第2話

 空の色さえ日本と同じではなかった。辰は屋根のないトラックの荷台に寝転びながらダマスクス市街の賑やかな通りを縫うように運ばれている。左右に狭く迫った土色の建物の群れから生える色とりどりの横断幕や看板、それらが紫色の空によく映えるのだ。トラックは少し進んでは止まることを繰り返していた。その度に辰は上体を起こし外の世界を見回してみる。人も車も、飛び交う言葉もそれぞれの場を満たす感情も密だ。この街には余白がない。駆け寄ってくる少女から辰は新聞を買った。今日の新聞はとっておきたかったから。その少女の向こうに辰は見慣れた女を見つけた。ただ立っていても躍動的な肢体、力強く魅力的な目、いくつもの土地の記憶が混ざり合った混血児の顔立ち。遼子だった。

 トラックは街の中心を出て北西の郊外へ向かっている。建物が次第に減りはじめ、区画も単純になっていく。

JPN大学は?」

 辰の隣で遼子が訊いた。遼子は話すときいつも顔をきっちり相手の側へ向ける。辰は遠ざかっていく市街を見ていた。いや、見るふりをしていた。遼子と視線を合わせることが恥ずかしかった。二人は荷台と運転席を隔てる壁にもたれて並んで座っている。

行ったら休講だった。ちょうどアリーが来てたからそのまま乗せてもらってる」

また警備の仕事か。厳重だね。大学の防犯なんてそこらへんの警備会社に頼んでも十分なのに」

君たちの会社が学長を怯えさせて売りつけてるんじゃないの?」

上の人たちがどんな商売をしてるかなんて知らない。私は辺境の下っ端社員だから」

でも期待の若手だってアリーに聞いたよ」

あの人は誰にでもそう言うの」

 路面の凹凸と連動して荷台は上下に激しく揺れた。ただ座っていると車の進行方向と反対側へ流れて行ってしまうから二人はときどき座り直さなければならなかった。辰の足が荷台中央の金具に当たった。大きく頑丈そうな部品だ。

これ、何」

昔はそこから機関銃を固定してたんだって。テレビでよく見なかった?」

じゃあこのトラックは内戦の生き残りなんだ」

これ、辰の寮へ帰る道じゃないでしょう?」

 遼子が言った。緑の上に赤文字で書かれたショッピングセンターの看板が後方へ流れていった。

私たち、今どこへ向かってるの」

どこだと思う」

いじわるしないでよ」

 遼子は荷台から身を乗り出し運転席のアリーに行き先を尋ねた。遼子の言葉はアラビア語のまさにちょうどこの辺りの方言だ。立派なものだと辰は思う。

アリーもいじわる。教えてくれたっていいのに」

悪い所じゃないよ。それよりさ、さっきの会話半分も聞き取れなかった」

ええ? 難しいことは言ってないよ」

標準語フスハーでないと頭が追いつかない」

ポンコツだなあ」

 ありのままの荒野が景色に雑じりはじめた。ダマスクスは想像を絶して狭い。トラックは幹線道路を疾走している。

わかった。塔へ行くんだ」

 二人の行く手にかがり火のような塔が聳えている。塔の麓の街はダマスクス市街から四キロほどの距離だ。機能から言えばベッドタウンだが街の規模を考えるとそんな言葉を使うことは憚られる。むしろ丘の上の新興住宅地と言った趣だ。辰はこの地区が好きだ。生まれ故郷とよく似ているからかもしれない。

休講を知ってから今日がその日だと気づいたんだよ。不勉強なわけじゃないよ。だってどの日を以って終わりの日とするかはみんながみんなばらばらなことを言ってるでしょ」

まあ、そうだね。政府は今日だって言ってる。私は納得してないけど」

 遼子は辰が買った新聞を手に取った。一面の見出しにはとびきり大きな文字でARA STANDARD内戦終息から十年』とある。遼子はその記事には目もくれず内側の記事を読み始めた。

またゴラン高原で小競り合いだって書いてある」

塔から見えるかな」

見たって面白くないよ」


   *


 塔は荒野にぽつねんと立っていた。辰とアリーは内部の螺旋階段を競いながら駆け上がった。アリーは屈強だ。六十歳とは思えない筋力で牛のように踏み込んでいく。一方で辰は若さに任せて軽やかに登っていくが、半ばほどで息が切れ足が止まってしまった。追いついてきたアリーが辰の肩に手を置いた。

ARA SYRIAさあ、まだ行ける』

 そう聞くと辰は自分の中にはまだ無限の活力があるような気分になって、一段飛ばしで階段を駆け上がっていく。辰は頂上の展望台へ一番乗りした。間を置かずにアリーが着き、最後に遼子が来た。ダマスクスの全てが見下ろせた。四方を岩だらけの砂漠に囲まれた狭い町だ。辰の大学がある中心街はいかにも古い。その周りを高層ビル群が欠けた輪の形になって取り囲んでいる。輪の欠損部分は内戦の跡がそのまま残っているのだ。その更に外に位置している建設中の巨大な箱は高速鉄道の駅になるのだという。二筋の幹線道路が一本ははるか北東の砂漠の奥へ、もう一本は南西のゴラン高原へ伸びている。辰は南の地平線の先で黒煙が細く昇っているのを見つけた。

ARA SYRIA見てよ。建物か何かが燃えてる』

 辰はシリア方言を真似て言った。アリーがいるからだ。

あの辺に燃えるような建物なんて残ってないさ。俺は十年前にあそこで戦ったからよく知ってるんだ』

戦車?』

そんなものが出るほど大ごとじゃない。せいぜい装甲車だ』

 三人の前を白い影が轟音と共に飛び去った。辰にはそれが首の長い水鳥のような姿をしているのが辛うじて見えた。

ボス、白鳥を貸してやったんだ。何のつもり』

 遼子が手すりから身を乗り出し窓に張り付いて叫んだ。

ダンのやろう、南の国境の連中へ恩を売ろうってことか。あの人は内側の政治にも忙しいんだな』

あれはアリーさんたちの会社の無人機?』

ああ。滅多なことじゃ南へは飛ばさないんだが』

まずいこと?』

いいや』

 遼子が遮った。声の調子が明らかに興奮している。辰とそう齢の違わない若い女性が兵器に熱を上げる様子は異様だ。

本気で戦おうと思ったらシリア正規軍が出る。これは私たち民間軍事企業任せで構わない仕事。農耕カルティヴェーションだよ。規模がいくぶん大きいけどね』

 農耕カルティヴェーションという概念は辰も京都にいたころ習ったことがあった。膠着した戦線や未確定の国境で展開される小規模で散発的な戦闘のことだ。実力を確認しあい不測の事態を避けるために行われる。安価な無人機が戦場に現れはじめてから、この手の作戦は頻繁に行われるようになった。領空ぎりぎりへ戦闘機を飛ばすよりずっとローリスクな上に、空という抽象的な空間と異なり地上に明確な前線を意識させることができるからだ。念入りに農耕カルティヴェーションを繰り返した前線はいわば砦として機能する。農耕カルティヴェーションは攻性の防壁を築く行為だ。

