第3話

 砂漠を貫く高架線が眼下に見える。長方形の視野は高架線を外れ黒ずんだ荒野へ切り替わった。その中心を塗装の禿げた古いジープが低速で走行している。赤文字の警告が表示された後、小刻みな衝撃で視野がわずかに震えた。ジープは停止した。山繭蛾の機銃がジタイヤを撃ち抜いたのだ。

 装甲車がジープの横に停まった。降りてきたのは辰と眼鏡だ。眼鏡はジープの車内へ銃口を向け、乗員たちに武器を捨て降りるよう呼びかける。三人の男たちが両手を頭の後ろに回して熱い砂の上に伏した。

ARA SYRIA頭数が多いからって抵抗しようとするんじゃねぇぞ」眼鏡が言った。

妙な動きをすればあのちっこいヘリコプターがお前らの額にケツの穴を増設してやる。静かに寝てればいいんだ。手錠をかけるだけだから抵抗するな」

ARA IRAQどこの連中だ。正規軍じゃない』

 三人組のリーダー格らしき男が答える。

ARA SYRIASDCFだよ。三年前にアブドゥルアジズの反乱鎮圧で活躍した民間軍事企業が北東部高速鉄道の警備をしているって話、聞いたことないのか」

ARA IRAQちっ、金のことしか頭にない傭兵連中じゃないか。俺たちはそんな連中に捕まって死ぬのか。あっけないな。くだらない人生だった』

ARA SYRIA死にやしないよ」

 ジープの荷台を調べながら辰が言った。

公共交通の爆破未遂なら死刑にはならない。たぶん無期刑だね。厳しいかもしれないが二、三十年もすれば仮釈放もありえる」

ARA IRAQ甘いことを言って、慰めのつもりか』

ARA SYRIA社会は甘いんだよ、君らが思うよりは。よほどのことでなければ更生の機会は与えられるし、正義のために死ぬことも死を命じることもそう頻繁にあるものじゃない」

ARA STANDARDだから未だにアブドゥルアジズを殺せないんだな。制度の上では死刑を宣告しておきながら、報復を警戒してだとか下らない理屈をこねて執行をずるずると遅らせている。しかし我々であれ軍部であれ、報復なんてものができる勢力が残っていると思うか。本当は自分たちの正義が取り返しのつかない結果に至ることを恐れているだけなんだ。自分の正義を信じきれないからそうやって本音と建て前を使い分け、形式的には正義を執行しながら実態としては日和見主義に陥らざるを得ない」

饒舌だな。なんにせよ、アブドゥルアジズの背景にあった資金の流れや国外勢力との関係が明らかになるまで政府は彼を死なせるわけにはいかない。それだけのことだ」

お前はそれに納得しているのか」

え」

SDCFの社員ならあいつに恨みがあるんじゃないのか。あいつが病院で無数に管を繋がれて生きながらえていることに怒りを感じないのか」

僕は怒りだなんてものに振り回されない」

高潔だな。馬鹿馬鹿しい」

なあ、お前たちどこに爆弾を隠してるんだ?」

そんなものは持っていないよ」

ARA SYRIA持ってないだあ? 貴様ら腕の一本でも吹き飛ばされたいみたいだな。そのくらいは事故で片付いちまうんだよ」

 眼鏡がわざわざ男の耳元で叫んだ。男は表情を変えない。

眼鏡、お前ガラ悪くなったな。三年前はあんなだったのに」

眼鏡じゃなくてアフマドだ。辰、流石にキレるぞ」

やめとけよ。無理するなって」

 辰は砂を払うように胸の前で二度手を叩いた。二人の間で決めてあった交代の合図だ。アフマドは男たちへ銃口を向けながら退いた。代わりに辰がリーダー格の男の横に立った。

ARA STANDARDあなた、そうおしゃべりが好きなのを見るに過激派の幹部格じゃないんですか。組織は三年前には既に息絶え絶えだったのにあなたみたいな人が未だに出てくるんだ。出てきた理由は、そうだな、過激派内部での筋を通すためでしょう。あなたが自身を危険に晒さなくてはならない順番が回ってきた、違いますか」

だったらどうするんだ」

どうもしませんよ。僕らは誰であれ高速鉄道を損壊しようとする者を警察に突き出すだけです。そこに待遇の違いは一切ない」

若いの、お前は無理に事務的であろうとしているな。そんなことをして何になる。その態度は直にお前自身に牙をむく」

それで、爆弾はどこにありますか」

お前は神を信じるか」

質問に答えていただきたい」

信じるのか」

いいえ」

それじゃあ、教えてやるわけにはいかないな。神を恐れない軽薄な輩になど」

そうか、あなたは神を信じていらっしゃるんですね。それもそうだ。過激派の幹部を務めるくらいなんだ。立派なことだ。ええ立派ですよ。ならば外部と隔絶し先鋭化した信仰がいかに行き詰まるかもよくご存じのはずだ。をつけるために先人たちが絞ってきた知恵を思えば、爆弾で鉄道を吹き飛ばそうなどと言う馬鹿げた考えには至らない。その努力を放棄して安易に暴力に頼ろうだなんて、あんた方のやっていることは」

 眼鏡が辰の袖を引いた。

ENGおい、お前、優しい刑事デカ役だろ。怒鳴ってどうすんだ。出てこないならジープを置いてこいつらだけ警察に突き出すか』

そうか、そうだったな。頭に血が上っちゃったよ。でもジープを置いていくことはできない。その間に爆弾を仲間に回収されてしまったら元も子もないから』

どうにかしろよ』

どうにかって、どうするんだ』

ARA STANDARDお仲間からの連絡かな」男が言った。

若いの、俺はお前に似た東洋人を知っているよ。ドクター片桐っていうんだ。か。昔、あいつもよく言っていた」

 辰の心拍が速くなった。片桐を知る人物にはいつか出会うと覚悟していたが、それが今だとは思っていなかった。

なあ、若いの。お前には信じるものがあるか。神と呼ばれる概念でなくてもいい。信じるものがあるのか」

あります。アリーだ。ガザルの」

 辰は男の目を見ている。視線を離せなかった。暑さと同時に体の芯が凍えるのを感じた。

裏切り者の英雄か。いいじゃないか、偉大な人物だ。教えてやるよ。爆弾を持った仲間が列車に乗っている。俺たちは起爆係にすぎない。被害を最大化するために上りと下りがすれ違うタイミングで爆破する予定だった」


   *


 同時刻、駅の監視カメラに映る不審な人影をダンが見つけた。彼は駅の警備部によく通っていて内部の人間とほとんど変わらない。そういうわけだから改札の記録を照会するのも監視カメラの映像を確認するのも、面倒な手続きを踏まずに迅速に行うことができた。ダンが見つけた不審な人物は十二、三歳の少女だった。そのくらいの年の子供が一人で高速鉄道に乗るというのは明らかに特殊だし、彼女は手荷物をもっていなかった。当該車両は辰たちの場所にほど近い線路上で緊急停車した。ARA SYRIA整備用の梯子がある。列車に乗り込んで赤いヒジャブの少女を確保してくれ」ダンが無線で言った。梯子は小面倒な操作をすると降りてきた。線路内への侵入を防ぐために敢えて不便にしてあるのだ。男たちの監視のためにアフマドは地上に残り辰だけが高架線へ上がった。

 車両内はざわついていた。辰は武器としてベレッタ社製の拳銃だけを隠し持っている。もしいつものようにAKを引っ提げて来たならばそれが却って混乱を生むからだ。装弾数は九。距離十メートルで的が動くとすれば命中率は十パーセント程度だから全部撃ち尽くしても当たらないかもしれない。アリーのような人物でもなければ無管制射撃の拳銃はお守りに過ぎないのだ。赤いヒジャブは四両目にいた。ひどく震えていて唇が青い。辰はすぐにそれが恐怖のためでないことに気づいた。アブドゥルアジズの反乱から三年間、無数の小さな案件に関わる中で恐怖による震えとそれ以外とが見分けられるようになっていた。辰はすぐに一つの可能性に思い至った。

ARA STANDARDお嬢さん、失礼しますよ」

 辰は少女の脇の下に自分の肩を入れて彼女を立たせた。少女は抵抗しなかった、というよりはほとんど意識がないらしかった。辰はいつでも拳銃を抜けるように姿勢を調節しつつ、背後から少女のみぞおちを強く押し上げた。少女は嘔吐した。その吐瀉物の中に粘土状の爆薬が無数にあった。二キロもあれば車両一つを吹き飛ばすくらいの威力は出る。舐めれば中毒を起こす物質であることを辰は過去の事件から知っていた。通路に垂れたものはそれと胃液だけだった。辰は少女の体が怖ろしく軽いことに気づいた。


   *


 男たちは警察へすっかり引き渡された。辰と眼鏡には仕事終わりの爽快感だけが残った。ラッカの警察署は冷房がよく効いていて既に用事が済んだのに居座りたくなる。受付前のソファに深く身を沈めて欠伸をする辰に警部が声をかけた。辰は仕事で幾度もここを訪れる内に知ったのだが、この警部こそ遼子の義眼を辰にこっそりと渡した人物なのだ。辰はその義眼を今このときも首から下げて持ち歩いている。ダンを含め他人に見せたことはない。

ARA SYRIA取り調べ、もう終わったんですか」

ああいう体力のいる仕事は若い奴らに任せてるんだ。それより君たち、この子はちゃんと連れて帰ってくれなきゃ困るよ」

 大柄な警部の背後から少女が顔を出した。顔色は戻っているが慣れない場所へ連れてこられた猫のように辺りを見回しては縮こまっている。改めて見るとやはり病的に痩せている。長い期間まともな食事をとっていなかったのだろう。

口が利けないようなんだ。身元もわからない。警察には置いておけない」

おやっさん、それは困るよ」アフマドが言った。

それならせめて警察の責任でそういう施設へ入れてやるとかさ、やるべきことがあるじゃないか」

世話してやりたいのは山々だがな、警察には仕事がたっぷり残ってるんだ。お前たちには金を払ってる。わかったなら連れてけ」

 警部は廊下の奥へ去っていき、二人の前に少女が取り残された。

君、名前は?」

 辰が訊いた。少女は辰の目を見つめ、それから細く小さな声で答えた。

???エヴァ・ハラリ』

ARA SYRIAなんだ喋れるじゃないか。さてはおやっさん怖がられたんだな。俺はアフマド。眼鏡って呼ぶのはなしな。で、こっちは辰。エヴァちゃん、よろしく」

 アフマドが握手を求めて手を差し出した。エヴァは背中で両手を組み応じなかった。それからまた一言も喋らなくなってしまった。辰とアフマドは仕方なく彼女を乗せて帰った。


   *


JPN片桐先生の追悼論文集、送るぞ」

 夜の薄暗い部屋で電話越しに陸郎が言った。辰は振り込まれたばかりの給料であれこれの買い物をしてから寮へ帰り、オンラインで陸郎と囲碁を始めたところだった。そういう場合にはネット電話を繋いでおくのが通例だ。盤面は陸郎がいくらか優勢だった。陸郎は自分が有利になってくると関係のない話題を振りがちだ。心理的な効果を狙ったものなのか、あるいは単に無意識なのかわかりかねるが、辰はそのたびに自分がやや苛立つことに気づかないわけにはいかない。そんなことで腹を立てるのはあまりに気が小さいようにも思うのだが、同時に陸郎が相手なら自分の感情が漏れ出てしまっても構わないという気持ちもあった。

随分かかったんじゃないか。だってもう三年だろ」

片桐先生くらいになると寄稿者が大物だからね。それに事件後しばらくは片桐先生の名前を出すこともはばかられる時期があっただろ」

そんな時期があったとは知らなかった」

そうか。お前はもうシリアに行ってたもんな」

 盤面上で陸郎は堅実に辰を追い詰めていく。

そろそろ一度帰って来いよ。この頃は落ち着いてるんだろ」

落ち着いたもんか。いや、確かに情勢は落ち着いているけどね、女の子を拾ってきちゃった。検査入院が終わって昨日からボスの家にいる」

それじゃお前のボスって人は血縁のない子供を三人も預かってるのか」

そうだよ。二人も三人も違わないって言ってさ。おっ、やっとダウンロードできた。分厚いね。陸郎は何か書いたのか」

俺はまだ博士課程の学生ですよ。立場が違う」

君が書いたものも読みたかったんだけどな」

なあ、辰。帰って来いって」

いま逆転する方法を考えてるんだ。邪魔しないでくれ」

大阪のご両親も心配してるだろ。親は子が大事なんだよ。お前のボスに限らずさ」

 辰は黙った。陸郎はマイクにあーあーと声を入れて機器や回線の不調でないことを確かめた後、やっとそのことを理解したようだった。

はいはい、俺が悪かったよ。そう腹を曲げないでくれ。じゃあな、お前が興味を持ちそうな話をしよう。二〇五ページを開いて」

 その論文は|UNICONCEPTで書かれている。日本語に書き下しても知らない単語があふれていて意味を取るのに苦労する。最新技術に頼ったところで母語でない言葉を理解することは本来こんな風に苦しいものだと辰は思った。懐かしく新鮮だった。シリアの言葉はもはや辰にそんな気分を起こさせなくなっていたから。しかしそれより辰の印象に残ったのはその論文の著者名だった。エヴァ・ハラリとある。ありきたりな名と聞きなれない姓のこの組み合わせが、そうしょっちゅう出会えるものだとは思われなかった。

宗教学の話ではないな、これ」

情報化学ってやつだよ。演算や記憶や通信を化学的な方法でやろうっていう新興分野」

どうしてそんなものが?」

さあね。追悼論文集だから書いてよこされたら載せないわけにもいかなかったんだろう。気になったからこのエヴァ・ハラリって人物を調べてみたんだが、九十年代にヘブライ大学の理学部を出てる。そのあとはずっと沈黙。五年前にイスラエルの製薬会社で研究員になったらしい。この論文はそこで開発していた物質について書かれてるみたいでね」

 辰は陸郎の話を聞きながら論文を読み進めた。JPN UC黒い影が伸びてくる幻覚や、灼けるような熱さ』とある。論文に相応しくない文学的な表現。三年前に眼鏡ことアフマドらがあびたガスとよく似ている。そのことが辰を引き付けた。

JPN企業での研究だろう。他所に発表しても問題ないものなのか」

普通は駄目だろうな」

この物質、何に使うんだ」

トラウマ治療だ。吸入することで記憶に結び付く感情を書き換えるらしい。ただし幻覚作用がひどくてまだまだ改良しないと使えないんだとか。な? いかにもお前が興味を持ちそうだろ。宗教は恐怖を書き換える治療だなんて話を前にしたな。精神療法はそのエッセンスを理論化した。そして今度は化学的に同じことをしようとしている」

興味津々だよ」

ご所望とあればエヴァ・ハラリについてもっと調べてやってもいいんだぜ」

あてがあるのか」

まずは追悼論文集の編纂委員会、それから片桐と交友のあった人物に総当たりする」

君に何の得があってそんなことを」

つまらないこと聞くなよ。片桐という人物は俺の研究テーマなんだ。その一環」

 盤面は完全に陸郎に支配されていた。もはや勝機はないが、辰は無理にでも粘りたい気がした。

陸郎、お前はまだ片桐先生を追いかけてるのか」

呪いだよ。一生追い続けるね」

 辰は日付が変わるあたりで投了した。


   *


 辰の新しいデスクも三年間の使用の間に小傷まみれになっている。アブドゥルアジズの反乱での活躍にもかかわらず北方部隊の再建された事務所は前より規模が縮小されていた。現場組ブルーカラーの補充もわずかで戦力はかつての六割にすぎない。だから辰も銃を担いで摂氏五十度の炎天下へ出ていく。シリア北東の情勢が沈静化し存在意義がほぼ高速鉄道の警備だけになってしまったことを考えればそれも当然だ。そういうわけだから本部からの重要伝達事項とやらの内容には辰を含めてみな見当が付いていた。ダンはさほど改まりもせず、あくまで通常の業務連絡といった体で言った。

ARA SYRIA今年度を以って本事務所は閉鎖、再編されることになった。来年度も継続してSDCFと労働契約を結ぼうと考えている者は相談してくれ。できる限りよい仕事を見つけられるよう努力する」

 誰もがその宣言に安心とも納得ともつかない感情を覚えたらしかった。辰は自分の身の振り方を考えた。なんにせよ日本へ帰るつもりはない。かといってダンのように高速鉄道と共に生きてシリアに骨を埋める意思もない。今は酷暑がやっと過ぎようとする九月で年度末まではまだ三カ月ある。その日の業務が終わってからダンが訊いた。

大学へ戻るのか」

戻ったところで満足できる気がしませんね」

俺は最近のここがそんなに刺激的だとは思わないが」

実践を欠く思弁よりよほどいいですよ」

ここには宗教の実践があるのかい。君は宗教学を修めていたんだろ」

実践まみれです。先日の連中だって、信仰と信念が行動原理じゃないですか」

なるほどな。じゃあ、辰、お前もそうなのかな。君は何に則って行動しているんだ」

僕が信じるところの価値です」

それが宗教なのか」

いいえ。宗教や信仰といった種類のものじゃない。国家でも民族でもない。そのことは三年前に確かめました。そういった概念的なものじゃなくて、むしろそのときそのときに眼前に生起する現実への直感みたいなものです。アリーがまさにそんな人でした。僕はアリーのようにありたいんです。エヴァちゃんを救出したとき僕は自分がアリーになったつもりでいたんですよ」

アリーなら銃口を向けて議論もどきをしたりしない。彼は自らの威厳だけに頼って説得をするよ」

でもそれは戦士として恐ろしく強いアリーだからできることじゃないんですか」

あいつはそんなこと言わない」

 その話題はそれで終わった。考えてみれば過激派幹部との会話をダンが聞いていたのは当然だった。山繭蛾ごしに映像も見ていただろう。ダンは帰り支度をしている。小学校から帰ってきた兄妹とエヴァが家で待っているのだ。辰は金槌で頭を殴られたような心地がした。自分よりずっと長い間アリーと運命を共にしてきたダンにそう言われてしまっては、自分が築き上げてきた彼についての解釈がひどく間違っているような不安に襲われないわけにはいかない。アリーとはそういう人ではなかったのか。自分はもしかすると歪んだ偶像を崇拝してきたにすぎないんじゃないだろうか。辰はそう思った。神をとっかえひっかえするインスタント信仰からはもう足を洗ったはずなのだ。しかし彼の最期に立ち会ったのは自分であってダンではない。思い出したようにダンが言った。

ちょっと引き留めていいか。大学へ戻らないって言うのなら紹介したい役職があるんだ。ウクライナと周辺国の間でよろしからぬ事態が起こっていることは知っているな。黒海監視団にはSDCFも技術サポーターとして一枚噛んでいる。今は陸の農耕カルティヴェーションがメインだが今度は海上に飛ばそうという話があって白鳥の操縦者を探している。君はまさに適任だ。やってみないか」

黒海というとクリミア半島がらみですよね? 高緯度は嫌ですよ。僕は大阪育ちなので寒いのに慣れてないんです」

その点は心配いらない。勤務地はオデッサだ。戦艦が出てくる古いソ連映画の舞台だよ。そう、大階段のあるとこ。沿岸だからウクライナにしては暖かい。雪もほとんど降らない」

それなら、まあ、考えてみても」

すまないが即決してくれ。三日後にはそちらへ着いていないとならないんだ」

無茶ですね」

無茶なんだよ。本部が言い出すことはいつもそうだ。検討してくれるというのなら今ここで内部資料を読んでもらってもいい」

 ダンは鞄の中から電子紙Eペーパを取り出した。機密事項であることを表すステッカーが貼られている。言う間でもなくUNICONCEPT。概念マトリックスが蟻のように蠢いて日本語に化ける。

 書かれていたことは次の通りだった。黒海監視団はクリミア半島の所属を巡るロシア・ウクライナ間の衝突が黒海沿岸諸国に飛び火することの防止を目的として、ウクライナの加盟と同時にNATOが八年前に派遣を開始した。シリアに親米政権が立って中東の懸念が消失しアメリカの軍事予算に余裕が生じたということ、またEUの弱体化がロシアの膨張を招くという懸念がその背景だ。もっとも当初はあくまで制御の効く緊張状態だった。当時のロシア大統領は二十一世紀到来以来ずっとロシアを牽引してきた強権的ながら有能な皇帝ツァーリとあだ名される人物で、無謀なことはしなかったから。二年前に彼が突如政界を退き状況が一変した。議会の圧倒的多数を占めていた与党は彼の喪失により分裂。現大統領は皇帝ツァーリの正統な後継者を自称するドミートリー・カラマーゾフだが、議会は革新派が過半数を占め彼と対立するイヴァン・カラマーゾフを首相に任命した。二人のカラマーゾフによるこのねじれ状態に乗じてロシア実効支配下のクリミア半島でウクライナ系の住民が抗露パルチザン活動を激化させた。強いリーダーを標榜するドミートリーが軍による鎮圧を図る一方で欧米との連帯を模索するイヴァン派はこれを糾弾、クリミア情勢の過剰な緊張を嫌う軍の一部も同調し法と秩序が軽々しく無視されるロシア革命さながらの事態に発展した。NATO軍はイヴァン派と水面下で協力しながら——これは公然の秘密だ——ウクライナ主導のクリミア半島正常化に手を尽くしている。そしてSDCFはもっぱら国境防衛でNATO軍を支援している。

 辰は黒海監視団構成員の名簿に目を止めた。JPN UC特別顧問エヴァ・ハラリ』とある。心臓が止まりそうになるほど驚いたし、今回はいよいよ呆れてしまった。この名前に出くわすのは三度目だからだ。

ARA SYRIAボス、特別顧問というのは?」

ああ、エヴァ・ハラリって言うんだよ。驚いただろう? そういう仰々しい名前が付く役職は大概、民間のお偉いさんだな」

情報化学関連の人ですか」

さあ、最近はどこも民間企業が無数に関与するのが普通だから。知っているのか」

 辰は少し逡巡してから例の論文をダンに見せることにした。出先で読もうと思って電子紙Eペーパに焼いてあった。この機会に自分が片桐の教え子であることも打ち明けてしまおうと思った。ダンはエヴァ・ハラリの論文を読み通した。同じ文章が日本語になったりルーマニア語になったりするのは何度見ても不思議なものだ。甲という人物が見る赤と乙という人物が見る赤は同じだろうかという哲学上の問が連想される。もっともUNICONCEPTはその辺りの問題に踏み込んで設計された国際補助言語であって、あれこれと複雑な仕掛けを用いて概念の同一性を保障しているらしいのだが。

ボスはこのエヴァ・ハラリと僕たちのエヴァに関係があると思いますか」

確かに三年前に反乱軍が使ったガスと似ているな。しかしこれはトラウマ治療薬だろう。アフマドたちが吸ったものとは用途が違う」

でもあの後からアフマドは肝が据わりました」

それは確かにそうだ。イスラエルから開発中の薬を受け取って非致死性の毒ガスとして使用したというのはありえなくはない話だ。だが俺たちが救い出したエヴァは子供だよ。こんなものを作る齢じゃない」

エヴァ・ハラリは本当にあの子の名前なんでしょうか」

疑いだすと止まらないな。俺たちにはまだイスラエルと過激派の間のパイプが実在するかもわかってないんだから憶測に憶測を重ねても何にもならないよ。この論文はどこから」

恩師の追悼論文集です。その先生というのは」

ドクター片桐か」

知られてましたか。有名人なんですね、片桐先生」

採用のときは君が日本にいた頃の経歴なんてまるで見ていなかったからな。気づいたときは本当に焦った。まあ、今こうやって事実を確認できたのだから何も心配することはないが」

