終章・「真昼の狗」

森の中を足早に駆け、俺達は森の外へと出た。


元子さんはが慣れた足取りで俺たちを先導してくれたので、おかげでだいぶ早く外へと出られた。


俺は二人を車に乗せ元子さんを宿に送り届けると、再び車を走らせ目的地である山頂を目ざした。


「教授、何か考えがあるんですか?」


助手席に座っていた椿が不安そうな顔で聞いてきた。


「一応な……」


「一応?」


「ああ、さっきも言ったが、ハクは御札みたいなもので気を失ったみたいなんだ。奴らはハクの持ってる特殊な力を良く知っているみたいだったしな、予め対抗策を考えてたんだろ。じゃなけりゃ、熊とも戦っちまうハクが簡単にやられるわけが無い。だったら、隙を見てあの札さえ剥がすことができれば、上手く助け出せるかもしれん」


「御札ですか?なんでそんなものでハクちゃんが……」


「さあな。幽霊云々ならともかく、生きている人間があんな紙切れ一枚でどうにかなるとは思えないけどな。それとも……ハクは人間じゃないのかも……」


「やめてください!ハクちゃんはハクちゃんですよ。あんなに素直で可愛い女の子が、そんな化け物みたいな言い方……」


「すまん、そんなつもりで言ったわけじゃないんだ……ただ今回の一件は全てそこにある気がするんだ。ハクが持っている力こそが、今回の騒動に深く関わっている筈だ」


「それは何となく薄々とは……助けられますかね、ハクちゃんの事……やっぱり最初から警察を呼んだ方が?」


「俺もそうしたいが、ハクに何かあっても困る。それに流石に奴らも俺を殺しまではしないよ。こんな所で俺が死んだらそれこそ大事だ。警察も馬鹿じゃないし直ぐに足がつく。問題なのはハクだ」


「ハクちゃん?」


「ああ、ハクはおそらくこの国じゃ実在しない人間扱いだ。多分戸籍もないだろう。もしこの件の発覚を恐れた奴らが、証拠隠滅のためにハクを消そうとする可能性はある。ハクさえいなくなれば今回の一件、警察は立件すらできないだろうからな。それにハクの事を考えれば警察沙汰はかなり厄介な事になる、その為にも最後の手段にしておきたい。だから椿、向こうに着いたらお前は何処かに隠れていてくれ」


