第4話

 市民体育館の観客席から落っこちそうなほどに身を乗り出し剣道の試合に見入っていたのを覚えている。社会人の大会だった。防具で顔の見えない男たちが激しく叫び竹刀を打ち合わせていた。辰は三つか四つだった。母に連れられてきたことを記憶している。彼女の頬には涙が伝っていた。泣いているという表情ではなかった。

 母はずっと脅威だった。不可解だった。何が彼女の機嫌を損ねるのかわからなかった。一方でしかし、不機嫌が彼女にとって他人を支配する唯一の方法であることは物心ついたころには既にどうしようもなく深く理解してしまっていたように思う。

 父の不在を意識するようになったのは中学の頃だ。その頃までには母が日本人でないことを理解するようになっていたが、自分が日本国籍を持たない理屈には関心を寄せたことも無かった。大阪市内に辰を溺愛している家族があった。母はその家から援助を受けていたが、心理的な距離が近いようには到底思われなかった。辰は、彼らのことをどう理解していたのだろう。自分を溺愛する家の存在に何の説明も与えずにいられるほど当時の辰は純朴だっただろうか。そうは思えないのだ。

 辰が中学を卒業する頃に、母はその家との仲が険悪になった。辰の進学先を巡って口論があったらしい。その家がどうして自分の進学に口出しできるのか辰にはわからなかった。それから母は頻繁に韓国語で手紙を書くようになったり同じ番号へ何度も電話を掛けるようになったりした。辰の知る限り、返事は無かった。辰は母には身内がいないと思っていた。話題に上ったことも無かったからだ。

 十六歳の夏、母が唐突に辰の一人旅を提案した。行先は釜山で、母の親戚が泊めてくれるのだという。住所と電話番号を教えられた。海路で行くと決めたのは辰だ。海に憧れがあったからだ。無邪気にも、使命を帯びた旅行だとは考えもしなかった。

 結局、辰が釜山プサンで母の親戚と出会うことはなかった。書かれていた住所には何もなかったし電話は不通だった。UNICONSEPTの無い時代だったから韓国語が出来ないばかりにひどく苦労した。旅や探検家というものに幻滅せざるを得なくなる。適当なネカフェに居座って考えたのは見も知らぬ父のことだった。

 入国審査がさも当然のように韓国語で行われたことは、大阪で日本人に溶け込んで生活してきた辰にとって自分の出自を思い知らされる衝撃的な機会だった。彼の手元にあるのは確かに発給されたての大韓民国のパスポートだ。しかし、それが何だというのか。表紙に書かれている幾何学模様めいた文字が何を意味しているかさえ辰にはわからない。

 父は、故郷について複雑な問題を抱えた人だったのかもしれない。母を気遣ってくれたあの家は父の実家で、あのとき竹刀を振るっていた背中こそが父なのかもしれない。死別か、あるいは失踪したかもしれない。なんらかの理由で父が母のもとを離れ、一人きりになった母を父の実家が世話していたのだとしたら。父と母は大阪という土地で出会った異邦人同士だったのかもしれない。父はきっとこの地球に大韓民国という国が現れる前に日本へやってきた人々の子孫だろう。というのも、あの家で韓国語を聞いたことはなかったから。一方で母は単身日本へ渡って来たばかりの第一世代だったはずだ。京都の大学で再生医療を研究していたと聞いている。

 大阪市の通勤圏にあるつまらない新興住宅街という故郷が辰にはある。辰が育ったのは無機質なアパートの五階、無個性な部屋。彼の生活を囲んだのはネグレクト気味の母、インスタントの食事。いつも使っていた毛布にはアニメのキャラクターが描かれていたが辰自身はその作品を見たことがなかった。故郷は空虚と結びついている。


   *


ARA SYRIAおかえり」

 ダンが駅まで迎えに来ていた。兄妹とエヴァも一緒だ。

お久しぶりです」

そこはただいまだろ。うちに寄ってお茶でも飲んでいくといい」

 辰たちはトラックの荷台に乗った。前は無かった庇が付いている。街との間には真新しい道路が出来ていて少しも揺れない。

読みな」

 ダンが運転席の窓から新聞を手渡した。ARA STANDARDドミートリー氏暗殺 黒海武力衝突の責任は有耶無耶に」という見出し。

あの混乱以降イヴァン・カラマーゾフも所在不明だって言うじゃないか。長い夢でも見ていたみたいだ」

セヴァストポリの新兵器については報道されていますか」

 ダンは深くため息をついた。

あんなもの、どの情報を信じていいかわからんよ。俺はいっそ何も聞かないことに決めた。だから何も知らない」

賢明です」

 肌寒い。今日は元日だ。

事務所はもう閉じましたか」

一週間も前にね。クリスマスまで仕事を長引かせない主義なんだ」

陽電子ヤン・ディエンツを知っていますか」

いいや。誰だい?」

じゃあ李・マイケル・カーチスは」

恩師だ」

彼に貰った偽造パスポートを使ったらあっさり出国できました。ベルリンの空港から一っ飛びですよ」

会ったのか」

救われました」

わからない人だな。なあ、辰。君はなぜここへ帰ってきた。気まぐれで寄ってみたなどとは言わせないよ。君はんだ。外ならぬシリアへ」

ここが空虚ではない故郷だから、ですかね。やるべきことがあります。まずはアブドゥルアジズから話を聞かなくては」

アブドゥルアジズってあのアブドゥルアジズか?」

ええ」


   *


 ダンが供したのは中国茶だった。それも本格的な様式だ。見たことのないすのこ状の盆、香りを嗅ぐためという細長い筒状の椀、菓子は月餅。

李先生から教わったのさ。酒も煙草も賭事もしない奴はお茶に金と時間を投資しなきゃならないらしい」

 ダンの家はまるでアリーの家の写しだ。このあたりの伝統的なスタイルで建てられている。狭い窓から日が細く差し込んでいる。子どもが三人いるお陰でそれなりにしっちゃかめっちゃかだが、そういった幼さに由来する混沌と同居するかたちで、書籍があちこちにうずたかく積まれている。通信工学と文学が半々といったところだろうか。『渚にて』や『ソラリス』が並んでいる。

あちらでボスを知っている人に会いましたよ」

ボグダン・スタンだな。名簿に載っていた。死ぬには五年ほど若かった」

五年?」

そのくらいで昇進できたってことだ。ルーマニア海軍は小さい。少将になってしまえばほぼナンバーツーってところだろ」

彼は名誉欲のある人だったんですか」

そんなところもあったかな。昔のことだからよく覚えていないよ」

ロクサーナという人と会いました」

 ダンの眼差しが重くなった。

ボス、コーヒーが飲めないんですね」

恥ずかしいことを知られてしまったな」

 ボスが噛み殺そうとした笑いは結局鼻息として漏れてしまった。口元は微笑んでいた。物事を懐かしむときの柔らかな表情に哀愁が伴う。

昔、嫌な事務所組ホワイトカラーがいたじゃないですか。ほら、旧軍の将校だったって奴。ボスはルーマニア軍をクビになったっていう彼の話がずっと気になっていたんです」

そのことをロクサーナから聞いたんだな」

いいえ。ロクサーナさんは何も知りませんでした」

 ダンの動きが止まった。

彼女ははあなたが軍を去った事情やその後の身の振り方を、李さんから聞いて初めて知ったようでした」

そんな馬鹿な」

ボスは、ボグダンさんを信頼していたんですね。彼なら伝えてくれるだろうって」

いや」

 ダンは茶碗を置いた。

裏切られたという気はしないな。何も言わないことがロクサーナの平穏に資すると判断したんだろう。俺が信用していたのはむしろあいつのそういう合理性だ」

ボスはボグダンさんに面倒な感情を抱いていたんですね」

認めたくはないがそういうことだな。そうか、これが故郷が空虚じゃないってことか。捨てきれない未解決の問題を置いてきた場所としての、故郷。辰、君の未解決の問題とは何だ」

「遼子、それとエヴァです」


   *


 ラッカの自動車整備工場でサングラスをかけた男がカウンターの上に足を組み航空機の雑誌を読んでいる。辰は彼が自分の存在に気づくまで壁にもたれて無言で待っていた。男は雑誌の最後のページに目を通してから顔を上げた。

