第8話

 部屋を出て鍵をかけながら、おれは誰かに見られているだろうかと気にしてみた。見られているとしたらどこからだろうか。どうやってだろうか。


 おれはあまり周りを見回さずにドアから離れた。住宅街を歩いて行きつけの喫茶店へ向かう。原稿を書くためのラップトップはリュックサックに入れて背負ってきた。原稿を書くのは喫茶店やファミレスといった小説家もいるようだが、おれはもっぱら自宅だ。あのこぎたないワンルームが小説を書くのに適しているかと言えばおそらく適していないわけだが、それでもわざわざラップトップを持って外に出ることのほうが億劫だから外で書くことはめったにない。たまにこうして部屋で八方塞がりになると喫茶店ヘ赴くことがあるぐらいだ。


 住宅街を歩きながらおれはそれとなく周りに気を配った。ついてくるものはないか。監視カメラのようなものはないか。他にもなにかおれを監視できそうなものはないか。ひっそりとした住宅街には歩く人影も見当たらず、防犯カメラのひとつも見当たらなかった。おれの姿を写すカーブミラーさえない。おれは特に何も見つけられないまま喫茶店に到着した。


 店ではいつものように奥の角に陣取った。おれが腰をおろしきらないうちにスキンヘッドの店員がやってきて水を出す。


「おきまりですか」


 てるてる坊主みたいな顔をした店員はてるてる坊主のような声で言った。


「ダークを」


「かしこまりました」


 わずかなやりとりでオーダーが通る。おれはここへ来ると決まってダークを注文する。ダークというのはこの店のブレンドコーヒーの中で最も深煎りのコーヒーだ。豆はほとんど真っ黒にローストされ、黒曜石のようにつややかに黒光りする。


 おれは腰を下ろすとおろしたリュックサックからラップトップをひっぱり出してテーブルの上に広げた。OSが起動し、モニタの上についているカメラがおれの顔を認識して自動的にサインインする。おれは不安になってカメラとマイクのドライバを削除した。マイクのドライバはスピーカーとセットになっていたのでこれによっておれのラップトップは音が出せなくなった。


 まあいい。おれを監視するのに最も手軽な方法はこのラップトップを使うことだ。まずはこれを使えないようにしておく必要がある。


「おまたせいたしました」


 例のスキンヘッドがコーヒーを持ってやってきた。


「ダークブレンドでございます」と言いながら慇懃にコーヒーを置くと、空になった盆を胸に抱くようにして会釈してから去って行った。


 あのスキンヘッドが監視に加担しているということはないだろうか。待てよ。あのスキンヘッドは前からこの店にいただろうか。記憶にはない。あれほどインパクトのある外見を忘れるはずがないから最近登場したのだろう。しかし。以前からいた人がスキンヘッドにしたのだとしたらどうだ。髪が伸びたとか切ったとか、そういう差なら同じ人物だとわかるだろう。でも急にスキンヘッドになったらおれはそれに気づくだろうか。それとも新しい人が入ったと思うのだろうか。


 おれはコーヒーを口に含み、口の中をひと回りさせてから飲み下した。ぴしっと張り詰めた苦味が降りていく。うまい。なんてうまいんだ。小説の中のおれは男山かなんかを舐め回していたがコーヒーだって負けちゃいない。この店のダークブレンドは至福の旨さだぞ。ざまあみろ。


 おれは背もたれに背中をあずけて尻を少し前にずらし、深く沈み込んだ。椅子もいい。座面は適度な硬さがあり、背もたれは柔らかい。おれはその楽な姿勢でもう一口コーヒーを飲んだ。再びコーヒーがおれの入り口から香りを染み込ませていく。もはや仕事をするような気分ではなくなり、主人公の名前などどうでもよくなってきた。


 ラップトップにはただの一文字も入力しないままおれは携帯端末を取り出した。

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