シリア・イスラエル間の戦闘ってことはいつも通りアメリカが仲裁に入るのかな』

宗教学の学生の割には詳しいじゃないか』

 アリーが言った。

いくらなんでもそのくらいは教わりましたよ。かつての独裁が倒れ親米政権が樹立されたいま、シリアとイスラエルは共にアメリカの同盟国だ。いくら憎みあっていたって武力だけで殴りあうわけにはいかない』

が、今日は事情が少し違う。内戦終結から十年のアニバーサリーだからな。アメリカの大将様が多少はっちゃけることを許してくれてるんだろう。二、三日の間は停戦勧告が出ないかもしれない』

アリーさんや遼子さんも戦場に出るんですか』

南の国境は俺の関与するところじゃないさ。それに遼子は事務所組ホワイトカラーだ。泥をあびるような仕事はそもそもしない』

育ちの良いお嬢様だからね。ほこりをかぶったら倒れちゃう』

 三人は南の方角を無言で見つめた。煙の他には何もはっきりとわかるものはなかった。

降りようか』

 アリーが言った。辰と遼子がそれに続く。

 辰のポケットで携帯が揺れた。陸郎からメッセージが届いていた。JPN」とある。その文面とそれが表現する事実とを結びつけるのに数秒かかった。意識が遠くなる気がした。あんな人の訃報でも自分が動揺することを辰は意外に思った。

どうかした」

 遼子が辰に声をかけた。辰は携帯を隠しいや、何も」と誤魔化した。なぜ誤魔化そうと思ったのか辰にはわからなかった。ただ遠くかけ離れた物事どうしを結びつける直感が辰にそうさせたのだ。辰は振り向き、京都の出来事の詳細がそこにあるかのように遥か南を見やった。煙がまだもうもうと立ち上がっている。


   *


 翌日の講義は全く上の空だった。陸郎はそれきり辰になんの連絡もよこさない。それでも辰からのメッセージには確かに目を通しているようだから、向こうはただただ忙しいのだろう。

ARA STANDARD辰、さっきの発表を要約してください』

 教官が辰を指名した。既に配られていたレジュメに目を通し、辰はまるで聞いていなかった発表を頭の中で組み上げていく。先の内戦に関係する諸勢力を宗教と宗派によって切り分け、それぞれの正義を分析し対比していく内容だ。辰はこんな趣旨の言説にどれほどの回数触れてきたかもはやわからなかった。なんにせよおびただしい回数であることだけは確かだ。

——つまり、このような相対化の言説は現実に対して無力なのです。奴らは我々と決定的に異なっているという認識は、協調の入り口である以上に出口です。根本的な相互理解が不可能だという認識は、私たちを混沌へ誘い込みます。当然です。分かり合えないものと上手くやっていくよりは、飼い馴らすか殺すかした方が効率がいい。その誘惑を退けるために、私たちは何か絶対的な価値を共有しなければならない』

妥当だね』教官が言った。教官は中年の女性だ。

だけど、辰。要約と君の意見を混同してはいけません。そのことはわかっていますね?』

こんなもの、要約だけだったら発表を聞かなくたってできます。そっくり同じことを、みんな、さも新しく立派な考えかのように言うんだ。それほど繰り返しておきながら、誰も、その考えが現実に引き起こしている問題へ何の関心もない。正義の敵は別の正義だなんて色褪せたお題目を大声で繰り返すことにしか能がない』

 発表者の顔が羞恥で真っ赤になった。それを見て、辰も自分の発言が急に恥ずかしくなった。今言うべきことではなかった。

演習の流れを中断してでも君はそれを言いたかったんだな。まあ、いいよ。君のような骨のある学生は必要ですからね。それに関係する話題なんだけど』

 教官は昨日の新聞をスクリーンへ映し出した。辰が買ったのと同じものだ。もっともダマスクスで新聞と言えばこれか国営紙のどちらかなのだから必然の一致だ。

内戦終息から十年などとありますが、これも一つの立場からの正義です。三三年七月十一日は親米政権樹立の日だね。それから』

 新聞が今日のものへ差し替えられる。ゴラン高原の昨日の戦闘についての記事が一面を飾っている。

昨日の正午にイスラエルとの間でいつもより大きな衝突が起こった。でも、これは不測の事態ではなかった、と今のところは推測される』

農耕カルティヴェーション』と現地生まれの学生が辰の隣りでつぶやく。

その通り。でも今回は規模の他にもう一つ異なる点がある。昨日の戦闘の背景にある政治的意図を読み取れる?』

シリアから仕掛けたということになり対称性が崩れるんだ。そうですよね、先生?』

 辰が言った。

つまり、こういうことなんですよ。昨日はシリア現政権が内戦終結の日と主張する日付だ。一方でイスラエルが主張する終結の日は一か月先。だからイスラエルの言い分では十年前の一か月の間に起こした軍事介入はあくまで新政権樹立のための援助、一方でシリアからすれば終戦直後の混乱期を狙った悪質な攻撃だ。実際イスラエルは既に新政権に接収されていた旧軍の装備を破壊している。戦後シリアの軍事力を削るために』

 アリーの背姿が辰の脳裏をかすめた。アリーが十年前にゴラン高原で経験した戦闘というのはこれのことではないか。

当然この件を巡る憎悪はシリア中に渦巻いている。でも今の親米政権下では表向きにイスラエルを批判することができない。だからこの機会にシリア、イスラエル、アメリカの三国は世論のガス抜きを図っている。そう考えました』