うっわ、辰じゃないか。生きてたのかよ」

そのサングラス、度入り?」

特注だぜ」

相棒を探してるんだ。また組んでほしい」

 アフマドは辰を油臭いガレージに通した。山繭蛾がバラされた状態で保管されている。武装は無い。

街中に落ちていた部品から組んだんだ。試験飛行はまだ」

流石じゃないか」

で、こいつで何をしようってんだ」

アブドゥルアジズと話がしたい」

マジ?」

大マジ」

まだ遼子ちゃんに執着してるわけ」

ああ」

わっかんねぇな。お前みたいなのを見てると俺は馬鹿で良かったと思うぜ」

彼は今も市内の病院に?」

いや、ダマスクスだ」


 市街外縁部の高層ビル帯にガラス面積の少ない重苦しい建物が紛れている。揚々と翻る赤い三日月がこの地域で赤十字の代わりとして用いられるものだと知っているならば、その人はある程度中東事情に通じていると言っていいだろう。その横で星条旗とシリア国旗がはためいている。この病院はアメリカの援助で建設された。時刻は午前十時、快晴。

 東アジア系の男がずかずかと院内に入り込んでいった。彼は病棟の八階で一人の男性を見舞った。この男性はかつて倫理学の教授だったのだが、認知症が進行し思考力を大半失ってしまった今となってはループ再生を続ける音声ソフトみたいなものだ。聞き手がいないと機嫌が悪くなるから看護師たちにはひどく迷惑がられている。しかしもし彼の言葉が理解できるのであれば——老人性のくぐもった声のために残念ながらそれはとても困難なのだが——ロールズ、ハイエク、センの理論について最高水準の講義を受けることができる。その噂を聞きつけた学生たちが頻繁に彼のもとを訪れるが、ほとんど全員が挫折してしまう。学生たちが病室を去るとき、彼は決まって顔を真っ赤にしながら害獣」と叫ぶ。

 男は老人の話に真剣に耳を傾けた。時には老人に鋭く反論した。すると老人はいよいよ機嫌を良くしていき、お前の質問ならどんなものにでも答えてやろうと言った。男は老人自身がどのように正義を実践してきたか尋ねた。老人は滔々と語った。

私はこの学で飯を食いもしたが、究極的な目的は倫理学説の普及だと考えている。理論は宗教規範より民主的だ。所詮学説に過ぎないのだからいくらでも批判のしようがある。代案の出しようがある。だがまずは既存の理論を知る必要がある。さもなくば人は倫理という領域を発見しないだろうし、仮にしたとしてもそれが真剣な考察に値するとは思いもしないからだ。各人が各人の知性によって自らの行動規範を選択するということは素晴らしいじゃないか。半世紀ほど昔、私は士官学校で講師を務めたことがあった。軍による大きな虐殺の数年後だったよ。いやはや、彼らは実に闊達に虐殺を肯定したね。だが一方で倫理学への抵抗感も薄いらしかった。彼らと敵対していたのが宗教原理派だったからだろう。それが正しいかはさておき、彼らは宗教を克服するものとして倫理を見出した。教え子たちはシリア軍将校としておそらく初めての宗教によらない信条を持つ世代に育った。まあ、やったことは散々だったが。これが私の正義の実践だ。実り無いものだった」

あなたの教え子にはアブドゥルアジズ中将が含まれていましたね」

ああ、あれは面白い男だった。独自の学問分野といえるほどに独裁政権正当化の理論を精緻に組み上げておきながら、それを他所に見せようという気がまるで無かったんだ。自分以外を納得させることに関心が無かったんだな。その意味で彼は極めて個人主義的だった。他者との関係の中で自己を規定しようとは決して考えたことのない奴だ」

彼が今この病院にいることを知っていますか?」

ほう、あいつもさぞジジイになったんだろうな。ひとつからかいに行ってみるとするか」

お伴します」

君、名は?」

林辰」

覚えておこう。覚えていられる間だけ」

 辰と老人はエレベーターに乗った。しかしその直後、彼らの箱舟は五階と六階の間で座礁してしまう。

停電かね」

そんなこともあります」

 辰は老人の背後に立ち、彼を組み伏せた。老人のポケットから電子ノートを取り出す。

重度の認知症でも読み書きする力は残ってたってわけか。流石は学者さんだ」

 辰はノートを流し読みした。アブドゥルアジズとの接触、彼からの指令、訪問者からの伝言がびっしりと記録されている。

そもそも記憶の揮発してしまう人を使えば拷問で吐かれる心配もない。よく考えたもんだ。このノートもあなたに異常があれば遠隔で内容を抹消できる仕組みでしょう」

なんだそれは。私はそんなものは知らない」

ええ。本当に知らないんでしょう」

 辰は老人にノートを見せた。老人の顔が青ざめていく。

確かに私の字だ。教えてくれ、何が書いてあるんだ」

あなたの教え子であるアブドゥルアジズは敵対者の陰謀に巻き込まれこの病院に幽閉されている。あなたはアブドゥルアジズと理想を共にしていて、彼のために伝言役としてこの病院に潜伏している」

 辰は該当するページを老人に読ませた。

そうか。私は老いぼれてもなお実践の徒であるというわけか。彼には感謝してもらわにゃならんな」

残念ながら、ここに書かれていることは嘘っぱちですよ。筆跡を真似ることくらい造作もない」

どういうことだ」

アブドゥルアジズはあなたが御自身の理性を絶対的に信頼していると知っていた。偽物の経緯と偽物の動機を与えられ一方的に利用されていたってわけで」

そんなはずない」

彼と共有しているという理想を、あなたは少しでも説明できますか」

 老人は沈黙した。

そのノートに書かれてはいないのか」

残念ながら、いいえ」

 非常電源に切り替わりエレベーターが再び動き始めた。辰は老人を取り押さえていた両腕から力を抜く。九階で止まった。

お爺さんもこの階ですか」

ああ」

どんなご用件で」

誰かを見舞いに来たはずだが、参ったな。忘れてしまった」

自分の病室の場所はわかりますか」

いいや」

それじゃ、あそこの看護師さんに聞きましょう」

そうだな、そうするよ。君、親切な青年だな。名前は?」

林辰です」

覚えていおこう。覚えていられる間だけな」

 辰は老人を看護師に引き渡して去った。彼の手には老人の電子ノートが握られている。


   *


 ダマスクスの夜は天使の輪だ。眠る中心街を煌々たる高層ビル群が囲んでいる。今しがた一機の山繭蛾が中心街の闇の中から飛び立った。その機体は病院最上階の壁ぎりぎりまで機体を寄せ光信号を発信する。山繭蛾のカメラが窓の向こうにAKを構えた兵士の姿を捉えた。彼はハンドサインで山繭蛾にそこをどけと命じる。山繭蛾は二メートル右側へ移動、銃声、砕けたガラスが舞う。

 瘦身の男が兵士の後ろから現れた。山繭蛾のローターが起こす風が壁を激しく揺さぶり不穏の前触れのような音を立てる。男の左袖がなびく。彼は山繭蛾から吊り下がっている足場に乗り移った。機体は闇に呑まれていく。


   *


ったく、簡単に騙されやがってよ」

 アブドゥルアジズをビニール紐で縛り上げながらアフマドが悪態をついた。

イスラエルとどう関係しているのか知らねえが、そんなおつむじゃ亡命したところでいいように利用されるだけだったんじゃないのか。辰、お前もそう思うだろ」

 ダマスクスから南西へ十数キロ、レバノン国境の山中に彼らはいる。若干の積雪がある。あのノートにはイスラエルへの亡命計画に関連する内容が記されていた。辰とアフマドはイスラエル側のエージェントを装い亡命の日付が早まったとあの老人越しに偽の情報を流しさえすれば十分だった。

車に戻ってくれないか、アフマド。二人で話がしたい」

そりゃねえぜ。お前のために犯罪者になってやったのに」

頼むよ」

 辰は表情を変えなかった。アフマドは腹を立てながらトラックに乗り込んだ。ラジオの音が漏れ出ている。今週のヒットチャートらしい。寒風が辰とアブドゥルアジズの頬を撫でた。

