したから・・・」

川島は、夜勤を含めて十八時間の激務から解放された朝であった。

病院の玄関を出ようとした時に、研修医時代の同期である栗林に声を掛けられたのである。「よっ、リーダー頑張っているようだね」

「おぉ、お前も心臓外科の助教だってな。未来は明るしだな」悟朗は、振り返りながら栗林に言った。

「どうだ、部屋で一杯やらないか?積もる話もあるしな」栗林も夜勤明けで、開放感に浸っていた。

「俺は、今日車なんだけどな」悟朗は少し躊躇をした。

「綺麗な女房に迎えに来てもらえばいいだろう。俺もしばらく会っていないしな」

栗林は譲らなかった。

「分かった、そうしよう」

悟朗が念のために明日香に連絡を入れると二つ返事であった。

「いいわよ。私も今日はお休みだから…。でも条件があるわ、何処かでランチしない? 悟朗のおごりでよ」

「分かりました! じゃ、十一時頃迎えに来てくれるかな?」

「OK!よ。」明日香は屈託なく明るい。

「川島、良い女房じゃないか」

「子供がいないせいかも知れないな」悟朗も照れずに認めることが出来た。

悟朗と栗林は、冷蔵庫にあった缶ビールを数本ずつ飲みながら話に花を咲かせ、旧交を温めていたのであった。

   

 明日香は余裕を見て、早めに家を出ることにした。

マンションのガレージから赤いミニクーパーを出すと、紅葉坂を下りみなとみらいの入り口から湾岸高速を通るルートを選んだ。

いつもは、国道十六号の下道ルートを通るのだが、雨が降り出していたことで渋滞に巻き込まれる危険性を嫌ったのであった。

高速は比較的すいていた。まもなく、ベイブリッジに向かう東京湾岸道路と本牧埠頭方面を分ける本牧JCTが見えてくる。比較的雨の強さも弱まって来たように感じる。

明日香は、カーブが始まる手前でスピードを上げていった………。


 「栗林、久しぶりにお前と話せて楽しかったよ。そろそろお暇しようかな」

悟朗は何気なく、左手の腕時計に目をやった。十一時を十五分ほど過ぎていた。

「それにしても遅いな。急用でも出来たのかも知れない。電話してみるかな」

悟朗は、独り言ともつかない声で呟いていた。

「……………… 」呼び出し音はするが、明日香の応答がない。

雨は再び強まって来ている………。

悟朗は、細かい水滴で曇った窓ガラスを手で拭うと、六階の窓から駐車場に目をやった。一台の救急車が赤色灯を廻しながら、救命救急センターの玄関口に止まっているのが見えた。一人の搬送者がストレッチャーに乗せられ運び込まれてく…………


5 明日香のいない『マリーン&ファーム』


 不安な気持ちでいる悟朗のケイタイに応答があった。

「明日香、遅いぞ、今どこにいる?」悟朗は思わず大きな声を出していた。

「もし、もし・・・」明日香のケイタイから遠慮がちに話す男の声が聞こえている。

「川島か?」男の声が突然大きくなった。

「そうですが・・・」

「川島、落ち着いて聞くんだ。いま、奥さんらしい女性が運ばれてきている。すぐ来れるか?」 悟朗は、男の声を最後まで聞かず、部屋を飛び出していた。

只ならぬ様子に、栗林も後を追った。


 *

 

 明日香の車が本牧JCTの手前五十メートルまで迫った時である。

強い雨脚に視界も掠れがちであった。急に右側車線から黒い塊が現れると、視界が塞がれたのである。運悪く、トラックの後輪が明日香の運転する車の右フェンダーに接触したのだ。コントロールを失ったミニクーパーは、羽が生えたように舞い上がり分岐ブロックの上に赤く落ちて行った………。