「隠れるって、私だけですか?」


「ああ。無理そうだったら元子さんに連絡して、お前の判断で警察を呼べ、そして逃げろ」


「い、嫌ですよ!私だって覚悟を決めたんですから!」


「椿!頼む……」


思わず声を荒らげてしまった。

椿は一瞬驚いた顔をしていたが、理解してくれたのか、今度は少し落ち込んだ様子で小さく頷いてくれた。


「すまん……」


そう言ってから俺は椿の頭に手を置き二三度撫でた。


「こんな時に優しくするとか……卑怯ですよ……」


「えっ?」


「な、何でもありません!こんな事……他の生徒にもよくするんですか……?」


「はあ?バカ、こんな事お前以外にするわけないだろ」


「ほ、本当ですか?」


「当たり前だ。他の子にしてみろ、セクハラで大学一発退場だぞ。だいたいお前はこんなの気にしないだろ」


突然、椿に頬っぺをギュッとつねられた。


「痛っ!」


──キュキュッ


ハンドルを握る手が思わず緩み、車体が中央線からはみ出しそうになる。

スピードを落としすかさずハンドルを制御した。


「お前な!着く前に死んだらどうする!」


椿は頬っぺを膨らませなぜか俺を睨んでいる。


「何だよ、急にしおらしくなったと思えば今度は怒り出して」


「何でもありませ……教授!?」


椿が何かを見つけフロントガラス越しに前方を指さして見せた。

山頂間近の駐車場に微かな明かりが見える。

おそらく奴らだろう。


「ああ……」


何とか間に合ったようだ。


ライトを消し、車を停める。


「俺は裏から周る、椿は反対から周って様子を伺っていてくれ。あんまり近づかないようにな」


そう言うと、椿は真剣な眼差しで俺を見ながら頷いて見せた。


それが決行の合図となり、俺達は車を降りて身を屈めながら移動を開始した。


椿は道路脇の林の中から、俺は反対の斜面から近付いた。


慎重に、ゆっくりと確実に距離を詰めていく。


やがて二十メートル程の距離に達した所で、一旦様子を伺う。


車は二台。一台は昼間宿で見た黒のCROWN。

もう一台は黒の見慣れぬベンツだった。

ベンツの方は運転席に一人、CROWNの方にはさっきの二人組の男が載っていたが、二人とも車を降りて一人はベンツの方へ、もう一人はCROWNのトランクへと向かった。


俺はCROWNのトランクが見える位置へと移動し、男の背後に回り込んだ。


物陰から僅かに顔を出し覗き込むと、トランクの中に横たわる人影が僅かに見えた。ハクだ、間違いない。


「おい、ちょっといいか?」


「なんだ?」


突然ベンツの側に居た男が、トランクの前にいる男を呼んだ。

呼ばれた男は面倒くさそうにしながらトランクを開けたままベンツの方へと向かう。


「よし!」


小さくガッツポーズを取り、俺は忍び足でCROWNへと近付いた。


車の側面へと回り込み、ゆっくりとトランクの前に近寄る。

しゃがみ込んだまま上半身だけを浮かせ中を見ると、そこには両手足を縄で縛られたハクの姿があった。


思わず声を掛けそうになり口元を自分の手で押え噤んだ。


よく見るとハクは眠っているようにも見える。いや、気絶しているのか?

背後にはあの札が貼られているのが確認できた。


俺はハクを揺さぶりながら縄を解こうと手を伸ばした。


「何をしてるんだそんな所で」


「しまっ!?」


背後からの男の声に逃げようとしたが既に遅かった。

片腕を背中に捻られもう片方の腕で頭を車に強く押し付けられた。


「ぐっ!!」


声も出せない身動きも取れない。


「やっぱりいましたか。先程から狗が騒がしくてね、ネズミが居ると直ぐに教えてくれましたよ」


聞き覚えのある老人の声がベンツの方から聞こえた。

靴音を鳴らしながらゆっくりと此方に近付いてくる。


「おい」


ベンツの方にいた男がそう言うと、俺を取り押さえていた男が腕だけを背後に捻ったまま体を立たせてきた。


眩しい車の明かりの中から現れた、男の姿、


「影井……清隆……!」


そう、三ヶ月前に、フォーラムで俺に接近してきた男だ。


あの時も今日みたいな黒い着物を着ていた


「おや、もう一人……まだ隠れているようですな、教授?」


「何を……?」


どうやら椿の事がバレている。


「隠しても無駄ですよ。こう見えてわしも狗神筋の端くれなんでね、身に巣食う狗が教えてくれるんですよ」


「狗神筋!?」


「そう……ふふふ、さて隠れているのは分かっていますよ、真昼教授の事を大事に思うのなら今すぐ出てきた方がいい、妙な真似をせずにね……」


「椿逃げろ!!」


「黙れ!」


──ガツッ


「ぐはっ!!」


目の前にいた男から強烈な右フックを叩き込まれた。

視界がチカチカし、頬に激痛が走る。

膝が崩れそうになったが、背後にいる男によって倒れる事は許されなかった。


「待って!いい、今そっちに行くから!!」


「椿……」


林の暗がりから人影がぎこち無い動きで現れた。


椿だ。


「おやおや可愛いお嬢さんじゃないですか、いけませんよこんなお嬢さんを危険な目に合わせては……ではお嬢さん、スマホを下にゆっくりと置いて貰えますかな?」


「椿やめろ!いいから逃げっ」


──ドスッ


鈍い音が俺の腹から響いた。


「ぐはっ……!」


男の拳が俺の腹にめり込み、体がくの字に折れ曲がる。


「置くから!お願いだからもう殴らないで!!」


悲痛な椿の叫び声が耳に響いた。

激痛に顔をしかめながら何とか踏ん張ろうとするが、足がふらついて今にも倒れてしまいそうだ。


「良い子だ、そのままこっちに来なさい。何、手荒な真似はせんよ。二人ともわしらがいなくなるまでの間大人しくしてもらうだけでいい、後は解放してやろう」


「ほ、本当に……?」


「そう怖がらなくていいよお嬢さん、わしは約束は守る男だ」


「何……が約束だ……」


「貴様っ!」


男が腕を振り上げる、が、影井がそれを首を横に振って制した。


「真昼教授、心外ですよ、わしは何一つ嘘はついていない。貴方には神谷 静子の足取りを探して欲しいとお願いしただけだ。今までの連中にもね」


「今……までも?」


「そう、今までもわしはずっと神谷 静子の足取りを追った。全国各地にね」


「全国各地……?どういう事だ?」


「神谷 静子……いや、わしの娘、影井 静子は、この大分で亡くなる前に、一度ここを出ているんだよ」


「娘!?そんな馬鹿な!!だってお前は……!!」


神谷 静子が、影井 清隆の娘?