君は、確か遼子を追いかけてきたんだったな」

あんな状況の出来事でも覚えているものですか」

恨んでいるからな」

あなたに聞かなければならないことが二つあります」

遼子のことと、もう一つは何だ」

エヴァ・ハラリについて」

 老人は高々と笑い出した。

そうか、そうか。ちゃんとそこへ行きついたか。賢いじゃないか」

 泥交じりの雪玉が老人の顔面で砕けた。辰はすぐ二つ目の雪玉を作り、力いっぱい投げつける。また雪玉が砕ける。|

恨みが深いのは僕だって同じことだ。態度をわきまえろよ」

遼子は自殺だったらしいな」

ああ」

あいつはどうして私のために死んだんだと思う」

お前が彼女の幼さにつけ込んだからだ。違うか」

「悪くない答えだが、違う。俺のためにも、あのダンという男のためにも死んだだろう。しかしお前のために死ぬことはなかっただろうな」

 辰は老人の腹を蹴った。数か月前に生死の境をさまよっていたとは思えないほどに鍛え上げられている。病院ではさぞいい暮らしをしていたのだろう。

エヴァ・ハラリと遼子に接点があったことを知っているな」

 辰が尋ねる。

ああ。君はどうやって気付いた」

エヴァ・ハラリ本人に会ったんだよ。彼女は僕が持っていた遼子の義眼に関心を示した。遼子の話を積極的に聞こうとした。それでさ」

アレクセイの坊やか。あれは私の敵だ」

彼女の母も同じ名らしいね」

そうだ。エヴァ・ハラリと呼ばれる人物は三人いる」

アレクセイに保護されていた少女、彼女の母、そして——

私、レベッカ、李、それと少女の母であるところのエヴァの四人が彼女の弟子だった。思想家、最初のエヴァ・ハラリだ」

 辰は沈黙した。アブドゥルアジズの次の言葉を待った。

最初のエヴァ・ハラリは最高の師だった。私は士官候補生時代に東ドイツへ留学する機会に恵まれてね、そこで彼女に出会った。彼女の歴史理論は実に新鮮だった。通信・制御技術の発展が領域国家を解体する。来るべき新時代では万人が統合者だ。防衛、警察、法体系、社会保障そういったものを各個人が自身の選好だけに基づいて組み合わせる。わかるか。従来国家が専有した機能はユニット化され、何を選び何を選ばないかが個人に委ねられるんだ。従来の国家は限りなく個人のレベルへ落とし込まれる」

何を言っているんだ?」

卑近な例で説明しよう。SCFはまさに師エヴァの思想を体現せんとして組織された。創設に携わったのはレベッカ、彼女の夫、李の三人。国家が専有してきた機能のうち防衛を独立させることを目標とする」

 辰は李——陽電子ヤン・ディエンツ——とレベッカの対立の原因を理解した。国家を解体せんとする組織を以ってレベッカは新たな国家の建設を目指してしまったのだ。

SDCFのような組織が他の領域にも存在しているのか」

そうだ。アレクセイと接触したとなれば黒海監視団だな。君はそこで実際に見て来たんじゃないのか。あれに参加している企業全て師エヴァの計画に基づくものだ。EUにクリミア、あの地域では従来的な国家が曖昧になりつつある。介入するにはもってこいの場所だ」

あれの名目上の特別顧問はエヴァ・ハラリだった。少女エヴァの母に当たる人物、二代目のエヴァ・ハラリか」

そうだ。元の名はハンナだった。三年前死んだ。少女エヴァは彼女と共にイスラエルにいた」

彼女は娘をアレクセイに託したってわけか」

アレクセイと少女エヴァは異父兄妹にあたる。あの子がそのことを知っているかはわからんがね。しかし、私はアレクセイが憎いよ。あの娘は私のもとに置かれるべきだった。そのためにあれこれ工作してみたりもしたんだが」

なぜ」

ハンナとよく似ているからだ。加えて、彼女は私が最も憎む男の娘でもある。わかるか? 私が最も愛した女と最も憎んだ男との間の子だ。私が育てる。私があの娘を征服する」

わからない」

わかるまいよ」

 風が一段と強くなった。巻き上げられた雪があたり痛い。

私が最も憎んだ男は片桐といった」

過激派に与していた日本人か」

そうだ。ソ連崩壊後だったな。師エヴァの思想はかつての西側へも水面下で伝わった。片桐は随分感銘を受けたようでね、はるばるベルリンにまで渡ったんだ。しかし彼が着いてすぐ師エヴァは亡くなった。後継者を選ばなければならない。我々は一種の秘密結社であったから、象徴としての指導者は不可欠のものだったのさ。私はそこでエヴァ・ハラリになりそこねた。選ばれたのはハンナだった。今も納得していない。師エヴァの思想を最も深く理解していたのは私であったはずなのに。案の定、ハンナは組織の頭としては力不足なところがあった。初めに李が離脱した。レベッカは単独の行動が目立つようになった。彼女には妹として姉を支えてやろうという気遣いなどまるでなかったね」

 アフマドが車から顔を出し、まだ掛かるのかと大声で尋ねてきた。辰は答えない。

続けてくれ」

片桐は熱心な学徒ではなかった。彼はハンナに接近し篭絡した。そればかりじゃない。彼は自身に都合のいいようにハンナを思想的に改造しさえした。奴は宗教家でな。その腐臭で師エヴァの崇高なる思想を堕落させたのさ。曰く人は神以外の何物にも従わない自由を有するんだそうだ。彼は人を中心とする世界観を遂に理解しなかった。考えてみるに、ハンナが新たなエヴァ・ハラリに選ばれたのも片桐が何か細工をした結果だったんだろう。私の怒りを考えてみろ」

それで、遼子はいつどこで関わってくるんです」

 辰は片桐についてこれ以上聞きたいと思わなかった。名前を聞くだけで胃が痛くなってくる。

遼子か、あれは視野の狭い娘だった。君は私があれを狂わせたと思っているのかもしれないが、それは誤りだ。私の駒になったときには既に狂気の匂いがしたよ」

狂気?」

あんな仕事に喜びを感じる人間を、私は彼女の他に知らない」

喜びだって。遼子を侮辱しているのか」

いいや。君も感じ取っていたんじゃないのか。あれは普通じゃなかった」

 遼子は普通ではなかった。辰はそれを否定できない。彼女を壊したのは内戦、それと日本という社会だ。

私のもとを離れたあとも遼子はしばしば軍の依頼を受けたから、彼女の動向は常に追っていた。ハンナの死後、少女エヴァをアレクセイに引き渡したのは彼女だ。ハンナが生前に依頼しておいたんだろう。だから私も遼子に依頼することにした。アレクセイが連れ去った少女エヴァを私のところへ連れてこいと」

論理が整合していない」

しているよ。その頃の遼子はいかなる勢力からのどんな依頼でも請け負う多重スパイというやつだった。遼子は私の依頼を拒んだ」

なぜ拒んだのだと思う」

わからんな。報酬に不満があったとは思えない」

彼女はエヴァを物のように扱いたくはなかったってことだろうよ」

なるほどな。思い至らなかった」

それで、この話はあなたのクーデターにも繋がるんだな?」

アレクセイは少女エヴァを正統性の証明として手元に置いておきたかったのだろうな。本当なら私こそが師エヴァの後継者でありたかったが、いかんせん齢だ。いつまでも時間を掛けてはいられない。だから私は私のやり方で師の思想を実践するに至った。それを君たちはクーデターと呼んだ」

独裁政権の復活がエヴァ・ハラリの思想を実現するものだとは思えない」

目的は一つでも手段は多様なのさ。まずは全権力を私のものとし、それをガザル、過激派、土地の名士らにばらばらに譲渡していく。特にガザルと過激派は分布が従来的な国家の枠から外れているので便利だ。かくてまずはトルコ、シリア、イラクにまたがる地域を新時代の幕開けの場としようと考えた。SDCFもその仕組みに組み込まれる予定だった」

遼子のことは計算内だったのか?