ボス、片桐は過激派とどんな関係を持っていたんですか。先日捕らえた過激派の幹部、彼も片桐を知っていました。僕は過激派に関することで片桐の話を真面目に聞いたことがなかったんです。しつこく勧誘されて、適当に受け流していた。それだけだったから」

彼らにとっては貴重な内部からの批判者だったんだよ。俺たちに追い詰められていくうちに、過激派はそんな奴を飼っておく余裕がなくなった。だから殺した。そして彼らは冷静な視座を失いアブドゥルアジズの反乱に利用された。俺はそう考えている」

僕はウクライナへ飛びたくなりました」

エヴァ・ハラリと片桐が気になるのか」

今ここの現実の背後に得体のしれない力が働いているというのは不快です。僕はそれを解き明かしたい」


   *


 オデッサへの便はテルアビブから出る。辰は高速鉄道でダマスクスへ向かい、あの塔へ行く道をさらに西に向かってレバノンへ出た。レバノン・イスラエルの国境は特に警備が厳重だが、教養ある標準語フスハーを流暢に話せることが入国審査官を安心させたようで問題なく通過できた。ベン・グリオン国際空港に着いたときには午後の四時だった。初めて事務所へ送られてきたときの拷問のようなバス移動を考えると高速鉄道の快適性に感嘆しないわけにはいかない。空港内の食堂でフライト前の食事をしている辰のもとにアフマドから電話があった。

辰、写真撮ってくれよ。ムリーヤがお前のとこに来るんだ」

なんだよ、ムリーヤって」

ウクライナの巨大輸送機。しかもベン・グリオンに向かってるのはオリジナルだぜ。さっき予告もなしにシリア上空を横断したからびっくりした。フライトレーダーに反映されてないんだ」

民間機なのか」

半民半官ってとこだね、特殊な機体だから。世界に四機しかないんだ」

詳しいんだな」

そりゃそうさ。俺はもとはシリア空軍所属なんだから。目が悪くてどうせパイロットになれないからやめちまったけども」

そのムリーヤってのの写真を取ればいいんだな。どういう機体」

見ればわかる。エンジンが六発もついてて百足の足みたいにタイヤが山ほどある。ベン・グリオンなら展望デッキがあるよな。そこから頼むよ」

 アフマドの言った通り空港には広く滑走路が見渡せる展望デッキがあった。無数の飛行機がひっきりなしに着陸しては離陸している。にわかに騒がしくなった。辰は今まさに着陸しようとしている機影がムリーヤであることを悟った。フェンスに近づき携帯のカメラを向けようとすると、太い腕が辰の胸を押した。辰は後ろへ倒れそうになった。辰を押したのは迷彩服を着た屈強な男性で、辰に限らずムリーヤを撮影しようとした人々はみな同じ格好の連中に妨害されている。彼らは展望デッキ上の人々を追い出そうとした。辰は無性に腹が立ちどうしてもムリーヤを撮影してやろうという気になった。着陸と同時に滑走路の異常による遅延を知らせる館内放送が流れた。ムリーヤほどの重量の機体が降りればそんなことも起こるのかもしれない。それならば、と辰は決心した。市街の側に回り込めば裏から撮影できるかもしれない。時間に余裕ができたのだからそれも可能だろう。

 辰は空港の建物を飛び出した。タクシーの後部座席から彼を呼ぶ人がいた。

ARA STANDARD君、さっき展望デッキにいたでしょ。考えることは同じだね。乗りなよ」

 チェロのA線のような声だと辰は思った。つまり圧迫感のある高音だ。辰はその人の横に乗った。目元はサングラスに隠れていて見えない。裕福そうな身なりをしている。年齢は二十代の終わりくらいだろう。近くで見てやっとその人が男性だと気づいた。静脈が透けて見える白い肌はなめらかでやや巻き毛気味な赤髪を低い一つ結びにしている。香水だろうか。林檎の匂いがする。車が発進した。

ENGお客さん、どこまで』

 林檎の香水の人物は辰の知らない言語で答えた。ヘブライ語だろう。運転手が大きな声を出した。目的地に不満があるようなのだ。その人は運転手の様子を窺いながら短い言葉をいくつか発した。価格交渉であることは自然とわかった。

ARA STANDARD参っちゃったね。十キロ走る分の運賃を取るって」

半分出します」

気にしないで。君みたいな子に優しくするのが趣味なんだ」

僕みたいな?」

食堂で情報化学の本読んでたでしょ」

 辰は確かに暇つぶしのためにそんな本を買っていた。

そういうお仕事をなさってるんです?」

そんな頃もあった」

 タクシーはほどなく空港の裏に着いた。市街と空港の間は農地になっていたが同乗者は構わずその中へ入っていった。作業中の農民は辰たちを気にかけなかった。高いフェンスの向こうにムリーヤが見えた。携帯の電子ズームでは画質が荒くなりすぎた。

あなたは撮らないんですか」

撮るのも撮られるのも好きじゃないんだ」

写真を撮らない飛行機マニアがいるんですね」

そういう君だってちゃんとしたカメラを持ってないじゃないか。そうだな、さしずめ友達に頼まれて撮影してるってところだろ」

正解です」

自分のフライトの予定があるけれどさっきの遅延の放送を聞いて飛び出して来たんだな」

まるでホームズですね」

それが今の本業みたいなものなんだよ」

 夕日が沈んだ。これ以上の撮影はできそうになかった。


   *


 辰を乗せた飛行機は結局四時間遅れで出航した。撮った写真をアフマドに送ったが既に寝ているらしく反応がなかった。三時間飛行して真夜中にオデッサに着いた。誘導路上で米軍の電子偵察機が空港特有の痛いほどの照明に照らされているのが見えた。辰は徒歩でホテルを目指した。この時間ではバスも走っていないし市街地への距離はせいぜい数キロだからだ。

 予約を入れておいたホテルは予想通り貧相だった。壁がすすけている。昼にオデッサの陽光の下で見たとしてもきっと汚らしいままだろう。受付の担当はベルで呼び出してから三分も経って来た。

ENGどういうことですか、部屋がないって』

ご予約いただいたチェックイン時間を過ぎておりますので』

どの部屋も空いてないんです?』

満室でございます』

じゃあどうしろと』

到着が遅れるのならあらかじめ連絡を入れておくべきでしたね』

 受付は少しも申し訳なく思っていない様子でそう言った。そればかりかこちらの非を責めるようなことまで言われてしまっては辰は意気消沈するほかない。うなだれながら建物を出た。街の中心の方へ歩いてバーにでも入ろうかと考えた。オデッサの夜は肌寒い。どこからか林檎の匂いが漂ってきた。

ARA STANDARD奇遇だね。君、ベン・グリオンで会ったばかりじゃないか」

 声をかけてきたのは赤髪の人物だった。紛れもなくフライト前に出会った林檎の名探偵だ。辰は自分が彼と同じ便に乗っていたのだと気づいた。彼の搭乗口がエコノミークラスと別だったのだとすれば姿を見なかったことも不思議ではない。

そうだな、予約していたホテルが満員で泊まれなかったんだろう。違う?」

どうしてわかるんですか」

旅行で起こりがちなトラブルは大概経験済みだから。私の部屋へ来てもいいよ。どうする」

タクシー代も出してもらったのに、そんな」

だからって今から他の部屋を探すのは難しいよ。酒場や路上で夜を越そうって考えもやめた方がいい。ここはそれなりに都会だから悪党も多いんだ」

ありがとうございます。何から何までやってもらっちゃって」

いいんだ。若い子は私に頼りすぎるくらいがちょうどいい。食事はまだかい。それも私に任せてくれればいい」

 厚意に甘えるほか選択肢はなかったが、辰は若い子という言葉に反射的に警戒感を覚えた。少し考えてみてそれが片桐の話し方に似ているからだと気づいた。こうも親切にされては二口目にはと言われるかもわからない。それにそんな言葉を使って違和感がないほど年が離れているとも見えないのだ。もっとも同じ直感はダンとの初対面のときにも感じて、そのときはすっかり大外れだった。だから自分の直感をあてにする気にもなれない。辰は林檎の匂いについて行った。

君、ロシア語かウクライナ語はできるか?」

全く」

少しくらいは覚えた方がいい。それだけで人間並みに扱ってもらえるようになるからね」

道中、そんな言葉を交わす。全くもってその通りだという気がした。

 辰が連れられて来たのは外観を見て後ずさりするほど立派なホテルだ。皺と汗にまみれた自分の格好がいかにも場違いで恥ずかしくなる。チェックインは既に済んでいるらしかった。二人は建物の外を向いたエレベーターに乗った。街明かりの向こうに見下ろせる海は名前の通り底のない黒色だ。エレベーターは最上階で停まった。一フロアがまるまる部屋になっているから降りるなり鍵が必要だった。宮廷か何かのように豪華だ。林檎の名探偵はルームサービスを注文するために内線の受話器を取った。

食べ物の戒律はあるかい」

アレルギーで蜂蜜が駄目です。それだけ」

良いことだ、それは。私は戒律をくそ真面目に守っていたことがあるんだけど、信者の共同体から離れることが増えてやめちゃった。自分にだけ他者と異なるルールが適用されることはなかなか不自由で窮屈なものだよ」

わかる気がします。食べ物ではないですけど、似た経験があります」

君がどんな経験をしたのか気になるな。私はアレクセイだ。アレクセイ・カラマーゾフ。苗字も名前もロシア系でがっかりしたかな。こんな赤毛だからステレオタイプの再生産だなんてよく言われるよ。失礼な話だろ」

立派な名前じゃないですか。小説の主人公と同姓同名だ」

君は?」

辰です」

姓は無いのかい」

はやし。すごく久々に使った気がします。シリアの人たちに合わせていたから」

じゃあ姓の代わりにお父様の名前を使っていたんだね。こっちでも同じだ」

父の名前は言えないんです」

 辰は腹いっぱいに食事をとって寝た。ホテルのベッドは寮のものと比べ格段に心地よかった。


   *


 溶けるような白い光の中で辰は目を覚ました。枕もとの時計は緑色の字で今が八時半であることを示している。カーテンは開け放たれていて黒海が光を眩しく反射するのが見えた。辰はベッドの上に暫く座っていた。着替えようとして自分の首に遼子の義眼がかかっていないことに気づいた。辰は動転した。枕や布団をひっくり返しても遼子の目は出てこなかった。パスポートや財布はあった。アレクセイがいないことに辰は今更気づいた。遼子の目を盗む動機が彼にあるだろうか。あるとは思えないが、それ以外の可能性が思い浮かばなかった。辰は荷物をまとめて部屋を飛び出そうとドアを開けた。廊下から短く悲鳴が聞こえた。辰はドアの裏から様子を窺った。いるはずのない少女がいた。その少女はダンのもとにいるはずのエヴァと、あまりによく似ている。

ARA SYRIAエヴァ、じゃないよね?」

 少女は首をかしげたがエヴァ」という名前は聞き取れたらしかった。彼女はウクライナ語か、あるいはロシア語で何かを言った。辰がそれを理解しないことに気づくと英語に切り替えた。

ENGアリョーシャならもう出掛けたよ。この部屋は今夜も取ってあるからゆっくりしていって大丈夫』

アリョーシャ?』

アレクセイのことね。私の名前、アレクセイから聞いてたんだ?』

それじゃ君はエヴァって言うのか』

あら、他のエヴァを探してるの?』

 少女は見れば見るほどシリアのエヴァと瓜二つだが、こちらのエヴァはアレクセイと同じ赤毛だ。シリアのエヴァは黒い髪がヒジャブからこぼれていたような気がする。エヴァは部屋の中へ入ってきた。テーブルにお菓子を出して紅茶を淹れ始めた。

急いでるの? せっかくなら一緒に朝ご飯にしようと思ったんだけど』

 辰は二方向から身体を引かれるような心地がした。すぐにでも遼子の目を取り戻したいが、今ここのエヴァ・ハラリを名乗る少女を無視するわけにはいかない。辰は少女と朝食をとることを決断した。今日もこの部屋に泊まるというのならアレクセイは必ず帰ってくる。そのときに問い詰めるなりなんなりすればいい。エヴァは辰に赤い玉を手渡した。林檎だった。

私、朝ご飯はいつもこれなの』

 エヴァは皮を剥きもせず直接齧りついた。装いや紅茶の淹れ方の上品さとその食べ方の幼さとが懸け離れていて愛らしい。

アレクセイさんとはどんな関係』

プライベートなことを訊くね。まあ、保護者と言っておけば間違いはないかな』

ここへ来たのはどうして』

本当はあなたじゃなくて私がここに泊まる予定だったの。でもアリョーシャの飛行機が遅れたから今日になって合流することにした』

それじゃ君は会えなかったんじゃないか。僕が起きたら彼はもういなくなってた』

そうだね。せっかちな人だから』

合流してからここに泊まるつもりだったということは君は遠くから来たんだよね。空港の輸送路に大きな円盤を載せてる飛行機があるの見たかい。あれアメリカのだよ。NATO軍で来てるんだ』

あなた女の子との話し方知ってる? 飛行機の話題なんて楽しくもない』

そうか、ごめん。一番付き合いのあった女の子がこういう話の好きな人だったから』

えっ、それってどんな人』

プライベートなことを訊くね』

お互い様じゃない』

強い意思のある人だったよ。でも思い込みが激しくてね。僕は振り回された』

恋人だったんだ』

いや、まさか』

その人が今どこにいるかわかる』

さあね。とても遠く。あるいは近くかな』

それってどういうこと』

アレクセイさんならわかるかもよ』

いじわる』

アレクセイさんがいないんじゃ君はどうするの。会わなきゃいけないんだろ?』

仕事から帰ってくるまでここで待つよ。待つのは得意だから』

そうか。そうだ、僕も昼から仕事があるんだ』

 辰は時計を見た。黒海監視団の会議まであと一時間ほどだった。時間は危ういがまだ聞き出したいことはあった。

アレクセイさんのお仕事って何かな』

化学者、探偵、最近は政治家』

要領を得ないな、それは』

本当にそういう人なんだから仕方ないでしょ』

君、シリアかイラクに親戚がいない?』

どういうこと』

よく似た子を知ってるんだ』

私に似てる子なんているの? 結構個性的な顔してると思うんだけどな』

 エヴァの言う通り彼女の顔には少し垂れた細長い眉や真珠の耳飾りの少女を思わせる広い頬といった特徴が確かにある。だからこそ辰はこのオデッサのエヴァとシリアのエヴァとが偶然以上に似ていると感じたのだ。

そこで働いてるんだ。僕は林辰。アレクセイが紹介してくれていたかな。僕は当分オデッサに留まるから、機会があったらまた会おう』


   *


 現実感のない日差しというものがある。あまりに明るくコントラストがはっきりしていて、自分の目が信じられなくなる。オデッサの昼はまさにそんな様子だ。空の色はシリアよりは日本に近いが、関西のそれではない。青が深い。黒土チェルノーゼムの色が映っているのだろう。辰はトラムに乗って都心へ向かった。建物の背は高くない。辰が見てきたどんな都会よりも街並みに歴史がある。地区軍事委員会の建物もその風景の一部だった。ロシア帝国時代の建設だ。辰は門衛にSDCFの社員証を見せた。門衛はほとんど確認せずに辰を通した。セキュリティに不安を覚えたが、すぐにカメラと目が合って考えが変わった。虹彩認証だ。正面を向いている必要も静止する必要もないそれは恐ろしく高価な技術で民間にはまだほとんど導入されていない。照合用の虹彩写真は空港で既に撮影されていた。装飾の多い重い戸を押し開けた。会議は既に始まっていた。

JPNなんであなたが」

 つい声が漏れた。最も奥の席——ウクライナにそんな概念はおそらく無いのだが、日本で言えば上座にあたる席——に赤髪の人物がいる。アレクセイ・カラマーゾフだ。

ARA STANDARD辰じゃないか。そうか、君はここの仕事で渡ってきたんだな」

二人の言葉を理解したのは彼と辰の二人だけらしく見える。

なぜここにいらっしゃるんです」

特別顧問代理」

ということはエヴァ・ハラリの。そうだ、あの少女は誰なんです。あの子はエヴァ・ハラリと名乗りましたよ」

女の子が母の名を継いじゃいけないってことがあるかい」

それと、目は?」

目?」

とぼけないでくださいよ」

 議長らしい老齢の女性がひどく困惑しながらアレクセイに話しかけた。

ENGあのう、よろしければ英語で。あの男は何と言ってるんです』

辰だよ、知り合い』

すみません、自己紹介が遅れました。SDCFシリア戦区から派遣されてきました。林辰です』

 議長は空の椅子を指した。そこに座れということらしい。下っ端が座る席には見えないがそこしか空いていないのだから観念するほかなかった。辰は部屋を見回した。予想に反して参加者の男女比は半々だが、平均年齢は六十に届きそうなほど高い。軍であれ官僚であれ、組織中枢の高年齢化は普遍的で世界的な問題だ。辰は左足に鋭い痛みを覚えた。隣に座る肥満体の男から踏まれていた。

足をどけてもらえますか』

 辰は囁き声で言った。肥満体の男は舌打ちをした。

戦区だなんて言葉を使うな。うちは戦争をしてるんじゃないんだ』

 イヴァン派が抗露パルチザンに資金と武器を提供していること、抗露パルチザンはクリミア半島のウクライナ復帰のみならず同地域が二度と領土的野心に晒されることのないようにロシアの非武装地帯設置を要求していること、イヴァン派の軍部がそれを拒んでいること、これらは全て空論に過ぎずロシアの最高権力者はドミートリー・カラマーゾフであるという確然たる事実があることなどが話し合われた。驚いたことは会議に参加する民間企業の多さだ。食品や燃料の補給に関するものばかりでなく、憲兵や病院にあたるサービスの提供、そのほか多くの非常に抽象的な商品を販売する連中が自らを売り込もうと躍起になっている。会議はまるで見本市のような様相を呈した。辰は特別顧問なる肩書がこれら民間企業の監督を指すものであることを知った。陸上の農耕カルティヴェーションはほとんど完成しているそうで、戦力の結集が容易な海で事態を動かしたいというのが共通認識のようだ。議題がクリミア半島からの密航船に移ったとき、さっき辰の足を踏んだ肥満体の男が立ち上がった。

そのような任務こそ我々SDCFにお任せください。無人偵察機ならお手ごろな価格でいくらでも提供できますし、ボートを出さずとも海上で尋問、拿捕、無力化が可能です。こちらで用意した資料をご覧いただけますかな』

 スクリーンに山繭蛾や白鳥を映した映像が流れた。映画のように高度な技術で撮影されている。無人機を飛ばしさえすれば人間はいらないという解説を聞いて辰は呆れた。無人機と連携して動く現場組ブルーカラーの重要性が全く無視されているからだ。

海上でも運用できるんです?』

 文官らしきスーツ姿の女性が言った。

もちろん、いくらでも。沖に出そうとするとどなたかの船にカタパルトとアンテナを設置させていただくこと、それと弊社の技術者を乗船させていただくことが必要になりますが』

 肥満体はイヌワシの紋章の武官に目配せした。ウクライナ側からの出席者らしい。

やめてくださいよ、営業部長さん。うちの装備を勝手にいじられちゃたまったもんじゃない』

そりゃそうでしょうね』

 白髪の女性が言った。

まるごとロシアに引き抜かれて寝返ったあなた方の特殊部隊、装備は今も共通なんでしょう。再統合のためには互換性を損なうわけにはいかないものね』

我々が寝返ろうとしているというのか』

あら、そんなこと言ってないけど?』

まあまあ、うちの装備は設置も撤去もすぐですから』

それに技術者を乗船させろって? 一般人の体験搭乗じゃないんだぞ。作戦中に外部の人間、それも民間人を乗せるだなんてことはしたくないものだ』

やましいことでもあるのかしら』

ばあさん、武官には武官の事情があるものなんだ。黙っててくれないか』

黙れないわよ。あなたがたの進言を受けてNATOに加盟したのがそもそもの原因じゃないの。それでこのざま? 短期決戦ってのは十年も二十年もかかるものなのかしらね』

クリミアを見捨てろってのか』

曲解ね』

 肥満体は二人をなだめようとしてあたふたしている。辰は向かいの席で四十代に見える短髪の男が頬杖を突きながら退屈そうに話を聞いているのを見つけた。ルーマニア軍のワッペンだ。黒海を共有するルーマニアにとってクリミアの事情は無関係ではない。ブルガリア、ギリシャ、トルコからも軍が派遣されている。アメリカ代表は見えない。

あなたがたが自前で船を出すことはできないのか』

 ウクライナの武官が訊いた。

装備だけが問題ならばそれもできますが、本当によろしいんですか。つまり、制度的なところで』

駄目に決まってるでしょ。民間企業の作戦参加は正規軍いずれかがそれを監視、監督するという条件でのみ認められてるのよ。その原則を無視するようなことはさせられない』

あのう』

辰が会話に割り込んだ。視線が彼に集まる。

二百キロ程度の距離なら白鳥も山繭蛾も運用した経験があります。夜の海でも問題ありません。砂漠に似ているので。陸からでも飛ばしてもカバーできます』

我々が電子有勢であるとは限らないぞ。それでもか』

 武官が訝しげに尋ねた。

アブドゥルアジズの反乱のときには全面的な妨害下でラッカを防衛しました』

 会議室全体の雰囲気が明るくなった。さすがSDCFだ』と賞賛する声が聞こえる。

待ってください』

 肥満体の男が叫んだ。

ちょと君、勝手なことを言ってもらっちゃ困る。陸上拠点から第二世代機を海上へ飛ばすだと? 航続距離ぎりぎりの作戦もあるんだ。帰還できなくなったらどうする』

使いつぶせるのが無人機の強みじゃないですか。シリアではそうしてきました』

墜ちた機体を回収されたら敵に兵器を与えることになるんだぞ』

 辰はその可能性を考えていなかった。今回の敵はガザルや過激派とは比べ物にならないほど技術水準が高い。しかし、その心配が杞憂にすぎないことは明らかだった。

相手はロシア軍ですよ。ロシア軍ならこんな旧式化した無人機ほしがりません。与えなくてももっと良いものを持っていて、モスクワでウオッカを飲みながら悠々と操縦してるんですよ』

貴様、お客様の前でなんてことを。わが社の第二世代機は独自の近代化改修を施したものだ。旧式化などしていない。それにたとえ実際的な害がなかったとしても、敵に兵器を与えることはお客様からの信頼を裏切ることになるんだ。わかっているのか、なあ、わかっているのか』