じゃあこいつはハクの祖父?

いや、そもそも影井 清隆がなぜ今も生きている?

……そうか、ハクの祖父という事は、この男にもハクと同じ力が……?


そこまで考えるが、頭が混乱し思考が追いつかない。


「ハクの事を知っているのなら分かるだろう。わしにも狗神の邪法が宿っているのだよ」


「邪法だと……?」


「静子の家は偉大な狗神筋だった。そしてそれに漏れず静子もまた類まれなる狗神筋としての才を受け継いでいた。しかし、戦争で一家は没落し主を失った静子の家は貧困に窮していた。そこで手を差し伸べたのがわしだったのさ」


「お前が?」


「ああ、静子をわしの養子にする代わりに、神谷の家を助けるとね……」


「取引したってわけか……?」


影井が不気味な笑みを浮かべながら頷く。


「条件は一つ、影井の家に伝わる代々の邪法を完成させる事……ふふふ、真昼教授、君も見たのだろう?人の域を超えた力を!神成せる業を!!」


目を見開き俺に語り掛ける影井の目は、大きく見開かれまさに狂人の目だった。


「ハクの……あの力か?」


「そうだよ!君から報告があった時は本当に胸が踊った!静子はあの邪法を完成させたのだと直ぐに分かったよ!」


「完成……?」


「ああっ……静子はわしと約束した、邪法を完成させると……なのに静子は、いや奴は!わしを騙し国を出た」


「邪法は……完成しなかった?」


「そうだ……わしに掛けられた邪法はただの延命にしか過ぎなかった……若返りもしない、いつか朽ち果てる身だ。だからわしは方々を尽くし探し回った、静子を連れ戻すために……そして数年が立ち、ある日静子が大分で子供を産んだ事を知った。急いで此方に向かったが、静子は産んだ子供を連れてどこかへと姿を消していた。おそらくわしからの追っ手を交わす為だろう……そこで、わしは静子の信者共を使う事にしたのだよ。いや、正しくは静子の夫をね」


「静子の夫は信者だったのか……ちょっと待て……使うって……もしかしてお前が!?」


「察しがいいな真昼教授。そう、静子の夫に、静子が戻ってくる為、親子三人で暮らす為には大金がいる、だから協力しろと吹き込んだんだよ」


「影井っ……!」


「はははははっ!あの男はまんまと騙されてくれたよ!!余程静子が子供と消えたのがショックだったのだろうな。奴が憲兵共に捕まると、静子は予想通り直ぐに姿を現した、後は憲兵共に金を払い、静子を拷問させ子供の居場所を吐かせるだけだった……」


影井はそこまで言って僅かに俯いた。

その表情には悔しさにも似た感情が宿っているように見える。


神谷 静子は憲兵に屈しなかった。

最後まで娘を、夫を守ろうとしたのだ。

そして最後はその身を焼き付くし……。


「後は君が知っている通りだよ真昼教授。おかげで私はハクを探すために膨大な時間と金を注ぎ込む事になったがね。まさか、灯台下暗しというべきか、この大分の地に隠れ住んでいたとは……静子め、本当に恐れ入ったよ」


「ハクの力は……邪法によるものなのか……?」


「恐らくな。静子が自分の体を使い完成させ、その力を受け継いだのがハクだ。なあに、ハクの体を使い、未完成の邪法を完成させるぐらいの時間の猶予はある。後は君たちさえ邪魔しなければ、誰も傷つかず至って平和的に物事は解決する。分かるだろ、真昼教授?」


そう言って影井は下卑た笑みを椿に送った。

椿がそれを見てビクリと肩をふるわせる。


「誰も傷つかない?ふざけるな……!ハクはずっと傷付いてきたんだぞ!」


「真昼教授……」


やれやれと言った感じで影井が肩を竦め首を横に振った。


「ハクは人間ではない。何をそこまで怒る必要があるのかね?ハクはそう、モルモットのようなものだ。人類の進化のためには、常にハクの様な実験対象が必要だろう?それは真昼教授、君のような学問を志す者なら十分に理解できる事だと思うがね?」