君たちはどう思う? こんなふうにしてパフォーマンス的に行われる管理された戦闘行為は許しがたいと考えますか』

 学生たちは俯いて自身の感情や考えをつぶさに検討しているようだった。それから一人が言った。

数年前ならそうだったかもしれません。戦場の主役が人間だった時代には』

 他の学生たちも次々にそれに賛同していく。辰はしかしその考えを受け付けなかった。アリーという、今ではめっきり少なくなってしまった昔ながらの傭兵と親しくしているから。

僕は違います』

 辰が言った。理由を求められ、辰はアリーのことを話そうとした。どうとでも話せると思っていたのに、言葉に詰まってしまった。近所の食堂で知り合ったことだとか、その縁で遼子という日本の血が流れる同世代の女性と知り合ったことだとか、昨日の塔のことだとか、些細なエピソードは無数にあるにもかかわらず、いざアリーの為人ひととなりについて話そうとすると、自分があまりに無理解であることに気づかないわけにはいかなかった。アリーが戦場にとどまる理由を知らないまま彼の気持ちを代弁するようなことが許されるとは辰には思えなかった。

 その日の講義は考えが有耶無耶な終わり、辰はまさに新館を出て古臭いダマスクスの街へ出ようとしていた。携帯が鳴った。陸郎からだった。

JPNわりぃ。警察にいた」

殺されたってどういうことだよ」

殺されたんだ。お前が日本にいたころ先生から貰ったビラの武装組織に」

 ネット電話の音質は会話に支障をきたす程度にはひどい。辰は自然と大声になっていく。意思疎通の困難さが辰をいらだたせた。

どうして。殺される理由なんて」

先生、組織に潜入取材したフランス人記者のルポルタージュを翻訳してただろ。あれが連中の気に障ったんだ」

片桐先生は彼らに対して否定的ではなかったのに」

そんなこと知ったことじゃないんだよ。あいつらにとって学術的だとか批判的だとかいう視点は一切邪魔なんだ」

でもあんまり急じゃないか。まだ出版されてもいないのに」

急なもんか。昨日じゃなきゃ駄目だったんだ」

内戦終息の日に合わせたのか」

だろうな。あいつらにとっちゃ屈辱的な日だもの。辰、お前はどうするんだ。日本へはもう帰らないのか」

わからない。けど、積極的な理由はなくなった」

 辰は自分の今後について考えようとしたが頭が回らなかった。意識は却って過去へ引きずられていった。それから、自分がかつて人生の岐路に立って信仰の真似事により平穏と正しい判断とを得ようともがいたことを思い出した。


   *


 京都の夏は死の匂いがするほどに暑い。それは伏見新都心でも、この古い上京区でも同じことだ。辰は礼拝堂を出たばかりだった。礼拝堂の厳かな涼しさは瞬く間に蒸発し、ひどい湿気と肌を焼く熱線が体を包んだ。白髪混じりの顎髭を鉄の綿のように垂らした初老の男性が木陰のベンチにうずくまるように座っている。辰はその隣へ腰掛けた。男性は辰の方へ距離を詰めてくる。男同士が、それもこの暑さの中で身を寄せあう様子は奇妙に違いなかったが、辰はそれに慣れていた。この近さは中東での標準的な距離だということを辰は知っていた。あくまで話に聞いただけだったが。

 男は通りかかる学生たちへ唸るように声をかける。それは優しげに響いたり叱責の調子だったりするが、誰も彼のくぐもった声から意味のある言葉を聞き取ることはできない。

また異教の礼拝に行ってきたのか」

習慣ですからね」

 男と辰は短く言葉を交わした。辰は襟を持ち上げながら手に持ったノートでシャツの中へ風を送る。辰は冷たい汗が肌を伝うのを心地よく感じた。

悪癖だよ」

 男が言った。男の顔は皺まみれで不健康に黒ずんでいる。しかし眼光は虎のように鋭い。

先生の煙草みたいなものですか」

そうだ。悪魔だ」

 先生と呼ばれた男は懐から輸入物の見慣れない煙草を取り出した。火を付けようとして、警備員に声をかけられた。彼は警備員へ向かって吠えた。吠えた、とでも言う外に表現のしようがない獣の声だ。警備員は落ち着いて首を横に振った。片桐——その男——は皺だらけの顔にさらに皺を刻みながら煙草をしまった。

老けたな。昔はこうすれば誰だって追い払えたものだが」

お話は、何です。それとも僕が礼拝を終えるのをただ待っていてくれたんですか」

辰、お前は私の愛しい教え子だ。お前は別格だ。わかるね。お前のためなら私は喜んでこの忌々しい湿気に蒸されようとも。しかし今日は実際、要件がある」

 片桐が辰に一枚のビラを渡した。印刷の質はよろしくなく、情報の取捨選択なく何もかも強調しようとするフォントの選択は悪趣味だ。辰は入学直後にこんなビラを何枚ももらった。それらは大概、この京都市内で極秘裏に、しかし確かに活動する魑魅魍魎のような極左組織のものだった。しかしこのビラはそれらとは違って英語で書かれていて、とびきり大きな表題には装飾的な書体でアラビア語が併記されている。UNICONCEPTユニコンセプトの概念マトリックスがバーコードで添えてある。興味のあるものはみな自分の母語に書き下して読めということだ。

宗教の開放に興味があるだろう。近代的価値観の専制への怒りに身が震えるだろう。若い肉と血を、価値ある行いのために躍動させたいだろう。わかるよ。なんと言っても、お前は若いのだからね。ここに二つの選択肢がある。一方を選べば、この日常が続くだろう。しかしもう一方を選べば」

本当の命を得るっていうんでしょう」

 片桐はにんまりと口角を上げた。

そうだ。お前は本当の命を得るに値する人間だ。

 片桐は辰の手へビラを押し込んだ。辰は腰を上げようとする片桐に声を掛けた。

昼のお薬飲まれましたか」

飲まん。飲もうが飲むまいがいずれ楽園ジャンナハへ召されるときが来るのだからな」

 辰は片桐の顔のように皺まみれになったビラにじっくりと目を通した。シリアとイラクの国境沿いにまだしぶとく存在している武装組織の勧誘だった。辰はそれをゴミ箱へ捨てた。