 肥満体は辰の胸ぐらを掴んで破裂しそうなほどに叫んだ。

お客様がたが怯えていらっしゃいます』

 辰の言葉を聞いて肥満体は怒りで紅潮した顔を会議に集った面々の方へ向けた。刺すような目がいくつも肥満体を見つめている。

申し訳ございません。なにぶんこいつは戦場しか知らない愚鈍なものですから。さあ、お前も謝るんだ』

僕がですか』

 肥満体の顔がさらに赤くなって朝食べた林檎のようになろうとした瞬間、向かいでルーマニア軍の将校が立ち上がった。

うちの船でやりましょう。うちはかつてあなたがたを乗せたことがある。ただし技術者としてその青年を乗船させてください。その青年です。他では駄目だ』

命拾いしたな』

 肥満体は辰の胸から手を離した。


   *


 辰は秋の匂いを嗅いだ。シリアに秋らしい秋などは無かったからとても久しぶりの感覚だ。辰とルーマニア軍の将校は停留所までの道を一緒に歩いている。

ボグダンだ。階級は大佐。ルーマニア海軍で黒海監視団に派遣されてる部隊の事実上トップだよ。ボスと呼んでくれ、よろしく』

よく似た自己紹介をする人に会ったことがあります』

シリアからってことはダンだろ? そうか、じゃあ俺をボスと呼ぶのは違和感があるかもな。黒海のボスで黒ボスはどうだ』

缶コーヒーみたいですね』

ますますちょうどいいじゃないか。君のとこのボスはコーヒーが飲めなくてお茶ばかり飲んでた』

 ボグダンは短躯で、並んで歩くと辰が見下ろす格好になる。ダンが胡瓜だとすればボグダンは茄子に似ている。耳の形を見るに柔道かレスリングの経験者かもしれない。ベルリンの本部から出てきたというSDCF営業部長は辰に対して言いたいことがあるらしかったが、会議終わりに辰とボグダンが話し込んでいるのを見て悔しそうに去っていってしまった。

以前もSDCFを利用したことがあるんですね』

といっても十年以上前の話だよ。俺は大尉だった。あの頃はまだテロとの戦争が続いていた時代でね、国家とテロリストが直接戦うことが今よりずっと多かった。SDCFは、いや、当時はまだ堂々と防衛Defenceを名乗っていなかったからSCFだったんだが。彼らは軍備が十分でない小国を顧客としてもっぱら補給と訓練を提供していた。ちょうどシリアで親米政権が立とうとしていたころさ。旧シリア軍くずれがテロ組織に流れ込み、トルコ東部と黒海を経由してロシアや東欧から物資を調達するルートが使われるようになった。相手が国際的にテロリストと認められている連中ともなれば警察ばかりでなく海軍にも仕事が回って来てね。俺とダンは同じ船で敵の補給線を断ち切る任務にあたった。そのときにちょっと面倒なことが起こって死にかけて、それでSCFに命を救われた』

ボスはそんな話してくれませんでしたよ』

あいつにとってはあまり良い思い出ではないだろうからな』

 二人が停留所に着いたところで空から轟音が鳴り響き始めた。同じ駅でアレクセイもトラムを待っていた。アレクセイやボグダンのような要人がなぜ公共交通を使うのかと辰は考えたが、答えは明らかだった。オデッサの中心は車が入れないようになっている。

見なよ、ムリーヤだ』アレクセイが言った。

あいつも目的地はここだったんですね。中国から来て、イスラエル、それからウクライナでしょう。何を積んでるんでしょうか』

代理殿はご存じでないんですか』

 ボグダンが訊いた。

あれほどの積載量の機体をオデッサへ飛ばさなければならない用事、黒海監視団以外のどんな組織にも存在しないと思いますが』

残念ながら私も全ての参加企業の動向を把握しているわけではないのでね。しかし、壮観だ』

 ムリーヤの巨体が空港へ降下していった。辰はその姿を写真に収めた。

ARA STANDARD辰くん、今日泊まるところは見つけてあるかい」

いや、まだ」

手配しよう」

そうだ、尋ねたいことがあるんです。僕が首からかけていたものが何処へ行ったかわかりませんか」

アクセサリーかい」

いや、ええと、説明しづらいんですが、義眼なんです」

見当もつかないな」

ENG代理殿はいま何ておっしゃったんだ』ボグダンが訊いた。

僕の泊まるところを見つけてくださるって話です』

そうか、いいな。俺も陸の快適なベッドで眠りたい』

大佐殿は船かい』

空けておくわけにはいきませんから』

 辰は昨日の写真にアフマドから反応が来ていることに気づいた。彼が送ってきた文にはもっといいカメラで撮れとある。面倒な奴だと思いながら辰はいま撮った写真を送った。


   *


 高校生だったころ、辰は福岡から釜山までフェリーに乗ったことがある。目が見えなくなるくらいに海が眩しかった。向こうにいる親戚が彼を泊めてくれることになっていた。風はさほど強くなく波も低かったが、大きくゆっくりと船体が揺れ金属が擦れ合う重く耳障りな音が響いた。初めて踏んだ大陸の大地は大阪と何も違うところが無かった。政治的に分断されているとはいえこの地面がはるか中東やヨーロッパ、アフリカへ続いているということが衝撃的な事実として感じられた。文字も言葉も全くわからなかった。辰は地下鉄とバスを乗り継いで辛うじて親戚がいるという住所へ辿り着いた。無人だった。いや、そればかりか、そこは更地だった。預かっていた番号は繋がらなかった。辰は途方に暮れた。


   *


——ENGという経験があるんです』辰が言った。

それはそれは。で、それからどうしたんだい』

 技師のリョーハは愛用のスパナを弄びながら大きな声で訊いた。禿げ上がった長身痩躯の男だ。歯並びが悪い。

観光して帰りましたよ』

駄目だな。俺ならその薄情な親戚をとっつかまえてなぜそんなことをしたのか問い詰めるぜ』

とっつかまえるったって手掛かりもないし僕は初めての外国で心細かったんです』

それは辰、お前の準備不足だろうよ。そこの言葉が全くわからなかったんだな』

全く』

艦長は柔道家でよ、柔よく剛を制すって事あるごとに言ってるんだ。剛が腕っぷしなら柔はだ。お前はひょろひょろしてるんだから柔を極めなきゃならん』

 大きく揺れた。辰はボグダンのフリゲートで黒海沖へ出ているところだった。海には他に最低限の兵だけで運用されている半自律哨戒艇がずっと離れた位置に複数。少数の大型艦が幾つかの自律艦を従えるのが流行りなのだという。人を減らしたがる点では海も陸もそう違わない。白鳥の映像から今の波が八メートルの高さだと分かった。

よう、辰。どこかに頭ぶつけてないか』

 艦内回線でボグダンが訊いた。機密情報の多い中央指揮室に民間人を乗せることはできないからと辰は機関室に自分のスペースを与えられていた。リョーハはカタパルトとアンテナの設置を手伝ってから辰にずっと絡み続けている。

ぶつけちゃいませんがリョーハさんの声が大きいので頭痛がしてます。さっきの波、八メートルあるそうです。よくあるんですか』

今の白鳥は波浪計の機能までついてるのか、進歩したな。今日みたいな快晴無風の日には滅多にないビッグ・ウェイヴだ。運がいい』

もしもし、艦長。こいつウクライナ語を覚えたいらしいんです。教えていいですよね、ね?』

好きにどうぞ。お前の出自にケチをつけるような奴は俺の部下にはいないよ』

うへへ、さすが艦長ですぜ。実はもう始めてるんです』

 リョーハ曰く彼は北の国境の出身でウクライナの血が濃く流れている。工業学校を卒業後、衣食住が保証されるからと海軍に入り技師を勤めてもう二十年。精神的故郷と信じるウクライナの危機に居ても立ってもいられず志願して黒海監視団に派遣されたのだという。辰が自分の韓国旅行の話をしたのはリョーハの経歴と自分のその経験とがなんとなく関連するような気がしたからだった。

さあ、辰。<ukr>щシチャー</ukr>って言ってみろ。<ukr>борщボルシチ</ukr>の<ukr>щシチャー</ukr>だ』

UKR?щシシャー

ENGああ、下手糞。それじゃロシア人みたいじゃないか。お前、アラビア語だなんていう訳のわからん言葉を話せるんだろう。ウクライナ語ができないわけないだろ』

ロシア語もウクライナ語も同じようなものじゃないですか』

違うんだよ。ルーマニア語とモルドヴァ語は同じだが』

政治的な偏見がありますね、それは。それと言語の難しさに本質的な違いはありません。しかしね、リョーハさん、あなたの教え方はひどすぎる。第一、機関音がこんなにうるさいのに聞き取れるわけないじゃないか』

ひどいもんか。柔の道は厳しいんだ。ANCActive Noise Canselingギアなんて外せ。そうすれば俺の声もよく聞こえる』

耳がおかしくなる』

魂の響きだ』

 白鳥を操作するためのアルミケース型の端末が警戒音と共に光った。何かの姿を捉えたのだ。小さなボートが四人の男女を乗せて海上を漂う映像が送られている。リョーハの話を中断させるいい機会だった。辰はリョーハにウクライナ語の教えを乞うたつもりはなかった。先日のホテルでの出来事をリョーハに話したところ、意図しないことに彼はウクライナ語を半ば母語として話す人物で、ありあまる愛郷心から辰にそれを教え始めたのだ。

艦長、不審船です。はい、いま中央指揮室に白鳥からの映像を送っています。位置情報は画面のとおり。拡声器が使えますが、どうします』

俺がやる。こちらに回してくれ』

 ボグダンは英語とウクライナ語でボート上の人物に呼びかけた。白鳥には指向性の拡声器とマイクとが搭載されていて、上空を旋回する白鳥から声をかけられると何か超自然的な存在と対話しているような妙な気分になるらしい。辰にとっては初めて使う装備だがこれを送ってきた営業部長曰く予算の潤沢な地域では既にかなりの運用実績があるそうだ。

 ボートの乗員たちがなんと答えたのか辰にはわからなかった。しかしリョーハが彼らを不審がっていることは目を見れば明らかだった。

艦長のウクライナ語が酷いのはいつものことだが、こいつらウクライナへの亡命と言うわりには随分とロシア訛りの言葉を話すじゃないか。こういうときくらいはちゃんと話せないものかね』

でも、クリミアならロシア語の方が優勢でしょう』

そんな連中がウクライナへ出ようとすると思うか』

 辰にはリョーハの考えは傲慢だという気がした。アイデンティティと言語とは必ずしも一致するものではない。アリーのガザル語はあのときに一度聞いたきりだ。ボグダンの命令で辰は白鳥からワイヤーを射出した。ボートの乗員はそれを船首に括り付け、三十分かけて艦まで曳航されてきた。彼らのボートは底にひびが入っていて水が漏れるらしい。さっきの大波にやられたのだろう。白鳥に発見されなければ直に沈む運命だった。艦へ引き上げられた四人に機関長補佐で少尉のダニエラが毛布を掛けた。ウクライナ国家国境庁から派遣されている準軍人の役人が彼らに対し聞き取りを行うという。ボグダンは医務室の使用を許した。ルーマニア軍もSDCFも結局のところは部外者で、今はウクライナの国家権力を最高の秩序と位置付けておかねばならない。辰は甲板に出た。情報はSDCFの資源だ。辰は彼らがどんな連中でどんなボートに乗っていたか、そういった細部を記録しておく必要がある。

あの水平線の先にさ、セヴァストポリの港があるの』

 潮風に金髪をたなびかせながらダニエラが言った。彼女は役職上必然的に辰やリョーハと顔を合わせることが多い。ただでさえ姉御と慕われ強く信頼の厚い人物だ。この艦に乗り込んでからの三日間に辰はこの女とずいぶん親密になっていた。

かつてはウクライナ海軍の本拠地で、同じ場所にロシア海軍もあった。不思議な話でしょ。クリミア危機の後はすっかりロシアだけどね』

それじゃウクライナ海軍はどうなったんです』

着任二日目だった当時の総司令官はあっさりロシアに寝返ったよ。だから今のウクライナ海軍は新しい軍』

家族でも人質に取られたんでしょうか』

だとしても裏切りは裏切りだね』

 辰はふとアリーに遼子以前の妻がいた可能性に思い至った。あの年なら大いにあり得ることだ。死別だろうか。いや、彼はガザルの共同体の中に妻子を置いてきたのかもしれない。アリーという人がわからなくなる。

リョーハには慣れた? ANCギアは人の声を通すからね、エンジンよりうるさいでしょ』

食堂なり寝室なりに置いてくれればこう苦しまなかったんですけどね』

協定か。民間軍事企業が移動式カタパルトを使用する場合、正規軍が直接指揮しなければならない。艦載カタパルトはそれにあたる。指揮権のある人間が付きっきりで辰くんを見張らなければならないとなれば、それはリョーハの仕事だ。あれでも叩き上げの准尉だからね』

リョーハよりあなたにお守されたかったな』

私の部下はみなそう言うよ』


   *


 ちょうど昼時だった。食事は交代制で艦の機能を止めることのないように二つの班が順に食堂へ集まることになっている。辰はどちらの班で昼食をとってもよいと言い渡されていたのでリョーハとともに早い時間に食べてしまうことにした。出てきた肉は美味そのものだった。先日の会議に出ていた企業のどれかが提供しているのだ。士官ばかりで兵が少ない。割合はほとんど一対一といったところではないだろうか。ここにいるのが半数だとすれば乗員は三十人くらいの人数に収まるかもしれない。いかにも近代海軍だ。RUMボート□□□□食事□運ぶ□□□□□□□□□□』リョーハがボグダンにルーマニア語でそんなことを言うのが聞き取れた。知っている単語が混じっているのは辰が大学時代にスペイン語を学んでいたからだろう。

あいつら□ウクライナ□亡命する□□□□□話□したい□□□。えっ、よろしい□□? さすが艦長だ。へへへ』

 リョーハは四人の食事を器用に持ってボートの連中のいる医務室へ向かった。自分のものも含めて五人分も余計に食事を出せることに辰は驚いた。ボグダンは部下と談笑しながらスープを啜っている。こんな風な親しみやすさは黒ボスことボグダンとボスことダンの対照的なところだ。アルミケースからまた警戒音が響いた。辰は両隣に断ってそれを食卓の上で広げる。興味を持った士官たちがわらわらと辰の後ろに集まってきた。見られてはまずい情報も表示されているのだが、どうにもならない。カメラを三六〇度ぐるりと回しても影はなし。

誤報か』士官の一人が言った。

静止画があります』

 白鳥が撮影してあった写真には西洋のドラゴンのような物体が水面を這うのが映っていた。ひどくブレている。


   *


 銃声が一発。食堂が静まり返る。廊下があわただしくなった。またいくつかの銃声が続く。誰かがガス』と叫んだ。辰の鼻は既に熱い匂いを嗅ぎ取っていた。左の腿に括り付けてあったガスマスクを慌てて装着する。ボグダンが指示を出したが辰にはその内容が理解できない。事態が医務室で起こっていることは明白だった。辰はアルミケースを抱えた。こいつだけは死守しなければならないから。

 照明が落ち食堂の扉が破られた。艦体が激しく振動する。連続する銃声。辰は闇の中で襲撃者とすれ違うようにして廊下へ逃れた。ガスマスクの視野は狭いが、敵がカービンライフルを持っているのが見える。ボートの連中じゃない。辰は躓いて倒れた。確かめる間でもなく味方の死体だ。音で気づかれた。立ち上がった辰の足元を誰かが撃ち、死体から噴き出した血が辰にかかる。敵はそれを辰と思ったのだろう。銃撃は続かなかった。辰は壁を伝って走ったが、天に見放された。壁があると思っていたところには何もない。さっきの転倒で自分の位置を見失っていたことに気づく。辰の手は空を掻いた。

 足を止めた辰の目に怪談めいたものが見えた。首のない犬が目の前を横切ろうとしている。——JPN INSIDE捕まえろ——霊感が囁いた。辰は勢いよく前へ倒れ込み、そいつの後ろ脚を掴んだ。犬は激しく暴れる。抑え込もうとして全体重で押しつぶすが六十キロくらいの重量は犬にとって問題にならない。辰は跳ね飛ばされた。後ろ脚を掴んだ手は離さなかった。また飛び乗り、跳ね飛ばされ、それを三回繰り返した。金属がちぎれる音がして犬の脚が吹き飛んだ。下半身を引き摺って逃げようとするそれを辰は背後から抱え込んだ。壁に激しく叩きつけたが、そこは扉だった。辰は甲板へ転がり出た。艦橋ブリッジの上に人が見えた。辰は銃撃をかわした。

ENG待て、味方だ』辰が叫ぶ。

辰くん?』

 ダニエラが艦橋の屋根に上っていた。犬はさっきの銃撃で破壊されている。近接戦闘支援用の無人機だろうか。そういったものはマイナーだが確かに存在している。しかし、この犬は火器を積んでいない。運搬させる荷物だってない。

誰なんですか、襲撃者は。ボートの連中以外にもいる』

 ダニエラが左舷を指した。平たい機体が接舷しているのが見える。白鳥が撮影したドラゴンだ。

水面効果翼機だよ。海にも空にも染まれない哀れな船だ。彼らは私たちが毒ガスで騒いでいる隙をついて侵入してきた』

特殊部隊?』

それはわからないけどね』

 ダニエラはまた甲板を射撃した。辰から見えない角度に敵がいる。

外した。敵がそっちに』

 艦内は戦闘が激しく戻れそうになかった。辰はドラゴンの背へ飛び降りた。


   *


 ドラゴンの中は無人だった。一小隊を詰め込むことのできそうな船室、物理スイッチに頼った堅実な構成の操縦席。表示は尽くキリル文字だ。辰はロシア語とウクライナ語が見分けられない自分の無学を嘆いた。犬に関連するらしい機材を見つけた。正式名は墓守犬ハウンドドッグで英国製の通常警備用自律機。開けたばかりらしい箱に英語でそう書いてある。放置されている部品は本来頭部として胴の上に乗るセンサー類らしい。敵はこの部分を何か違うものに換装して運用しているようだ。武器があるかもしれないと考えて座席下のロッカーに手を伸ばした。古めかしい回転式拳銃が一丁。私物だろう。弾もある。

 艦内は一転して静まり返っている。辰は銃口と鉢合わせた。辰の拳銃も相手の胸を狙っている。男は拳銃を降ろした。ガスマスクをつけていても背で分かる。ボグダンだ。

調停者ピースメイカーじゃないか。そんなものどこで』

あの水面効果翼機の中にありました』

忍び込んだのか。無茶をする』

艦橋ブリッジの上でダニエラさんが狙撃していたはずですが、ドラゴンから甲板に戻ったときには見当たりませんでした』

俺が確認するから隠れていろ。下層は安全だ』

ボグダンが指差した先に梯子がある。

それと、撃鉄の管理に気を付けるんだな。撃たないのに起こしたままにしちゃいけない』

倒し方がわからなくて』

 ボグダンは呆れて首を横に振り辰から調停者ピースメイカーを受け取った。撃鉄に指を挟んで引き金を引いてからゆっくりと倒す。

『使い方がわからない武器を持っていても怪我するだけだ。俺のを持っていけ。これは俺が預かる』

 辰はボグダンの自動拳銃を受け取った。射撃管制システム付きの真新しいものだ。

 辰は梯子を降りた。直後、複数の銃声。弾は梯子の上辺に当たり激しい振動と甲高い音が辰の主観を支配する。医務室のドアの手前でリョーハが倒れていた。額を撃ち抜かれている。それと医務室の中に国家国境庁の女性。これも死んでいるだろう。倉庫には人が隠れられる隙間があった。辰はそこにぴたりとはまった。当面そこに潜んでいることにした。あの地下水路カナートより狂気に近い空間などそうそうないのだから、狭さと暗さには耐性がある。

 どれほどの時間ここにいなければならないだろうか。辰は絶望的な気持ちになった。それから急にリョーハが可哀そうに思われてきた。死んでしまうとわかっていたらもっと真剣に彼の話を聞いてやりもしただろう。しかし、いつどこで誰が死ぬかなど予め知ることのできるものではない。アリーが昔そんなことを言っていた気がした。いや、彼は言っていなかったかもしれない。あの日から遠ざかっていくほどに遼子の像ははっきりとしていくのに、アリーはぼやけていく。辰にはそれが気に入らない。アリーならこの状況でどう動くだろうか。辰は茫然と考えた。

 銃声が止んだ。制圧されきったのか。上の層からルーマニア語が聞こえた。それは間違いなくルーマニア語であって、ロシア語やウクライナ語ではない。区別がつくのはリョーハのお陰だと気づいた。おそらくだが、<ukr>щシチャー</ukr>だの<rus>щシシャー</rus>だのという音はルーマニア語にはないのだ。なんにせよそれは希望の持てる事実だった。味方は生き残っている。辰は自分の端末から陸に助けを求めることにしたが、そう上手くはいかなかった。携帯は圏外だし艦の通信機器を使う権限は与えられていない。しかし白鳥との通信は生きていた。艦の装備と別に設置した白鳥用のアンテナを敵は見落としたのだ。

 白鳥は艦からおよそ四十キロ東の洋上で旋回している。辰はまず白鳥を陸へ飛ばして助けを呼ぶことを考えたが、それには燃料が足りなかった。ならば直接こちらを攻撃させて隙をついて艦を取り戻すということになる。しかしそれには白鳥の装備はあまりに貧弱だ。シリアで飛ばした高火力な連中と違って、こいつの武装は機銃の他にない。有効射程に入ろうとすれば中央指揮室は占拠されているだろうからこの艦の機関砲に晒される。防空システムに対して単独の無人機がいかに無力かという話はシリアでダンからさんざん聞かされてきた。せめて夜でなければならないと辰は考えた。夜になれば目視での観測はできない。レーダー上では白鳥は巨大な海鳥のように見えるのだという。ガザルも過激派もまともなレーダーなど持っていなかったから、シリアにいた間、辰はその設計上の特色に助けられたことがなかった。日が暮れる前にこの艦が沈められるという不安は残るがそれに対しては何かができるというものでもない。わざわざ移乗攻撃なんてものを仕掛けてくるくらいだから艦は温存するんじゃないかしらと辰は考えた。こういう場合に悲観的になりすぎないことが彼の長所だ。辰は白鳥を着水させた。端末のキーボード越しに引き込み式の降着筏フロートが水を撫でる感触がわかる気がした。

 十時間が経った。経過した時間が確かに十時間であることを辰は腕時計で知ることができた。日が沈んでからも沖は暫く明るかった。辰はそれを白鳥の映像で知った。つまり、この倉庫の中で辰が知覚する現実はどれも間接的だった。どうせ一か八かだ。辰は覚悟を決めた。

 白鳥の離水は着水より困難だ。そもそも普段はカタパルトを使っているのだから、陸か海か以前に白鳥の動力以外に頼れない状況自体が滅多にない。揚力を稼ぐために風上に機首を立てれば自ずと波にぶつかることになる。辰はむしろ風下へ機首を立てることを選んだ。白鳥のエンジンが軽快に始動する。機体後部の二重反転プロペラが海面を騒めかせ、機体が加速し始める。十分な速度に至ったところで辰は補助翼フラップと白鳥の首に生えた鰭のような制御カナードを降ろした。機首が空を向く。しかし黒い水は白鳥を離さない。揚力が足りていないのだ。下手な競艇のように白鳥は起こした機首の底を幾度か海面に叩きつけた。もし辰が操縦を誤って嘴を水の中へ突っ込んだのなら白鳥は首から真っ二つに折れてしまっただろう。白鳥は遂に液体の鎖を振りほどき風の衣を纏った。今度は運が味方した。白鳥の腹を上昇気流が押し上げた。高度は既に二百メートル。白鳥は星と海の間を飛行している。

 白鳥に自分を誘導する電波の出どころを追わせた。辰は艦が南へ向かっていることを知った。風に流されて数十分も飛ぶと艦影が見えた。対空砲火は、無かった。辰は関門を一つ突破したのだ。ドラゴンはフリゲートに曳航されている。こんなものも黒海という地政学上特殊な環境では需要があるのかもしれない。例えばNATOと殴り合うときにボスポラス・ダーダネルス海峡の守り手となるルーマニア、ブルガリア、トルコあたりに奇襲攻撃を仕掛けるとか。辰は白鳥を大きく旋回させた。敵が最も動揺するのはどんな状況だろう。