「倫理から外れ人の心を捨てた奴が学問を語るな!ハクは……ハクはずっと母親との再開をあの森で待ってたんだ!先に逝ってしまった父親の死を乗り越え、一人で……ずっと……!お前にその気持ちが分かるのか!?」


「無駄だよ真昼教授。わしは十歳を迎えた頃にはもう、この身の内に狗を飼わされた。奇行が目立ち、心の制御もできない。それが永遠とも思われる時間の中で続いて行く。蔑まれ罵られ忌み嫌われね。しかし狗を制御し、静の研究によって生まれ変わったわしの世界は一変した。誰もがわしに忠誠を誓い。思いのままとなったよ。くくく……一度手に入れたこの力……みすみす手放すと思うかね?」


そこまで言ってから、影井は邪悪な笑みを俺達に向けてきた。


「このっ!」


──ドンッ!


俺は一瞬の隙をつき、背後にいる男に頭から体当たりをかました。

もつれるようにして男と一緒に倒れ込む。


「今だ逃げろ椿!」


「えっ!?」


俺の叫び声に椿が衝動的にその場を駆け出した。


だが、


「おっと!」


もう一人の男が逃げようとした椿の髪の毛を乱暴に掴んだ。


「あうっ!!」


「や、やめろっ!!」


悲痛に顔を歪ませる椿を見ながら叫ぶ。


「抵抗してんじゃねえよ!」


倒れていた男が立ち上がり俺の顔目掛けて拳を振りかざした。


──ブンッ


風切り音がし思わず歯を食いしばり顔を背けたが、なぜかその後の衝撃が襲ってこない。


「えっ……?」


おそるおそる顔を上げると、何故かその場にいた全員が驚愕の顔のまま固まっていた。


「何が、」


そこまで言いかけて、俺は一瞬言葉を失ってしまった。


叢雲から指す僅かな月光に照らされた、雪のように真っ白な髪。

風になびく度、光を反射し銀色にキラキラと光って見える。


ハクだ。


その右手には、今しがた俺に振り下ろされたであろう男の拳が握られていた。


「な、何で……!?」


男が上擦るような声で言った。


「お前が俺を引き剥がした時だよ」


ニヤリと笑ってみせ、俺はトランクの前で捕まった時、ハクの背中から剥がした札を取り出し、影井と部下の男達にヒラヒラとさせながら見せてやった。


「きっ貴様ぁぁ!!」


影井が怒声をあげた瞬間だった。


──ブンッ!!


ハクが男の拳を握ったまま車の横っ面に投げ飛ばした。

百八十はある男の巨体が軽々と放られ


──ドゴンッ


と、鈍器で力いっぱい殴ったかの様な音が響いた。

ベッコリと凹んだ車のボディに寄りかかるようにして男は完全に伸びきっている。


「ばば、化け物!?」


椿の髪を掴んでいた男が、慌ててCROWNへと乗り込んだ。


車のエンジン音が鳴り、急発進しようとした車の動きが……止まった。


──キュキュキュキュッ!!


激しいタイヤの回転音と、鼻を突く白煙が舞い上がった。


ハクが隆々と盛り上がった両手でCROWNの後部を掴んでいる。

ハクは両足に力を込め、思いっきり踏ん張るり、両手で車を持ち上げたかと思うと、そのまま車を横倒しに引っ繰り返した。


──ドドーンッ!