   *


 伏見は雨の中だ。辰は大学から地下鉄に乗った。半世紀も前から走り続けている車両はそれでも近代化されていて、側面に電磁石のケースが括り付けられている。地下鉄は京都駅の南で地上に出て、非浮遊リニア化された近鉄へ接続する。丹波橋までは一本だ。このわずかな近鉄区間は市営地下鉄にとってはいわば喉から手が出るほど欲しい未回収の領土みたいなもので、京都・丹波橋間はこの十年間莫大な利益をもたらし続けている。もっとも私鉄が儲かったおかげで沿線が発展したという側面もある。関西は鉄道社会というよりむしろ、私鉄社会だ。丹波橋の利用客数は梅田に追いつきまさに追い抜こうとしている。この奇跡はひとえに伏見新都心開発の成功による。安全保障上の理由から首都機能分散を迫られた日本政府は少なくない省庁を名古屋と伏見へ移転することになった。第一候補だった大阪は自らその座を降りた。官に染まるにはあまりに民が強い街だったから。泡沫候補に過ぎなかった伏見が選ばれたのは、大阪や奈良のリニア駅からのアクセスの良さ、そしてペンキで塗りつぶされることを拒まないその無個性ゆえだ。伏見の真新しい高層ビル群は偶然性の産物と言っていい。政治と経済の重力に引かれた無数の大学がすぐに移転してきて、白一色だった伏見にささやかな彩を加えた。だから伏見はいま官と学生の大都会だ。事実、辰も二回生まではこちらのキャンパスに通っていた。上京区へ通うようになってからも頻繁に訪れる。

 辰は酸性雨をかぶりながらビルの谷間を歩いた。道路の轍に水たまりができている。濡れて光沢をもったアスファルトは見え方が複雑だ。重機で押し固められた夜空のような趣がある。

 騒がしい店へ入った。いわゆる学生向けの飲み屋だ。糊のきいたワイシャツをやけに生真面目に着ている恰幅のいい坊主頭がいる。辰はその向かいで胡坐をかいた。

ビールでいいか」

あぁ、そうだね。いや、注文くらい自分でする。それより陸郎、お前もあのビラ貰った?」

ビラ? 例の市営地下鉄リニア化反対のやつか。磁場がどうとかって」

いや、過激派のやつだ」

自慢げに見せられはしたけど貰えなかったな。怪しい筋から手に入れたらしいぜ、あれ」

僕は貰った」

へぇ」

捨てた」

師の期待を裏切ることに余念がないね」

困るんだよ。妙なことを期待されても」

片桐先生から死ねって言われた奴は大成するジンクスがあるの知らないのか」

お前だって毎日言われてるだろ」

あんなのは違う。ってやつのことを言ってるんだ」

僕は死なない。永遠に生きる」

永遠の命が欲しいならまず死ぬことだぜ」

実際のところ、どう考えてる」

何を」

片桐先生の処遇のことだよ。学生を武力組織へ勧誘するような人、大学に置いておけないだろ」

でもあの人はこの分野の権威だ」

だからだよ。社会通念上あの人を大学に置いておくわけにはいかないが、学問のためには、まあ、見捨てるわけにもいかない。そこで大学はどんな判断を下すんだろう? おい、興味がないような顔してるなよ。僕らの今後に関わるんだ」

 陸郎は紫煙をくゆらせた。片桐にせよ陸郎にせよ、喫煙者というものはいつまでも絶滅しそうにない。

実のところ俺は宗教にこれっぽっちも興味がないって話は既にしたよな。それじゃあ俺がそれまでどう理解してたかって言えば、恥ずかしいことなんだけども、宗教だとか、およそ人の信仰とか信念とかいうものにはこれっぽっちも世の中を変える力がないと思ってたんだよ。世の中を動かすのはいつも金と武力だと思ってたわけだ。だから片桐先生ってのは衝撃的な人物でさ。あんなに強烈な思想を持った人間がこの国の中東理解を形作ってるんだぜ。良くも悪くも、片桐先生という個人の影響抜きに中東について考えることはこの国では不可能だ。それはもちろん企業の動向だとか、政治判断にも影響する。金でも武力でもない力で世の中が変わっちゃうんだよ。感動したね。だからさ、たとえあの人の信条が利益より害を多くもたらすとしても、俺はあの人を観察していたい。もし片桐先生が大学を追い出されるというのなら俺もついていく」

すごい決心だな。それがまずは死んでみるってことか。僕は無理だ。片桐先生には疲れ切っちゃった。正直、あの人からは逃げたい」

でも片桐先生以外に師たるべき人物もいないんだろ?」

そうだよ」

それならきっと脳みそより体を頼るべきだな。留学、してみたらどうだ。先生はそりゃあもちろん向こうへは何度も渡ってるが、若いころにあっちで腰を据えて研究したことはないんだ。そうやってお前だけのユニークな経験を積んでさ、それからの身の振り方は後で考えればいいんだ」

留学か。どこがいいのかな。僕は信仰の実際に迫る研究がしたい。いわばこう、街の何でもない小さな礼拝堂に通う信徒の宗教生活に迫るような」

ならシリアだ。なんといってもシリアだよ。内戦後の新秩序の中で信仰はさほど国家によって制度化されず、活き活きと人々の生活を形作っていると聞く。辰、お前が行くべき所だ」


   *


 辰は結局、片桐への返事を曖昧にしたまま大学を卒業しシリアへ渡った。ダマスクスの大学院は秋入学だから半年の猶予があった。辰はその間に現地の語学学校へ通った。アリーと知り合ったのもそのころで、人通りの激しい通りにある安い食堂でのことだった。豆と肉団子のスープを啜っていたときに筋肉隆々な初老の男から声をかけられた。振り向いた辰の顔を見て男は驚きつつ隣に腰を下ろした。男はアリーと名乗り、辰を連れと間違えたのだと釈明した。辰とアリーはそれから頻繁に会うようになった。いわば年の離れた遊び友達だった。京都にいたころに自分が何を迷い何のために解決を求めていたのか、辰にはもはや思い出せなかった。


   *


 下宿の門の前にアリーが突っ立っていた。トラックの運転席に遼子もいる。

ARA SYRIA北へ帰ることになったんだ。お別れを言おうと思ってな』

急ですね。昨日のゴラン高原の件のせいですか』

あまり内部の事情を教えてはいけないんだが、間接的にはそういうことだ。昨日からイラク国境の過激派が活発化してるらしい。もしかするとイスラエルと共謀してるかもしれない』