兵士であれ民間人であれ死者が出ることを彼女は極度に嫌っていた。だからあらかじめ殲滅戦を行うこととラッカを燃やすことを伝えておいた。そうすれば彼女はそれらを回避しようと行動する。彼女は私に懐いていたから、直接交渉しに来るだろうと思った。交渉が成立する見込みがあると彼女は考えるはずだからな。事実その通りになった。計算外だったのは遼子がエヴァ・ハラリの思想を受け入れなかったことと、最も信頼を置いていた部隊がガザルと結託して私を裏切ったということだ」

なぜ遼子を手元に置こうとした」

「作戦成功後にアレクセイら正統を主張するエヴァ・ハラリ信奉者とのパイプとして機能するからだ」

それだけじゃないだろう」

君は他の動機があったと思うのか」

遼子に愛着を感じてはいなかったのか。自分の孫娘だと思ったことはなかったのか」

なかった。私が話せることはこれで全てだ」

どうしてこうもぺらぺらと喋った」

私は他者に自分の考えを受け入れさせることにあまりに無関心だったらしい。遼子がそう言っていた。だから説明してみることにした。それだけだ」

もっと早くそうしていればな。独りよがりな理屈ばかりの武力より対話を選んでいたら、あなたの人生はもっと価値があったかもしれない」

 辰は足元から大きな石を一つ拾い上げた。恐ろしく冷えている。振り落とし、アブドゥルアジズの頭を叩き潰した。雪が赤く染まった。


   *


 トラックが夜の雪山を下っていく。ヘッドライトの二筋の光が闇の中に銀世界を照らし出す。どこも岩がちだ。もしかすると月面の景色はこんな風かもしれない。ラジオは既に放送を終了し、アフマドの携帯から流れるダンスミュージックに役目を引き継いだ。

どうして殺したんだ。あいつは司法によって裁かれなきゃならないんじゃなかったのか」

 慣れない雪道でアフマドはしばしばハンドルをとられている。その度にフロントガラスの向こうで光線が揺れる。

答えてくれたっていいんじゃないのか」

そういう気分じゃない」

ちっ、くそ生意気になりやがって。俺はもうお前とは組まん。これっきりで解散だ。俺はこの件がバレる前に西サハラへ飛ぶぜ」

西サハラか。主権の混乱につけ込んだパラダイスがあるって聞くな」

そうだ。酒と女だ。文化的だろ。お前はどうするんだ。シリアにいればお尋ね者だ。アリーを継ぐ者だとでも言ってガザルの連中に雑じってみるか」

それも悪くない考えだけどね」

 ラジオが唐突に何かの音を拾った。アフマドは車を止めヘッドライトを消す。耳を澄ませる。うっかり何かの通信を拾ったかもしれない。

JPNハロー、ハロー。辰くん聞こえてる?」

 甲高く鮮明な音声。

ARA SYRIA李の声だ。一体どこから」

日本語か?」アフマドが尋ねる。

JPN李って誰? 私、陽電子ヤン・ディエンツだよ。そこんとこ大事だからね。間違えないで」

ENG何の御用です?』

表彰だよ。君はアブドゥルアジズを殺害したね、すごくえらい。電子感動しちゃった。とっても頑張ったで賞授与しちゃう』

何が言いたいんです? 僕は確かにアブドゥルアジズを殺したが、それは賞賛されるようなことでは決してない。個人的な報復のために社会的公正に歯向かったんだ』

その思い切りの良さを褒めてるんだよ』

あなたの考えはひん曲がっている』

これからのことは心配しなくていい。実行犯が君だとはわからないように、私が細工しておく。アフマド、彼をダンのところまで送ってくれるかい?』

馬鹿には理解できねえ奴がまた一人増えやがった』

 アフマドは呆れかえった。

辰、私と一緒にエヴァ・ハラリを終わらせよう。期待してる』

 女児向けアニメのような曲が短く流れてから、ラジオは完全に沈黙した。


   *


 ダンの家に着いたのは昼過ぎだった。ひどく疲れを感じるのは長い移動のためばかりではない。この手で人を殺したことの生々しさが今になってはっきり感じられてくる。ふと、機械の力を借りずに人を殺したのはこれが初めてだと気づいた。辰は塀の内側にトラックを停めた。

ARA SYRIA済んだのか」

ええ」

 ダンは庭で女の子をあやしている。

滅多なことじゃ泣かない子なんだが、お客さんに怯えてしまってな。アフマドはどうした」

ラッカで降りましたよ」

その方が好都合だろうな」

 李・マイケル・カーチスが来ていた。いわゆる魔法少女のような服装で。

JPNなななんと、サイバー美少女陽電子ヤン・ディエンツの正体はわしなのでした」

ENG驚いてもらえると思ってたんですか』

結構本気でバレてないと思ってた』

気楽ですね』

 李が座る席の後ろには絵画が掛かっている。車窓で見たものとよく似たルーマニアの景色だ。テーブルを挟み向かい合う位置にダン。緑のワイシャツがいつも通りよれている。数日間髭を剃っていないらしく顎が栗色の柔らかな毛に覆れている。辰は彼に対して初めて犬っぽさを感じた。辰と向き合う位置にエヴァが座っている。座面が高いものだから足が床に届いていない。退屈そうに辰の顔を覗き込んでいる。背後に窓があるから逆光で表情が薄暗く見える。光と影の具合がレンブラントの絵画に似ていた。男の子は遊びに行っているらしい。女の子はどこかに隠れてしまった。

ENGこの面子で会うのは初めてだな。英語でいいか?』

構いませんよ』李の質問に辰が答える。

ところがそれだとエヴァちゃんが話に入れないんだ』

エヴァちゃんがしっかり話すの聞いたことがありませんね』

話すときは話すよ。イラク方言とシリア方言の中間的なものを』

ARA STANDARDとすると、これなら理解してくれるかな」

 エヴァがこくりと肯いた。

この四人の間では情報を共有しておきたくてな。というのも、わしらはこれから起こるであろう事態に備えて協力する必要があるからだ」

士官学校時代によく言っていた大いなる陰謀ってやつですか。ずっと冗談だと思っていた」

冗談であってほしかったよ」

何が起こるって言うんです。初代エヴァ・ハラリが予言した領域国家の崩壊というやつですか。僕は話についていけていない気がする」

それを劇的に推進するための秘策を、アレクセイが発動するかもしれないということだ」

黒海監視団でエヴァ・ハラリの代理を務めていた人物ですね?」

 ダンが尋ねる。

ああ。彼は二代目エヴァ・ハラリ、つまりハンナの養子ということになってる。実際は世界初のデザイナーベイビーでな。えりすぐりの精子とえりすぐりの卵子を掛け合わせてできた受精卵にハンナがちょちょいとゲノム編集を加えてできた子だ。腹を痛めたのはハンナ自身だが、彼女と遺伝的な繋がりはない。ハンナは情報化学の成果を反映した新時代を担う人類として彼を作ったんだよ。身体は丈夫だし十五歳にして知能指数は一九○あった。おまけにいくつかの感染症に耐性がある。ハンナの最高傑作だね。人間相手にこんな言葉を使うのは躊躇われるが」

嫌な出自だ」

 ダンがため息をつく。

そんな風に言ってくれるな。わしらのエヴァちゃんも同様なんだよ」

 辰とダンはエヴァを見た。少なくとも外見上は特殊な所のない子どもだ。

辰くんがオデッサで会ったエヴァとこのエヴァとは双子だ」

ARA IRAQ-SYRIAそれって私にはお姉さんか妹がいるってこと?』

 エヴァの声は細く軽やかだった。

ARA STANDARDそうだとも。君たちは人為的に作られた一卵性双生児なんだ。それにしても、アブドゥルアジズは間抜けな奴だな。間近にいたもう一人のエヴァに気付かない。彼女が片桐とハンナの血を引いているわけではないことにも気付かない。ハンナへの執着心で動いていたあいつがエヴァ・ハラリの計画から見棄てられるのも無理からぬ話だった」

ですが先生、それならなぜ私たちのエヴァだけが過激派の支配下にいたんです?」

そこで片桐が関わってくるのさ。エヴァちゃんは片桐って爺さんを知ってるか?」

 彼女は首を横に振った。

この様子じゃこの子が物心ついてから連絡したことなんてなかったのかもしれないな。オデッサのエヴァとわしらのエヴァは合鍵の関係にあるんだ。どちらの子も計画のある段階において同じ機能を果たすことができる。片桐は自分とハンナの目論見がすれ違うことを予想していたが、何にせよエヴァ・ハラリの計画は簒奪したかった。だから自分の鍵を用意した」

そしてその鍵の最も安全な保管場所が過激派だった。そういうことですか」

察しがいいな。さらに片桐は合鍵の存在をエヴァ・ハラリの会の他の構成員から秘匿した。実際アブドゥルアジズはわしらのエヴァの存在に気付いていなかった。アレクセイもまだ気づいていないはずだ」

さっきから言っている機能って何のことなんです」

 辰が尋ねる。

アレクセイも双子も、エヴァ・ハラリの理論における最初の統合者の役割を担うことが期待されているんだ。統合という方法が可能であることを人類に示すためには、まず何といっても見本が必要だ。そして計画を迅速かつ確実に遂行するためには、この見本を示す人物が圧倒的なカリスマである必要がある。彼らは人工的なカリスマなんだ。発揮されるべきカリスマ性が遺伝子に刻み込まれている。ただの人間では代替が効かない」

