第10話 春の調べ

 果たしてこんなカタチでお互いの純情を消費してしまっていいのだろうか?



 三月の乾燥した風がこの部屋を通り過ぎているはずなのに葵の唇は潤いが保たれ瑞々しく張っていた。

 これと触れ合った時、どんな風に人生は変わるのだろう?

 そんな大仰な話じゃないかもしれないが、毎日を刹那的に過ごす若人にとっては重要な話だ。



「・・・ごめんね」



 寸前、触れるか触れないか僅か数ミリのところで飛び出た謝罪の一言。

 こんなところで、本人の同意も合意もなしにやるべきではない。

 もし私がもっと大人になって恋愛経験豊富になればこれも許されるかもしれないが、まだ誰とも付き合ったことのない未完成な生娘なんだ。


 柚香は顎を引くとどうかしてたんだと首をフルフル振って葵の部屋を後にする。

 そして自室に戻り昨夜の風呂上がりの姿を彼に見せた時のような後悔という名の自己嫌悪に陥る。


「疲れてんのかなぁ」


 なんて吐き捨てるように呟いて化粧机に置いてあったウーロン茶を一気に飲み干す。

 寝起きの腎臓に濃い風味がズドンと流れ込むが構わない。

 流石にこのまま起きているのもいいが早すぎるし、二度寝しようか逡巡する。


「・・・寝よ」


 すっかり眠気は吹き飛んでしまったが今一度ベッドに倒れ込み雑念を振るい落とすことにした。



 焦る必要なんてない。


 いつか時期が訪れる。



 そう言い聞かせ目を瞑ると不思議と体が軽くなった。



(葵は―――もし私がキスしたいって言ったら、してくれるのかな)



 恋愛感情や恋人の関係を飛び越えていきなりの体の交わり。

 しかし柚香的にはそういうのでお互いの相性をハッキリさせることが一番効果的なのではと予想していた。


 でもそれができたら苦労はしない。


 もし仮に幼馴染である悠馬にそれとなく迫って断られていたら?

 死ぬほど恥ずかしがって死ぬほどへこんだんだろうなぁ。

 要するに私が今しがた葵にしようとしたキスは逃げのキスなんだ。

 素面で現実を突き付けられたら嫌になるから本人の意思が不在の時に唾をつけておく。


(最低じゃん)


 うつ伏せで両足をジタバタさせ枕に息の根を止めてもらおうとする。

 其の内苦しくなってきて顔を離すもまた埋めてを繰り返す。


 そんな思春期特有の訳の分からない行動をしている内に、


「・・・」


 寝てしまった。


 ♦♦♦♦


「おはよ、よく眠れた?」


 二度寝から目覚めリビングに向かうと朝食の準備をしている母がキッチンに立っていた。


「うん、まぁそこそこ」

「そう?顔洗ってきちゃって」

 軽快なリズムを刻む包丁にベーコンの焼けるいい匂い。

 ご機嫌な朝食を楽しみにしながら洗面所に向かうと流水の音が聞こえてくる。



「んっ」

「ほはほ」

 引き戸を開けると歯磨き中の葵と鉢合わせた。



「?」

 気まずそうな私を不思議そうに見つめる葵。

 歯磨き粉塗れの唇に意識を向けないよう彼の隣に立つと、自然と視線は鏡の中に。


(あっ)


 同じぐらいの身長が並んだ目の前の現実。

 葵はまだ眠いのか人形みたいにゴシゴシ歯ブラシを動かしていて、何だか笑えてしまう。

 どうしてかその光景に言葉を失い呆然と見つめてしまう私。

 誰かと肩を並べるのが新鮮だから?油断しきった格好をつい先日まで赤の他人だった彼に見せているから?

 真相はまだわかっていないが、ただ確かに彼女の心には灯りがつけられていた。

 ごうごうと燃える感じではなく慎ましくほっこりという感じに。



 ぱちゃぱちゃしゃこしゃこ



 私も葵に倣い歯を磨いていると、タオルで顔を拭いていた彼と鏡越しに目が合ってしまった。

 しかしすぐさま目を逸らしてしまいピューっと居心地悪そうに小走りで出て行った。


 人によっては失礼だなと思うかもしれないが葵の性格を鑑みれば全然許せるし、


 チラッ


 この薄着に反応したのなら可愛いものだ。


「ふぅ」


 キュッと蛇口を閉めふかふかのバスタオルで水気を拭き取ったすっぴんを見ると、どうしてだか前の家で見るよりも元気そうに血が巡り通っているではないか。


(今日は調子いいかも)


 そんな小さな嬉しさに小躍りしながらリビングに向かう。



 今日は、どんな一日が待っているのだろうか?



 ♦♦♦♦



 コンコン



「どうぞー」


 滞りなく買い物も終わりあっさりと帰宅した春の午後。

 自室でだらだら動画を見ているとドアを叩く音が聞こえた。


「あのさ、今暇かな?」


 ガチャリと開いたドアの向こうから顔だけ出す葵。

 彼は気恥ずかしそうに尋ねてくるが何かあったのだろうか?


「暇だけど、どうしたの?」

「ちょっと夕飯前に、散歩にでも行かないかなって」

 確かに今日は絶好の散歩日和で、風は冷たく上着は必要だが太陽は暖かく絶妙なアンバランスさが心地いい。

 折角外に出たのにまた家でごろごろするのは勿体無いと感じたのかもしれない。


「んっ、まぁいいよ」

 柚香としても最近運動不足気味だったし一人よりかは誰かと出掛ける方が楽しいから上着を羽織り準備をする。


(しかしまぁ)


 廊下の葵は黒のタイトめなセーターに白のスキニージーンズなのだが、


(ほっそいなぁ)


 羨ましくなるくらい体の厚みがなく顔に似合った体つきをしている。

 柚香は試しに持っていたハンチングを被せてみると、襟足なども相まり外見からは性別が判別できなくなっていた。


(今度女装させてみようかな)


 そう真剣に考えてしまうほどの艶っぽさはある。


 ♦♦♦♦


「それでどこ行く?」


 爽やかで素晴らしいアフタヌーン。

 背伸びした路地に躍り出た柚香は青空を仰いでいる葵に尋ねてみる。


「んー?心行くままに?」

「何それ?」

「ごめん」

「いや、ちょっとびっくりしただけ―――」

 急なポエム調についていけなかった柚香だが、遠出するのも面倒臭いし当てもなくこの辺りを散策するのはいい案だなと考えていた。


「ちょっと向こうの方歩こうよ、葵が道案内して」

「いいの?」

「いいの。私この辺り詳しくないし、学校が始まればこっちの方なんて予定なければ来ないじゃん?」

 昼下がりにぶらぶら散歩するだなんて贅沢高校に上がれば少なくなるかもしれない。

 ここは葵の手腕を見込んで案内してもらおう。


「じゃあ・・・行こうか」

 ちょっぴり肩に力が入りすぎな少年の隣に並び立つ。

 葵は照れ臭そうにはにかんだあと、茜色に染まった舗装路を歩み始めた。

 住宅の谷間に流れ込んでくる懐かしい香りはこれから素敵なことが起きるのを予感させてしまうほどで、追いかける足も自然と跳ねてしまう。



 これからゆっくり育んでいこう。



 その二つの後姿はもうすっかり、仲のよい兄妹に見えた。

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