 日本で片桐を殺した勢力と戦おうとする人が目の前にいることに辰は世界の狭さを感じて目が回りそうな気分だった。

そんな顔するなよ。向こうが落ち着いたらまた首都での仕事があるかもしれないんだ』

なあに? 辰が寂しそうな顔してるの?』

 運転席から遼子が顔をのぞかせて辰をじっと見た。辰は遼子の目の高さが左右で微妙に異なることに気づいた。均衡の崩れが却って美しかった。

アリー、これは寂しそうな顔って言わないよ。どうしたの、そんな思いつめちゃって?』

いや、なんでもない』

 辰はまた誤魔化そうとした。なぜ誤魔化そうとしたのか自分でもわからなかった。しかし、それはもしかすると、自分の人生に関わる役者の数が増えることを無意識かつ頑強に拒んでいるからかもしれないと、霊感に導かれて辰は思い至った。決心したというより、決壊した。辰は自分自身に驚きながら次のように言った。

変な話だけどさ、僕を連れて行ってもらうことはできませんか。つまり、アリーさんたちの会社に就職することはできませんか』

 アリーと遼子は呆気に取られ、放心した自分のありかを探すように互いを見つめた。それから腹を抱えて笑った。

いいぜ。ボスに交渉してあげよう。優秀な学生さんだからな。採用してくれないってことはないさ』

でもいいの? 民間軍事企業なんて親が泣くよ』

さんざん泣かせてきました。今更僕のために流す涙なんて残ってませんよ』

 辰は軽口を叩いた。しかしそれは余裕のためというよりは、激しく震えている自分自身をなだめるためだった。


   *


JPNお前やっぱおかしいよ」

 電話越しに陸郎が言った。彼がそうやって呆れ返るのを辰は何度も見てきた。それは辰が賭け麻雀で大勝したときだとか、あるいは奨学金の書類を出し損ねたときだとかで、事態の大小にかかわらず陸郎は大げさにため息をつく。辰は陸郎のそんな癖が好きだ。彼はいま狭いバスに揺られているところだった。バスはダマスクス北東の悪路をひた走っている。車体がひどく揺れ金属の擦れる音がかまびすしいから電話を遠慮する必要はない。窓越しに砂ぼこりの乾いた匂いがする。幹線道路に沿って電波塔が点在しているから通話が途切れる心配はなかった。道路は建設中の高架と幾度となく交わる。高速鉄道を敷こうというのだ。北東への道は多額の資金が投入されている開発政策の目玉だ。

片桐先生の仇討ちでもするのか」

そんなことじゃない。ただ、行ったっきりの根無し草になろうと思って、そのために入社を決めた」

いつもそれだ。お前はいっつも俺にはわからない何かに悩んでいて奇行に走って救われたと嘯いて、そして程なく元の陰鬱な表情に戻っちまう」

今回は違う」

違うだろうよ。次に会うときお前は骨になってるかもしれないんだからな」

元気そうで安心した」

気味悪いこと言うな」

 数秒の無音が続いた。辰が通話を切ろうとしたときには既に陸郎の側から切られていた。思い出した、とでも言うように文字でメッセージが届いた。

俺のつらさもわかってくれよ。片桐先生についていこうと思ったのに、あのジジイ突然いなくなっちまったんだ。お前もいつもの病気で遠くへ行ってしまう。俺はどうすればいい」

 辰は少し思案してから親指で文字を綴った。多少臭い台詞を吐いても構わない気がした。

お互い本当の意味で生きて会おう。僕はそのためにいま自分の生に試練を課そうと思う。まず死んでみるってやつだ」

 陸郎の返事は知らん」の一言だった。これが暫く陸郎と交わした最後の言葉になることに辰は満足した。というのも辰は新人キャンプの間私的な通信を禁じられるからだ。バスはダマスクスを発ってから六時間後に停車した。作業服の男が巡回して乗員たちから携帯やあらゆる通信機器を預かっていった。説明はなかったが、直前に大河を渡ったことから自分のいる場所がラッカであることは察しがついた。まだ南にうっすらと見えるその水面は太古から文明を育んだあのユーフラテス川なのだ。バスはそこからさらに十数キロ東へ進み小さな町へ出た。そここそが目的地だった。

 辰の入社したSDCF——警備及び防衛顧問事務所Security and Defence Consulting Firm——はこの土地に北方部隊を置いている。事務所と言っては大げさだ。辰が知る施設で例えるならば、消防団の詰所とよく似ている。もっとも辰はこのような規模の小ささにはシリアに来てからすっかり慣れていた。だからむしろその建物が堅牢で、ガレージに収まっている車両が物々しいということの方が気になった。アンテナが巨大なことにも圧倒された。総括すればその建物は小さいながらも確かに基地だと判断するのに十分な特徴を備えていた。

 辰を含む新人ら八人はバスから降りるなりその建物の前に並ばされ、人を待った。辰の他はみなこの土地の顔だ。八人はそれぞれ個性的で、肥満体がいればやせ型もいるし、眼鏡をかけている奴や前歯の欠けている奴もいる。しかし全員が男だ。遼子のような存在は予想よりさらに少ないのかもしれないと辰は考えた。またおそらくは紅一点である遼子がこの血生臭い職場でどんな仕事を割り当てられているかに気づいてしまい気分が悪くなった。辰は身近な人物の苦難を知るたびに罪悪感に襲われる性質たちの若者だ。

 長身の白人男性がのっそりと現れた。その歩き方がよく訓練されていることに辰らは否応なく気づいた。男は八人の正面に立ち、名乗った。意外にも流暢なシリア方言だった。

ARA SYRIAダンだ。ボスと呼べ』

 眼鏡と歯欠けが敬礼した。辰らはそれにつられてぎこちない敬礼を試みた。自分の姿勢が無様であることは鏡なしでもわかった。

君らは従軍経験者か。ならもういい』

 ダンは傍らにいたアリーに二人を連れていくよう指示し、アリーは彼らを例のトラックの荷台に載せて走り去った。辺りは建物がまばらで、トラックのあげる砂煙がいつまでも見えた。ダンは残された新人たちに敬礼を解くように言った。辰らは腕を降ろすタイミングを図りかねて今の今まで同じ姿勢を保っていたのだった。