   *


こちらルーマニア海軍。そこの艦、指揮下に戻れ』

 嫌に鮮明で大きな声が空から降ってきた。それが紛れもなく自分の声なのだから混乱する。辰は機銃より拡声器を選んだ。

至急停止して乗員は甲板へ出ろ。さもなくば反逆と見なし撃沈する』

 上の層からばたばたと足音が聞こえた。敵は慌てふためている。

これが最終通告だ。十数える間に停止して甲板に整列しろ。テンナインエイト——

 エンジンが止まった。甲板に八人ばかり人が並ぶ。

確認できない。明かりをつけろ』

 一人が作業用の照明を操作した。照らされた顔の中にボグダンはいなかった。いや、辰の知る顔はボートの四人の他に一人もいなかった。彼らはルーマニア軍に化けた水面効果翼機の乗員たちだ。こんなことであっさり投降するとは思っていなかったが。

そのまま待て』

 辰は倉庫を出た。リョーハから工具を借りた。中央指揮室の引き戸は鍵がかかっていて辰が幾度か体当たりをしても開かない。ボグダンの声で内側から何かルーマニア語が聞こえた。辰は戸と壁の間にリョーハのドライバーを差し込みてこでこじ開けようとした。わずかに指揮室の中が見えたところでドライバーが折れた。ガスマスク越しに熱い匂いがまた鼻を突いた。離れていてください』辰はボグダンの自動拳銃で装置を撃とうとしたが、安全装置を外して引き金を引いても発射されなかった。射撃管制システムが邪魔しているのだと気付きダイヤルを無管制射撃に切り替えたが、やはり全く反応しない。俺がやる。下がれ』中からボグダンが言った。調停者ピースメイカーの心地よい射撃音が三つ。弾が作ったわずかな隙間にボグダンが指を突っ込んで力に任せて戸を破壊した。ボグダンはそのまま倒れ込んだ。

何があったんです?』

ああ、辰、生きていたか。ダニエラは?』

わかりません』

リョーハは?』

死にました』

 それからボグダンは辰の知らない名前を無数に上げた。辰はそれが異常な行動であることに気づきはじめた。ボグダンの目がひどく充血し、暗さでは説明がつかないほどに瞳孔が開ききっているのがガスマスクのゴーグル越しに見える。ブラウン運動のように細かく連続的に視点が揺れている。

ちょっと、ボグダンさん、何を言ってるんですか。気を確かにしてください』

 ボグダンの後ろで乗員が何人も伸びている。彼らの呻き方には見覚えがある。血は一滴も流れていない。

そうだ、ロクサーナはどうした。ダンも』

そんな人らはいません』

 覆いかぶさるように距離を詰めるボグダンの頬を辰は拳骨で思い切り殴った。ボグダンから血の気が引いていき、彼が次第に現実を理解しだしたことがわかった。ボグダンは叫んだ。立ち上がり、壁に頭を打ち付けた。

すまない。俺はまだあのガスのせいで眠ってたみたいだな。今度こそ起きたよ』

もしかしてガスを浴びたときに熱さを感じたり影を見たりしませんでしたか』

ああ。確かにそんな症状があった』

それなら大丈夫です。回復した奴を知っていますから』

 紛れもなくエヴァ・ハラリだ。敵が何者で、なぜそんなものを持っているのか。考えなければならないことのはずだが、頭が回らない。

 左舷からジェットエンジンの音が激しく聞こえた。水面効果翼機が飛び去ろうとしているところが中央指揮室のモニターに表示されている。甲板は無人だ。辰は白鳥にその機体を追わせた。燃料が持つ間だけ飛んでくれればいい。白鳥は十数分飛行してから自動的に空中分解し海に沈んだ。敵に回収されることを防ぐためにそんな機能が搭載されていたことを辰は思い出した。営業部長の心配はやはり杞憂だったのだ。

 艦はルーマニアの母港を目指した。ボグダン以外の生き残りは眠ったままだったが最近の艦はワンマンで操縦できる。ダニエラは艦橋ブリッジと中央指揮室の間で気絶していた。ボグダンらを助けに行こうとして濃いガスを吸ったらしい。ガスマスクをつけていたくなかったから辰は甲板で寝た。釜山行きのフェリーに揺られる夢を見た。


   *


 コンスタンツァ港も肌寒いという点ではオデッサと変わりないが、赤色はもっと赤色らしく、黄色はもっと黄色らしく見える。リョーハらの遺体を降ろし、昏睡している連中も降ろした。辰とボグダンは海軍基地内で検査を受けた。たっぷりとガスを吸ってしまったボグダンはしばらく入院して様子を見るらしい。辰は検査にかかった費用をきっちり請求された。この海軍基地とボグダンの艦とではSDCFの待遇に随分差がある。ひとまず洋上で襲撃を受けたこととルーマニアにいることをあの肥満体の営業部長に連絡した。基地を出て港の商業区画まで歩いた。陸と違う秩序に支配されているからからか、港というものはどこも似ている。乗ってきた艦が小さく見える。

 岸の欄干にもたれていたところにいかにも男児の母といった様子の女性が声をかけてきた。なんと表現しようか、端的に言って引っ張ることのできそうな突起が少ない。運動靴と手間のかかっていない髪型。RUM軍の方ですか?』辰はそのくらいのルーマニア語なら理解できるようになっていた。

ENG関係者と言えば関係者ですけど』

私、ロクサーナと言います』

 それが辰の注意を引いた。幻を見ながらボグダンがダンと一緒に呼んだ名前だ。

ボグダンを知りませんか。私の夫なんです』

女性は胸のロケットペンダントを開けて辰に見せた。その女性とボグダン、それと男の子が二人。

SDCFから派遣されたんですよね。ルーマニア海軍であなたがたを艦に乗せるのは夫くらいです。いえ、悪く言おうっていうわけじゃないんですけど』

 辰は作業服と警察の夏季制服の中間のような服を着ている。一昨年から急にあちこちで見るようになった実用性を兼ねたある種の流行みたいなものだ。私服に過ぎないのだが、なるほど確かに軍という環境では民間軍事企業の象徴として機能するのかもしれない。あるいはアルミケースを見て判断したのだろうか。

軍の内部事情に詳しいんですね』

私も昔は軍属でしたから』

基地内の病院に入院していますよ』

あなたが助けてくださったんじゃないんですか』

まあ、そうも言えます』

 女性は深々と頭を下げた。

二度目です。あなたがたに大事な人を救ってもらうのは』

二度目? もしかして一度目ってのはコーヒーが飲めない背の高い人ですか』

どうしてご存じなんです』

女性は血の気が引いたように見えた。


   *


 辰はロクサーナと共にブカレスト行きの列車に乗った。営業部長から返信があり、オデッサではなくベルリンの本部へ向かえと命じられた。事務所組ホワイトカラー事務所組ホワイトカラーらしく後方にいろということだろうか。列車は緑と茶色に塗られた平地をひた走っている。何処までも畑だ。

大丈夫ですよ。ブカレストからはベルリンへの飛行機も出てます。本部の方というのは急な指示を出すんですね』

愛想が尽きてきましたよ。こんな職場、辞めちゃおうかな』

SDCFのお仕事は大変ですか』

いや、単に大っ嫌いな上司が一人いるだけです』

ダンですか』

まさか。ボスはむしろ尊敬してます』

 ロクサーナはその言葉に安心したらしい。

元軍属だとおっしゃっていましたね。ボスとはそのときの仲です?』

私と夫とダンは、まあ、悪友とでも言いましょうか』

でもボスは軍を辞めてしまった』

ええ。勿体ないことだったと思います。三人の中では一番仕事ができたのに』

長く勤めれば将官だって夢じゃなかったでしょう』

そうでしょうね。優秀でしたから』

辰は正反対の評価を聞いたことがあるのを思い出した。

ボスはどうしてSDCFへ来たんでしょう。あの人はあまり多くを語ってくれないんです。僕は気になっているのに』

それはまあ、話したくないことというのもあるんでしょう。ダンは元気にしてますか』

子供が三人と一人いますよ』

あらま。じゃ、奥さんがいるんですね』

それがみんな血縁のない子なんですよ。身寄りのない子を引き取って育てるのがいわばボスの生きがいなんでしょうね。本人は意識してそうしているわけではなさそうだけど』

何処に住んでるんでしょうか』

シリアの北の方です。あれ、そのことは知らされていなかったんですか』

ずっと行方不明だったんです』

 何かあるな、と辰は思った。ダンの居場所をボグダンは知っていて、その妻のロクサーナは知らない。そういえばこの人は何故あっさりブカレストへ帰ってしまうのだろう。基地内の病院と言っても身内の面会くらいはできそうなものだ。そうでなくともせめて基地の入り口で交渉くらいはするのが普通ではあるまいか。

お仕事は何を』

翻訳家です』

それはすごい。僕はUNICONCEPTの文体がどうにも苦手なんです。日本語とアラビア語の翻訳をしようかと思っていたときもありました』

みなさんそうおっしゃいますね。でもあれはあれでなかなか立派なものですよ。私は、いわば訳す文章の種類が違うので競合せずに済んでいますけど』

文芸翻訳ですか』

はい。ドイツ語の児童文学をルーマニア語に訳してます』

 列車は小さな農村を通過した。寂しさがかつての事務所周辺の景色と似ている。あの畑の向こうにアリーの家があるんじゃないかという気がしてくる。あの角から遼子が顔を出したりしないだろうか。見慣れた幻の輪郭が心なしかいつもよりはっきりしている。

僕はしかしSDCFから逃げられそうにないんですよ。やらなきゃいけない仕事がある気がして。でも、何かしようとして何もしないうちに三年目になりました。時間が過ぎるのは怖いものですね』

辰さんくらいの歳だと三年は長く感じられるでしょうね。休暇を取ってみてはいかがです? 急ぎすぎたり焦りすぎたりしちゃいけませんよ。ゆっくりして初めて見えるものもあります』

モモですか。小さい頃読みました。そうですね、僕ももし自由に休暇を貰える身分なら時間どろぼうと戦えるんですが。いや、テレワークという手があるか』

 ロクサーナが急に笑い出した。

あはは、テレワークって。ごめんなさい。若い人がそんな言葉を使うと思ってなかったから。私が士官学校にいた頃ですよ、そんな言葉が流行ったの。辰さんはもしかしてちょうどその頃の生まれ?』

二〇二〇年です。家の外で遊ばせるわけにいかないから苦労したって母が言ってました』

懐かしいなあ。三人で誰が最初に感染するかなんて賭けをしたっけ』

たくましいですね。大変な時代だったんじゃないんですか』

いいえ、さほど。深刻だったのはむしろその後の恐慌でしたし、それも軍属だった私たちにはあまり関係がありませんでしたから』

そんなものですか。何かもっと世界を揺るがす事件のようなものだったのだろうと思ってたので』

見えにくいところは揺らいだかもしれませんね。大事件というのはそういうものですよ。この列車に乗るときに手荷物検査されたでしょう? あれは九・一一以来です。どこに行っても消毒液が置いてあるのは大感染パンデミック以来。でもこういった日常とそれぞれの事件を結び付けられる人は多くない。民族差別で国連から警告を受けた日本の政権、あれも恐慌の影響で成立しましたね。日常も国際情勢も確かに変化しました。しかし、注意しなければ見えない』

 列車は糸のような優しい雨をくぐった。丸い雲がいくつもわたぼこりのように浮いている。

ねえ、辰さん。今日はうちに泊まっていかれませんか。夫の件に巻き込まれてしかもそんなに疲れていらっしゃるんだから、無理に今日の飛行機に乗らなくたって怒られやしませんよ』

 ロクサーナにそう言われると確かにその通りだという気がしてくる。ボグダンの身内なら信用して構わないだろうから辰は泊まっていくことにした。


   *


 ブカレスト・ノルド駅に着いて有人タクシーに乗った。帰宅ラッシュの時間にはこれが一番早いのだという。馬鹿みたいに巨大な建築物の前を通った。これこそがチャウシェスクの建てた国民の館だ。明日また来ましょう』とロクサーナが言った。幹線道路の裏に回ると公営団地のような景色が広がった。共産主義の名残は見慣れない風景などでは決してなく、むしろ箱型の住宅が隙間なく並ぶ大阪とぴったり一致している。けばけばしい看板だけが無い。無機質で連続的な風景の中で停まった。最近になって描かれたのであろう壁画が鮮やかだ。かすかに黄色いマロニエ。紅葉にはまだ早い。階段を三階まで登った。

 むせるほどに懐かしく郷愁を思わせるアパートの一室に赤い西日が深く差し込んでいる。辰の生家もちょうどこんな風だった。辰に与えられたのはボグダンの部屋だ。もっとも寝室は夫婦で共有しているようだから仕事部屋とでも言おうか。折り畳みのベッドが置いてあって、それを広げれば眠れる。

お客さんの部屋にしてるんです。夫はずっと海ですし稀に降りても基地から出ませんから』

 隣は子供部屋だ。兄弟は上が十歳、下が八歳。二人とも辰に関心を示さない。ロクサーナが彼らの父について事情を話しても表情を変えない。何に対しても無反応だ。


   *


 辰はベッドに腰掛け営業部長に移動まで数日間の猶予を打診した。ただ言ったところで聞き入れてくれるはずがないから、ボグダンに頼んで軍病院に寝かされて安静を命じられているということで口裏を合わせてもらう。辰が自分の部屋にいると知ってもボグダンは驚かず、息子どもによろしくとだけ書いて寄こした。営業部長は辰の要望にあっさり許可を出した。目障りな部下を現場から遠ざけられるのなら形は問わないらしい。ボグダンからまた連絡があった。

お前抜きで会議をやるつもりみたいだ。繋いでやるが、秘密だぞ』

 辰の携帯に映像が転送されてきた。どんなに固い暗号化を施してもこれでは無駄だと辰は思った。これほどのセキュリティ意識の低さは軍人として致命的ではあるまいか。ボグダンの海では見なかった側面を見ている気がする。

 ほとんどの参加者が音声のみサウンド・オンリー。先日の会議にもいたウクライナ当局の白髪の女性と営業部長だけがカメラを繋いでいる。年寄りはなぜこういうときに自分の顔を映したがるのだろうか。虹彩をコピーする技術もある所にはあるのだから、無駄なばかりか危険だ。今回は米軍の代表がいる。企業代表者は多くない。

まずは大佐、御療養中のところすみませんが昨日の事件について説明してくださる?』議長が言った。

セヴァストポリから西に百キロの海上で襲撃を受けました。敵の第一波は亡命希望者として保護していた男女四名で、艦内にガスをばら撒かれました。彼らとの戦闘が始まった直後に所属不明の水面効果翼機に接舷され、武装した四名が侵入。同行した自律哨戒艇はこの時点で偽の位置情報を掴まされ混乱していてフリゲートの異変に気付いていませんでした。生き延びたものは中央指揮室へ追い込まれるも、ガスが濃かったために昏睡。私は人より身体が強かったようで一番に目が覚めましたが』

鮮やかだな』

 ウクライナの武官が感想をこぼした。

四十年代にもなってフリゲート相手に乗っ取りが成功するだなんて、戦術上とんでもない事態だ。無理な兵員削減の弊害だな。あちこちの海軍で運用の見直しが始まるぞ』

ずいぶんと悠長だこと』と白髪の女性。何故この二人は常にいがみ合っているのだろう。

大佐殿、襲撃者がどこの所属かわからないんです?』

M40カービンを使用し墓守犬ヘルハウンドを連れていました。まあ、それで思い浮かぶ部隊がないでもありませんが』

しかしそんなものは世界のどこにいても手に入りますよ』

 トルコ軍代表が言った。沈黙。参加者がみな米軍代表の発言を待っている。

海兵隊の真似事をする連中は多い。特定の材料にはなるまい』

 重苦しい声がそう答えた。画面上、米軍代表のネームプレートにはウィリアム・ウェルズ大将とある。世界の警察を降りたといってもそのくらいの階級の人間が関わってくるくらいにはアメリカはユーラシアへの関心を失っていない。具体的に何番目かまではわからないが米軍で十指に入る実力者だ。欧州軍が解体されても米軍は残った。かつての統合軍司令官に当たるポストは具体的で恒久的な組織を持たないまでも欧州のあれこれに介入する役職として存続している。世界の警察ではないと開き直った分、却ってより柔軟でより厄介になったかもしれない。

オレクサンドル・ティモシェンコ海軍総司令官、あなた本当は心当たりがあるんじゃないんですか』

 白髪の女性が武官に訊いた。

アントノフ社が水面効果翼機の開発に関わっていることは公表されていますし、海軍はそれのスポンサーになっている。まさか試運転だなんてこと』

何を馬鹿なことを言ってるんだ』

三十年前にその馬鹿なことをしでかした組織だから疑われてるんでしょ。今回はうちの職員も一人死んでいるんだから』

俺とは関係ないじゃないか』

特殊部隊に寝返られたって醜聞スキャンダルも起こったばかりですしね』

 ブルガリア軍代表が白髪に加勢した。採用されなかった恨みだろうか。いくつかの企業の代表もそれに加わる。

 突然、天井が迫ってくるような中音域で歓喜の歌が聞こえた。


<deu>

 Deine Zauber binden wieder,

 汝の魔力が再び結びつける

 Was die Mode streng geteilt;

 時の流れが激しく引き裂いたものを

 Alle Menschen werden Brüder,

 すべて人は兄弟となる

 Wo dein sanfter Flügel weilt.

 汝の柔らかき翼が留まる場所で

</deu>


 ティモシェンコに対する紛糾が静まる。アレクセイだった。

仲違いは敵の思う壺ですよ。なんにせよ攻撃を仕掛けてきたのはロシアのドミートリー派か、その息がかかった連中でしょう。考えるべきはむしろ、それがなぜ今であったか、なぜ乗っ取りという方法を用いたか、そこじゃないんですか。陸と同様に農耕カルティヴェーションで十分なはずなのに』

 ティモシェンコが安堵から深く息を吐く音が聞こえた。同時に彼の背後からくぐもった声が入る。ちょっと失礼』ティモシェンコはマイクを切った。間を置かずいくつものばらばらな電子音が会議を占領した。どの参加者もそれぞれの情報筋から連絡を受け取ったのだ。

国家国境庁保有の警備船から通達。ベルギーのコンテナ船レヴィアタン号が黒海のど真ん中で航行不能ですって。ただでさえ緊張状態にあるのにこんなときに難破しなくたっていいじゃない。これじゃ無主地の島がいきなり現れたようなものだ』

 白髪の女性——ウクライナ国家国境庁長官——が言った。

揃いも揃ってこの商船をマークしていたということは、みな疑っていることは同じだな』

 ウェルズの表示が音声のみサウンド・オンリーのパネルからカメラ映像に切り替わった。ペンタゴン襲撃事件で失ったという両目にはくすんだ赤色の筒が嵌め込まれていて、その中心に渦状の人工筋肉が直に見える。人体再生技術とサイバネ技術の折衷案だ。

先日、ムリーヤという巨大輸送機が重慶を出発したあとテルアビブを経由しオデッサ国際空港へ入った。今もそこに留まっている。特にテルアビブではイスラエル軍が出動し物々しい警備態勢を敷いたそうだ。特別顧問代理殿、あなたは同時刻にベン・グリオン国際空港にいたね。その際、SDCFの林辰と接触したことが現地のタクシー運転手の証言からわかっている。そして林辰は今回の事件でフリゲートに乗艦していた』

うちの社員と? どういうことですか』

 営業部長の頬を冷や汗が伝うのが見える。

偶然同じ飛行機でオデッサへ向かうことになっていたんです。ムリーヤが着陸した後のごたごたで出発が遅れることになったから、一緒にその世界最大の飛行機とやらを見物しに空港の裏まで出かけました。彼の携帯にそのときの写真が入っているはずですよ』アレクセイが言った。

では、大事な話をしよう。この件はくれぐれも内密にな。もう十八年は昔になる。カシミールの山中にほんの三人で五百を超えるパキスタン兵を殺戮した民兵がいた。当時はもちろん誰も本気にしなかった。餓死か伝染病によって部隊が壊滅したことをパキスタン軍が隠蔽しようとしたのだろう、そう考えた。しかしそれは事実だった。数年後、現場のほど近くで道路工事が行われた際に、埋められていたパキスタン兵が偶然ごっそり掘り出された。彼らの死因はみな銃撃だった。十五年前、ミャンマー北部に展開していたGSFGurkha Security Foreceという民間軍事企業が一晩で消滅した。消滅だ。そのとき現場で無数に目撃されたという三メートル程度の小型無人攻撃機はのちに第二世代機として知られることになるものと酷似している。八年前、反体制派、つまり今のイヴァン派の源流になった連中が支配していたシベリアの小村がガス攻撃を受けた。気味の悪いガスでね、それを浴びると錯乱状態に陥るんだ。生き残りはいない。事件後半年までに全員が死んだ。三年前、シリア北東で過激派とSDCFの戦闘があった。SDCFのその部隊は第二世代無人機を複数装備しそれ以前の過激派に対する農耕カルティヴェーションを全て成功させていたにもかかわらず、敗走した。直後にアブドゥルアジズの反乱だ。同部隊はここでも大損害を被る。反乱軍が使ったシベリアと同じガスによってな。これらはどれも戦術上注目に値する事件として米軍が独自に調査を行っていたものだ。すべての事件に一つの共通点がある。いずれの場合にもSCF、十三年前にSDCFと名を変えた企業が何らかの形で、つまり訓練の提供、競合、補給、あるいは損害を被った当事者として関与している。そして、また一つ。一昨日の事件では襲撃者を船内へ招き入れたのも、彼らを撤退させたのもSDCFの白鳥だった。未確認だが使われたガスもよく似ている。さらに言えば、白鳥を操縦した林辰と特別顧問代理殿の間には個人的な接触がある。代理殿は我々に何かを隠していらっしゃる』

大将殿は陰謀論がお好きなようだ』

 アレクセイが冷ややかに言った。

林辰と同じホテルに泊まったそうじゃありませんか。そういった御関係ですか。代理殿はお若くて恋愛観も革新的でいらっしゃるようだから』

 ウェルズがいやらしく笑う。

到着が遅れたせいで彼の予約していたホテルが満員になっていたというからそうしたまでです。それと事実には反しますが仮に私と林辰があなたのおっしゃるような関係を持っていたとして、それを嘲笑するような態度は不適切ですよ。いつかマスコミにすっぱ抜かれて差別的な発言のために軍を追放だなんて事態に至るかもしれませんね、あなたは』

ちっ、赤毛は赤毛らしく宗教の価値観を無批判に受け入れていらっしゃればいいんですよ。正義に敏感な連中は嫌いだ。そんなことだからそうやってなよなよした格好をしてソドムの罪に耽っているんだ。うちの諜報部は代理殿がかつて黒人男と関係を持っていたことを知っているんですからね。おい、大事な話をしているんだ。顔を出したらいかがですか、代理殿』

 アレクセイのパネルがカメラ映像に切り替わった。サングラスをかけていても明らかな軽蔑の表情。

だから何だって言うんですか。私の個人的な問題に口を挟まないでいただきたい』

はいはい。この辺にしておきましょう。さて、それでだ。このような事態であるから米軍としてはSDCFと代理殿に対し疑念を抱かないわけにはいかない。レヴィアタン号はイスラエルに寄港したそうじゃないですか。代理殿はムリーヤとレヴィアタン号をオデッサへ入れ、何をしようと企んでいらっしゃるのです』