過激派は片桐を排除したあと、この少女を処分する必要に駆られた。というのも、その価値の高さゆえに組織内に置いていくことは高リスクだから。そこで選ばれたのが彼らにとっては最も尊厳ある死であるところの自爆テロだったってわけだ。そうでしょう、先生?」

 李は深く肯いた。

ここからが本題、アレクセイの秘策についてだ。彼は師エヴァの理論に忠実な形で計画を遂行しようとしていた。彼はハンナから引き継いだ黒海監視団をその具体的な手段とし、実際おおむね上手くやっていた。一つだけ誤算があった。すなわち、自ら国家たろうとする組織になったSDCFの暴走を許してしまったことだ。特に水霊魔ウンディーネの件は酷いな」

二週間にわたりセヴァストポリを事実上占領、ウクライナ・ロシア両国の永久的なクリミア撤退を引き出した」

実際に使うことができてしまうのがあいつの恐ろしいところさ。何せ非殺傷兵器だからな。条約と戦争倫理にがんじがらめにされ使い道をなくしてしまった核とは違う。もともとは計画の円滑な遂行に資するための研究であって、こんな風に使われるはずじゃなかったんだが。あれの原型を作ったのは私とハンナだよ」

すると先生、計画には当初から武力の行使が含まれていたんですか」

武力を以って計画を妨害する連中を武力によらず無力化するための研究が含まれていた、ということだ」

 辰は遼子のことを思った。もし何か大きな偶然がはたらいて水霊魔ウンディーネを運用するのが遼子であったなら。

アレクセイはSDCFを陳腐でとるに足らない存在にするために計画の順序を入れ替えるだろう。つまり、計画の最終段階として用意されていた恐怖の治療をただちに行う」

恐怖の治療? 片桐はそれこそが宗教の本質的な機能だと言っていましたね」

化学的にやってしまうのさ。焔霊魔イフリートガスでな」

 ダンが席を立ち棚の上に積まれた書類の山を崩した。あのときの電子紙Eペーパを掘り出す。概念マトリックスが標準語フスハーに変わっていく。そこに書かれているのは間違いなく、ガスを用いたトラウマ治療についてのエヴァ・ハラリ名義の論文だ。

これを使おうって言うんですか」

そもそも人類がなぜ権力構造を形成し自らそれに所属しようとするかといえば、それが本能だからだ。一方で人類は蟻のように純粋に社会的な種だというわけでもない。個体の利益のために人類同士が殺し合うこともなんら珍しくはない。この両面性こそ人類が宿命的に背負ってきた病だった。そして、焔霊魔イフリートガスはこれを治療するべく開発された。疎外に対する恐怖心だけを特定的に抑制することで、人類を社会の束縛から解放する。死の直前にハンナが実用レベルのものを完成させた」

実用レベルって。クーデターのときにあれを吸った現場組ブルーカラーは過半数が助からなかったんですよ」

 李の発言を辰が遮った。

彼らは残念ながら耐性がなかったんだな。あのガスは吸うとすぐ猛烈な恐怖に襲われるように出来ている。いわゆるフラッシュバックの極めて強烈なものを人為的に起こすんだ。それで恐怖の感覚に必要なシナプスを破壊してしまうんだが、そのショックで絶命する個体がいることもわかっていた。特に何らかのトラウマを抱えている連中は危うい。実用レベルというのは、そういう死亡や後遺症の起こる確率を考えても全人類に吸引させたとして種の存続に支障がないということだ」

 辰は現場組ブルーカラーの大部分が内戦の最前線を経験していたことを思い出した。彼らは砲火の記憶の中を生きていた。

既存の国家を解体するために、彼はそんなものを撒こうって言うんですか。認められるわけがない」

そのガス、全人類に吸引させるとなればとんでもない量になりますね」

 ダンが言った。

液化して輸送すれば体積は大したことない。現状の技術と制度を以ってすれば特定の薬剤をほぼほぼ全人類に摂取させることが問題なく可能だということは二昔前に証明されている」

そうか、大感染パンデミックのときにワクチンで」

となれば、どうする」

ARA IRAQ-SYRIAそのガスが恐怖に対するワクチンとして受け入れられる状況を作り出せばいい』

 エヴァが呟いた。窓の外では風が強まり砂ぼこりが立ち始めていた。砂粒が壁や天井を叩く音がする。ものの数秒で暗くなった。ダンが立ち上がり照明をつける。黄色い光が落ちる。部屋の四隅に闇が浮かび上がる。

ARA STANDARDキューバ危機を知っているか。冷戦の一つの頂点であり、核戦争が最も間近に迫った瞬間だった。わしが生まれるよりさらに十五年は昔の話だがね。わしの両親は明日には世界が本当になくなっているかもしれないと思ったそうだ。その時代を生きた人々はおおむねみなそのように感じただろう。世界的な恐怖だったんだ」

しかし、現代にはそんな風な破滅的な戦争をする理由も組織もありはしないんじゃ——

農耕カルティヴェーションか」辰の発言にかぶさるようにダンが呟いた。

米国を特大の農耕カルティヴェーションに巻き込んでやればいい。折しも世間はSDCFを恐れている。もし彼らがアメリカと対立することがあれば? 今世紀を通じ米国は唯一の超大国として世界のあちらこちらで大規模な戦争をやってきた。それがあくまでメディア越しの話であることができたのは、米軍は全世界に展開していてもその敵は地上の何処か特定の地域にだけ存在するものだったからだ。SDCFは違う。全世界でいつ終わるとも知れない、いや双方とも終わらせる意思を欠く武力の顕在的な浪費。それは人類の破滅を意識させるのに十分だ」

これは提案なんだが、エヴァちゃんをわしに預けてはくれないか。アレクセイは彼の目的を達成するためにカリスマの力を使うことになる。それに対抗するためには同種の力が必要だ。最も適切にエヴァちゃんを活用できるのは私だ」

妥当な提案ですが、しかし」

 ダンは黙った。彼はテーブルをしつこく指で叩いた。葛藤を言語にしつつある。

あの車列に遼子はいなかった。しかし、俺は自分が遼子を殺したんだと思うことがある。俺がもっと誠実に父親をしていれば、あいつは死なずに済んだんじゃなかろうか。先生、俺は父親でありたいんですよ」

エヴァちゃんの安全は保障する。彼女には彼女の務めを果たしてもらうだけだ」

子どもは装置じゃない」

 ダンの拳がテーブルを揺らした。

先生の考えが理屈にかなっていることはわかります。しかし、俺にも曲げられない信条があるんです」

君もロクサーナも大人になってしまったな」

 固めてある口髭を、李はぴんと弾いた。


   *


 道は白く木々は青い。開けた視界を商用車が時たま横切っていく。辰はスニーカーの底でなだらかなアスファルトを感じながら車道を渡る。衝突を避けるために縁石が途切れ途切れに赤く塗られている。それを跨いだところに坊主頭で体格のいい東洋人が佇んでいる。

JPN現地集合で正解だったな」

ああ。ああも混雑していちゃ見つけられるはずなかった。陸郎、お前ヘブライ語わかるのか」

今日のために勉強してきた」

そうか。僕は全く駄目だから東側に宿を取ったよ。あっちはアラビア語が通じる」

エルサレムは狭い街だってのに面倒なもんだな」

 辰たちはヘブライ大学に来ていた。陸郎は研究の過程でエヴァ・ハラリを名乗る人物が片桐の思想形成に多大な影響を与えていることを突き止めていた。彼女は謎の多い人物で、その経歴についてはこの大学の理学部を卒業したということと製薬会社の研究員を務めていたことがあるということしかわからない。なんにせよ、陸郎はそう説明する。

 エヴァ・ハラリを名乗った女性——辰は彼女の本来の名がハンナであることを知っている——の背景には辰も関心がある。彼女は片桐、遼子、双子、アレクセイの全てに関係する核心的な存在だ。陸郎がここを訪れると聞いて辰はすぐ同行を申し出た。アブドゥルアジズを殺してから二週間が経っていた。