この職場において馬鹿正直は美徳だ。君らは良い社員になる』

 ダンがにこやかに言った。その言葉で新人たちの緊張が解けた。辰はダンの振る舞いに片桐と似たものを感じて却って体が強張った。ダンの緑がかった目が辰を捉えた。

君は大学院を辞めてうちに来てくれたんだってね。どんな事情があったのかは知らないが教養もまた美徳だ。期待してるよ』

ええ』

 ダンは笑った。作り笑いではない笑顔だと辰には直感的にわかった。

 六人は事務所を案内され、走り込みを命じられ、共に夕飯を食べてから仮眠室の三段ベッドに詰め込まれて寝た。辰は消灯の直前にアリーが連れて行った二人がまだ帰っていないことに気づいたが、彼らの行方について考えるにはあまりに眠気がまさっていた。

 翌朝、辰らはその二人がすっかり縮み上がり濡れた猫のようになって帰ってくるのを見た。新人たちはちょうど運動部がやらされるような朝の基礎トレーニングを終えてAKの撃ち方を教わっているところだった。AKといっても冷戦時代のアンティークを使い続けているわけではもちろんなく、互換性を維持しながら世界中で勝手気ままな近代化を加えられたコピー品とも言えないような銃なのだ。AKという文字列がいわば統一された規格の意味で使われていることを辰はこの日初めて知った。耳と肩が痛くなった。的が三十メートルより遠くなると碌に当たらなかった。

当てなくていい。当てるような銃じゃない』とダンは言った。

君らは弾幕を張れさえすれば十分だ。それ以上のことは熟練した現場組ブルーカラーと無人機がやる』

 辰は射撃訓練に入るのが早すぎると思っていたが、その言葉を聞いて納得した。ダンの言う無人機は射撃場の上空でゆったりと弧を描き飛んでいる。塔で見た白鳥の他にえいの形もある。航空機というよりはむしろ凧に似ている。

撃ち方やめ』

 ダンが叫んだ。トラックの走行音が近づいてきていた。アリーたちだ。アリーはいつものように溌溂としていたが、荷台から降りてきた眼鏡と歯欠けは遠目に見ても異常だ。すっかり青ざめて生気がなく銀色の耐火服が泥と煤にまみれている。アリーはダンを呼び寄せ事務所の中へ消えていった。訓練の監督は先輩社員たちが引き継いだ。新人たちは明らかに動揺していた。訓練は一人千発を撃って終了した。

とんでもない大盤振る舞いだぜ』

 教官役が言った。

こんな風に無尽蔵に弾を使えるのは俺たちくらいだからな』

 新人たちの誰もその言葉で安心できるわけがなかった。アリーに連れられていった二人の身に起こった何かへの恐れが彼らを支配していた。教官役はまあ、まだわからないか』と独り言ち、銃を回収して解散した。

 段階的に新たな内容を組み込みながら同じ訓練が二週間続いた。二日目からは眼鏡と歯欠けも加わったが、とても口を利けるような雰囲気ではなかった。辰は八十メートル先の的に弾を当てられるようになった。新人キャンプの最終日に研修手当として最初の給料が支払われた。悪くない額だったがこんな田舎では使い道があるはずもなかった。


   *


 新人の中で辰だけがデスクワークを割り当てられ事務所に籠りきりになった。辰は自分の新人キャンプでの出来が良くなかったのかもしれないと心配したが、初めから例の事務所組ホワイトカラーというやつに配属するつもりで採用されていたのだと気づいた。

 事務所へはよく幼い兄妹が尋ねてきた。アリーの子供なのだ。ダンが相手してやるが兄妹は納得しない。遼子に会いたいと駄々をこねる。遼子のデスクは辰の斜め前だが、いない日の方がずっと多い。ダン曰く彼女は渉外をしているのだという。つまり、遼子の業務というのは辰の予想通り身体を使う過酷なものなのだ。もっとも辰はそういったことをただ窺い知るほかなかった。不親切なわけでないことはすぐにわかった。人を殺しながら恨みを買わず生き残るためには自分の領分を越えたことについて知るべきではないのだ。しかし目を通した資料から自分の置かれている環境についてなるべく多くのことを理解しようとする矛盾した欲求も辰は抱えていた。辰は次のことを知った。

 第一に、歯欠けと眼鏡はいきなり実戦へ投入され試験的な戦術のモルモットにされたらしかった。その戦術というのは無人機と耐火服を着た人間による屋内への急襲だ。SDCFが自社開発した使い捨て無人機——蜘蛛の子——は対象に粘着すると液体状の燃料を染みこませ壁や装甲を内部から炎上させる。かかる手段で建物を炎と煙につつみ、間を置かずその中へ現場組ブルーカラーを突入させる。視覚補助装置と酸素マスクを身に着けた彼らは一方的に目標を無力化することができる。米軍海兵隊の戦術をベースにしつつ要求される練度をぎりぎりまで落としたものに見えた。アリーの報告書にはしかし、現場組ブルーカラーの心的ショックが大きすぎるという旨が書かれていた。以降この戦術は使用されていない。

 第二に、SDCFのこの小さな事務所はもっぱら国境の二つの組織に対応するために設置されているらしかった。一つは片桐を殺した例の過激派だ。彼らは半世紀も前からシリアとイラクの国境沿いに分布していて一時はラッカを陥落させるほどに勢力を伸ばしたが、今となっては砂漠の奥のいくつかの小都市を支配しているに過ぎない。もう一つはガザルと呼ばれる連中で、いわば巨大な血族集団だ。十字軍撃退の英雄を共通の祖先として崇める民族の一部族で過激派からのラッカ奪還に際し米軍の支援を受けて最前線で戦った。しかしその後アメリカは外交上の理由から撤退し彼らを見捨てた。ガザルは本拠地を置くトルコから激しい攻撃を受け、それまで敵対していた当時の独裁政権と協力せざるを得なくなる。独裁が倒れ現在の親米政権が成立したとき、この転向の経緯のためにガザルは自治権を獲得できなかった。それ以来彼らはトルコとシリアの国境で独自の社会を築き政権や過激派とにらみあいを続けている。