私の関知するところではない。どちらも無関係だ』

ならばムリーヤとレヴィアタン号の臨検を米軍にやらせていただきたい。疑いが晴れるまでSDCFの作戦参加を停止し代理殿は我々の保護下に入る。納得していただけますかな』

好きにしたまえ』

 カメラの前で営業部長があたふたしている。それは困ります、代理殿』彼の訴えに反応する者はいない。会議はそれで終わった。


   *


おいおい、すごいことになったじゃないか』

 ボグダンは興奮気味だ。

レヴィアタン号はルーマニア海軍でも注目してたんだ。就航したてで五百メートル級のコンテナ船だからな。よからぬものを隠すにはこの上ない。なあ辰、君は何か知っているのか』

何も。しかし代理殿がおっしゃっていることは事実です』

ふうむ』

 電話の向こうでライターの音が聞こえた。ダニエラの声。ボグダンは煙草を取り上げられたらしい。病院の何処かで吸おうとしたのだとすれば随分と非常識だ。そういえばこの部屋からは煙草の匂いがしない。家では吸わないようにロクサーナから言いつけられているのかもしれない。

しかし辰、気をつけろよ。米軍は君を実行犯の候補の一人に挙げているということじゃないか。基地に残らなかったのは幸運だったな。もし米軍が疑いをかけていることが知れたら君は拘束されていた。妻に代わってもらえるか』

 ちょうどロクサーナが辰のいる部屋の戸をノックするところだった。辰はボグダンの言う通りロクサーナに携帯を渡した。会話はルーマニア語だから何を言っているかわからなかった。

夕飯ができました』

 辰は食卓についた。ロクサーナと子供たちが見慣れない手順で十字を切った。ルーマニアは正教の国だということをぼんやりと思う。崩したオムレツのような料理が出ている。意外にも玉蜀黍とバターの味がする。ママリーガっていうんですよ。普段はパンですけど、折角遠くから来てくださったんですから』その他あれこれの野菜と豚肉の料理。米がロールキャベツのつなぎに使われている。久しぶりの米だ。

 全員が食事を終えてからロクサーナが言った。

RUMパウル、ミハイ、大事なお話があります』

 理解できる程度のルーマニア語。子供たちは真剣な表情でロクサーナの話に耳を傾けた。それから辰に向かって。

ENG辰さん、私たちは明日から家族旅行に出ることにします。陸路で何日もかけてベルリンまで。辰さんも一緒に行きます』

なんで急に。ああ、そうか、ボグダンさんが。あの人は策略を張り巡らせることのできる人なんですね。そりゃ出世するにきまってる。あなたが僕と会ったのは偶然ではなくボグダンの指示でしょう。自分の退院までは自宅に匿っておくつもりだったけれど僕の目的地がベルリンになったので計画が変った。ルーマニア国内に滞在しているより黒海監視団に参加しない内陸諸国を転々とする方が制度上僕を拘束しづらいですからね』

林辰はロクサーナと個人的に知り合い、個人的な関係で共に旅行へ出かける。それだけです』

でも、子供達はどうするんです。学校もあります』

それこそどこからだって大丈夫です。列車の中で受けさせます』

だけどわかりません。ボグダンさんはなぜそれほど僕を庇うんですか』

それはきっと、あなたがダンの部下だからですよ。辰さん、私についてきますか』

そうする外ないじゃないですか』

あらら、消極的じゃないの。大丈夫、安心して。これは家族旅行なんだから』

 ロクサーナは子供たちにおやすみのキスをした。辰は部屋に戻り白鳥の操作端末を破壊した。白鳥本体と同じで壊す必要があれば容易に壊せるようにできている。飛行記録の入っている記憶媒体だけは抜き取りパスポートケースに入れた。寝る直前になって辰はアフマドからメッセージが届いていたことに気づいた。ARA SYRIA下から撮るなら降着装置が出てからにしろ」送信日時は辰が洋上にいた頃だ。


   *


 下の子が辰を起こしに来た。

RUM君はパウル? それともミハイ』

 辰は聞き覚えたルーマニア語で尋ねる。

ミハイだよ。出発するから起きろって、お母さんが』

わかった。いま行く』

 子供達との会話くらいは流暢にできるようにならなければならないと辰は思った。ルーマニア語であれウクライナ語であれ、それなりに身に着けることがリョーハへの弔いだろう。

ENG朝食は行きずりに食べますから、さあ乗って』

 大阪のふんわかぱっぱ丸をレトロ調にしたような自律小型車両——ミニタク——がアパートの下に来ていた。四人で向かい合って乗ると車内にはほとんど隙間が無く膝と膝が触れ合う。辰もロクサーナも旅慣れていて荷物が少ない。スーツケースを二つ外側に飛び出している荷台へ積んだ。ロクサーナはふち無しベゼルレスタッチパネルの操作盤に観光客向けの無記名パスをかざしブカレスト・ノルド駅を指定した。大阪のそれはこんな狭い路地には入らない。都市の機能的な差の反映かもしれない。ブカレストは個人的でオンデマンドな都市だ。住宅地を抜け幹線道路に入ると車両は赤い中央の車線を心地よい速さで疾走した。

 舗装状態はまずまずだ。ひびまみれといっても致命的な凹凸はなく滑らか。両側二車線に加え辰らの走る車線があるのだから道幅は広い。二、三階建ての統一感こそあれ歴史のないビルが七十%にやっと届く程度の充填度で両側に立ち並んでいる。道路標識は日本よりも濃い青、髭の生えたsやtがここがヨーロッパの大陸部であることを意識させる。空はどんよりと曇っている。関西の空気が黄色いというのと同じ意味で、ブカレストの空気は緑だ。つまり呼吸していてなんとなく息苦しく、自分の血液にこの色が混じり肌や爪がじわじわと同化していってしまうのではないかと不安になるような、あるいは色付きの水が入った金魚鉢に沈んでいるような感じ。赤ん坊の泣き声、後ろへと流れていくタイヤ屋の看板、個人商店。どこからか花のなまぐさい匂いが薄っすらと漂ってくる。見まわしてみればブカレストはあちこちに花屋があって街をパステルカラーで飾っている。自動車はほとんどがドイツか日本か韓国のメーカーのものだが、実際に工場があるのは東南アジアかアフリカだろう。稀にすれ違う蟷螂かまきりのような表情の車だけはインドの会社のもので、その工場がルーマニア国内に出来たというニュースを辰は暫く前に聞いていた。

 十字路の手前で辰らの車両が減速した。赤い車線にトラムが右から割り入ってくる。公共交通が全てこの車線に入るのだと気づいた。信号機はあるにはあるが歩行者と自転車にはすっかり無視されていてクラクションの音がかまびすしい。ラッカとは違って人々の内面と交通規則の間にまだはっきりとした区別がある。二頭立ての馬車が路上に落とし物をしながら無理な横断をしていく。一世紀半ほどの時間が混淆としていながらそれなりに交通が機能しているのはそもそも絶対的な通行量が日本の地方中枢都市程度に収まっているからだろうか。そういえば路駐が甚だしく多い。

 ブカレスト中心の装飾的な街灯が並ぶ通りへ出た。ロクサーナの携帯が鳴った。彼女は初めそれを無視したのだが、何度もかかってくるので出ないわけにはいかなくなったようだった。

RUM父さん□□□□□ありえない』ロクサーナの声に怒気が滲む。

馬鹿□□□□やめて。今から行くよ』ため息。

ENGすみません。父の職場に寄ります。呼び出しを無視して家に押しかけられたりしたら留守にしてるってバレちゃうでしょう。それはまずいから』

 ロクサーナは再び操作盤から指示を出した。車両はシャンゼリゼ通りに形だけ似た寂しいメインストリートを進む。少し鬱蒼としすぎている街路樹の向こうに服屋のショーウィンドウが見える。あのメンズフリルという奴を着てみるのは冒険的すぎるだろうか。襟元が華やかなのは貴族的な感じがして好きだ。ネクタイという堅苦しい装飾を時代遅れのものにした辰の一つ上の世代は確かに偉大だが、フォーマルな服装から飾り気が一切消えてしまうのは物足りない。カフェのテラス。人、犬、犬。白亜の宮殿の前に無造作に設けられたレンガ敷の駐車場で降りた。観光バスの間を縫って宮殿の方へ向かう。昨日も見た国民の館だ。

 庭園を抜け西翼の建物に入る。ロクサーナは窓口の機械に何かを入力した。機械が関係者用の臨時IDカードと特別入場券を三枚吐き出す。

父はここで学芸員をしているんです。職員の身内なら入館料支払いで個人を特定されずに入れます。本館のなるべく人の多いところにいてください。木を隠すなら森の中ですから』

RUM□□□□□したい。いい?』ミハイが訊いた。

いいけど辰さんに□□□□□□□□。あなたたちが辰さんを□□のよ』

でも□□□□□□』

 パウルが言った。やはり兄のパウルの方が難しい言葉を知っていて、辰にとっては理解しがたい。ロクサーナは二人の子供たちの頭を軽くなでてバックヤードへ去っていく。

行こう、兄ちゃん』パウルが辰の手を引いた。


   *


 二十年は昔から動いていそうな携帯ゲーム機を音声ガイドとして渡された。UNICONCEPTの日本語を読み上げソフトにかけただけの簡素なもの。アンチエイリアスが効いていないかのような表現のぎこちなさはいつものことだが、抑揚が狂っているのはいただけない。自然言語処理という分野はイントネーションの研究が致命的に不足しているのではないか。

この機械、ここでしか見たことないんだ』

 ミハイが言った。昔はゲームだけをするための機械があったんだよと伝えようとしたが、辰にそこまでのルーマニア語は話せず、もどかしい。万能端末の時代を生きるミハイには専用機というものが珍しく見えるだろう。パウルはこの施設を何度も訪れているようで広大な館内で自分の位置を見失うことなく辰とミハイを先導する。パウルはボグダン似だ。ミハイはロクサーナ。内装は実に豪華絢爛。大理石の柱が果てしなく続く。床面は鏡のように磨き上げられていて、デートの場所としてここを選ぶとちょっとした惨事を引き起こしそうなほど。大ホールへ出た。巨大なシャンデリアの威容。あちらこちらで人が集まって生身のガイドから説明を受けている。それからまた長い廊下を渡り怪しい仕掛けが隠されていそうな幾つもの胸像とすれ違う。劇場として使うには不便に見える円柱状の空間へ出た。

JPN UCこちらは議事堂です。三十八年までルーマニア議会はこの部屋で行われてきました。現在では電子議会が発足したためその役割を終え、災害時の使用に備え展示状態で保存されています』

 座席の間を縫ってパウルとミハイが走り回る。大人としては注意すべきなのだろうが、元議事堂が子供の遊び場になる光景にはいつまでも見ていたいものがある。ミハイが議長席に座った。マイクの電源が入っている。見学者のためにわざとそうしてあるらしい。ミハイが何か意味の取れないことを言って、それを聞いたパウルが笑い転げる。今度はパウルがマイクの前に立つ。やはり何を言っているか辰にはわからない。辰は議員席に腰掛けて遊びが終わるのを待った。二人が飽きるまで二十分はかかった。その間に幾人もの見学客が来ては去っていった。誰も子供たちを咎めなかった。

 またパウルが辰の手を取り引っ張っていく。正面テラスに至った。あのレンガ敷の駐車場を中心に弧を描く壁のようなビルが左右に一棟ずつ。その隙間から統一大通りがずっと遠くまで一直線に伸びている。駐車場として設計された空間ではなく本来は広場なのだと気付いた。なんにせよ壮観だ。この国にかつて君臨した独裁者の気分になれる。

チャウシェスクは国民の館建設にあたって昼夜を問わず作業を行わせしばしば自ら視察に訪れました。彼は宮殿のあちこちに個人的な好みを反映させましたが、このテラスからの眺めは特にお気に入りであったと伝えられています。厳密に左右対称になるよう配置された国民の館正面のビル群はまさに共産主義的な風景と呼ぶべきものですが、左側のビルの背後からマンションがわずかに顔を出して均衡を崩している様子は独裁者の夢に対する大衆のささやかな抵抗と言えるでしょう』

 音声ガイドが大真面目にそんなことを言うので辰はにやついてしまった。どうせ真実は工事費がなかったとか、そんなところではないのか。あまりに多くの建物が顔を出しているのでガイドの言うマンションがどれだかはわからない。数年間は説明が更新されていないらしい。それにしても独裁というのは立派なものを作る。ブカレストを作ったのは独裁だ。ダマスクス市街を囲む高層ビル群もそうだった。人々は独裁の遺産に寄生して生活している。発展はいつも金と権力が集まる場所で起こる。真下の庭園にロクサーナがいた。RUM出るよ』と彼女が大声で言った。


   *


ENGほんの二、三行ばかりドイツ語の翻訳をやらされたんです。フラクトゥール旧い字体で書かれているから確かにいきなり機械翻訳にかけることができないのはわかりますけど、せめて写真に撮って送るとかさ、賢いやり方があるじゃないですか。私、身勝手な人と技術に向き合わない人が嫌いです』

 五分待ってもミニタクが来ないので辰たちは駅まで一キロと少し程度の道のりを歩くことにした。途中の店でツナと卵とレタスのサンドウィッチを買った。貧相な服を着た子供たちが指をくわえて羨ましそうに辰を見ている。パウルとミハイはそれが怖ろしいようでそそくさとロクサーナの背中に隠れた。

ロマの子ですよ。ジプシーって言えばわかる?』

多いんですか』

本場ですもの』

まだいたんだ。僕はてっきり昔話の中の存在かとばかり』

むしろ増えていってるぐらいです』

増える? 彼らは混血しないんですか。同じ場所に暮らしていれば民族なんてものは次第に。いや、そんなことないのか。彼らには彼らの内側の理屈や慣習があって、それは彼ら自身を良くも悪くも規定するものとしてはたらく。血が混ざったからってどうにかなるものじゃない。もし民族がなくなっていくように見えたとしたらそれはせいぜい出自を隠しているか、それが忘れ去られたということでしかないんだ。一つの都市に二つの社会が摩擦しながら併存する』

ロマに社会があるものでしょうか』

 ロクサーナが屈託なく訊くので辰は面食らってしまった。

ありますよ、そりゃ。むしろ多数派のそれより緊密なくらいじゃないんですか。婚姻とか、葬礼とか、そういった場面で彼らは非常に強固な彼ら独自の規則を持っていたりはしませんか』

それはわかりませんけども。あっ、でも私と夫の結婚式にはロマの演奏家を呼びましたよ。立派でした』

芸能の民なんですね』

社会における役割が割り当てられているのはいいことですね』

本気でそうお考えですか』

あら、辰さんの考えは違うの?』

考えというほどじゃないですけど』

 言おうとしたことはどう捻っても言葉にならず、ぼんやりとそれは違うという拒否の思いだけがある。大学にいた頃ならそんなことはなかったから言語化の能力は使わずにいると鈍るものらしい。

 辰はサンドウィッチを食べきってしまった。ロクサーナはときどき狭く細い道を選んだ。建物と建物の隙間をかいくぐる。そういうとき、この都市の生活が目と鼻の先まで迫ってくる。人の匂いがする。住人たちは善良で無知で政治にそれほど関心が無い。内なる差別に気付いてさえいない。それでいて彼らはそれなりに幸福で、自分の価値観を疑わなくてはならなくなるような場面に出会ったことがない。自分たちで独裁を打倒したという半世紀以上昔の出来事が彼らの曖昧な一人称複数の自尊心を曖昧なまま満たしている。


   *


ENGつけられました』

 ロクサーナが言った。振り返ると猫が一匹ゴミ箱の蓋の上で眠っている。それだけだ。辰たちは騒がしい通りに出ていた。目の前の建物がブカレスト・ノルド駅だ。

僕がここにいることは知られていないはずです。ボグダンさんは口裏を合わせてくれたんだから』 

夫も疑われているとすれば話は別』

ARA STANDARD迂闊だぞ青年」

 低い男の声。ロクサーナがジャケットの下に手をかけた。ステッキの先端がそれを押さえる。

ENGロクサーナ君、わしだよわし』

——先生、お久しぶりです』

 声の主は片桐の色違いのような老人だった。何故今まで気付かなかったのかわからないほどの赤づくめ。銀色の髭がダリのように細く固めてあって顔の正面に林檎のシルエットを作っている。少し大きな街にはこんな風に奇抜な老人が一人はいて街のランドマークになっているものだ。

ウェルズの爺さんが探してるのはその青年だな。とぼけなくていい。ちょっとばかし黒海監視団の内部情報に忍び込ませてもらったから事情は知っているんだ。まあボグダンの坊やはセキュリティなんて考えもせずに機密段階:赤トップシークレットの会議をその子へ中継していたようだから、そっちを傍受すべきだったんだな、わしは。骨折り損だったよ』

ご用件は』

先生と教え子の仲なんだから用件なしで会いに来たっていいだろう。まあ、なんだね、手伝いに来た。これを使って改札をくぐりなさい。鉄道のシステムに細工をしておいた。そいつならEU中の鉄道が乗り放題、しかも乗車記録が残らない。偽造旅券も人数分作ってきたぞ。ホテルのチェックインくらいには使えるだろ』

 老人は袖の下から手品のように四冊の冊子を取り出した。

でも僕は顔が知られています。カメラの映像で追えるんじゃないですか』辰が言った。

先進国の大都市がやってるようなカメラ網は金がかかるんだ。導入が遅れている中東欧を移動する限りは心配いらん』

しかし僕のボスはつい先日そんなことをしました』

ボグダンが?』

いえ、SDCFのダンという男です』

たまげたな。ダンの知り合いか』

ロクサーナさん、この爺さんは誰なんです』

あなたの会社の創業メンバーの一人で白鳥や山繭蛾やままゆがのソフトウェアを作った人』

あとUNICONCEPT。あれもわし』

昔ルーマニア軍はこの人を講師として招聘したことがあって、そのとき散々勝手なことをされたから今もSDCFが嫌いなの。私とダンとボグダンはそれと別に個人的に師事したこともあったけどね』

あれは軍が悪い。わしはあいつらの内製した戦況管理システムがあまりにとっ散らかってるから綺麗に整えてやっただけだ。サービスだよサービス』

よく捕まりませんでしたね』

もし罪に問うなら新旧のシステムをネットにばら撒くっておどした』

最悪だ』

それより先生、あなたダンがSDCFにいることを知っていたんですね』

知ってるも何もあいつを会社に誘ったのわしだよ。あれ、聞いてない?』

なぜそのことを隠してたんですか。夫も教えてくれなかった。私一人をダンから遠ざけてどうするつもりだったの』

 ロクサーナが老人の両肩をつぶれそうなほど強く掴んで詰問した。

痛い痛い、隠すつもりはなかったんだ、痛い、痛いって。わかったから列車の中で話そう。わしも同行しようと思うんだ』


   *


 ハンガリーはブダペスト行きの昼行列車に乗った。十時間とちょっとはかかるというから到着は夜だ。これでも二十年で五時間は短くなったんですよ』とロクサーナが言う。来たときと同じ平坦で変化のない風景が延々と続く。車窓の景色があるだけひたすらトンネルの中を走る東海道リニアよりはましなのかもしれない。

忙しい旅になってしまってごめんなさい。こんなことでなければ古い修道院だとかブラン城だとかも案内したんですけど。ブカレストだけじゃ、この国にあまり良い印象を持たなかったんじゃない?』

 辰ははいともいいえとも返事をしかねた。確かにブカレストは寂しい都会だったと思う。それがこの国の全てであるはずがないということに辰は今更気づいた。

国という範囲を持ち出す必要はないじゃないか。見たものが全てだ』向かい合う席で林檎髭の老人が言った。

紹介がまだだったね。わし、リー・マイケル・カーチス。李は母の姓だ。SCF創業三人衆の一人』

しかし、失礼かもしれませんが、僕はあなたの名前を聞いたことがありません』

この人、例のルーマニア軍をめためたにした事件の後でSCFから追い出されたの。それで泣きながらどこかへ行ってしまってかれこれ十年も姿を見ていなかったんだけど』

追い出されたんじゃない。わしの方から辞めてやったんだ』

どっちだっていいですよ』

それで、ロクサーナ君。ボグダン坊やは君にダンの居場所を教えていなかったんだな。ダンからも連絡が無かったんだろう。全く、何を考えているかわからない子だ——


   *


 二〇三三年二月、シリア情勢は最後の土壇場を迎え今まさに独裁が倒れようとしていた。甚大な損害を出しながら苛烈に戦ったガザルは戦後の自治権を米国に要求するも交渉決裂。彼らは居住地であるトルコ東部と黒海を経由してロシアや東欧に至る補給ルートを開拓し親米政権との新たな戦争に備えることになる。シリア軍崩れが流入して戦力を増大させた過激派など反米・反独裁政権組織はガザルが開いたこのルートに寄生し装備を拡大、米国と同盟関係にあるルーマニアはテロとの戦いの一環として黒海警備に駆り出されガザルと対峙することになる。欧米はガザルとそれ以外の組織を区別しなかった。というよりはむしろ、ガザルに対する冷酷な態度を覆い隠すために米国がわざとそう世論を誘導した。混沌とした中東に関心を寄せる人間は民間には極めて稀だったから、事態は米国の思惑通りに進んだ。米国はガザルがかつて過激派と連合したことを持ち出しさえすれば十分だった。それを否定する広報力も、補給ルートから実際に過激派を排除する組織力もガザルには無かった。

 当時はプレデターやレイヴンといった第一世代無人機が戦場の新たな主役として期待されていて、そのことはルーマニア軍も同様だった。もっとも第一世代機について実用レベルの技術を持っているのは米国と中国のみ、しかも砂漠の嵐作戦以来行われるようになった数の戦術を行おうとすれば調達にかかる費用は極めて高額だ。そこにSCFが第三の選択肢として登場する。それまで補給と訓練の提供を主たる業務としていたSCFは民生用の無人機をベースに専用ソフトウェアを搭載した新型軍用無人機を第二世代機と銘打って開発。自社でパイロットを養成し無人機専門の機甲化傭兵部隊として市場を席巻した。SCFの李・マイケル・カーチスはかねてからルーマニア海軍に電子戦・通信・暗号といった分野の訓練を提供していたが、黒海作戦の無人機部隊アドバイザーを兼任することになる。しかし李は人格上の問題でルーマニア海軍中枢からの信頼を失っていた。

 同年五月、ダンとボグダンは黒海洋上にいた。彼らの乗る艦はスタン中佐のフリゲート。その頃にはガザルの船も武装することが増えていて、並行してルーマニア軍も本格的な戦争の様相を呈していかないわけにはいかなかった。彼らの船は接続水域で民間船のふりをするロシアの軍用船とすれ違った。領海すれすれに電子偵察船を差し向けることは黒海で互いに常態化していたから、スタンはこれを気に留めなかった。しかし情報電子長のダンはその船が積んでいるアンテナが少ないことからそれが他の正体を持つことに気づく。彼はスタンに対しSCFを呼びつけてロシア船の監視をさせることを提案するが、スタンは李との個人的な確執からそれを却下。ダンはスタンの許可を取らず独断でSCFに連絡した。十数分後、SCFはそのロシア船が機雷敷設艦であることを看破する。シリアに親米政権が建つことを嫌い、皇帝ツァーリはガザルの補給ルートをひっそりと支援していたのだった。連絡を受けたときスタンの艦は敷設されたての機雷原に突っ込む寸前だった。