雷でも落ちたかのような轟音と、大量の砂埃が辺り一面に舞う。


それを見ていた影井は腰が抜けたのか、ズルズルとベンツに寄りかかるようにして座り込んでしまった。


小刻みに肩を震わせ、歯をガチガチと鳴らし怯えている。


「ひっ……!ひいぃぃぃ!?」


舞い上がる白煙の中から、明らかに異様な出で立ちのハクが姿を現す。


昼間見た華奢な女の子はそこにいなかった。


身体中の筋肉が異様に隆起し、瞳は全てを射すくめるような獣の目をしていた。


火を灯した様な緋色の目が、影井を見下ろしている。


「くくっ来るなぁぁ!!」


影井が目の前を振り払うように両手を振るが何の意味もなさない。


「フウゥゥッ!」


熱を帯びた吐息がハクの口から漏れる。

僅かに開いた口端には突き出た鋭い犬歯が見えた。


「は、ハク…?」


おそるおそる声を掛けるが、ハクの反応はない。


「ハクちゃん!?」


見かねた椿も声を掛けるがやはりハクの反応はない。じっと影井を睨んでいる。


「た、頼む……頼むから命だけは……!」


影井はこの期に及んで必死に命乞いを始めた。


「お前は皆をいっぱい傷つけた……母さんも、父さんも、椿も、先生も……!だから絶対に許さない……!」


さっきの影井の話を聞いていたのだろ。

ジリジリとハクが影井との距離を詰める。


「ひっ!ひいぃぃぃっ!!」


「ハクっ!」


まずいと感じた俺は急いでハクの目の前に両手を広げ立ちはだかった。


「どけ!グルルルッ……邪魔……するな!!」


ハクの様子が明らかにおかしかった。

徐々に自我を失いかけているような、そんな感じがした。

ともかく、今は引き下がる訳にいかない。

もしこのままにしておけば、ハクは間違いなく影井を殺してしまう。

ハクの手をこんな奴の血で汚す訳にはいかない。

もしそうなってしまったら、ハクは今度こそ人には戻れなくなってしまう。


「ハク……やめるんだ」


言い聞かせるようにハクに言った。しかしハクは嫌々をする様に首を激し振る。


「ためだ……だめだだめだ!!どけ……!どかないと……ガルルルルッ!!」


ハクに両肩を掴まれた。逃れようともがいてもビクともしない。


「ハク!もうやめるんだ!」


もう一度ハクに向かって叫んだ。


次の瞬間、


「ぐっ!?」


全身を麻痺させるような衝撃、皮膚を食いちぎられそうな痛みが全身を襲った。


「教授!?」


椿が急いで駆け寄ってきた。が、俺は何とか片手を上げてそれを制した。


「待て、つば……き!」


「で、でもこのままじゃ……!」


血の気が引いていく。

首から肩にかけて、着ていた服がじんわりと赤い鮮血に染め上がっていくのが分かる。


「ハク……もういいんだ。もう大丈夫だから……なっ?」


鋭い犬歯を俺の首筋に突き立て噛みついたままのハク。

その形相はもはや人とは思えない。

けれど、俺は知っている。

本当は普通の女の子なんだと。

生まれた場所がみんなと違うだけで、彼女は普通の女の子だと言う事を……。

本当は優しくて、寂しがり屋で、頑張り屋な子なんだと言う事を……。


「ハク……もう……いいんだ……」


かろうじて動く右手を上げ、ハクの頭を撫でる。

ハクの髪を結んでいた赤いリボンに指が絡む。

ヒラヒラと揺れるリボンの紐がハクの鼻先を僅かに掠めた。

その瞬間、


「せん……せい?」


首元からそう聞こえた。


「あ、ああ……先生だぞハク……だからもう大丈夫だ……だいじょう……ぶ……」


意識が遠のいて行く。


「先生!!」


「教授!?」


ハクと椿の泣き叫ぶような声が同時に響く中、俺の身体は深海の奥底に沈む様に、真っ暗な闇の底へと、落ちていった……。




ほのかに香る柑橘系と甘い匂いが、俺の鼻腔を微かに擽った。


瞼を開けようとしたが針で縫っていたかのように重い。

ようやく目を開くと、今度はカーテンの隙間から射し込む強烈な陽の光に顔をしかめた。


顔を横に向けると、目の前に人影が見えた。

ベッドに突っ伏すようにして眠ってしまっている。

椿だ。


すやすやと寝息を立てている。


どうやらここは病院らしい。


「ふふ……」


寝ている椿の頭を撫でると、さっきの甘い香りが風に乗って漂ってきた。

匂いの正体はこれか。

椿がよくつけている香水だ。

昔は凄く甘い香水を付けていて俺が苦手な匂いだと言ったら、翌日からこの柑橘系の香水に変えてくれていた。


「いつもありがとうな、椿……」


そう言って俺が体を起こした時だった。