 週に一度くらいは戦闘があった。多くはこの土地の名士や政府からの依頼で、過激派やガザルといった法が通用しない連中との小競りあいを鎮めるためだった。辰は事務所から白鳥や可変マルチローター機の山繭蛾やままゆがを飛ばしたりした。ローターを畳んだ姿が昆虫の山繭蛾に似ているから山繭蛾だ。農業用のラジコンヘリとさして変わらない大きさしかないのに機銃に加えて複数のミサイルを積める。もっともそれは山繭蛾だけの特徴と言うより、小型化と低価格化を進め小国と民間軍事企業のシンボルになった第二世代無人機すべてに共通している。白鳥も山繭蛾も半自律機だから離陸させてしまえば操縦の必要はさほどなかった。辰の仕事は送られてくる映像から標的に間違いが無いかを確認することだけで、トリガーを引くのもむしろ射撃の許可といった感触に近い。機械の側が操縦者を引っ張る感覚。SDCFには依頼の源泉であるチンピラたちを殺すつもりなどなかったから、ダンやアリーは弾と炎の壁にいつもわずかな間隙を用意してやりそこから彼らを逃がした。依頼主は満足してSDCFの口座へ金を振り込んだ。


   *


 習慣と化したそんな戦闘に辰が飽き始めたころになって、過激派に対して大きな農耕カルティヴェーションを行うことになった。その日の配置はいつもと違っていた。遼子と数人の事務所組ホワイトカラーだけが事務所に残り、辰はダンの運転する装甲車で戦場のすぐ後方まで移動した。率先垂範そっせんすいはんというやつだ』とダンは説明した。つまり指揮官であるダンはこの機会に前線近くまで出て現場組ブルーカラーたちに自分の勇敢さを示そうというのだ。蜘蛛の子の運用実績を積みたいという動機もあった。件の戦術が没になってしまってから蜘蛛の子は弾薬庫でずっと埃をかぶっていたのだが、本部がそのことを快く思わなかった。辰は渡されたそれらをまじまじと見た。浮遊部の表面は粘着性があるピンク色の新素材で出来ていて気味が悪い。その上に熱で溶けるというフィルムが重ねてある。使う場面が無かったら投棄するつもりで適当な建物にぶつけてもよいという趣旨のことをダンからあらかじめ伝えられていた。廃墟の不審火など誰も気にしないから。

 午前十時、過激派が支配する市街の南側で戦闘が始まった。アリーたち現場組ブルーカラーの前線部隊は車両とあたりに散在する廃墟を盾にしてじわじわと敵へ詰め寄っていく。塹壕で要塞を攻め落とす第一次世界大戦の戦場を辰は思い浮かべた。肉薄し十分に敵の銃口を引き付けてから現場組ブルーカラーたちは散開した。ここが今回の戦術のミソだ。アリーたちがもといた場所には蟻蜘蛛ありぐも——過激派が付けた死の案山子というあだ名の方がずっと実態に即している——とよばれる多目的自律擬態軽機関銃が設置されていて、歩兵十二人分に相当する火力を人間そっくりのやり方で敵へ注ぎ続ける。敵は現場組ブルーカラーたちが後方へ回り込むことに気づかない。後はいつもの通り三方を炎で囲んでわずかな隙間から命からがら逃亡させてやるという段取りだ。しかし市街へ潜入したところで計画が破綻した。敵が潜んでいるはずの南端の建物は全くの無人だったのだ。状況はさらに悪くなった。現場組ブルーカラーたちがまさにそこを通って進んできた廃墟跡に潜んでいた敵兵を、SDCFは完全に見落としていた。彼らは蟻蜘蛛を破壊し、これによって退却を支援する火力は観測のために滞空していた山繭蛾一機の他になくなった。伏兵たちは逃げ道を塞ぐべく市街の南側へ展開した。山繭蛾の機銃がそれを防ごうとしたが、無駄だった。山繭蛾はどこからか狙撃され撃墜された。それと同時にダンが装甲車のアクセルを強く踏み込んだ。

ハッチを開けて蜘蛛の子をスタンバらせろ』

 ダンが叫んだ。辰は転落しそうになりながら車両後方の扉を開けた。蜘蛛の子は外見上は電子制御の風船だ。車両に据え付けてある操作盤のトグルスイッチを倒すとモーターが一斉に駆動しはじめた。辰は装甲車から半ば身を乗り出し右手に蜘蛛の子たちの浮遊部と制御部を繋ぐ紐を固く握りしめている。ちょうど南の面を覆いきった敵兵たちの中央へ装甲車が突っ込んだ。敵兵をはねた衝撃で車が弾む。

いまだ』

 ダンの指示に合わせて辰は蜘蛛の子を手放した。蜘蛛の子は低くゆるやかに飛んで建物の壁に貼り付き、猛烈に燃え上がった。建物が崩れその瓦礫に敵兵たちが呑まれていく。炎と煙が壁になった。装甲車はそのまま市街の内側まで突入し左の側面を民家の壁にぶつけて停まった。後方に控えていた敵兵の弾を浴びながら密集して取り残されていた現場組ブルーカラーたちを装甲車へ収容する。一人の敵兵が躍り出て対戦車擲弾発射機RPGを向けた。アリーのAKがその肩を貫く。爆音とともに発射された弾頭は装甲車をかすめ向かい側の建物を砕き地面に大穴を開けた。ダンは再び強くアクセルを踏み込んだ。戦場が遠ざかっていった。


   *


 損害は甚大だった。SDCFは三人の現場組ブルーカラーを失い、その中には辰の同期も含まれていた。蟻蜘蛛と山繭蛾一機が破壊された。輸送車を放棄し装甲車が中破した。観測用の山繭蛾を撃墜されてしまったためにせめてもの収穫になるかもしれなかった蜘蛛の子の運用データが得られなかったことを、ダンは悔しがっているようだった。

 辰は違和感を覚えた。殉職者の扱いはその名前が掲示板に張り出されるということに留まり、黙祷もなかった。業務は翌日からいつも通り再開し辰は本部へ補充を申請するため多少の書類仕事をこなした。頼んでもいないのに本部は蜘蛛の子の派生型を勝手に送り付けてくるそうだ。アリーたち現場組ブルーカラーは演習場を駆け回り銃声を鳴り響かせている。