 その後、スタンはダンの越権行為を告発した。当時のルーマニア軍内部には反SCFの空気が満ちており、ダンは結果的に艦を救ったにもかかわらず二等兵への降格を言い渡される。同艦で砲雷長を務めていたボグダンはダンと士官学校時代からの友人だったが、二人の共通の友人にしてスタンの娘であるロクサーナ・スタンとの結婚を目前に控え、スタンに歯向かうことをしなかった。ダンは李によってSCFに引き抜かれ軍を辞めた。


   *


——なんてことがあったのさ』

でも、どうして。父との仲なんてどうなってもよかった。ボグダンは何故パパに反論してダンを助けてあげなかったの。パパが反対するなら、私は実家との縁を切ってでもボグダンと結婚した』

そうしてしまっては昇進の障りになるからじゃないかね。ボグダンは抜けてるが器用な子だ。だから四十になったばかりで大佐までのし上がった』

ボグダンを責めないで』

責めちゃいない』

 ロクサーナは泣きながら胸を押さえて苦しそうにむせた。人体は泣きながら喋れるように出来ていない。パウルとミハイは辰のシャツに顔を埋めて母の尋常でない姿を見ないようにしている。幸いなのはこの子たちには会話の内容が理解できていないだろうということだ。ミハイがわずかに顔を上げてRUMお父さん死んじゃったの?』と辰に訊いた。違うよ』と諭しながら辰は軍人の子供に生まれるということの意味を考えた。乗客の誰もロクサーナに気を留めない。人生の悲喜劇に彼らは慣れすぎているのか。

ENGダンはどうして連絡をくれなかったの。私とボグダンの関係に水を差したくなかったから? おかしいよ、そんなの。自分がいなくなれば私が悲しまないとでも思ったんだな、きっと。そんなことあるはずないのに』


   *


 夜の十一時になってブダペスト東駅に到着した。荘厳という言葉が似合う半解放のドームはこれでこそ欧州の終着駅ターミナルという感じがする。売店は何処も閉まっているが噴水は動いている。夜風が吹き込んできて寒い。中心街に近い出口へ向かう辰たちに子供たちが眠い目を擦って健気についてくる。

入国審査されませんでしたね。いつ国境を越えたのかわかりませんでした。景色もそう変わらないし』

ルーマニアもハンガリーも五年前からシェンゲン協定に参加したんですよ』

EUはグラデーションではなくなったな。部分的にヨーロッパであるということはもうできそうにない』

 電子決済ばかりだから気に留めていなかったが、ルーマニア国内の通貨はユーロだった気がする。高校で地理の講義を受けた頃はまだレウだったはずだ。確かにEUの中身は均質化されつつある。

ウクライナはどうでしょう。EUには非加盟だけれどヨーロッパじゃないんですか』

 辰は李に訊いた。

アジアの飛び地か黒海だな。ヨーロッパとの地域的統合は貧弱だ』

でもNATOに加盟しました』

安全保障は違う問題だよ。第一、NATOなら米国が主役じゃないか』

李さんはEUについてどうお考えですか。ええと、ヨーロッパとEUが同じ意味になることに肯定的ですか。SFC創業メンバーがどう考えているのか気になります』

国はいらない。そして拡大された国もいらない。EUが領域国家という概念を解体してくれると考えていた頃がわしにもあったが、昔の話だ。今は違う』

英国のEU離脱のときはパーティーを開いたりした手合いですか』

懐かしいなあ。ギネスを何本開けたかわからない。わしは返還前の香港の出身でな。まあ、英国に対してもあれこれ思うところがあったのさ。EUの理想は欧州でないものの排除と表裏一体だった。EUは国境を無意味化したのではなく、国境を拡大したんだよ。ローマ帝国の再興だ』

しかし過程が違います。EUは民意でしょう』

国家という単位が介在しているんだ。ある英国市民がEUの構成員であることを望むとき、その人物が英国市民であることを同時に望んでいるとは限らない。にもかかわらず英国市民という立場無しにはその人物はEUへの賛同も反対も政治に反映させられない。そういう制度なんだ。それは矛盾だろう』

些細なことじゃないですか』

本質的だよ。国という単位が個人と価値観との関係を切り裂き、価値観の対立をお上の占有物にしてしまう』

 辰たちのいるペスト地区は街中と思えないほど暗い。李の三倍は長い時間を経験していそうな四階建てくらいの石造りの建物が隙間なく並んでいる。オデッサと比べ色彩が単調で大人しく落ち着いている印象を受ける。植物が少ないからかもしれない。何台かのスクーターとすれ違った。看板の言葉は何が書かれているのか類推が効かない。ハンガリーはヨーロッパにありながら印欧語族が話されていない言語島だという話を思い出す。ブダ側に温泉があるという看板はピクトグラムのお陰で理解できた。ハンガリーの首都は温泉街だ。ヨーロッパ的なものに対する認識がぐらぐらと揺らぐ。李がステッキを振り上げて角の建物を指した。

見ろ、辰。あの監視カメラは一階の洗濯屋のものだ。あちらのはスポーツジム。これらが撮影した映像はそれぞれの店の人間しか見られない。駅もそうだな。米軍がもし君を探そうとすればそれぞれの管理者からいちいち許可をもらわなければならないが、それは非現実的だ。もしかするとカメラの映像はネットを経由して他の場所からモニターされているかもしれない。だがそうだとしてもそれらを盗み取るのも楽じゃない。ブダペストの監視カメラの映像と題してどこかに集積されているわけではないのだから。おかげで我々は自由に動き回れる。重要なのはどんな情報が記録されているかということ以上に、それらがどのように結び付けられているかなんだ。君はダン坊やがネットに接続されていないカメラの映像から目標ターゲットを発見したという話をしていたね。そのときダンは駅の職員との個人的な結びつきに頼りはしなかったかな。そうしたか。そうだろう。わしが教えたんだ』

先生は具体的な技術の話より哲学の話が好きなの。これも軍上層から嫌われた理由』

 辰たちはドナウ川河畔に出た。ヨーロッパの河川を見るのは辰にとってこれが初めてだ。背の低い遊覧船がいくつか静かな水面に波を起こしている。水運用無人機の基地らしいものが対岸にある。ブダ地区の夜景は華やかだ。色とりどりの光が明滅し街の輪郭をぼんやりと映し出している。こちら岸が暗いのは川の左右で都市の機能がはっきり分かれているからだと気づいた。パウルとミハイも目の前の光景に見とれている。何処かの店からマンドリンの演奏が聞こえてくる。トレモロの響きは何にも似ていない。無機質で異質、それでいてノスタルジーだのサウダージだのという言葉と結びつく人ならざる音が神々しく聞こえる。五分もそうしていただろうか。李は姿を消していた。探しに行こうとする辰をロクサーナが止める。

先生はそういう人だから。そのうちまた出てきますよ』

 遠くで銃声が聞こえた。ハンガリーは銃規制の緩い国だ。


   *


 翌日はブダペスト市内を見て回ることにした。というのも明らかに血縁でない辰を含む四人組が朝から晩までホテルに籠っていることはあまりに不自然で、観光客に擬態することが辰たちにとってもっとも有効な手段だからだ。雲一つない秋晴れ。足取りを掴ませないためには現金を使うのが望ましいが、それも余裕があるわけではないから朝食はマクドナルドで済ませた。ミハイは昼も同じがいいと言って駄々をこねる。一方でパウルは味の好みがもう大人びているようでハンガリー的なものが食べたいらしい。

 ペスト地区の礼拝堂に入った。キリスト教の教会とは違うということがミハイとパウルにもわかるようだ。壁も椅子の木も黄色が強く光が当たると金色に見える。床や天井に描かれた幾何学模様の装飾が絢爛だ。それでいて抑制が効いているように見えるのはここが宗教施設だからだろうか。庭には虐殺犠牲者の名前を刻んだ記念碑がある。辰は無意識にハラリという姓を探したが見つからなかった。彼らの名前は多様で一見してそれとわからないものが少なくない。柳の木が植わっている。ブダペストはどこも小綺麗だからこの碑が無ければかつてあった事件のことを誰も記憶してはいられないだろう。

 住宅が多くなってくる。かつて車が入れた時代のカーブミラーが酷く錆びついて残っている。その鏡面を辰たちの像が音もなく滑る。

ブダペストにもロマがいるんですね』

 ロクサーナが言った。辰は振り返った。ついさっきすれ違った家族がロマであると辰にはわからなかった。単に見慣れていないからだろうか、何故わかるのかもわからない。

 トラムの走る大通りに出た。立派な建物の上に通信機器メーカーの看板が無数に乗っかっている。街の活気が心地よい。道行く人の大型犬にミハイがじゃれる。犬の方は心が広いようで大人しく遊ばれてやっていた。市街の中心をそのまま西へ突き抜けてマルギット橋に出た。巨大な中州を越えてブダ地区に至る。中州は林の多い公園になっていてこの街の自然を一カ所に集約しているかのようだ。辰の鼻先を蝶が飛んでいく。

 ドナウ川の西岸、ブダ地区は建物が新しく日本でも見た名前の店が多い。銃砲店の前を通りかかった。ショーウィンドウに豪華仕様の調停者ピースメイカーが飾ってある。そういえばボグダンはあの調停者ピースメイカーをどうしたのだろう。発砲できなかった自動拳銃の方は基地に入るときに返してきた。

ロクサーナさんは射撃管制システム付きの拳銃を撃ったことがありますか』

ええ。警察で実用性が証明されたので私が軍を辞める前後に海軍が先行して採用したんです』

あれは白鳥や山繭蛾と似てます。引き金は射撃するための装置ではなく射撃を許可する装置に過ぎない。機械の側が判断を下していますから』

でもそれを感じるほどのラグは無いんじゃないんですか』

そういうものですか』

責任の所在の問題を考えたことはありますけどね。私が考えたというよりは先生がそう考えるように仕向けたんですけど』

人が殺すのか機械が殺すのかって話ですね』

本当は問題なんてものじゃないんだと思います。そこにある意思は人間だけでしょう』

しかし戦闘の単位としての人間は、意思が曖昧です。殺さなければ、あるいは命令に背けば殺されるかもしれないという状況での行動は意思の結果でしょうか。つまり、射撃管制システム付き小火器は戦場における責任の不在を顕在化させたんじゃないかと思うんです』

そういうことを考えているうちは大人ではないのだと思います。責任は自由意志を前提として存在するものではない。突然、不条理に降りかかってくることもあります』

どんな場合ですか』

辰さんの前に自殺をしようとする人がいるとするでしょう。あなたは衝動的にそれを阻止します。このこと自体は善でも悪でもないんです。いわば理由のない行為ですから。しかしそのあと辰さんが助けられた人の人生について何も注意を払わないとしたら、それは悪いことです。自殺を試みるくらいの人ならきっと困難を抱えているでしょうね。衝動的にそれを妨げてしまったのなら、あなたはあなたの全てを犠牲にしてでもその人のその後の生を支えなければならない。自由意志を前提としない責任とはそういうものです』

恐ろしい考えのように聞こえます。それにこちらへ銃口を向ける人と自殺しようとする人を同列に語ることができますか』

できますよ。どちらも命のやり取りの場に立ち会うということですから』

 川沿いに南へ下ってブダ城に着いた。急勾配の坂を歩いて上る。ちょうど衛兵交代式をしていた。衛兵たちは目を回しそうなほど勢いよくライフルを回転させる。モンゴルやオスマンと戦ったのは遠い昔の出来事で今は立派な宮殿が建ち美術館兼博物館として使われている。しかしロクサーナはむしろ防御施設としての側面に注目させたいらしい。門と壁と塔を見て回る。城はまだ戦いの場であったことを忘れていない。

お城めぐりが趣味なんです。こんな風に建物が残っている城もいいですけど、地図にも載らない古い城跡では壁だけが記憶をとどめていたりします。士官学校にいた頃はダンや夫と戦史研究会に所属していました。二人とも前近代の遺産には興味が無いなんて言ってましたけど、夏休みには一緒にあちこちのお城を見て回りました。ここもその折に』

 館内のレストランで昼食にした。グヤーシュという赤いパプリカのスープが出された。豚肉と玉ねぎとハーブを使った料理が多い。どの料理からも深みのある不思議な甘さを感じる。辰はそれが気に入って猛烈に食べた。RUM兄ちゃんはお父さんみたいに食べるね』とパウルが言った。彼は自分が望んだとおりのものが食べられて嬉しいらしい。ミハイははじめ拗ねていたが食後にクレープが出るとすっかり大人しくなった。

 また川に沿って南へ歩いた。ハプスブルク家が建てたブダペストのもう一つの城の麓に大きな温泉施設がある。折角来たのだから浸かっていこうという辰の発案だ。神殿のような温水プールから伸びる暗い廊下をくぐるとオスマン調の青い装飾が美しい浴室に至る。湯温は四十度、地元の老人が何人も茹っている。湯に入ると声が出る。パウルとミハイはこんな温度に慣れていないようで足を突っ込んでは引っ込めることを繰り返している。ロクサーナは寛ぎきっていて見たこともない表情を浮かべている。今まで彼女がずっと気を張り詰めていたことに気付いた。

お兄ちゃん、背中に赤いものがあるよ』

 ミハイが言った。パウルとロクサーナが近づいてきて辰の背中をまじまじと観察する。辰は腕に痒みを感じた。蕁麻疹が出ている。


   *


 ペスト地区のホテルに入った。本当は毎晩部屋を変えるべきなのだろうがファミリールームのあるビジネスホテルにはさほど選択肢がないから昨晩と同じホテルを選ばざるを得なかった。辰は寝かされて青い顔をしている。内臓がことごとく気持ち悪い。

ENGアレルギーでしょう。何か駄目なものは』

蜂蜜』

昼食ですね。ごめんなさい、確認しなくて』

いいんです、僕も子供じゃないんだから。あれが蜂蜜なんですね。気づきませんでした。最後に食べたのは物心がつくかどうかの頃だったから』

あまり症状が酷いようであれば病院にかかります』

 辰は自分が情けない。蜂蜜の味を知っておくという発想が何故いままで無かったのだろう。そんな考えも腹の痛みのせいでぼやけてくる。

 辰の携帯が鳴った。ボグダンからニュースを見ろ』とメッセージが届いている。部屋にはテレビがあったから電源を入れた。案の定アンテナは既に撤去されているらしく地上波が入らない。ネットのニュースチャンネルに繋ぐとタイトルにオデッサと入っている新着が数本ある。レヴィアタン号を巡る洋上の騒動がマスコミに流れたようだ。

 航行不能になった五百メートル級のコンテナ船を港まで引っ張るというのは前代未聞の事態だそうで、推定費用はレヴィアタン号をもう一隻建造できるほどらしい。米軍は同船を所有するベルギーの企業にそれを請求しようとしたが敢え無く拒否、同企業は積み荷を数隻の中型船に移し替えて運ぶつもりでいるらしいが海上でどのようにコンテナを移動するかは全くの白紙だ。もしかすると米軍は頭を下げてレヴィアタン号のどこにあるかもわからない異常を自費で修理させていただくという屈辱を舐めることになるかもしれない。

 ムリーヤについての動画もある。物々しい装備に身を包んだ米軍特殊部隊の前でムリーヤがかっぽりと口を開ける。彼らが勇ましく前進しようとするところに馬鈴薯の山が崩れ落ちてきて男たちを呑み込む。編集で付け加えられた笑い声のエフェクト。他の動画も概してそんなものだった。代理殿は恐ろしい方だ。何か怪しいものが入っていると思って突入した結果がこれとあっては米軍は面子が丸潰れだろう。撮影してマスコミに流したのはきっと代理殿の手勢だな』とボグダン。

 ロクサーナはこの先の旅程を立てるのに忙しいらしい。ラップトップの画面をにらみながら言う。

ベルリンへはウィーンとプラハを経由していく道とスロヴァキアとポーランドを通る道があります。それで鍵はどちらがドイツでの滞在時間を短くできるかだと思うんです。ドイツには旅のゴールであるSDCF本社があって、その敷地に入ってしまえば簡単には手出しできません。一方で米軍が駐留している国でもありますからうかうかしていれば簡単に捕まります。国内での米軍の活動に危険が及ぶ可能性があると言われればドイツ政府は逮捕くらい黙認せざるを得ないでしょうから』

そういうことならスロヴァキアとポーランドのルートで決定じゃないですか。ベルリンにはポーランドの方が近いんですから』

それがそうもいかないんです。というのもポーランドはウクライナの隣国ですから黒海の事情に関心があり、ロシアという共通の脅威に対抗するためには水面下の超法規的対応も躊躇なく行います。あなたはNATO艦に攻撃を加えた当事者としての疑いを掛けられている以上、ウクライナからも探されていると思った方がいい。そうするとポーランドには長い時間いられない。チェコならそんな心配がありません。ドイツ国内での移動は長くなりますけど』

難しいですね』

辰さん、寒いのは平気?』

いいえ全く』

それじゃあウィーンとプラハを経由していきましょう。気休め程度には暖かいですしドイツ語が通じますから。まあ、どれもこれも症状が引いてからですけど』

 窓に小鳥が留まった。初めて見る鳥で名前がわからない。もっとも日本のだって雀とからす以外知らないのだから当たり前の話だ。外は賑やかだ。ミハイは午後をたっぷりと残しておきながら部屋に籠ることが不服らしい。パウルが表面上は納得しているような素振りをするのを見て、この子は損をすると辰は思った。目が合ってロクサーナが微笑む。

旦那さん、すっかり元気そうですね』

頑丈な人ですから』

海へ送り出すことが怖くなりはしませんか』

優しいのね。そんな感情、とっくに麻痺しちゃった。あの人はいながらにしていない人みたいです。私だって最後に顔を合わせたのが何カ月前になるか。夫の指示であなたをコンスタンツァに迎えに行ったときも夫に会おうって考え付かなかったくらいです。少しも寂しくないんですよ。おかしいでしょう』

通信技術の進歩ってやつですか』

人の方が変わってくんでしょう。老人は離れていたって顔を見せたがるけど私くらいの世代は声で十分で、辰さんくらいになると文字で満足しちゃう。パウルやミハイの代はどうなっちゃうんでしょうね』

まさか、そんな。結び付き方の様式はそう変わりはしませんよ』

本当かしら』

ボスと、ダンさんと通話しますか。繋ぎますよ』

 ロクサーナは俯いた。言ってしまってから自分がなぜそんな意地悪な提案をしたのかわからなくなる。

今はそのときじゃないな』

 ロクサーナはマグカップに湯を注いだ。辰のココアだ。その様子をパウルがつまらなそうな表情で見ていた。


   *


 辰の症状が引くまで三日かかった。情勢はその間にまた変化した。農耕カルティヴェーションと言えば相手の主張する領域にぎりぎり入るあたりへ無人機を飛ばしておちょくったりわざと撃墜されて相手を非難する世論形成の道具にしたりと非殺傷を暗黙の了解として行うものだが、稀に本当に敵を殺してしまう馬鹿がいる。ウクライナ・ロシア間の陸の農耕カルティヴェーションはSDCFとウクライナ陸軍の共同作戦だがウクライナ陸軍には血気盛んな若者が少なくなく、その内の一人がSDCFから貸与されていた山繭蛾でロシア軍の車両を銃撃し運転手を死なせてしまったらしい。ロシア側が公開した映像に映っているのは紛れもなくその機体だ。ウクライナ陸軍ははじめロシア軍の捏造と主張するつもりでいたが、その機体がロシア領内で撃墜されてしまったので決定的な証拠を押さえられている。そこで二の策として彼らが考えたのは山繭蛾がロシア軍に電子的に乗っ取られたとするストーリーだ。そんな話をでっちあげられてしまっては信頼を損ねるから、当然SDCFが反発する。さらに不運なことにこの対立がロシアのスパイに嗅ぎ取られる。ここに至ってドミートリー派の対応は見事なもので、ウクライナ陸軍の主張を却って利用した。SDCFはロシア軍の求めに応じてウクライナ陸軍内で攪乱工作を行う密命を帯びており、今回の銃撃は山繭蛾の操縦権を奪うプログラムが誤動作したことによる不幸な事故なのだという。犠牲者の遺族に謝罪までしてみせた。各国がそれをどれほど信用したかは疑わしいものだが、SDCFの株価は急落した。辰はこの話をボグダンから聞いた。辰自身が閲覧できるSDCFの内部情報に照らしてもこれが真実とみて間違いなさそうだ。一般人のレベルでは民間軍事企業というものが全く信頼されていないのだと気づく。SDCFは金次第で何でもする死の商人なのだろうか。

 ウィーンに至ったときにはどこもこのニュース一色で、何ら危機を感じることなく平和を享受しているとしか思われない市民が戦場にこれほどの関心を持っていることに辰は驚いた。もっとも彼らは戦いの現実に無知だ。駅で見た報道は山繭蛾と称してずっと旧式のドローンの映像を映していたし、地域配信の公営ニュースはSDCFの警備Securityという実態に即さない名前に振り回されて頓珍漢な議論を繰り広げている。

 ヨーロッパの都市も三つ目になると新鮮さが無い。ウィーン市街は道幅も建物もブダペストと似たようなもので規模だけが異なる。青い窓で日光を煌々と反射する高層ビルが石畳の通りのすぐ近くまで迫っている。石畳それ自体も頻繁にアスファルトと入れ替わる。車両と言えばミニタクばかりだ。街の活気がぎくしゃくしている。観光地区が無際限に広がってオフィスや住宅街とモザイク状に入り交じり、それでいて公共性と個人性を両立させた新交通のお陰で混乱が生じていない。都市の機能をきっちりと分けているブダペストと正反対の戦略だろうか。いいや、ただ自然の成り行きに任せた結果かもしれない。ドナウ河畔に立つ塔から見下ろすとそのことはなおのこと明らかだった。技術の進歩によって行政の中心がなくなった今、ウィーンは膜が破れた細胞のような様相を呈している。恒常性が失われつつある。ヨーロッパの首都はせいぜい古い建物と観光資源の集積地ほどの意味しか持たないものへ変貌していくようだ。

 街はもう夕陽を浴びていた。ミハイがまたしつこく規格品のファストフードを食べたがるので各々好きなものを買ってホテルの部屋で食べた。ブダペストで体調を崩してから今日まで食べることと寝ることばかりしている。当初は無愛想だったミハイとパウルが次第に懐いてきたように感じる。そのためか、この単調で刺激に乏しい生活が充実しているように感じる。ついこの間まで自分がその現場にいたはずの出来事を遠くから傍観する疎外感と、それに伴う奇妙な安心感がある。


   *


 深夜にロクサーナが辰を揺り起こした。枕もとの照明が彼女の焦った表情を映し出している。

パウルがいないんです。部屋を出てオートロックで締め出されたんじゃないかと思って廊下やロビーを探したんですが、見当たらなくて』

男子トイレかもしれませんね。見てきますよ』

ええ。お願いします。もしそこにいなかったら』

外も探さなければならないでしょう。警察は極力頼りたくありませんね。病院だって避けたんだから』

 同じ階の共用トイレにパウルの姿は無かった。そのことを確かめて廊下に戻った辰の前でエレベーターの扉が閉まり誰かが下へ降りていく。辰はそれを追って階段を駆け下りた。辰たちの泊まっている部屋は五階だったから辰がロビーに着いた時にはそのエレベーターはもう無人になっていた。