 乱暴に開け放たれたドアの先に、センター長秋場礼二の顔があった。

おもわず、悟朗は駆け寄った。

「川島、お前は医者なんだ、少し冷静になるんだ!」

「・・・・・嘘だと言ってくれ!」

「これが搬送者の持っていたバッグと身分証明だ」

赤く染まってはいたが、白いバッグに見覚えがあった。忘れもしない、悟朗が明日香の誕生日に送ったものだ。

「それで、明日香の容態は?」やっと、絞り出した声である。

「・・・・・・残念だが・・」秋場の声が続かない。

無数の電極に繋がれ診察台に横たわっている明日香の姿があった。

「心電図に以上はない。しかし、問題は脳波なんだ。反応が極めて弱い。平坦になりかけている」秋場は極めて冷静に説明した。

脳波反応がないことは、脳死を意味する。脳死は、現代においては人間の死そのものであり人間としての回復はあり得ないのである。

明日香は美しいままであった。悟朗が出がけにベッドの中で見た寝顔そのままである。

「明日香!俺たちは、まだ十年しか一緒に暮らしていないんだぞ。確か、ずーと一緒だと言ってたよな。嘘つくなよ、起きろよ、明日香!・・・」

悟朗は医者ではなくなっていた。妻の死を受け入れられない一人の男に過ぎなかった。意図せず、悟朗の大粒の涙が明日香の頬を濡らしていた・・・・・。


「悟朗、こんな状況の中悪いが、明日香さんはドナー登録していなかったか?」

付き添っていた栗林が、悟朗の肩を抱きながら尋ねた。

ドナー登録がなされていれば、一刻を争うことになるのだった。

「これが明日香さんのドナーカードだ」

秋場センター長の差し出したカードの心臓欄にチェックが入っている。

悟朗と明日香が話し合ってドナー登録をしていたのだから、お互いが了解済みであった。

「どうだ、明日香さんの意志を尊重してあげたら…」栗林は、促した。

医者でありながら、悟朗は決心がつかないでいた。時間だけが無駄に流れていく。

「川島、一回目の判定をするぞ、良いな」死亡判定である。

この場合、治療にあたる医師の判断でよかった。

「分かった、やってくれ」悟朗は、冷静な医師の顔にもどっていた。

条件のすべてが、死亡であることを示していた。六時間後に再び判定が行われ死亡の確定がすると、移植が可能になるのである。

「悟朗、これからは俺たちが受け継ぐから安心しろ。絶対明日香さんの死を無駄なものにしないからな」

助教栗林は、所属の心臓センター外科担当部長益田佳次に連絡を入れ、経過を詳しく説明した。六時間のうちにすべての段取りをつけておかなければならないのだ。

「川島君の奥さんか? 残念だな・・・、川島に伝えておいてくれ、奥さんの命は何処かで継がれていくんだ。死なせはしないってな」

益田は、悟朗の恩師でもあり、二人の仲人でもあったのである。


 時間との戦いが始まった。

心臓センターから、時間を置かず臓器移植ネットワーク(JOT)に連絡が入った。 医療情報部部長岩淵幸三は、直ちにレシピエント選定グループを招集し移植希望者の選定に着手をした。この組織は、公平かつ迅速性が求められドナーに移植者が知らされることはなかった。また、両社の完全なマッチングが必要とされ実現には多くの困難が介在されているのだ。

JOCのコンピューターに、スタッフの一人である高杉麗香が明日香の医学的データを入力すると、三人の候補者名が画面上にあがった。三人の候補者とも組織適合性に問題はなさそうである。

第一候補は、五十歳のレシピエントであった。直ちに主治医に連絡がいき移植可能な状況にあるかの確認がなされた。結果は、否であった。容態が悪化し、手術に耐えられるだけの体力がなかったのである。

第二候補は、三十六歳のレシピエントである。しかし、地理的な障害が発生していた。この候補は、静岡県掛川市に居住しており、手術先が見つからない可能性を秘めていたのだ。