陸郎、夢の景色って知っている場所を再構成したものが多いだろ」

ああ。伏見の官庁が上京区にあったりな」

ここはそれに似ている」

 辰は、構内の景観に京都もラッカもオデッサも見出すことができた。それと調和するように、目に入る学生たちも人種的に多様だ。

クーデターの首謀者が失踪したんだって? 因縁浅からぬ関係だろ」

直接見たこともあったよ」

片桐先生みたいな奴だったか。いや、思想が強いばかりに暴力と親和してしまう連中に共通の雰囲気がありはしまいかと思ってな」

それは理解が浅い」

手厳しいな」

 陸郎が腹鼓を打つ。無数の六角形を貼り合わせた塔のような建築が二人の前に聳えている。理学部棟だ。

 外観の複雑さの割に内部の構造は平凡だった。辰らは段と段の間から階下が透けて見える階段を八階まで登った。エレベーターは機材の搬入に使われている最中だったから乗れなかった。モノクロの廊下を突き当りまで進んだところに目的の研究室があった。


   *


 女性はヒルシュ教授と名乗った。歳は既に九十に至っているはずだが、時間を冷凍してしまったかのように若く見える。スラブ的な要素が濃く出た顔つきだ。辰は彼女の右手が人工皮膚でカモフラージュされた義手であることに気付いた。よく見ると顔の右半分に火傷の跡がある。何か大きな事故に巻き込まれた過去があるらしい。

ENGエヴァ・ハラリのことを聞きたいのね。何から話そうかしら』

半世紀前のゼミ生ですよね? 覚えているものですか』

それはもう。だって指導している間に名前がまるっきり変わっちゃった学生は後にも先にもあの子だけだったから』

名前が変わった?』

もともとはハンナ・シェーンベルクって言ったの』

そうか、碌に資料が出てこなかったのはそのせいなんだ』

研究に関してはハンナって名前を使い続けたようですけどね。あら、あなた、すごい汗。大丈夫?』

 ヒルシュ教授は拭取紙ウエスを二、三枚取って陸郎に渡した。

階段で来たもんですから』

大変ねえ』

ハンナ・シェーンベルクさんの改名について、他に何か知っていることは』

そうは言ってもプライベートなことだから。そうですね、改名の前に確か春休みでベルリンへ行っていて。副専攻に関係するセミナーに出席するって言っていたような』


   *


 開放的で清潔感のある造りの建物だが、食事の場としては明るすぎるかもしれない。辰はピタパンをひよこ豆のペーストに浸したものを漫然と食べている。辰らが居座っている場所は学生食堂だ。

JPN東独出身で歴史家のエヴァ・ハラリという人物がいるんだ。同姓同名だからそちらの情報ばかり引っ掛かって辟易していたんだが、そうか、接点があったとはな」

どんな人なんだ」

技術の発展によって国家は自ずと解体していくっていう独自の歴史理論を説いて党から厳重にマークされていたらしい。彼女を信奉する学生を集めて何やら企んでいたこともあってな。未然のテロリストとでも言おうか」

ハンナ・シェーンベルクは同じ名前に改名してしまうほどにエヴァ・ハラリの危険思想に傾倒していた。そんな人物なら片桐と惹かれ合うのも無理はない。まあそんなとこか」

それは理解が甘い。片桐先生だぜ、国家がどうこうなんて問題は些事としか思っていないよ。彼がエヴァ・ハラリの共感者と思想的に近い位置にあったとは思われない」

それは確かに」

 黒い長髪の女性が視界の隅に映った。辰はそちらへ意識が引かれる。

なあ、辰。あの先生はどうしてあんな大けがをしたんだと思う」

情報化学は軍事転用が容易な分野だ。話題になってる水霊魔ウンディーネって奴もその類だろ。きっと軍の要求に逆らいでもして報復されたんだよ。異常に若いのもまだ死なれちゃ困るからって薬を入れられてるんじゃないか」

水霊魔ウンディーネって言えば、お前、SDCFの社員じゃないか。あんな企業に身を置いていて大丈夫なのか。とっとと辞めて日本へ来いよ」

ずっと無断欠勤しているからとうに辞めているようなもんだ。あんな場所にもはや未練も関心も残ってはいないから——

 辰が勢いよく立ち上がったので、椅子が音を立てて倒れた。いましがた再び視界に入ったあの黒い長髪の女に、辰は動揺していた。

ちょっと行ってくる」

 辰は女を追って建物を走り出た。


   *


 女の横顔は遼子そのものに見えた。白い広場に立ち人込みを注意深く見渡す。無数の顔が飛び込んでくるが、あの力強い目は見つからない。太陽の光を受けて噴水が銀の光をちらつかせている。夢だったのかもしれない。自分の目はカメラではないのだから、精神の状態によっては無いものが見えてしまうこともある。辰はそう考えた。アブドゥルアジズの件でまだ無意識に動揺しているのだとしても不思議ではない。

 敷地の南端まで歩き、パラソルと椅子が並べてある場所に出た。アルミニウム製のフェンスの先にエルサレムの東西が見下ろせる。大学があるのは新市街からやや離れた丘の上だ。辰はアルミの横棒に腕を組んで乗せた。下は地層がむき出しの五、六メートル程度の崖になっていて道路が通っている。バスが正門側から続く緩いカーブを抜けてきて停まった。停留所の周りにたむろっていた学生たちが乗り込んでいく。辰はその中に黒い長髪の女を見出した。フェンスを乗り越え、崖を滑るように降りた。バスは既に出発し五十メートル以上先を走行している。よく整備されている上に交差点の無い道だから、バスはみるみる加速していった。丘を下りきり新市街の幹線道路と接続したところで辰は息が切れてしまった。

 エルサレム新市街は経済的にそう裕福ではない様子だった。建物は総じて石造りかそれを模した外装の鉄筋コンクリートで面白みに欠ける。清掃が行き届いておらずあちこちの吹き溜まりでプラスチックの破片が小さな山を成している。黒い衣装に身を包んだ人々が無数に街を歩いている。辰は気分に任せ茫然と通りを下った。車が増え商店が目立つようになっていったから自分が都心の方へ向かっていることは明らかだった。狭い路地に入り、何度か袋小路に突き当たった。林の中に出た。墓地だ。辰が通ってきたところだけ塀が途切れていて、住宅街と繋がっている。

 縦に長い石碑状の墓石がぎっしりと並んでいた。風化し苔むしているものが少なくない。薄暗く湿っている。日本の墓と違うのは花が手向けられていないということだ。代わりにあちらこちらで石が積んである。それで遺族の来訪を告げるらしく、新しい墓ほど石の数が多いように見える。真新しい墓の前で一人の少女が佇んでいるのを、辰は見つけた。石は二つ三つ積んであるばかりだ。墓参りがまだそう何度も行われていないほど最近の死者なのだろう。少女は立ち去ろうとして辰の方を向いた。知っている顔だった。オデッサで会ったもう一人の少女エヴァだ。

ENGあなた、林辰? どこかからつけてきたの。やめて。私はあなたが欲しがるようなもの、持ってない』

 少女は後ずさった。襟の詰まった黒いシャツと長いスカート。この区画の住民たちと同様の、戒律を遵守した装いなのだろう。エヴァの場合にはそれが元来の品の良さと相まって神聖なくらいに見える。

違う、そんなんじゃない。知り合いに似た人を見かけたから追いかけてたんだ。そしたら君がいた。ほら、君がいま首から掛けてるものの持ち主だった人だ』

 エヴァの首元には遼子の義眼が掛かっていた。光が木々に遮られている中で、それだけが明るい。肉体から離れた精巧な眼球は呪術的に見える。

遼子さん、生きてるの?』

死んだよ。僕はこの目で見た』

そうか。じゃあ、死者に引っ張られてきたのね』

 エヴァは墓石を撫でた。刻まれているのはヘブライ文字だから、辰には読めない。

これは、誰の墓』

お母さん。私、この近くで育ったんだよ。三年前に母が亡くなってから兄を頼ってベラルーシに渡った。遼子さんと会ったのはその折。ねえ、あなたは私のことどのくらい知っているの? あなたは厄介だって兄が言ってた。遼子さんの仲間だったんだよね』

遼子に仲間なんていなかったよ。第一、君が遼子と会ったのは僕がシリアに来るより前だ。僕はつい最近になって李やアブドゥルアジズを通じて事情を知った』

じゃあ、その人たちが私を狙ってるのも知ってるってわけね』

 車が砂利を踏む音が響いた。辰が来たのとは反対の方向に鉄格子の門がある。そちらが本来の入り口で、駐車場も備えているらしい。

辰、来て』

 エヴァは辰の手を引いた。


   *


 路地さえない建物の隙間を自在に走り抜けた。エヴァが本当にこの土地で育ったのだとわかる。彼女の選ぶ道は何食わぬ顔で私有地をすり抜ける子どもの道だ。こんな地図を描くことができるのは子どものうちだけなのだ。幹線道路を突っ切って巨大な白い壁にぶち当たった。門をくぐる。使用されている言語がアラビア語に切り替わった。旧市街に入った。

