第7話

 だあ、と大声で叫んでおれは立ち上がり、せまいワンルームの中をひと回りして部屋の真ん中にあぐらをかいた。


 だめだ。とてもじゃないが文乃のセックスをギャグにすることなどできん。くそ。くそ。くそう。糞ぅ。なんで気に食わないことがあるときに罵る言葉がくそなんだ。くそがどうかしたのか。くそなら毎日してるぞ。快便だ。くそったれ。くそったれって快便のことか。


 おれは身体のどこかに渦巻いたやりばのないなにかに突き動かされて立ち上がり、立ち上がっては部屋のなかをうろうろと歩き、デスクには近づくことができずにまたあぐらをかく、といったことを繰り返した。おれはいったいなにをしているのだ。厚焼き卵だくそったれ。文乃と食べる厚焼き卵。くそっ。おれがおれという一人称で書いているのになんで小説の中のおれは文乃と厚焼き卵を食っていてそれを書いているおれはここでくそくそわめいているんだ。不公平だ。くそ。立ち上がる。くそ。歩き回る。くそ。座る。


 デスクの上でビコーンと下品な通知音が鳴り、部屋に響き渡った。おれは衝動的に携帯端末を取り上げて壁に叩きつけた。鈍い音がして壁がへこみ、跳ね返った携帯端末は床に転がった。おれは血の気が引くのを感じながら床に落ちた携帯端末に駆け寄った。携帯端末は無傷だった。おれはほっとして、すぐにまた苛立った。


 画面を見るとまたあの袋麹からのメッセージだ。


――――――――

 あなたは監視されています


 雨野 健 様


 あなたに危険が迫っていることは前にお伝えした通りです。

思ったよりも敵の動きが速い。すでにあなたへの監視が始まっているようです。

くれぐれも言動、行動に気をつけてください。けっして正体を明かさないように。ほのめかすこともしないでください。


 我々はあなたを回収する方法を考えます。あなたはまず監視から逃れる方法を考えてください。

尾行されているあなたを受け入れると我々にも危険が及ぶことになります。くれぐれも気をつけてください。

――――――――


 そんなことおれの知ったことか。おれは大声で叫んだ。てめえらに危険が及ぶんならおれのことなど放っておけ。初めからおれにかかわらなければきさまらに危険はないんだろう。なんでわざわざリスクを冒しておれを回収するんだ。やるならおまえらの自己責任でやれ。てまえのつごうで勝手なことをしておいておれに責任をなすりつけるとは卑怯の極みだ。くそでも喰らえ行き止まりめ。


 おれは床をのたうちまわりながらわめき散らした。


 おれが監視されているだと。おれを監視して誰になんの得があるんだ。正体ってなんの話なんだ。おれには隠しておくような正体などない。おれのなにを監視するというんだ。おれの正体がいったいなんなのかおれが知りたいぐらいだ。おい袋麹。おれの正体はいったいなんなんだ。おまえはどうやらそれを知っている口ぶりだがおれにはまったく心当たりがないんだ。なあ教えてくれ。誰か教えてくれ。おれはいったいなんなんだ。


 ビコーンとまた通知が鳴る。おれは床に寝転んだまま端末を手に取る。今度は戸樫からのメッセージだった。


 ―遅くなりました! 申し訳ない。おもしろいですね。主人公が映画俳優で映画の中と外の話が並行して進むところがいいと思います。どうでしょう、これ三人称で書いたほうが良いんじゃないかと思ったんですが。


 それだけか戸樫。おまえ恵美とどんな話をしたんだ。文乃のリアリティはこのままでいいのか。おれはやはり文乃をギャグにはできそうにないぞ。そこはいいのか。三人称だと。おまえが気になったのは本当にそこだけなのか戸樫。三人称か。やってやれないことはないだろうが、おれはあくまで役者が役を演じているという状況を役者の視点で書きたいんだ。そのままの視点で役者のプライベートも描く。役者は役によってぜんぜん違う人になるけれど、それでもまるっきり別人になるわけじゃない。ミサに導かれてアジトへいくおれと文乃の箸さばきに見惚れるおれはひとつづきだ。そうだろう。撮影でヒロインを抱いていた俳優がその日の夜には恋人を抱いたりするんだろう。それを三人称で書くのか。混乱するんじゃないのか。もしかして混乱させろという意味なのか。おれの役名はなんだ。そんなもの設定してなかったんじゃないか。そもそもおれの名前はなんだ。おれとはいったい誰なんだ。


 おれは立ち上がってノートを引っ張り出し、それを開きながらまた床に転がってこの作品の設定を書いた部分を探した。主人公はただおれとだけ書いてあった。おれは俳優で小説の主人公だ。俳優として映画の主人公を演じる。名前などつけていなかった。おれはノートを閉じてしばらく床に転がったまま名前を考えた。映画の役の名前、俳優の名前。もしかして俳優の名前が芸名だと本名も必要になるだろうか。名前、名前と考えると袋麹行止という絶望的な名前が頭を支配して何も考えられなくなる。ああちきしょう。どこまでも邪魔をしやがるな袋麹。


 おれは気分を変えるために喫茶店へでも行くことにした。

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