第三候補は、十五歳である。組織適合、そして居住地に問題はないはずである。

主治医が連絡を入れると、すぐに動けるとの回答を得た。

「高杉、第三レシピは、何処にいるんだ?」岩淵が大きな声を上げた。

「部長、湘南市ですから、ここから一時間圏内です」麗香が間髪を入れず答える。

「高杉、とにかく、すぐレシピのもとへ行ってくれ。場所は連絡する」

移植施設は、近郊でなくてはならない。また、受け入れてくれる必要があった。

「よし、これで行こう。東京女子医科だ!」岩淵の決断は速かった。     

午後七時に再判定の結果、ドナーの死亡が確定したとの連絡が、横浜市大心臓外科医栗林助教からもたらされた。直ちに、ドナー班が市大に向かった。

臓器の摘出から六時間以内に血流を通す必要があったのである。


 一週間後に、レシピエントの容体が安定し、手術が成功したようだと悟朗は栗林から聞かされた。

「レシピエントは、どんな人なんだ?」

「俺も詳しくは聞かされていないが、近郊に住む十五歳の少女だとは聞いている」

「そうか、明日香はこの近郊の空の下の何処かで、生きているんだな…」

悟朗は栗林の耳に届かないように、心の中で呟いていた。

「きっと、明日香を捜し出してあげる・・・・・」

 明日香の生まれ育った湘南の地が無性に恋しく思えた。もはや、一人残された横浜には何の未練も残っていない。

悟朗は、翌日に辞表を出すと横浜を離れる決心をしたのだった。

悟朗の車は、佐島を通るルートをとった。

明日香とよく行った『マリーン&ファーム』でランチを食べよう、明日香の分まで・・・・・


6 湘南市立救急救命センター長 川島悟朗

 