 観光客でごった返している市場を抜けた。隙間なく吊るされた絨毯や衣服が形作る色彩の混沌。そこかしこの看板にアラビア語とヘブライ語が併記されている。二人は生活区域に入る。何度も建物の下をくぐったり天井を走ったりした。地上を走っていたはずなのにどこかの建物の屋上にいることが一度や二度ではなかった。古いエルサレムは遺跡を基層として取り込み、それに覆いかぶさるようにして建設されてきた層状の都市だ。立体的な迷宮の中でいくつもの時代が交錯している。オリーブの木が一本植わっている中庭でエヴァはやっと足を止めた。四角く切り取られた空から注ぐ陽光が眩しい。

ごめんね、こんな方まで走らせちゃって』

 エヴァは壁にもたれかかり息を整えようとする。正午だから日陰が無い。

新市街にはカメラ網がある。だから壁の中へ逃げなきゃいけなかった』

車に乗っていたのはアレクセイさんだな。どうして逃げなきゃいけなかったんだ。オデッサで会った友達同士じゃないか』

そうか、お兄ちゃんに警戒されていること知らなかったんだね。あなたはエヴァ・ハラリに関わりすぎてる。エルサレムへ来たのは李の指令?』

違う。ハンナ・シェーンベルク、君の母についての個人的な関心からだ』

李があなたにお兄ちゃんを殺せって命令したんじゃないの?』

違う』

信じていいのかわからないな。あなたが遼子さんだったらよかったのに』

遼子だったら信じられたのか』

私はあの人に助けられているからね。お母さんが死んですぐ、彼女が現れた。私は自分が人に狙われてるってそのとき初めて知ったんだよ。兄の存在も知らなかった。遼子さんがしたのは私を兄の所へ送り届けたことだけじゃないんだ。何が起こっているかわからず困惑してた私を支えてくれた。李やアブドゥルアジズ相手に情報を攪乱する仕事をするためにシリアへ帰ったって聞いてた。まさか死んじゃうなんて』

アレクセイはやはりエヴァ・ハラリの計画を実行しようとしているのかな』

計画なんて知らない』

君はハンナが試験管の中で作った子どもで、特別な使命が与えられている。そのことは伝えられているんじゃないのか』

 エヴァはうつむいて膝に顔をうずめた。

兄は計画の実行がお母さんの遺志だって言ってる。でも正直わからないな。お母さんの研究が危ういものだとは知っていたけど、だからって私を道具にするような人ではないと思ってた。でも、そうだよね。私は母に道具として作られたんだ。お母さんの血を引く子供じゃなかった。お兄ちゃんは私が生まれる前に母のもとを離れてから、何年も欠かさず連絡を取ってたんだって。計画のことも母のことも私よりずっと詳しい』

君はお兄さんが怖い?』

私に対しては優しい人だよ。でも怖い。この国の高官と利害の一致があって、好きに使っていい特殊部隊を与えられてる。私は、兄がその人たちを使って暗殺をするのを知ってる。母の遺志を継ぐためだから良心の呵責を感じる必要はないんだってさ。でも、私は母が殺人を正当化するような人だとは思ったことがなくて』

 エヴァの声が崩れた。涙がスカートを濡らしている。

わかんないな。私はお母さんのこと間違って理解してたのかな。遼子さんが生きてたら違っていたのかな。辰はこんな気持ちになったこと、ないでしょ』

 辰はアリーのことを考えた。SDCFに身を置いている間、自分は彼を目指していたはずだ。その目標は曖昧なまま放擲されている。アリー的であるとはどういうことか、まだわからない。

愛しているはずの人物について自分が実は無知なのだと気付かされたときの絶望はわかってるつもりだ。今は、自分が遼子について知らな過ぎたことが悲しい』

 沈黙が訪れた。風は無いが、雑踏の振動でオリーブの葉が揺れる。

お兄ちゃんが私を探してる。あなたはここで夜を越して明日になってから帰って。明日には安全なはずだから』

 辰はその場でエヴァを見送った。まずは体を休めようと思った。陸郎に連絡する必要もある。しかし、彼の思考は悲鳴によって中断された。

 辰が駆け付けたときには曲がり角の先でエヴァが作業服の男二人に取り押さえられていた。

逃げて』

 エヴァが叫んだ。辰は男に掴みかかる。重い右ストレートが辰の頬をすり抜ける。空振りして重心が動いた瞬間に辰は投げ技を掛けた。巨体が固い床に脳天から落ちる。もう一人の男が拳銃を抜いた。

辰、逃げていい。兄の部下だから私には危害を加えない。逃げて』

 自分を押さえつけている男から拳銃を奪おうとエヴァがもがく。

すまない』

 辰はエヴァたちに背を向けた。しかし、新たな銃口が辰の方を向いた。来た角から出てきたのは長いコートを着た赤髪の美青年だ。

ARA STANDARDこんなところまで嗅ぎまわってくるとはね。妹が世話になったようだ」

薄情な兄に代わって話を聞いてあげてたんですよ」

大人しく僕の駒になっていればよかったものを。李の差し金だな」

李さんとは関係ない」

それなら誰の指図を受けてここに来た。レベッカは事態に気付くほど賢くないし、アブドゥルアジズは君が殺したようだからな。ルーマニア諜報部か。あの二人には手を焼いた。折角手に入れたウクライナ海軍特殊部隊もぼろぼろにされちゃったじゃないか」

ロクサーナとボグダンのことか」

片桐、アブドゥルアジズ、遼子、僕、李、レベッカ、君は計画の関係者と接点がありすぎる。君は何者なんだ。なぜそうも僕らの近くにいる」

あんた、ロクサーナさんをどうしたんだ」

殺した」

 アレクセイが発砲した。右の腿を貫かれ辰はその場に崩れ落ちた。辰は痛みで叫んだ。エヴァがヘブライ語で兄を非難する。アレクセイは聞く耳を持たない。ロクサーナが死んだ。その事実で目の前が真っ白になる。

誰かの指図を受けているのなら言ってくれ。そうすればここでは殺さない。君も新時代に迎え入れてあげよう」

僕は、誰の指図も受けちゃいない」

 辰は痛みに耐えて言った。

すると、片桐の後を継いだってわけか。君は彼の教え子らしいな。調べさせてもらった。片桐がしたようにエヴァ・ハラリの計画を簒奪するのが君の目的なんじゃないか」

どうしてロクサーナさんを殺した。彼女の子どもたちはどうした」

自分よりあのスパイ一匹が大事か」

 アレクセイが声を荒げた。

SDCF内部の味方が手を下したよ。子どもは連れていなかったそうだ。これだけ聞ければ満足か」

あなたも片桐と縁があるみたいだ。僕の人生はどこに行っても片桐片桐ってそればっかりで、あれは呪いだな。計画とやらがそれほど大事か。いつまでもそんなものに夢中になっていないで妹の世話でもしてやったらどうなんだ」

 辰はムキになって叫んだ。アレクセイがもう一度発砲した。左脚だ。血が噴き出した。

計画は僕ら兄妹の使命だ。平凡な出自の君に何がわかるっていうんだ。役割を与えられて生まれるということの意味が、君にわかるのか」

そんなものは捨てられる」

捨てたとして何が残る。僕には親も故郷も無い。計画の遂行以外に関心を持たないように、遺伝子に書き込まれてしまっているんだ。  僕がどんなふうに作られたか言ってやろうか。極端な高知能だ。孤独だった。エヴァ・ハラリの思想に関する膨大な資料を三歳から読まされた。十三の言語を習得させられた。その一方で社会性はどうしようもなく低く設計されてる。統合者たるのに必要なふるまいだけは幼少期に叩きこまれたがそれ以外は苦痛で仕方ない。貴様らみたいに他の個体と群れてるだけで平穏を保てるようには出来てないんだ。それだけじゃない。僕という特別な存在がうっかり子孫を残してしまわないように生殖機能は除去されてる。計画を遂行できなければ僕が存在したという事実をこの世界に刻み込む術はない。どうだ、悲劇的だろう?」