「全くだ、嬢ちゃんにはちゃんと感謝しとけよ」


「ゆ、幸村?痛っ……!」


痛みに顔をしかめながら声に振り向くと、ソファーに腰掛ける幸村の姿があった。


「おいおい大丈夫か?無理するなよ」


「あ、ああ、お前も来てくれてたんだな」


「ああ、お前が世話になってる民宿の婆さんも来てるぞ」


そう言うと幸村は入口まで歩き廊下にいた元子さんに声を掛けた。


「俺は医者に話をしてくる」


「あ、ああ、すまん」


俺がそう言うと、幸村はクスリと笑い、元子さんと入れ替わるようにして部屋を出ていった。


「はあ、目を覚ましたんだね、良かった良かった……ハクを守ってくれて、本当にありがとうよ」


「いえ……守ったというか、守られたというか……」


「いいんだいいんだ……あの子はね、子供のいないわしにとっちゃ本当に孫のような存在でな……だからな教授さん、本当にありがとな……」


「此方こそですよ……元子さんには本当にお世話になりました」


深々と頭を下げてくる元子さんに、俺は返すように頭を下げた。


「なあ教授さん……?」


「はい、なんでしょうか?」


突然、元子さんがあらたまって口を開いた。


「実は教授さんに頼みがあるんだ」


「頼み……ですか?」


「ああ……ハクの事だ」


「ハクの?」


聞き返す俺に、元子さんが大きく頷く。


「ハクを……一緒に連れて行ってもらえんかね?」


「ハクを……?」


「ああ、あんたにならハクを任せられる、いや、あんたしか任せられん」


そう言ってまたもや元子さんは深々とお辞儀をしてきた。


「も、元子さん頭を上げてください」


薄々は考えていた。

ハクにとって最良の道。

待ち人が来ないと分かったあの森で、ハクが暮らしていく意味。


ずっと一人で生きてきたハクを、これこら先誰が見守ってやれるのかを。


元子さんならそれができるがもう歳だ。

失礼な言い方だが、そんなに長くはハクと一緒に居てやれないかもしれない。

それに、ハクにはまだ色々と学ぶチャンスがある。

色々な事を学ぶチャンスが。

そして人生の大半を一人で過ごしてきたハクにとって、寂しくないんだという安心した生活を送らせてやりたいとも、俺は思っていた。


「おっ、なんだ、覚悟を決めたって面して」


声に振り向くと、扉の前で俺を見ながらニヤニヤしている幸村の姿があった。


「覚悟か……そう……だな」


「じゃ、じゃあ……!」


元子さんが顔を上げ、涙で顔をくしゃくしゃにしながら聞いてきた。

俺はそれにゆっくり頷いてから再び幸村に向き直る。


「悪い幸村、大至急行きたい所があるんだ、頼めるか?」


「やれやれ、人使いが荒いやつだな。退院の手続きしてくる、用意しとけ」


「すまん……恩に着る」


そう言って幸村に頭を下げると、俺は窓の外へと視線を移した。


真昼の太陽が雲一つない空から顔を出している。

暖かい日差しと、心地好い風。


俺はこんな陽の当たる場所に、人目も気にせずハクを連れ出してやりたいと思った。


世界にはたくさん楽しい事と、感動できることがあるんだと教えてやりたかった。


行こう……ハクの所へ。



元子さんからハクの居場所を聞き、俺達は幸村の運転であの森へと向かった。

途中、俺が二日間も寝ていた事と、影井達があの後行方をくらました事を聞いた。


椿はあの後警察に連絡しようか迷ったようだが、ハクのあの姿を目にし、結局警察沙汰にするのはやめたらしい。

どうやら椿も何らかの覚悟をしたようだった。


病院を出て山道へと入る。

窓を微かに開けると、水の貼った田んぼからしっとりとした青草の匂いが漂ってきた。

夏が近づくに連れて濃い匂いを放ち、季節の到来を知らせてくれる。


喉かな田園風景をしばらく眺めながら車で移動していると目的の場所が見えてきた。


「この辺でいいのか?」


幸村は車を停め俺に確認する様に言ってきた。


森の入口。ここへ来たのはこれが三度目だ。


「ありがとう幸村」


「気にすんな、俺は車に残るよ。会ってみたいが警戒されても嫌だしな。後は……まっ、頑張れ」


そう言って俺にウインクしてきた。


「気持ち悪いからやめろ」


「ははっ 」


そう憎まれ口を叩きながら、俺は車を降りた。

元子さんが先頭を歩き、森の中へと入っていく。

相変わらず歳を感じさせない軽快な足取りでハクの家まで案内してくれた。

俺は椿に体を支えてもらいながら何とか着いていくのがやっとだった。何とも情けない姿。


しばらく歩くと、先頭を歩いていた元子さんから、