 三年の月日が流れていた。川島悟朗は、湘南市立病院付属の救急救命センターにその姿があった。

「山瀬クン、昨日の母娘のお母さんの経過はどうなんだ?」悟朗は気になっていた。

研修医の山瀬は、ナースステーションに連絡を取った。

「菊地さんは回復されて、明後日の退院許可が出ているそうです」

「ありがとう。そうか、良かった。ちょっと、様子を見てくるかな」重篤な搬送者がいなかったせいもあるが、センター長としては珍しい行動である。

別棟の六階に部屋はあった。プレートには、『菊地美奈代』と書いてある。

悟朗がノックをし、ドアを開けるとベッドのそばに昨日の娘が座っていた。

「お母さん、お元気になられたかな?」

「あら、先生! 昨日はお世話になりました」

突然の訪問に驚いた様子であったが、顔が綻んでいた。悟朗は、綺麗な娘だと思った。思いがけず、心が弾んでいた。

「お母さん、お世話になったセンターの先生が来てくれたの!」

悟朗に目を向けた女性はそれなりに年齢を重ねてはいたが、化粧をすれば綺麗な女性なんだろうと、悟朗は思えた。

どこか明日香に似ている・・・

「先生ですか、本当にありがとうございました」女の顔に変化が現れた。

悟朗の胸のIDカードを不思議そうに見つめている。

「もしかして、悟朗クンかしら? 先生、間違ってたらごめんなさい」

「やっぱり、美奈代なんだね」悟朗の疑心が取り払われた。

二人の時間が巻き戻され、あの青春期に帰って行く・・・・・。

「お母さん、どういう事?」麻衣にはまだ、理解出来ない事であった。

「悟朗クン、娘の亜衣です。十八になるの」

「十八歳か~、お世辞抜きで綺麗な娘さんだ」悟朗の素直な感想である。

「亜衣ちゃん、先生とお母さんは高校時代の同級生なのよ。一緒に受験勉強頑張った時もあったわね」

「もしかして、恋人同士だったとか…」亜衣には分かったのだ。

「いや、僕には手の届かない女神様みたいな存在だったかな・・・」

「うそばっかり言って…」否定する言葉に、力強さはない。

今となっては、悟朗にとっても懐かしい想い出に変わっていたのである。痛みを笑いに変える余裕も生まれていた。

「良いな、そんな関係、私羨ましいな……」

亜衣に不思議な感情が目覚め始めていた。自分でもよくは理解出来ていない……。

「先生、母が退院したらお祝いをしようと思っているのですけれど、来てもらえませんか? 私、計画しますから」

「亜衣ちゃん、ご迷惑でしょ」

「いや、亜衣ちゃん、喜んで参加させてもらうよ」

「ありがとう、先生!」

亜衣は、悟朗と別れ難い感情に支配されていたのである。それは、悟朗にとっても同じであった。

亜衣はこの時確信を持っていたのだ。恋とは違う懐かしい感情である。

「私、先生のこと、ずっと探していたような気がする…………」



 悟朗は、美奈代が明日香に似ているという表現のおかしさに気が付いていた。

むしろ、明日香が美奈代に似ていた・・・。

悟朗は、初めて明日香に会った日のことを思い出した。一目明日香を見ただけで結婚を決めた理由は何だったのだろうか・・・、実際は、明日香の中に美奈代の幻影を見つけ、それを恋だと自分を偽ったのであろうか・・・自分が分からないのだ。

しかし、これだけは言えた。

「今でも、明日香を愛している・・・狂おしいほど愛している・・・」


悟朗は、明日香の生まれ育った湘南市に医師の職を求めた。近郊に住むという十五歳のレシピエントを捜すためであった。それは、決して接触するためではなく、

それは、同じ空の下、同じ季節の中で生き続けているという精神の共有のためであったのだ。

悟朗は、湘南市医師会の推薦もあって、運よく救急救命センター長としての要職についたのである。それは、三年前のことであった。


7 亜衣の生い立ち


 美奈代が無事退院し一か月ほど過ぎた頃、悟朗は亜衣が計画をした退院を祝う会に招待されたのである。地元の庶民的な日本料理屋であるが、評判は良かった。

美味しい料理に満足し、笑い合った話題も無くなりかけた頃、悟朗は、気になっていたことを美奈代に聞いたのだ。

「美奈代さん、今回のような行動に出た理由を差しさわりなければ、聞かせてもらえないかな。医者としてではなく、良き友人としてね」

「ううん、ごめんなさい。今は話したくないの。こんな楽しい席だから…、代わりに亜衣のこと話してあげるわ」


「亜衣が生まれたのは、私が二十八の時だった。父親のいない子としてね。男は、

同じ行内の妻子持ちだった。うんと年上のね。私が妊娠を告げると、産むのは勝手だけれど責任はとれないと。よくありがちな話ね。私も行員生活に正直疲れていた時期でもあった……。

両親はすでに他界していたし、一人で産むのには抵抗がなかった。少しは、預金もあったし、でも、退社の時には全部下ろしてあげたわ。

この子を産んだ時の喜びは、ひとしおだった。たった一人ではない二人になったんだってね。でも、子育ては想像していた以上に大変なものだった。この子の身体の異常を知らされたのは、生後三か月の乳幼児検診の時なの。

亜衣の身体の動きと、顔色を見た先生から、すぐに精密検査が必要だって。

検査の結果は先天性の心不全で、移植しか助かる方法がないって言われたわ。

私は先生に言ったの。どうしてひっそりと暮らしている母娘がこんな目に合わなければいけないのか、この子は私の生きて行く望みなんですからってね。でも、何も答えてくれなかった………」