ARA SYRIAぎゃあぎゃあと自意識の膿みたいなことばかり言いやがって思春期のガキかてめえは」

 辰が凄まじい音量で叫んだのでアレクセイはたじろいた。

頭はいいけど社会が苦痛だって言うんなら数学なり宗教なりの研究でもしていればいいだろうがよ。でなきゃ一生妹に仕えたっていい。生きる理由なんて計画の他にもいくらでもあるだろうが」

ARA STANDARDわかってない。君はわかってない」

 アレクセイの声は細く震えている。

ARA SYRIAほら、あれだ。ウェルズのジジイが言ってたじゃないか。お前恋人だか愛人だかがいたこともあるんだろ。やればできるじゃねえか。自分の意思で生きろよ。自分の可能性にもっと素直になれよ」

ARA STANDARD違う。同性愛者になるように遺伝子に書き込まれてたんだ。家族を持つことがないようにって。あんなもの、忌々しい。僕が望んだんじゃない」

「そうやって与えられたものに固執する態度に文句を言っているんだよ僕はあ」

 絶叫し、意識が遠のいた。血を失いすぎた。朦朧とした意識が途切れる前に、ピンクの白鳥が急降下してくるのが見えた気がする。


   *


 暗く埃っぽい部屋で目を覚ました。陸郎が足の包帯を新しいものに代えている。最初に会ったときと同じ赤ずくめの格好で李がベッドの横の椅子に座っていた。

ARA STANDARDここは?」

わしの愛車だよ。いまテルアビブのベン・グリオン空港に向かって走行している」

 言われてみれば確かに部屋全体が振動しているらしい。

運転してるのは誰です」

アフマドだ。ダンがこいつなら信頼できると言っていたからな」

なぜ陸郎がいるんです」

置いていくわけにもいかないだろう。お前以上に片桐の関係者だ。アレクセイが見逃してくれやしない」

あのジジイの亡霊は本当にしつこいな。あいつのせいで二発も撃たれた。計画の簒奪って何なんだよ」

 陸郎は考え込んでいるように見えた。全く思いがけなかった事態に唐突に放り込まれ、自身の研究に関連する事実を奔流のように浴びせられたのだ。その衝撃は想像を絶しているだろう。

人は神以外の何者にも服従しない自由を有する。片桐はそう言っていた。しかし彼の考えがそこで停止していたわけではないだろう。彼はむしろ、という義務を想定していたんじゃないか。そう考えたとき、国家を解体するっていうエヴァ・ハラリの計画は片桐の理想を実現する手段として好都合だ。だから片桐はハンナを通じ計画に関与した。一方で具体的手段としての人工的なカリスマという要素は片桐にとって絶対に避けたい部分だ。人を人に服従させることになるから。アレクセイが片桐を恐れるのもそういうわけだよ。母ハンナは片桐に影響され、彼を必要としないを信奉するに至ってしまった。彼はそう考えたんじゃないか」

自身の存在意義のために攻撃衛星を打ち上げ世界の仕組みを変えるのか。陳腐だな。しかし却って悪役らしい」

攻撃衛星って?」

 辰は李に尋ねた。

ARA SYRIA俺がいなきゃわからなかったんだぜ」

 天上に吊るされているスピーカーからアフマドの声が落ちてきた。

オデッサに行く前、ベン・グリオン空港でムリーヤを見ただろう。あのとき偽装工作が行われていたんだ。あのとき着陸した機体は三号機じゃない。既に解体されたはずのオリジナルだった。オリジナルの機体は後の機体で撤去された背中の台座が付いているから、展望台から見ればそのことがわかってしまう。だからアレクセイはイスラエル政府から借りているエージェントを使ってわざわざ人を追い払わなければならなかった。一方でオデッサ空港に入り米軍の臨検を受けることになったムリーヤは本物の三号機だ。入れ替えてたんだよ」

どうしてそんなことを?」

オリジナルの台座は宇宙船を背負って輸送するために装備されていたんだが、設計段階では異なる構想もあった。あそこからロケットの空中発射をするつもりだったんだ。所詮は冷戦期特有の無駄に壮大な計画であって、実現しなかったんだけども。しかし、ムリーヤの就役から半世紀が経った。今なら電磁砲レールガンの弾として衛星軌道上に物を放り込める」

決して邪魔されない物置にして発射場だってわけか。アレクセイは衛星で何をするんだ」

ARA STANDARDわしの想像だが、米国かその同盟国の都市を一つ吹き飛ばすつもりだろう。この時局だから米国は当然SDCFの奇襲攻撃と考える。そうなれば世界各地で同時開戦だ。自国領以外のあらゆる場所に情け容赦のない火力を注ぎ込むアメリカと一応非殺傷兵器であるところの水霊魔ウンディーネをもって説得を図るSDCFのどちらを支持するか、人類の意見は割れるだろうね」

ARA SYRIAおい、見ろよ。夜天使ライラが飛び始めてる。離陸間近だ」

ARA STANDARD仕事だな。辰、今から白鳥を飛ばす。花笠水母のレーザー通信が届く範囲で仕留めにゃならん。飛び立つ前にやれ」

 李がベッドの下からアルミケースを取り出した。すぐにエンジンを始動する。カメラが映し出したのはテルアビブへ続く国道の映像だ。機首は車の進行方向を向いている。

武装は機銃と対地ミサイル一本だ。賢くやってくれよ。カタパルト用意、三、二、一、射出」

 車の速度を借りて白鳥は機首を前に向けたままほとんど垂直に上昇した。地平線が猛烈な速さで遠ざかっていく。ベン・グリオン空港を視界に捉えた。滑走路に既に離陸態勢のムリーヤが見える。

ここから撃っちゃいけないのか」

エンジンが六発もある巨大機だ。熊に拳銃で立ち向かうようなものだよ。急所に当てなければ意味がない」

空港の上空へ飛ぶ」

 数秒のうちにプロペラの回転数が最大に至った。夜天使ライラたちの散漫な群れの中央を突っ切る。

辰、下だ」

 赤く鮮やかな曳光弾が白鳥の胴を掠めた。ローリングを利かせ軽業師のような動きで回避行動をとったのはほぼ同時。対空機関砲に換装された蟻蜘蛛が何基も丘に張り付いている。

こんなもの、角度が浅ければ当たらない」

 辰は機体を田園に滑り込ませた。高圧電線の下を潜り木々の隙間をすり抜ける。空港の敷地を覆うフェンスをほんの数十センチ上で跨いだ。ムリーヤは滑走路上で巨体を緩やかに加速させつつある。白鳥はその尻についた。ムリーヤの背中には鉛筆状の物体が担がれている。

撃ちます」

 白鳥がムリーヤの背中をめがけてミサイルを放った。しかしその軌道は大きく曲がり、右主翼外端のエンジンを直撃した。ムリーヤは加速を止めない。

畜生っ、夜天使ライラにやられた」

 李が拳を床に叩きつける。

まだ機銃がある」

 辰は機体の進行方向を保ったまま機首を限りなくムリーヤの側へ向けた。機体は水平方向に百八十度回転しながら巨体の側面を通過、ムリーヤの操縦室が銃口の真正面に入る。

 辰にはその一瞬の光景が引き延ばされて見えた。既に引き金は引かれていた。彼の入力を受け、アルミケース型の操縦装置に搭載されているコンピューター上で射撃管制プログラムが走った。プログラムはカメラや赤外線といった各センサーから送られた情報を読み取り照準修正の値をはじき出す。白鳥はレーザー通信でその値を受け取り、銃口の方向を機械的に微調整した。マガジンから薬莢が供給され、弾倉内で火薬が発火する。全てが自動的に、一瞬のうちに行われた。

 アレクセイとエヴァが撃ち抜かれていた。操縦室が血に染まっている。白鳥はムリーヤの頭に衝突して砕けた。送られてきた映像はそれで終わりだ。

どうなった? 何か向こうを映せるものはないのか」

ARA SYRIA見えてるよ。窓の外だ」

 李の言葉にアフマドが答えた。車は既にベン・グリオン空港の手前まで来ていた。ムリーヤが二か所から煙を上げながら飛び立っていくのが北の空に見える。

操縦室を失っても飛べるようにしてあったってわけだ。他にできることは? 今からSDCFに依頼でもするかい」

ARA STANDARDアレクセイは死んだか」

そう見えました。ほんの一瞬ですけど」

これでもうエヴァ・ハラリの夢を継ぐ者はいなくなったな」

 李の満足げな表情が辰に醜く歪んで見えた。

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