「着いたよ……」


と声を掛けられた。


俺と椿は元子さんに頷くと、目の前に見える山小屋の玄関へと向かった。


「ハク!居るなら顔を見せてくれ!」


入口で声を上げると、中から微かに物音がした。

どうやら居るのは間違いなさそうだ。


「ハク!」


「もう……大丈夫なのか?」


か細い声が扉越しに返ってきた。


「あ、ああ、こんなのもう何ともないぞ!ほら、痛っ……!」


そう言って自分の肩を叩いて言ったものの、


「ほらもう強がるから!」


横にいた椿が慌てて俺の肩を摩ってくれた。


「何しに……来た?」


「何しにって、そりゃハクに会いに、」


「ごめん先生、俺もう先生とは会えない……」


「な、何で?どうしてそんな事言うんだ?」


「だって、俺先生に怪我させた……危ない目に合わせた。全部……俺のせいだ……」


ハクの声は、最後の方はもう上擦っていてよく聞き取れなかった。

だが、ハクが俺の怪我に負い目を感じでいる事くらいは分かる。


「いいんだハク、あれは俺が望んてやった事なんだからお前は気にしなくていい。だから顔を見せてくれないか?」


「そうだよハクちゃん。私達もう友達なんだから、顔ぐらい見せてよ、ね?」


椿も扉越しに声を掛ける。


「もう……帰っちゃうのか?」


「ああ……」


そう返事を返すと、しばらく無言が続いた後に、俺はこうつけ加えた。


「お前も一緒にな、ハク……」


「い、今何て……?」


聞き返してきたハクの声に、先程までの暗い影はない。むしろ少し元気を取り戻したかのようにも聞こえる。


「聞こえなかったか?なら顔を見せてくれ」


──ガチャ


扉がそっと開き、目元を真っ赤にしたハクが姿を現した。

おそらく俺たちがここを訪れる前から一人で泣いていたのだろう。


「ようやく顔を見せてくれたな……ハク」


「うん……」


「俺達と一緒に来ないか……?その、もちろんハクがそうしたいって気持ちがあるならの話だが……なっ、椿?」


「何で急に私に振るんですか!もっと自信もって言ってくださいよ、大人でしょ?」


「ハク!」


後ろからハクの名を呼ぶ声。


「おばば……!」


振り向くと、目に涙をうかべた元子さんの姿があった。


「ハク……お行き。お前を縛るもんはもうここには無いんだ。これからはこの人達がおる。もう寂しい思いも、辛い思いも、一人でせんでええ」


「おばばは……?おばばは一人じゃないか……」


「わしは老い先短いババアだ。それに近所に知り合いもおる。最近は寄り合い所でゲートボールも始めたしの、これが中々面白いんだ、ははははっ」


元子さんはそう言って、所々抜けた歯でにっこりと、満面の笑顔を見せてくれた。


「うん……うん……ひっく」


「ハク……俺達と一緒に行こう。いっぱい勉強して、色んなものを一緒に見よう。今まで知らなかった事、見た事ないものが沢山……沢山待ってるから」


「お、俺……怒ったらあんなんだし……」


「知ってる……」


「ご飯も沢山食べるし……」


「お、おう、まあ育ち盛りだから仕方ない」


「また……また昨日みたいな事があるかも……しれ……ひっく……」


ハクのその姿は、まるで駄々をこね、泣きじゃくる幼子の様だった。

いや、実際そうなのだ。

これが、これこそがハクの本当の姿なのだと、俺は今あらためて思った。

誰にも甘えられず、ずっと我慢してきた、ハクの本当の姿。

だから……。


「大丈夫……何度でも噛みつかれてやる。お前が帰って来るなら何度でも、だから……一緒に帰ろう」


そう言って俺はハクに手を伸ばした。


瞬間、ハクは俺の手を掴むのではなく、俺の胸に飛び込んできた。


「ひっく……うぅぅっ……」


泣きじゃくり俺にしがみついてくる。


「ふふ、教授とハクちゃん、何か本当に親子みたい」


「そうだな……うん、それでええよ、ハク……」


椿と元子さんに言われ、親子という言葉に多少の違和感を感じたが、それも悪い気はしなかった。


ハクの頭を撫でながら、俺は空を見上げた。


あれだけ鬱蒼と暗く感じていた森が、今はやけに心地好く、暖かな陽の光に溢れた場所だと感じていた。


微かに聴こえてくる蝉の声。

照り付ける陽の暑さと、それを撫でるように冷やしていく健やかな風。


夏が、近付いているのだと……そう思った。




































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