悟朗は、亜衣を見た。亜衣は、初めて聞く母親の告白に耐えかねたように外を見ていた。


悟朗は、先を急ぐように美奈代に聞いた。

「亜衣ちゃんは、移植を受けたんだね?」

「悟朗はなぜ分かるの、そんな事?」

「いや、優秀な医者としての感・・・」悟朗はごまかした。

「それは、何時のこと? 三年前?」

「そう、三年前よ」美奈代は不思議そうな顔で悟朗を見た。

「医学雑誌に載っていたから、なんとなく覚えていて…」


明日香が、亜衣の中で生き続けていると、悟朗は確信を持った。

悟朗は亜衣を見た。亜衣は、先ほどの表情を隠すように笑っている。


「抜け殻のようになった私が診察室を出ようとした時に先生が言ってくれたの。

亜衣がもう少し大きくなったら、まず臓器移植センターに登録をすること、そして

いずれ提供者が見つかれば移植が実現出来る可能性があること、そしてお金のかかることだからしっかりと目的を持って希望にかえてはいかがですかって………

悟朗はお医者さんだから、このことがどれだけ大変な事であるかは分かるわね。

それからの十年は必死に働いたわ。

亜衣を託児所に預けながらの昼間は保険の叔母さん、夜はスナックでホステスの真似事をね。私、歌が上手くないから大変だった。

今から五年前のことだった。私を目当てに通ってくれるお客さんにプロポーズされたの。大分年上だったけど、文句は言えないわ。それが今の夫という訳なの。

お互いが打算の上に成り立っていた結婚だと言えるわ。彼は、年取った母親の介護目的、私はもちろん生活のため。運よくドナーが見つかれば、手術費もかかることになるし………………   ごめんなさい。私自分の話ばっかりしてる」


「いや、美奈代のこれまでの人生が理解出来て良かったよ」

「話は変わるけど、悟朗クンもちろん結婚してるんでしょ?」

唐突な美奈代の質問に言い淀んだ。

「いや・・・実は妻を亡くしている…」

「いつに?」

「三年前の三月に・・・」

「なんてことなの! ごめんなさいね」

「別に、美奈代が謝らなくても良いさ」

亜衣の眼が悲しく揺れている。


8 新たな段階へ


「ドナーが見つかった状況をおしえてくれないか?」

「その日、たまたま亜衣の定期検査があって、担当医の長谷川先生のいる湘南市民病院にいた時だった。私のケイタイに先生から連絡があって、亜衣が第三候補レシピエントになっているから、すぐに部屋に来るように言われたの。最初私は何のことだか理解が出来なかった。

