第9話

「なあ恵美、どうなんだろうなこれは」


「なにが?」


「雨野の原稿。あいつこれ主人公の名前設定してないんじゃないかな」


 戸樫佑志はベッドに腰掛けたまま、読んでいた原稿の束を恵美に渡して言った。恵美は腰を浮かせてそれを受け取ると、一番上に乗っていたページにだけ目を通してから答えた。


「どうだろ。これ主人公はこの語り手でしょ。おれって言ってる人。てことはさ、おれでいいんじゃない?」


「まあそうではあるんだけどさ。この主人公は俳優で映画に出てるだろ。で映画の相手役は白川実春って女優で、その役名はミサなわけだ。一人の人物に二つ名前がある。対しておれはずっとおれだ。映画の部分もおれの一人称だから」


「そうね。それはまずいの?」


「そこさ。どう思う? まずくない?」


「ううん、どうかなあ。あたしはぜんぜん気にならないけどなあ」


「これさ、三人称にしたらどうだろう」


「どこを?」


「全部」


「映画のとこも映画じゃないとこも三人称にするの?」


「そう。そしたら演じてる俳優と演じられてる役がはっきりするだろう。映画の中と外もはっきりする」


「そのほうがいいのかなあ。あたしは一人称がいいか三人称がいいかはわからないけどね、演じてる俳優と演じられてる役をはっきりさせたくないんじゃないかと思うよ」


「そうかな。どうもすっきりしないんだよな」


「じゃあ三人称のほうが良くないかって提案してみたら? 佑ちゃんは雨野さんの担当なんだからさ。一緒に作品を作ってくわけでしょ」


 恵美はそう言うと雨野の原稿を座卓の上に置き、ベッドに戸樫と並んで座った。


「ベッドに腰をおろした恵美は並んで座る佑志を押し倒してその上に重なった」


 そんなことを言いながら恵美は戸樫を押し倒してその上に折り重なる。


「なんだよそれ」


「三人称」


 戸樫は笑いながら恵美を抱き寄せた。



 とかいうことになってたのかこんちくしょう。おれの頭の中に浮かぶ戸樫の日常はどんどんリアリティを増していた。恵美の少し緩んだ身体はたまらなく色気があって、おれは恵美がおれの小説を弁護するたびに興奮する。なんていい女なんだ恵美。


 ―これ三人称で書いたほうが良いんじゃないかと思ったんですが。


 気づくとおれは携帯端末に表示された戸樫のメッセージを睨みつけていた。メッセージにはこの前にもう少し何かしらの文があってそれも画面に表示されていたけれどおれには見えなかった。思ったんですがなんなんだ。ですがっていうのは逆接じゃないのか。なぜそれで終わっているんだ。ですがで終わる文を書くやつは全員卑怯者だ。なんとかですが、あとは言わんでもわかってますよね、その先はあなたの領分ですからね、あなたの責任で決断しなさいね、どういう結論を出そうともそれはあなたがしたことですからわたしは知りませんからね、という宣言だ。戸樫このやろう。


 これは一人称のほうがいいんだ。別にキャラクタの名前を考えるのが面倒くさいとかそういうことではない。断じてないぞ。きわめて文学的にだな、おれはそう思うんだ。言い訳なんかじゃない。おまえの恵美もあえて一人称で書いているということをわかっているだろうが。もうすこし恵美の言うことを真面目に聞け。そもそも戸樫、おまえが恵美に意見を求めたんだろうが。


 何を言っても言い訳にしか聞こえないな、とおれは思った。戸樫がなにか提案してきたらやはりやってみた上で元のほうがいいと言わないと、おれが労力を惜しんでいるだけのように見える。やってみるまでもなく元のほうがいいと思うわけだが、やりたくないからそう言っているようにしか見えまい。最初から分のない勝負だ。


 やはり避けられまい。名前だ。主人公に名前をつけなければ。そうだな、さしあたり主人公は江原えはら仲信なかのぶで映画の役名は大崎おおさき浩二こうじにしよう。なに、安直だと。手抜きだと。知ったことか。

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