RUMパウル、いるのか』

 辰の呼びかけに答える声は無い。冷たい夜の風が吹き込んできた。電源の落ちている正面のドアが子供一人通れる程度開いたままになっている。

 辰は黒い空の下の通りに出た。夜中に何があってもおかしくない仕事をしているから寝巻はジャージだ。人の姿は見えない。辰は風が吹いてくる方へ歩くことにした。ウィーンの街に完全な眠りは無く、完全な覚醒もない。言わば常に薄明りの中。午前三時にもかかわらず明かりがついている部屋はあちこちの建物にあって、そういうところには漢字だったりデーヴァナーガリーだったりの看板が控えめにかかっている。通信技術が発達した現代、昼や夜は時間である以上に場所だ。そして場所の制約も急速になくなりつつある。ブカレストのロマは主流の社会と完全には交わらず並行して存在していた。この街に暮らす異邦人たちはどうなのだろう。

 異邦人といえば辰はまさにそのタイトルの小説を読んだことがある。母の死、葬儀、無感情、強いられたわけではなくかといって意思の結果とも言い難い殺人、逮捕、裁判、主人公はアルジェリアの太陽の眩しさを殺人の理由と述べた。そんな筋の小説だ。あの小説の主人公が撃った拳銃は白鳥や山繭蛾と似ているかもしれない。どこまでが意思の結果なのか、その境界が判然としない。小説の主人公と決定的に違うのは技術のお陰で辰は生死のやり取りの場に必ずしも居合わせなくていいということだ。死のリスクを負いたくないからみんな射程の長い武器を欲しがる。その極致は大陸間弾道ミサイルだがこれは国家という抽象的な単位でなければ保有できない。個人のレベルに落とし込んだものが第二世代無人機だ。SDCFかその競合企業に中古車を買う程度の金を払えば誰だって戦車と戦える。希望すれば自ら白鳥なり山繭蛾なりの操作にあたることだってできる。AKの撃ち方を覚えるより簡単なくらいだ。機械が引っ張ってくれるのだから。時と場の制約から解放された都市は緩慢に死んでいく。同じ制約から解き放たれたとき、武力はどうなるのだろう。

 辰は何度もパウルの名を呼んだ。建物の連続が途切れ池が現れる場所があった。街灯に照らされて水面が辛うじて見えた。繋がれている犬が柵の向こうから辰に向かって吠えた。この街では犬までもが深い眠りを忘れてしまうらしい。

JPNなあ、犬公。パウルっていう男の子を知らないか。いかにも自己主張が弱くて不器用そうな子だよ」

 犬は返事をしない。辰は軽やかな足音が背後を横切っていくのを聞いた気がした。

 ドナウ川に係留されている自律筏の上でパウルが眠っているを見つけた。辰は筏を揺らさないように岸から慎重に乗り移りパウルを抱き上げた。まだ太陽は昇っていないが東の空がほんのわずかに青い。辰もパウルも二時間はウィーンの街を徘徊したことになる。ロクサーナに一報を入れようとしたところで辰は自分が携帯をもっていないことに気付いた。現在地とホテルの位置関係もわからない。ドナウ川の水面からゆったりともやが立っている。街が霧に包まれはじめている。服や肌が湿る。草の匂いがする。

 辰はパウルを背負って歩いた。パウルはやがて目を覚ましたがまた眠ってしまった。その割には辰の背にしがみつく力が強い。ホテルを探して数キロ歩いたころには辰は疲れ切ってしまい公園のベンチに腰を下ろした。膝の上にパウルを寝かせる。

RUMどうして川にいるってわかったの』

わからなかったよ。たくさん歩いたら見つかった』

そう』

一人で行ったの? それとも誰かと』

一人』

 ひとまず誘拐ではないとわかって辰は安心した。もし自分のためにパウルやミハイが事件に巻き込まれたとしたら辰は一生後悔するだろう。

どうして一人で出かけようと思ったのかな』

 パウルは辰の目を見てしばらく黙った。それから俯いて胸の前で修道女のように手を組み言葉を探しているらしかった。パウルは辰のルーマニア語が達者でないことがわかっている。賢い子だ。辰はロクサーナより色の明るいパウルの髪を撫でた。何羽かの鳩が降りてきて地面をつついている。風が吹き抜けて木々を揺らす。寒いのだろう。パウルは縮こまって辰の体温を求める。彼もまた寝巻で出てきていたから薄着だ。丈の足りていないズボンの裾から細く白い足が覗く。烏がやってきて鳩を追い散らした。


   *


 パウルの家出の事情を辰はロクサーナの通訳で知った。ロクサーナは良心的にパウルの言葉をそのまま辰に伝えた。そうであってほしいと辰は思うが、確かめる術はない。パウルは辰が怖くて逃げだしたのだそうだ。父さん——ボグダン——はもともとあまり家に顔を出さなかったが、オデッサに勤務するようになってからはかれこれ十カ月も自分やミハイや母さんと顔を合わせていない。そんな折にやってきた辰が父さんの仕事に関係する人物であることは説明されなくてもなんとなくわかった。辰はどう見ても大人なのに、母さんはこの人を守ってあげるようにと言って聞かせた。ブダペストで辰が体調を崩したとき母さんはとても手間をかけて看病した。母さんがそんなことをする相手は家族だけだ。ところでこの辰という人は言葉が通じないから何を考えているのかよくわからない。しかし母さんは辰と話した後ときどき見たこともないほど悲しげな表情になってRUMダン』という名前をつぶやく。パウルにとって辰は不可解な脅威だ。家族に忍び込んできて何もかもずたずたにしていくんじゃないかと思わせるような。

ENG心配させてしまって申し訳なかったって伝えてもらうことはできませんか。そうですよね、パウルの不安はもっともです。どうして僕は子供と同じ高さからものを見てあげられなかったんだろう』

 パウルはロクサーナの言葉に頷き、それから辰と抱擁した。


   *


 プラハ滞在の三日目に初めて雨が降った。ベルリンまで鉄道に乗ればほんの四時間しかかからないのにここでいつまでも足止めされているのは先の騒動でSDCF本部がざわついているからだ。SDCFは不幸にもクリミアを巡る動乱の黒幕であるという疑いをかけられてしまったため、ここ数日は本部ビルを取り囲むデモ隊の対処に追われててんやわんやしている。報道はSDCFが絡む最近の事件としてアブドゥルアジズの反乱について扱っている。白鳥が過激派の車列へ蜘蛛の子を投下する瞬間の映像もあった。一台一台の車両を正確に狙う新型弾が得体の知れない無人機から投下される様子は大衆の不安を煽るには打って付けだ。人々はSDCFを野蛮な企業と呼ぶが、辰はその映像の瞬間にダンが部下に責任を負わせないため操縦を代わったことを知っている。娘同然の人物を自らの手で殺すことになるかもしれなかったにもかかわらずそうしたのだから、ダンの行為は確かに倫理と狂気の分水嶺に立っていたかもしれない。しかしそれは決して野蛮ではなかったと辰は思うのだ。

 辰は問うように自分の胸元を掴もうとしたがそこに遼子の目はなかった。その代わりかパウルとミハイは辰に遠慮も陰りもなく甘えるようになり、辰は空虚さをそれで埋め合わせている。死者に引きずられるより余程良いことだろうか。

 プラハの街もまた混沌としている。チェコ語よりはドイツ語と英語を多く聞いた。辰はパウルを連れて雨の中を歩き花屋に入った。自分が花に興味を持っているとは思わなかった。しかし雨が甘く疲れた匂いを強く感じさせ、それは辰の心境とよく似ていた。蜜蜂が花に引かれるように辰の足は自然とその低い濃緑の庇の下へ向かった。五つの花弁をつけた白く小さな花が鉢の上で無数に咲いている。辰はどうしようもなくそれが欲しくなった。パウルと二人きりだった店内に主人が現れた。右側に松葉杖を突いている白髪の男性だ。辰は既に鉢を指差して購入の意思を伝えていた。主人は口を利かなかった。観光客を相手にしている店ではないから母語以外で接客できないのかもしれない。店主は紙幣を受け取りそれを半世紀の相棒といった様子の黄ばんだレジスターに収めた。鉢は重かった。何処にも行けないと思わせるような現実の重さだ。

 ホテルに帰って辰は白い花を無造作に床に置くしかなかった。ロクサーナは困惑したように見えた。それからその花を本部まで持って行くのかと聖母のような表情で尋ねた。辰はそんなことを考えていなかった。いや、自分たちが旅の最中であることも忘れていた。

茉莉花ジャスミンですね。綺麗。素敵なお花です』

愛らしすぎますよ。SDCFには似合わないかもしれません』

でも辰さんには似合いますよ』

そんな風に可愛がられたことがないので不思議な気持ちになります』

それなら今たっぷり可愛がられればいいじゃないですか。パウルとも和解したことですし』

 ロクサーナは自分をダンとの間の仮想的な子供として扱っているのだと辰は思った。彼女とダンとの関係が単なる友人でなかっただろうことは流石に気付かないわけにはいかない。かと言って彼ら自身がその関係を恋仲と呼んでいたとは限らないだろう。親密で、もしかすると子供を産み育てる未来もあったかもしれない関係だ。そういうものが当人の意思に関係なく恋と呼ばれることを辰は知っている。まさにダンがそう言っていた。推論に推論を重ねれば、それがダン自身の経験から出た言葉であるということも考えられる。とすればその経験というのはボグダンとダンとロクサーナの間にあった過去のことだろう。自分はボスの知らないボスの五人目の子供であって、遼子は姉に当たる。辰はそう考えた。あらゆる関係が家族と恋に吸収されていくのは雨の匂いのように息苦しく、それでいて揺り籠のようだ。

おかしなことですけど、僕はこの旅がいつまでも終わらなければいいのにと思ってしまうんです。弱いことですよね、それは』

自然なことですよ。抗わなくたっていい』

やめてください』

明日の便で出ます。酷い雷雨になる予報なんです。デモ隊は退却するでしょうから、巻き込まれずに本部ビルに入れます』

それじゃ僕たちは目立つでしょうね』

敵も目立つんですよ』

明日でなければならないんですか』

残念ながら、ええ』

 ロクサーナはタオルを持ってきて濡れたままの辰の髪を拭いた。辰は自分が年齢不相応のこんな行為に恥ずかしさを感じず、むしろ胸いっぱいの安らぎに包まれていることに恐怖した。


   *


 雨粒が車窓を激しく打ち鳴らす。列車は荒天を切り裂いて進んだ。発車後しばらくは車窓を眺めもしたが、自然の荒々しさと陰鬱さに次第に疲れてしまい辰は窓を曇らせるスイッチを押した。車両中央の黄色い蛍光灯がロクサーナと子供たちを照らしている。ロクサーナは普段通りを装いながら周囲に注意を巡らせている。辰たちの車両には他にビジネスマンが二人と老夫婦が一組乗っているばかりだ。

 辰がうたた寝する間にドレスデンへ着いた。老夫婦が降りて会社員にしては屈強な男たちが四人ほどぞろぞろと乗り込んできた。辰も危険を感じた。茉莉花ジャスミンの鉢を膝の上に置いていては急に動けないと思ってそれを空いている席に移した。乗り込んできた男の一人が辰の鉢に少し驚いた表情を見せてから二つ前の席に座った。使い慣れたベレッタが手元にあったらと辰は考えた。しかしもしこの男たちが米軍の特殊部隊であったならそんなものは全く通用せずひっ捕らえられてしまうのだろう。男たちは動きを見せない。杞憂なんじゃないかという思いと、米独関係に波風を立てぬよう降りたところでひっそりと拘束するための監視役なんじゃなかろうかという思いが繰り返し辰の心中を支配して十分が過ぎた。

 ロクサーナが車両の中を見回し、辰に耳打ちした。後ろの車両へ移りましょう。彼らも動くかもしれないから、そのつもりで』通路側に座っていたロクサーナが立ち上がった。彼女が両側へ注意を払いながら歩いていくのにミハイとパウルがスーツケースを引いてついて行く。辰は少し迷ったが茉莉花ジャスミンの鉢を置いていくことにした。両手が空いていなければ格闘は難しいからだ。ロクサーナと子供たちがデッキへ渡ったところで辰は背後の気配に気づき猛然と振り返った。男が立っていた。その手には茉莉花ジャスミンの鉢があった。男は辰の反応にたじろいたようだった。青い目が泳ぐ。

ENG DEU ACCENT忘れ物があったようですから』

 ドイツ人と言えば英語が上手いものだと思っていたからこの男の発音の堅さが辰には意外だった。

ENGありがとうございます』

ENG DEU ACCENT気を付けた方がいいですよ。列車の中にこういうものを置いていくと毒ガスか爆発物だと勘違いされます。申し上げにくいですけど、特に東洋の方は』

ENGご忠告どうも』

 辰はこの誠実だが思いやりのない男にいじわるしたくなった。辰がいまアラビア語で何か言ってみせれば彼はおびえて腰を抜かすんじゃあるまいか。

 鉢を受け取ろうとした瞬間、辰の体が右へ吹っ飛んだ。鉢の下に添えられた男の手に銃が見えた。今まさに辰にタックルをかましたロクサーナが発砲した。男が後ろへ倒れ鉢が粉々に割れた。続いてやってくる男たちをロクサーナは砂漠の鷲デザートイーグルで正確に撃ち抜いていく。そのたびに車内に血の薔薇が咲く。シリアの少女エヴァが思い出される。あのときの緊張感の中で絶対に起こらないでくれと願った光景がいま目の前にある。辰はパウルとミハイに覆いかぶさった。

 銃声が止むとロクサーナは車両のドアにまた何発かの銃弾を撃ち込み蹴り破いた。ドアはあまりにもあっさりと吹き飛んでいった。風雨が恐ろしい勢いで吹き込んでくる。

飛びます』ロクサーナが言った。

無茶ですよ』

直に水面が見えます。私はミハイを抱えます。辰さんはパウルを』

あんまりじゃないですか、子供にそんなことをさせて』

甘えたことを言うな』

 ロクサーナがそんな風に声を荒げるのを辰は聞いたことがなかった。

チャンスは一度です。列車を止められたらどのみち拘束されます。躊躇わないで』

 嵐の中に湖水が見えた。ロクサーナが飛んだ。辰も飛んだ。意思などなかった。飛ばなければならなかった。


   *


 激しい衝撃と肺に水が入る感覚を感じた。辰は自分が湖の中で溺れているのだと思った。もがきながら目を開けた。

ちょっと、揺らさないでよ』

 高く軽く頓狂な声が辰を諫めた。若い、いや、幼い女性の声。辰は腕の中で丸まっているパウルの表情を確かめた。ぐったりとしているが息はある。ミハイもだ。辰たちは水面に落ちる直前に白鳥にぶら下げた網で掬いあげられていた。見たこともない真っピンクの機体が風にあおられながら危ういバランスを保っている。四人分の重さで濡れた網がきつく絞まる。凄まじく痛い。辰は湖の水によってでなく雨によって溺れかけていた。

誰なんだ、あなたは』

JPNサイバーヒロイン陽電子ヤン・ディエンツ、見参ってね」

ENGどうして日本語なんだ』

愚問だね。それはもちろん魔法少女モノの元祖として、って、あれ? 泣くほど痛かった? ごめんね。これじゃ拷問か』

痛くて泣いてるんじゃない。子供たちをこんなことに巻き込ませてしまったから泣いてるんだ。この子たちは目の前で人が死ぬところなんて、見なくてよかった』

ロクサーナは正しいことをしたよ。彼女が撃たなければ君たちは』

わからない。わからないんだ。僕がシリアでエヴァを救えたのは偶然に過ぎなかったんだ。だというのに僕は』

エヴァ? よく知らないけど君もいろいろあったんだな。しかし、優しすぎるよ。七キロ先に逃亡用の車を用意してある。それまで辛抱してくれよ』

 陽電子ヤン・ディエンツを名乗る声はそれっきり一言も喋らなかった。トラックの荷台に藁が敷いてあって辰たちの網は切り離されそこに落ちた。ロクサーナはすぐに運転席へ移った。ピンクの白鳥を辰は見失ってしまった。

 幹線道路を疾走した。辰と子供たちは藁の中で息を潜めた。濡れているにもかかわらずとても暑い。パウルが震えていることに気付いた。辰は彼を抱きしめてやろうと思ったが、自分が本当にそんなことをしていいのかわからなかった。ロクサーナに銃を抜かせたのは外ならぬ自分だ。彼女はこれからどうなるのだろう。殺人犯として扱われることになるのだろうか。

RUMお兄ちゃんはこういうこと初めて?』

前にも似たことがあったよ。そのときは銃を使わずに済んだけどね、今考えるとあれはただ運が良かっただけだった』

そうじゃなくてさ、トラックの荷台で運ばれたこと、ある?』

 辰は記憶を辿った。遼子の隣でダマスクスの陽に灼かれたことがある。

うん』

悪いことしてるような気分で好きだな』

そんなこと』ミハイが会話に割り込んできた。

悪いことしてるような気分、なんて話じゃないでしょ。人を殺したんだよ。お母さん、捕まっちゃうんだよ』

ミハイ、やめろよ』パウルが言った。

このお兄ちゃんのせいでさ』

やめろってば』

やめるわけないでしょ』

大丈夫だよ、きっと。さっきの陽電子ヤン・ディエンツって人が助けてくれるから』

 パウルに話が通じそうにないことを悟ってミハイは不貞腐れた。

 雷が近くに落ちた。ミハイはそれに怯えて黙ってしまった。辰は雷の音に耳を澄ませた。空気を切り裂く低い音が近くから、遠くから聞こえる。こんな天気では監視衛星はおろか無人機も碌に使えない。尾行の恐れはなさそうだった。トラックは田園を越えて都市に至った。そこが都市であるということはトラックの減速と走行音の変化から知れた。明かりがない。大規模な停電が起こっているらしい。SDCF本社の守衛がトラックを停止させた。辰は荷台から這い出して社員証を提示した。守衛はそんなものには目をくれず、凹凸の無い銃に似た形状の装置で辰の目を狙った。虹彩認証だ。

ENG入れ。いや、林辰だけだ。トラックは入れられない』

追われているんですよ』

規則だ』

 守衛のヘッドセットに声が入ったらしかった。彼は少したじろいでから頷いた。

トラックも入れていい。ただし運転手はしばらくここに留まってもらう』


   *


 シリアの事務所とはまるで比較にならなかった。外観ばかりか内装まで無機質で堅牢だ。防火用としては多すぎる密度でシャッターがある。襲撃に備えたものだろう。辰たちを先導する男は不健康に痩せていて猫背だ。少し斜視が入っているかもしれない。

ENG訳アリの連中が来るかもしれないとは聞いていましたが、まさか高速鉄道で銃撃戦をしてくるとは思っていませんでしたよ』

報道されていますか』

いいえ。報道規制が敷かれました。アメリカにとってもドイツにとっても不都合ですから。ロクサーナさんとおっしゃいましたね、あなたルーマニア軍の諜報員でしょう? 子連れの母狼の噂、聞いたことありますよ』

えっ、だって軍属だったのは昔の話だって』

知らない方がいいこともあるのよ』

まあ軍の指示だけで動いているわけではないようですから。恐ろしいお方だ。こちらです』

 牢獄から精一杯物々しさを取り除いたような部屋に通された。辰は児童相談所の保護室がちょうどこんな風だったことを遠い記憶の底から思い出した。

ほとぼりが冷めるまではこちらで保護させていただきます。軟禁じゃないかだなんて意地悪なことおっしゃらないでくださいね。そうせざるをえないんだから』

子供たちまで閉じ込めておきたくはありませんよ』

中庭がありますからお使いください。それと、辰くんはこっちへ』

 辰は男に連れられて階段を降りた。踊り場が三つあった。相当な深さだということが察せられる。隙間の無い金属製の扉が虹彩認証で開いた。視野の右側から青い光が辰の目を刺した。思わず手で光を遮る。背の高い女の影が照らされていることに気づいた。その影はかつかつと音を立てて辰の方へ向かってくる。厳しい顔をした短髪の女、老齢であるのは間違いないが、これほどの鋭さを備えた人を老婆とは言いたくない。

林辰、まさか生きてここに辿り着くとはな。ウェルズは泡を吹いてぶっ倒れるんじゃないか』

彼の協力者について報告させていただきたいのですが』男が言った。

ルーマニアの母狼だろう? 聞かずとも知っている』

それについて追加で申し上げなければならないことがあるんです』

 ああっ、と女の背後から音の割れた叫び声がした。肥満体。営業部長だ。

お前、なぜ生きてるんだ。ありえない、ありえないじゃないか』

愚かだったな、ゲオルゲ。こいつはあれこれの思惑の波に乗っかってここまで届けられてしまったんだ。賭けた金はちゃんと払ってもらうぞ』

 ゲオルゲ——営業部長——がドイツ語で何か悪態をついた。辰は彼がドイツ人だということに気付いた。ゲオルゲは掴み合いの喧嘩をするんじゃないかというほど辰の近くに立って唾を飛ばしながら言った。

貴様、生きて帰ったからには役に立ってもらうぞ。代理殿との間で何があった? 全て言え。貴様のせいでどれほど』

坊、お前自分の責任を忘れているわけじゃあるまいな』

母さん、それは勿論ですから。今回の作戦で名誉挽回してみせます。ですから、どうか』

社長だ。ここでは母さんなどと言うんじゃない』

 辰は女を見上げた。靴の分を抜いても辰よりよほど背が高いだろう。この雰囲気をたたえる女がSDCFの社長だというのはやたら納得がいく。

林辰、社長命令だ。お前には今からここの演習に参加してもらう。シリアでの活躍は把握しているが、これはお前が経験したことのない規模の作戦だ。新人からやり直すつもりで臨め』

 辰は敬礼した。思うより先に身体が動いた。そういう気迫がこの女にはあるのだ。


   *


重要人物が大集合じゃないか。私も混ぜてほしいぞいっ』

 真っピンクな声が部屋の音響設備から大音量で聞こえた。作戦ディスプレイの表示が歪み、東アジア風のアニメ絵が映し出される。桃色のツインテ―ルを備えた少女だ。鼻が省略されていて目がシュメールの絵画のように大きい。ピースサインを決めている。

お前、陽電子ヤン・ディエンツか』

 辰が叫んだ。陽電子ヤン・ディエンツって何だ、ゲオルゲが戸惑う。社長は腕を組み平然たる表情を浮かべている。

レベッカ、あなたどデカいことを企んでるみたいじゃない』陽電子ヤン・ディエンツが言った。

久々の登場がそれか。相変わらず臆病が過ぎるな、お前は』

臆病じゃない。変身メタモルフォーゼっていうの』

 陽電子ヤン・ディエンツは画面上でジタバタと暴れた。目が不等号の形になり頬が膨れる。表現が記号的すぎるらしい。

こいつですよ、母狼と協力して林辰をここへ連れてきたのは』猫背の男が言った。

ほう、また暗躍か。お前はそればかりだな。一度だって表へ顔を出したことがない』

あんまりいじめられると泣くよ?』

要件は何だ』

私が君のところへ現れるのに用件が必要かい』

無いというなら遮断する』

冷たいんだから、もう。手短に言うよ。私は君に警告をしに来た。君はセヴァストポリの防空網を突破しロシアの海軍基地を襲撃、黒海艦隊を壊滅させようと企んでいるね。それだけじゃない。黒海にSDCF単独の勢力圏を築く。それが君の目的じゃないか』