先生は悩んでいたのよ。このまま移植をしなくても生きていける可能性は残されていたからなの。現に十五歳まで、何とか生きてこれたのは事実だったからね。

だけど、先生は言ってくれた。亜衣には、叶うなら普通の生活をさせてあげたいって。恋をして、好きな男性と暮らす喜び、そして望むなら子供を持って成長を見守る

母としての喜びなどをね。ドナーとして、もっと生き続けたいという願いも先生には届いていたのかも知れないわ。

結局、亜衣はドナーさんに選ばれたのかも……………」


悟朗は、現実が受け止められないでいた。

亜衣の悟朗を見つめる眼は、もう他人を見る眼ではないように思える。

「やっと、私を見つけ出してくれたのね」

悟朗には、亜衣の身体を借りて明日香が話しかけているようにしか思えなかった。

亜衣を強く抱きしめたかった。

「明日香ごめんね、僕があの時・・・・・・」

「ううん、悟朗のせいじゃないから………………」

「悟朗クン、どうしたの?誰かと話してるみたいだけど…」

美奈代の声に、代わっていた。

悟朗と亜衣は、いつまでもお互いを見つめ続けていた。


 後日、悟朗は美奈代の住んでいる家を訪ねていた。

湘南駅から私鉄に乗り二駅目で降りると、歩いて五分ほどの住宅街の中にあった。

黒松の木々が周りを巡り、かつてここが別荘地であったことを思い出させる。

夫の菊地康孝と会うためであったため、美奈代はあえて同席させなかった。

「私は、美奈代さんの古くからの友人ですが、今日はお願いがあって参りました。

端的に言いますと、美奈代さんとの婚姻関係を解消して欲しいとのお願いです」

「何と、これは藪から棒ですね」

康孝は、脂ぎった小男であった。

「美奈代から、頼まれたのですか?」

「いえ、これは私の一存からです」

「分からない。なぜあなたがそこまでするのですか。美奈代が私と別れたなら  あなたと結婚するとでも言ったのですか?」

「私は、美奈代さんと結婚する意志はありません」

「ますます分からない。まあ、いいでしょう。わたしも美奈代には手を焼いていたところですから。実は、母がいま八十八なんですがね、最近は美奈代との折り合いが悪くて困っていたのです。今は寝たきりの状態ですが・・・

美奈代もホステス時代は、愛想のいい女だったのですが変わってしまった・・・」

康孝は、日頃の不満を悟朗にぶちまけた。


「この間、美奈代の方から離婚話を言ってきたものですから、言ってやったのですよ。今まで、お前と娘に貢いでやった金を全部返してくれたなら離婚してやっても良いってね。でもね、川島さん、お金が欲しいわけではないのですよ。亜衣の手術にかかるお金を惜しいと思ったこともないのです。いくら血が繋がっていないと言っても、私にとっては可愛い娘には違いがないのですから。でも、美奈代は、私の申し出を断ったのです。私は、ひどく怒りました。必要な時だけ俺を利用し、必要でなくなったら今度は別れてくれだと、この売女とね。病院に担ぎ込まれたのは、その次の日の朝のことでした。あなたが治療にあたってくれた先生だったとは・・・。   たぶん、日頃寝付かれないからと医者に処方してもらった薬を、多少多めに飲んでいたところに、酒を飲んだせいもあったのでしょう。私は自業自得だと言って、付き添いませんでしたけどね」

やはり想像通り、美奈代には死にたいという意志はなかったのであろう。

突発的な事故であったと考える方が自然である。

 

「菊地さんには、感謝しかありません。私にあなたの気持ちが分かると言っても信じてもらえるとは思いませんが・・・

僕の知っている美奈代は、本当に頑張り屋でした。これは一緒に青春期を過ごした私が言うのですから、間違えようのない事実なのです。母娘二人で、一生懸命に生きて来た二人にとって、ましてや障害を持って生まれて来た子供を持つ母親として何が必要だったのでしょうか? それは、上辺だけの恋や愛ではなかったはずです。

どんなことをしてでも、二人が生き続けていくことが目的のすべてであったと思うのです。あなたが騙されたと思うのなら、私が美奈代に代わって謝ります。

美奈代が自殺と思われるような行為を取ってしまったのも、閉塞感から生まれた自傷行為だったと想像できます。行為自体は決して許されるものではありませんが・・」

悟朗は、美奈代を庇うのではなく正直な自分の気持ちを話したのであった。


「美奈代は、つくづく幸せな奴ですよ。世の中にあなたのような良き理解者がいるのに、気付きもしなかった」

無理もない話である。悟朗と美奈代の再びの交差は、明日香が仕組んだものだったのだから。

「分かりました、川島さん。美奈代と亜衣の未来をあなたに預けることにしましょう」菊地は、美奈代との離婚を承諾したのだった。

「ありがとうございます、菊地さん。離婚の条件をおっしゃて下さい」

悟朗は、丁寧に頭を下げた。

「川島さん、あなたお医者さんですよね。したがって、収入も多い事でしょう。

ですから、私が美奈代と亜衣に掛けた金を返してもらったところで、貴方にとっては

何でもないことになってしまう。

条件を出します。

条件というのは、あの二人を生涯愛してあげてもらいたいのです。これは簡単なようで、実は人生の中で一番難しい事だと思いますよ。

美奈代は、一度は心から愛した女だし、亜衣は、気心が知れるほど人の心の痛みが分かる優しい人間だと理解出来るようになりました。これも、自身の病気が育てた心とでもいうのでしょうか。

美奈代が退院して来た日の晩のことです、亜衣が私にそっと言ったのです。

『先生が、良い人を見つけるまで私、そばにいてあげたいな…』とね。

私には、その時亜衣が何のことを言っているのか分からなかったのですが、きっと、

今のあなたなら、お分かりになるのでしょうね・・・  」


9 悟朗と亜衣そして、明日香と・・・


穏かな春の日差しの中、亜衣は、湘南市立救命救急センターの玄関前に来ていた。

夜勤明けのセンター長川島悟朗を迎えるためである。

亜衣はたまたま玄関で出会った若い医師に聞いた。

「すみません。センター長は、まだお仕事中ですか? 」

「終わられていると思いますが、お呼びしましょうか?」

若い医師は、研修医山瀬佳世であった。

「あなたは?」「はい、菊地亜衣と言います。いえ、今は藤川亜衣です」

「では、あの時の菊地さんの……」「………………」

山瀬にとっては、初期研修医時代の忘れがたい記憶として残されていた。


「亜衣、待たせたかな?」

悟朗は、少し疲労感を残していたが、亜衣を目にすると明るい表情で言った。

山瀬を見かけると、亜衣に説明した。

「山瀬クンが、お母さんの命を救ってくれた人と言えるかな」「そんな……」

亜衣の眼が輝いた。

「そうだったんですね。ありがとうございました」

山瀬佳世にとっても、忘れられない一日になりそうである。


悟朗と亜衣は、明日香と美奈代の生まれ育った地を辿りながら、湘南海岸まで歩く計画を立てていたのである。『幸庵』の前を通り過ぎる。

「ここが、僕と明日香が初めて会った場所だ」「そうなんだ~、高そうなお店ね」

「僕は、一目で恋をした・・・ それは今から考えると、亜衣のお母さんに似ていたからだとも言えるかな」  「亜衣、少し妬けてくるな……」


「確かこの辺だった気がするけど…」

明日香の生まれ育った『小泉内科医院』が見つからない。広い敷地を小さく区分して建てられた背の高い狭小住宅が並んでいる。跡継ぎの問題もあり、開業医の経営の難しさは理解していたつもりではあったが・・・