そうだとして、どうする』

独自の勢力圏を築こうだなんて考えはSDCFの理念に反する。対極だといっていいね。私はそれを許さない』

妨害を試みるということか』

むしろ報復だね。君には裏切られた』

私を止められると本気で思っているのか』

待ってくれ、陽電子ヤン・ディエンツ。君のいうSDCFの理念って何なんだ。ここに理念なんてものがあるのか。僕にはそれがわからないんだ。アリーも、ダンも立派な人物じゃないか。彼らが野蛮と罵られるのは納得できないんだ。教えてくれよ、ここに理念があるというのなら、それを』

ふーむ、そうだね。君は確かにエヴァ・ハラリについて知ってもいいころだ』

貴様、何のつもりだ』社長が叫んだ。

『私たちの計画を消し去るために若い力を迎えようというんだよ。さて、遡ること半世紀——

 陽電子ヤン・ディエンツの画像と音声が壊れ始めた。

——あ、ちょっと、最後まで言わせないつもりかい。辰、少女だ。少女を追え』

 通信が途絶えた。

何者なんですか、あいつは』

 ゲオルゲが社長に尋ねた。

クソ忌々しい介入者だよ。我々の汚点だ』

セヴァストポリを攻略するってどういうことなんです』

 ゲオルゲを半ば突き飛ばすようにして辰が言った。

言葉通りだ』

無人機だけで正規軍に攻勢を仕掛けようだなんて、どうかしてます。白鳥や山繭蛾が所詮は二流の戦力だってことはわかっているでしょう。相手はロシア本体なんだから、代理戦争だったナゴルノ・カラバフ紛争なんて参考になりませんよ』

アブドゥルアジズの反乱を戦ったのだからもっと骨のある奴だと思っていたがな。所詮戦術レベルの経験しかないか』

所詮?』

論より証拠だ。私たちはロシア軍を相手にしても戦えるんだよ。四十秒後、演習を始める。席につけ』


   *


 状況開始を告げるサイレンが鳴り響いた。作戦盤に赤い点が四百ほど映し出される。オデッサ国際空港だろう。ムリーヤの本来の積み荷はつまるところそれ、SDCFの無人機だったわけだと辰は考えた。ウクライナの支部とこの建物は特別太く安全な回線が通っている。ここで行われた入力は遥か遠くの基地で電波に変換される。

順次離陸、東南東へ旋回』

 二十基のカタパルトで並行して十秒に一機ずつ白鳥が射出される。全て空に上がるまで二分強。現実味の無い速さのように感じる。フライトシミュレータは簡素だ。辰に割り当てられた十機は編隊の後方に位置している。

 黒海上でロシアの駆逐艦二隻に捕まった。損害は全体の一割も無い。艦の防空システムで扱いきれる量ではないのだ。敵に電子優勢を奪われるも滑らかにレーザー通信に切り替わる。花笠水母が七機は出ている。あらかじめ雲の中に隠してあったらしい。高出力なレーザーは雲を切り裂くから問題ない。

 武装を減らし増槽が取り付けてあったから燃料を二割残してセヴァストポリに至った。地上の防空システムが猛威を振るう。白鳥たちは次々と落とされるが作戦盤上では落ちたところに並々ならぬ火災が起こっている。蜘蛛の子を積んだ白鳥を落とせば街が燃えるのだ。生き残りは海軍基地上空でおぞましい数の蜘蛛の子を投下した。火だ。火が一切を焼き尽くす。有人兵器の出番がないまま状況終了が告げられた。


   *


 こんなことでは実戦で起こることの半分もわからないと辰は思った。本当にあてにしてきたのは数字より手先の感覚だ。特に離陸が気に入らない。気象条件による違いは十分計画に織り込んであるのだろうか。それに場合によっては花笠水母はながさくらげが風に流されてしまうことも海上からはっきり観測されてしまうこともありえる。

納得いかないか』レベッカが言った。

そうだな、それは納得いかないって顔だ。シリアの職人連中に毒されたな。どうかしてるのは彼らの方なんだよ。十分な数があれば些細な不確定要素など無視できる。シリアはそういうものに鋭敏すぎた』

本部が金も装備もくれないからだって聞きましたよ』

蜘蛛の子は初めにくれてやったじゃないか』

 噛み合ってなかったんですねという言葉を辰は呑み込んだ。怖気づいたのではなく言っても無駄だと思ったからだ。陽電子ヤン・ディエンツの少女を追えという言葉が頭の中で踊っている。


 ボグダンの側から連絡があった。どうやって到着を知ったのか辰にはわからない。ボグダンは無数にあるSDCFの秘匿回線の一つにかけてきていた。顧客用の回線で、作戦の終了がまだ宣言されていない以上ボグダンにはまだ確かに使用する権利がある。盗聴器を仕掛けづらいからと場所は中庭、時間は昼過ぎだ。こないだの雨で地面がぬかるんでいて、菌類のにおいが籠る。あの猫背の男がポケットに手を突っ込んだまま辰たちを監視している。電話は建物の壁に取り付けてある。

結論から言えばウェルズを出し抜こうということになったんだ。黒海周辺国にとって米国がクリミア奪還後の共通の厄介者だということはわかるな。黒海からロシアの影響を排したとて奴らの庭にされちゃ困る。特にトルコ軍はいま無人艦艇の海峡通過を巡る対立を抱えていて、米国を追い出せるものなら追い出したい。そこで代理殿があの通りウェルズをコケにしたものだから、勢いのある方に乗っかりたい企業が次々トルコに接近している。ルーマニア軍も上層部の爺さんらはトルコ側につくつもりでいるらしい。大して強くもない国が集まって米国を相手にするのかって? 必ずしもそういう訳じゃないさ。実際に一戦交える相手はあくまでも米軍ではなくロシアのドミートリー派だ。こちらと通じているイヴァン派が蜂起を起こし、黒海監視団は人道目的による市民の保護という名目で介入。クリミア奪還を米軍抜きでやってみせる』

無理がありますね。そういう搦め手で歴史を作ろうってのは柳条湖事件みたいな発想だ』

異なる点が二つある。まず我々は何も偽装しないということ。イヴァン派の蜂起はたとえそれが手を引かれたものであっても本物には違いない。イヴァン派はイヴァン派自身の動機によって蜂起するんだ。もう一点は国際世論が我々を支持するということ。ロシアには気の毒だがロシアの軍事的後退はほとんど全世界にとって喜ばしいからな』

なぜ僕に明かすんです』

SDCFのお偉いさんは君に何も教えてはくれないだろうからね。昔からそういう体質なんだよ』

 辰はロクサーナたちに代わろうとしたが、ボグダンはその必要はないと言う。大人には必要なくても子どもには必要なのだと答えてパウルに受話器を握らせた。

海軍大佐としてはお喋りが過ぎるようだ』猫背が言った。

あれで結構優秀らしいですよ。身の振り方が上手いそうで』

 辰がそんなことを言ったのはロクサーナが反対側の角のベンチにいたからだ。兄弟は自分たちの通話を終えるとロクサーナに代わることなく受話器を置いてしまった。

知っています。あれに蹴落とされた男は私のかつての同僚ですよ』

ボス、いや、ダンさんのことですか』

ええ。あれが転属願を出すまでは共にここのオペレーターでした。あいつは中枢というものの空気が嫌いでシリアへ行ってしまったんだ。組織で評価されるような人間じゃない。ボグダン・スタン大佐とはまるで反対でしょう』

僕はボグダンさんよりもダンさんに共感しますね』

ええ、そうでしょうとも』

 猫背は建物の中へ去っていき、中庭に辰とロクサーナたちだけが取り残された。いつまでに部屋に戻れとも言われなかった。辰は自分たちを見つめる監視カメラを見つめ返した。


   *


 辰はロクサーナたちと四日間会わなかった。前振りも無く用意された別室に隔離され、新型機の操縦を習得させられた。その機体の名は盗人ヴィヨン。白鳥より二回り大型のジェット機で最高速度は攻撃用無人機として最速のマッハ四に至る。形状には白鳥の面影が残り、人民解放軍の主力を担う海洋生物的な第六世代有人戦闘機たちに設計思想が近い。

 夜が西の空へ追いやられようとする未明に、猫背が辰を起こした。彼は作戦室へ連れて行かれ濃いコーヒーを一杯飲んだ。歳の様々な男や女たちが辰と同じようにコーヒーを飲んでは半個室状のデスクに向かっていった。辰もまたそのようにした。猫背が辰の背後に立ち言った。

他の社員はみんなあなたを羨んでますよ。なにせ盗人ヴィヨンの担当に急遽抜擢されたんだから。戦果を期待しています。私は新鋭機の活躍が見たい』

我々は戦争をしているんじゃないってゲオルゲさんが言ってましたよ。その言い方はまずいんじゃないんですか』

 サイレンが高く鳴り渡った。

外の理屈と内の理屈とは同じじゃないんです。あなたは疑いなくプロの兵士だ』

 白鳥たちの離陸を見届けてから、盗人ヴィヨンがものものしく飛び立つ。その場所はオデッサ国際空港ではなかった。黒海中央に浮かぶ巨大な鉄の城、レヴィアタン号がダミーのコンテナを投棄し甲板を露わにしたのだ。

 辰は衝撃波もGも感じなかった。そればかりか白鳥や山繭蛾でなら確かに感じられたはずの気流、エートスとしか言いようがないような動力と外界との複雑で微妙な関係、そういったものの一切が盗人ヴィヨンには無い。今までシミュレーターでしか知らなかったこの機体は、想像よりずっと無機質だ。盗人ヴィヨンは白鳥たちを突き放さないよう低速で飛ぶ。高度が極めて低い。SDCFと共に作戦行動を行うトルコ軍やウクライナ軍の艦さえ、白鳥の群れが見えていないように見える。

 白鳥たちは海を離れ天を目指した。黄金色の光が黒海を刺す。

敵駆逐艦に捕捉された。予定より時間がある。無力化していくのも手だと思いますが?』

 白鳥隊のリーダーが落ち着きはらって言った。

不要だ。手筈通りやれ』

 レベッカは提案に魅力を感じないらしかった。彼女は簡素な椅子に掛け、チェス指しのような目で作戦盤を見ている。

トーマス猫背、ゲオルゲの準備はいいな?』

ええ』

盗人ヴィヨンに注意を向けているうちにポジションへ付けろ。盗人ヴィヨン、対レーダー偽装を解け』

了解、解きます』

 辰の手元でエンターキーが押された。敵の目に映る盗人ヴィヨンの姿は海鳥から兵器へと変貌していく。

セヴァストポリからのスクランブルを確認、予想会敵時間は二分後です』

新時代の幕開けだな』レベッカが言った。


 盗人ヴィヨンはほぼ垂直に高度を上げMiG-52の視界外からミサイルを見舞った。敵機がチャフとフレアを射出する。その閃光をかいくぐり、盗人ヴィヨンが背後をとる。敵は直ちに撒こうとする。しかし、有人機の旋回半径は盗人ヴィヨンを相手にするにはあまりに大きい。その場でほぼ九十度の回頭を終えた盗人ヴィヨンから次のミサイルが発射される。MiG-52は機首を海面へ向けようとしたところで粉々になり燃えながら墜ちた。

上等だ。残りも片付けろ』

 レベッカの声は上ずっている。

 二機目は抵抗すら許されず撃墜された。事態の深刻さを悟った最後の一機が捨て身で盗人ヴィヨンに向かってくる。後先を考えずに打ち尽くされるミサイル、盗人ヴィヨンはそれを全て機械の精巧さで回避する。辰の手元では指一本動いていない。衝突すれすれまで迫った敵機を機銃が穴だらけにする。自分がトリガーを引いたのか、それとも自律射撃だったのか、辰にはわからなかった。飛び散る破片は尽く盗人ヴィヨンをすり抜け海に飲まれていく。

白鳥隊上陸しました。蜘蛛の子投下、開始します』

 花笠水母からの映像が中央モニタに映し出された。蜘蛛の子たちがセヴァストポリの防空システムを効率よく破壊しつつある。味方の艦隊はじわじわと岸に詰め寄り、揚陸作戦開始の合図を待つばかりだ。ボグダンのフリゲートが後方に陣取り空と背後からの敵襲に備えている。

辰くん、おめでとう。一分半で三機撃墜とは恐れ入った』

 ゆっくりと拍手をしながらトーマスが言った。

なぜ僕にやらせたんですか。こんなもの誰にだってできた』

嘘おっしゃい。あの初撃の鋭さ、敵同士を協力させない位置取り、まだ機械が模倣しえないものだと思いますがね』

一機目のパイロット』

手練れでしたね』

墜とされる寸前に急降下で回避を図ったんです。あの高度でそんなことをすれば勢いが殺せないまま水面に叩きつけられるか気を失うかどちらかでしょう。その判断がものすごく人間臭くて、見てくださいよ、まだ手が震えている』

これからも経験してもらいますよ。第三世代無人機に至り、我々は遂に空でも覇権を獲得しようとしている』

命のやり取りという行為にさえ自分が不誠実であることが認められないんです』

 トーマスは憐憫の表情で辰を見下ろした。毛布のようなぬくさのある丸っこい右目でじっと辰を見つめながらも、斜視の入った左目が何もない空間に何かを見出そうとするように揺れている。

陽電子ヤン・ディエンツは、SDCFが独自の勢力圏を獲得しようとしていると言っていましたね。その手段が盗人ヴィヨンですか』

Mig-52迎撃戦闘機は八十機が配備されロシア国防の主力を担っています。それを正規軍ではなく企業が墜としたんです。一世紀前、第二次世界大戦の時代から空は戦場において特別な地位を獲得してしまった。わかりますか。制空権なしには戦略上の価値を有する規模の作戦は実行しえない。地上の小競り合いなんてものは尽くお遊びだ。SDCFは遂に幼年期の終わりを迎え、単独で戦術に関与できる能力を手に入れた。軍事力を国家の条件とするのであれば、SDCFは今どんな巨大企業よりもはるかに国家に近い。それは我々の悲願です』

国家に相当する地位を得て、何をしようと言うんです』

あらゆる種類の介入とでも言いましょうか』

陽電子ヤン・ディエンツはそれをSDCFの理念に反するものだと言っていました。エヴァ・ハラリって何なんです。知ってるんじゃないんですか』

私の姉で黒海監視団の特別顧問、アレクセイはその養子だ。納得したか』

 レベッカが言った。

彼女は今どこに』

死んだよ。だからこの話はお終いなんだ』

じゃあ陽電子ヤン・ディエンツが言っていた少女というのは』

『そんなものはない』


   *


 赤ランプが点灯した。無線がゲオルゲの声を伝える。彼はこの部屋にいない。

社長、上がれます。やらせてください』

許可する。お前たち、よく見ておけ。核が価値を失った時代に我々が提示する回答、それがこれだ』

 作戦ディスプレイに海中の映像が映る。視点が勢いよく上方へ移動し水面を脱した。炎に包まれるセヴァストポリの街が水平線のごく手前に見える。辰はこれが何処かの主観映像だと悟った。

DEU水霊魔ウンディーネ

 上空を旋回する白鳥の目を借りて辰らはその全貌を知った。全長三十メートル程度の金属塊が海面から顔を出している。胴は葉巻型、その周囲を襞のある水母のような半透明の膜が覆っている。何より目を引くのビスマス結晶の如く輝く塔。一本ではない。大小の塔がその背に何本も乱立している。あの世に大都会があるとすれば、きっとよく似た景観だろう。

ENG異様だ。これが兵器だなんて』白鳥隊隊長が深くため息をつく。

ゲオルゲ、予定は頭に入っているな。漏れの無いように頼むぞ』

当たり前ですよ、母さん』

 水霊魔ウンディーネの背で結晶塔たちの輪郭線が濃くなったり薄くなったりした。次第に細い雷が塔の間を複雑に繋ぎはじめ、青白い繭になる。そして、一筋の光の槍が走った。その槍は沖からセヴァストポリの街へ届き、飛行場の管制塔を貫く。結晶が建物を次第に覆っていく。

トーマス、壮観だな?』

心配が勝っていますよ。水霊魔ウンディーネは私の娘なんだから』

さながらお遊戯会の参観というわけか』

 白鳥隊隊長が二人の会話に割り込む。

社長、水霊魔ウンディーネ出撃の目的は荷電粒子砲の試験運用だったんじゃ? あれは、何なんです』

 管制塔は今や元の姿をとどめず、水霊魔ウンディーネの背にあるのと同じ一本の結晶の塔に変貌している。あまりにも怪しい光沢を持つそれは、蜘蛛の子によって炎上する街に赤く照らされ、理性と常識による認知を頑なに拒む固有の結界を伴う非現実として屹立している。辰は正気という皮膜がすっかり引き剥がされてしまうのを感じた。身体が浮かんでしまいそうなほどだ。正しく重力に縛り付けておいてもらわなければならないと考えて、水を飲む。ディスプレイに映し出される夢幻的な光景とは対照的に、この作戦室はあらゆる質感が現実のそれだ。

荷電粒子砲などというものは無いよ』レベッカが言った。

いや、いま諸君が見ているものが荷電粒子砲だともいえる。それ自体の攻撃能力は乏しい。アメリカもロシアも早々に研究を辞めてしまうわけだ』

ところがこの砲には彼らの見落としていた活用法があった』

 トーマスが言葉を継いだ。

適当な構造物に照射することでその表面をプラズマ化、強力な電磁波を発生する。これは半径二十キロメートルの範囲において人類の脳機能に干渉できる』

不可能だ』白鳥隊隊長が呟いた。

それほどのエネルギーを供給できるわけがない』

できるんだよ』

 中央ディスプレイが白く光った。辰は思わず目を背ける。白鳥隊が慌ただしくなる。激しい落雷がセヴァストポリを襲っている。

蜘蛛の子の炎は雷を招く。君が察した通り、水霊魔ウンディーネにとって最大の課題はエネルギーだった。私たちもあれこれ考えたさ。そしてソ連で研究されていた人工降雨の技術に行きついた。それをもとに完成させたのが蜘蛛の子だったってわけだ。建前としてはあくまで無人機用のナパーム弾だがね』

脳機能に干渉できるってどういうことなんです』

 辰が尋ねた。

SDCFにはその手の研究が山ほど蓄積されていたんだ。資料にアクセスする権限を得て以来むさぼるように読んだよ。脳に外部から電磁波を当てて機能を制限する方法は昔からあったが、せいぜいおもちゃみたいなものだった。しかしこれは有望な技術だ。上手くやれば脳の特定の機能だけを制限することでこちらの望む行動へ導くことができるし、小脳に干渉すれば殺すこともできる。もっとも先任はどうしたって電力が足りないという問題にぶち当たってしまってね、それ以来薬物による方法に舵を切ってしまったんだが。当時は雷を利用可能なエネルギーに変える方法も確立されていなかったから』

トーマス、喋りすぎだ』

失礼、娘の話ですからつい』

それじゃ僕らはこの水霊魔ウンディーネって化物を使ってセヴァストポリの住人を尽く人質にとったって言うんですか』

 辰が叫ぶように言った。警戒音が作戦室に鳴り響く。

Mig-52? 戦力の逐次投入は愚かだが、早いな。待ち受けることはできても出迎えに行くことは無理そうだ』

 白鳥隊隊長が見ているのは上空の赤鱏が撮影した写真だ。

盗人ヴィヨンを向かわせろ』レベッカが言う。

目標は水霊魔か。なぜもっと早く発見できなかった』

 トーマスは白鳥隊の面々を見渡した。歯ぎしりしている。

あなたの愛娘のせいですよ。電波妨害という点ではイスラエルの夜天使ライラより酷い』

 白鳥隊隊長が答える。

目標は、そうですね、水霊魔ウンディーネの存在が知られていない以上はむしろ後方の艦隊じゃないのかな。俺がモスクワの立場にあれば怪現象の真っただ中にあるセヴァストポリは諦めてしまって敵の作戦継続能力を奪うことを考えます』

確実なのか。白鳥どもと違って水霊魔ウンディーネは失えないんだ』

俺の勘はそう言ってますけどね。辰くんの意見次第かな。シリアにいたって言うんだから、戦場の勘は彼の方が鋭いでしょう』

艦隊です。Mig-52は有人機で、そのパイロットは使いつぶせるようなものじゃないんだ。セヴァストポリの炎の中に突っ込ませたりしない』

駄目だ。水霊魔ウンディーネを守れ』

 レベッカが言った。

水霊魔ウンディーネの実力が示されればSDCFの地位それ自体が向上することになる。今後ろにいる艦隊はそのとき弱体化している方が却って都合がいい。契約の放棄が社にとって不利益になる場面ではないんだ』

 辰の脳裏にボグダンたちの姿が浮かんだ。

盗人ヴィヨン、艦隊の護衛に向かいます』

命令を尊守しろ、林辰』レベッカが叫ぶ。

トーマス、こいつと盗人ヴィヨンを切り離せ』

動かんのです』

ちっ』

 レベッカは上着の内側から拳銃を抜いた。マテバの管制射撃仕様だ。辰は振り返り不動明王が如き彼女の双眸を見つめながらも、右手をキーボードから離さない。

 レベッカは引き金を引いた。銃弾は弾倉に居座ったままだ。もう一度引き金を引く。シリンダーも撃鉄も正常に動作したが、それだけ。

管制射撃なんてハイカラなことしようとするから私に邪魔されるんだよっ』

 陽電子ヤン・ディエンツの声が響いた。墓守犬ハウンド・ドッグと同じトリックを彼女も使えるらしい。

 レベッカは銃を捨て辰を操作端末の前から引き剥がそうとする。白鳥隊隊長がそれを止めた。トーマスが背後で叫ぶがもはや人語として意味を成していない。

辰くん、やるんだ。依頼人を守れ』隊長が言った。

 盗人ヴィヨンはボグダンの艦から十キロの洋上で三機編成の敵を捉えた。盗人ヴィヨンの機動力相手に中距離ミサイルは当たりようがない。ギリギリまで引き付けたそれを九十度のローリングで回避する。まさに紙一重。翼端のダミー熱源に引き付けられていたミサイルは機体をすり抜けていく。数秒後、視程内に入る。盗人ヴィヨンの軽量なミサイルたちが至近距離から敵機を撃墜する。

もう二機、下だ』

 隊長の声。盗人ヴィヨンのカメラがそれを捉えた直後、その内の一機がボグダンの艦に撃ち落とされた。最後のミサイルを発射する。敵機はフリゲートの百メートル手前で海に沈んだ。

敵はまだいる? 赤鱏は何を捉えているんです』

海上にマッハ二で移動する物体五つ。ルーマニア艦だけを狙ってる』

 女性のオペレーターが答えた。

ドラゴンだ。奴らだ』

 辰は高度を海面から二メートルまで落とした。海が切り裂かれていく。敵はまだ盗人ヴィヨンに気付いていない。ルーマニア艦がこぞって対艦ミサイルを発射し、ドラゴンが一機また一機と沈んでいく。盗人ヴィヨンが自律艦艇の残骸を掠めた。それを見て隊長が叫ぶ。

下からやられてる? ドラゴンは囮だ。海の中を探せ』

対潜装備なんてないよ』

 トーマスが答える。

 次の瞬間、ルーマニア海軍の二番艦が火を噴いて割れた。海面が盛り上がったのだ。爆風にあおられ盗人ヴィヨンが激しく振動する。一番艦——ボグダンの乗艦——が水平線すれすれに見える。その影が火を上げて沈んだ。高い波が盗人ヴィヨンの下を駆けていった。

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