明日香の死後、一度も義父のもとを訪れていなかった後悔が胸に広がっていく・・・

「私、この木どこかで見た気がする………」

それは、狭小住宅の前庭に残された一本の桜の木であった。時より吹く小さな風に、数枚の花びらが流されて行く。

「亜衣、見た気がするって・・・どういう意味だ?」

「分からない。でも、何となく………」

悟朗は、その場で亜衣を強く抱きしめたいと思う衝動に駆られていたのだ。


美奈代の生家も姿を消し、分譲住宅が数軒建っている

駅から五分ほどの住宅街の中にありながら、当時でも珍しい茅葺の家であった。

美奈代に生家に遊びに来るように誘われた記憶のないことも理解できるのだ。

思春期にある女学生にとって、どれほど知られたくない事実であった事か。

しかし、当時の青年にとって、興味のある女学生の生家を見つけ出すことなど、

簡単なことであったのだ。

「ふ~ん、ここがお母さんの生まれたところなのね」

亜衣は、あまり興味を示していないようである。

「亜衣、海岸まで十五分ぐらい歩くけど大丈夫だよな」

「もちろんよ、でもゆっくり歩いてね」


 海岸も春の柔らかい日差しに包まれていた。

ときおり逆光に白く光る海に、湘南人はここに生まれた喜びを重ねるのであった。

悟朗と亜衣は、防砂のための細い竹で出来た柵の前に並んで座っている。

通り過ぎる歩行者の眼には、仲の良い親子と映っているはずである。

 それまで黙って海を見つめていた亜衣が、口を開いた。


「……先生、……教えて欲しいことがあるの」

「何だい? 言ってごらん」悟朗は、亜衣の眼を見つめた。

「移植された心臓が記憶を持っているということがあるのかな?……って」

悟朗は、身体の中で熱い塊が吹き上がるのを感じた。熱い涙が溢れ出た。

「やっぱり先生は、何かを感じているのね……」

「医者の立場から言えば、あり得ないことだとは思うけれど・・・

一人の女を愛した男にとっては、そうであって欲しいと願う気持ちもある・・・」

「………………。」亜衣は驚きもせず、納得した様子を見せた。

「私ね、麻酔を掛けてもらって手術台に寝かされている時に、聞こえて来た言葉が耳に残っているの。まだ完全に麻酔が効いている状態ではなかったのかもしれない。  レシピエント班の徳永さんがドナー班の人に聞いているみたいだった。

『横浜の出発は何時だった?』

『はい、九時の出発です』

『血流の猶予時間はあと三時間余りあるな。近郊で良かった』

私は、この時初めて横浜に住んでいる人からもらえる命なんだと認識出来たの」


「…………先生の奥さんだったのね……ごめんなさい……」亜衣は泣いた。

「なんで謝るんだ! おれは、君に感謝をしているんだよ。明日香の命を継いでくれた君に」悟朗は、亜衣の身体を強く抱いていた。

「…私ね、最近ね、既視感っていうのかな、前に経験したことがあると思うことが時々あってね、先生に初めて会った時にもそう感じたの。やっと会えたんだという

嬉しい気持ちね」

それは、悟朗も同じであったのだ。亜衣の瞳の中に明日香を見ていたのだ。

理屈ではなかった。ただ魂が二人を結びつけていた・・・


「明日香さんて、どんな人だったの?」

「綺麗な人だった?」

「何をしてたひと?」

矢継ぎ早の亜衣の質問に、悟朗は話す決心をしたのだ。もう戻れない・・・。

「あぁ、綺麗だったよ、今の亜衣と同じくらいにね…  彼女は三年前だったから、三十八歳の時だった。仕事は、薬剤師さん。休みの時にはよく二人でドライブに行ってね、ランチを食べて帰ってくるのがすごく楽しみだったんだ・・・」

「そうなんだぁ、これからは、亜衣が代わりになってあげるよ。ドライブに行って

美味しいイタリアンを一緒に食べるの……」

「ありがとう・・・亜衣の気持ちだけで、お腹がいっぱいになりそうだよ」

「それとね。先生、私、薬剤師さんになりたいの。明日香さんの分まで頑張るから誉めてもらいたいな、明日香さんに。せっかく頂いた命なんだから………………」


10 エピローグ


 一年が過ぎ、また春の訪れを見ていた。

三人は、桜の花びらの舞う並木道を歩いている。

真ん中は、亜衣であった。

校門の前まで来ると、悟朗は亜衣に言った。

「亜衣ちゃん、よく一年間頑張ったね。明日香の母校にようこそ」

目の前は、慶応義塾大学薬学部の校舎であった。

入学式は、未来に希望を持つ若者たちで溢れている。

 

「また、六年間の学生生活のやり直しになるけど、亜衣、応援してるよ、良き

パートナーとしてね」

悟朗は二人にしか分からないウインクを亜衣に送った。

「やり直しって、どういう意味?」美奈代は不思議そうに二人の顔を交互に見た。


こんな晴れ切った青空は、久しぶりであった。

見上げた悟朗の芽吹いた心に、ひとひらの桜の花びらがすうっと入り込んで来た。



おわり




 あとがき


刑事ものなど犯罪を扱った作品が多い中、このような純愛と呼べる物語は書き手にとっても改めて新鮮な感情が湧き上がってきます。桜の咲く季節になると、不思議に最後の三人で歩くシーンが思い出されるのです。ここには、希望があります。

再び読まれた読者の方に感謝いたします。


 笹岡耕太郎




























 


 











 





 













 














 



 













 

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夢見草の季節 笹岡耕太郎 @G-BOY

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