 昼休みにアリーの子供たちが訪ねてきた。今日は遼子がいた。兄妹はそのことが途方もなく嬉しかったらしく遼子とアリーの間を跳ねまわった。おじさんはどこ』と下の子が訊いた。昨日の戦闘で殉職した現場組ブルーカラーのことだった。遠くへ行ったんだよ』と遼子が言うと、女の子は案外あっさりと納得した。

 灰色の雲から霧のような雨が垂れた。季節はもう十月でこの砂漠にわずかな潤いがもたらされ始める頃だった。子供たちを家へ送るというアリーに辰は同行を申し出た。雨を浴びれば気分が晴れるかもしれないと考えたからだ。アリーと二人で話したいという気持ちもあった。

昨日は勇ましかったぜ』

 先に口を開いたのはアリーの方だった。何かを話したいというよりはむしろ沈黙に耐えかねたらしかった。

ダンの運転、怖いだろう。俺はあいつの車には絶対に乗らないと決めてるんだ』

ええ。でも装甲車でしたからさほど心配はありませんでした。そりゃもちろん、いきなり発進したときには驚きましたけど』

優秀な指揮官なんだ。機転が利く』

でも』

でも、どうした』

 辰は続きを言うべきか逡巡した。アリーについてきたのはその話をするために違いなかったのだが、いざ言葉にしてみようとすると自分のナイーブさが痛々しく恥ずかしい。

昨日は興奮に呑まれていて気にならなかったことが、今日になって何もかも納得いかなくなっちゃったんです。ボスは決死の覚悟で味方を救いに行ったのに、今朝になってみたら死んだ部下のことはすっかり忘れてお金の勘定をしている。あまりに二面的すぎるじゃないですか。僕はあの人をどう評価していいのかわからない。戦場で過ごす時間が長くなるとああなってしまうものなんでしょうか』

どれほど仲間を失ったところで慣れることはないさ』

 アリーが言った。その声は特別重苦しくも無ければ照れを隠すような調子も無かった。至って自然体だった。何ら気負わずにそんな答えを返すことができるということは辰の理解を越えていた。

ボスが突っ込んだのはそうすることで被害を最小限に抑えられるという見込みがあったからだ。あいつはプロだ。感情的になって突っ込んだわけじゃない。もっとも、だからとて恐怖がないわけでも仲間を失うことを悲しまないわけでもない。ダンはこんな悲しみがまた広がっていくことのないように自分の仕事をしているだけだ』

納得いきません』

 辰ははっきりと言った。出た声は出そうとしたものより大きかった。

悲しみばかり広がっていくのは、こんな稼業をしていれば当然です。でも、戦わなければボスは自分を殺して業務に没頭しているふりをする必要もないんだ。これしか身の立てようがないって人でもあるまいに』

それは、辰、お前だって同じだ』

 辰は言葉を失った。アリーの言うとおりだった。

僕はなぜここにいるんです。日本にいた頃、僕は精神的にひどく衰弱してたんです。医者にもかかりましたよ。でも医者は何も異常がないって言うんだ。そんなはずがない。こんなに自分がバラバラになりそうな感覚、自我が内側からの圧力で破裂しそうになる感覚を飼いならしながら生活できるとしたら、それは人間じゃない。僕はそう思ってたんだ。シリアへ来てからそうは思わなくなった。平穏な信仰が街を覆っていて、その中心にあなたがいたからだ。でも日本から知らせが来て、僕はまたぐしゃぐしゃになった。そんなのは嫌だから、僕はあなたについていくことにした。わかりますか。あなたは、僕の』

友人でいてはくれないのか』

友人? ええ。僕はそのつもりだったんです。でもそうじゃなかった。あなたもまた、僕がとっかえひっかえ信じてきた無数の神の一つでしかなかったんだ。僕はいっつもそんな風に勝手に何かを信じて勝手に絶望している』

残念ながら神様にはなってやれそうにないな。あまりに責任重大だし、何より俺の神は一つだけだ』

僕は今すっかり混乱していますよ。僕は自分の意思でここに来たと思っていたのに。そんなのはすっかり嘘だった。僕は自分を生かすために若さに任せて無謀な身の振り方をしたわけでは、なかったんだ。死線を一つ潜ったらすっかり虚構が剥がれてしまった』

感じやすいな、お前は』

 辰の鬼気迫る様子に子供たちが怯えた。彼らは門の中へ消えていった。そこがアリーの家なのだった。

コーヒーでも飲んで行けよ』

 辰は忙しいからと言ってアリーの誘いを断った。それが目的を持たない嘘であることは双方にとって明らかだった。


   *


JPNねえ、辰」

 事務所へ向かって歩き出したばかりの辰の傍らに中型のバイクが停まり、女がヘルメットのバイザーを上げた。遼子だった。遼子の日本語を辰は久々に聞いた。喉音に乏しい二人の言語はどうしても声が柔らかく甘ったるくなる。

ずっとガレージに仕舞ってたバイクを出したんだ。暫くは他所へ行く用事がなさそうだから久々に乗り回そうと思って」

乗り回すったってどこへ。仕事は?」

ラッカ。仕事は私が終わらせて夜警に引き継いだ」

 遼子は空を指さした。高価なセンサー群を積んだ赤鱏あかえいが飛び去っていこうとするところだった。

ねぇ、今から一緒に行かない?」

でも雨だよ」

だからだよ。涼しくていい」

アリーも呼ぼうか」

バイクに三人は乗れない」

 バイクは心地よく加速していった。アリーの家の前を通り過ぎるとすぐに街が終わり荒野が広がった。遼子の背中は小さかった。いつもより少し水嵩の高いユーフラテス川が見えた。上流の方ではもっと本格的に降ったのかもしれない。わずかな農地を抜けると二人はラッカの雑踏の中にいた。この街には信号というものがあり、市民によって交通規則が内面化されている。辰はダマスクスでもこんな景色を見なかった。二人のバイクは赤信号のために停まった。

私たちの生まれるちょっと前にさ、ここで大きな戦闘があったんだって」

二〇一七年のラッカ奪還戦?」

そう。アリーがいくらでも武勇伝を聞かせてくれるよ。ほんの二十数年でここまで発展しちゃうのすごいと思わない?」

先進国の集中的な資本投下があったからね。かつての過激派の本拠地だもの、重要だよ」

お金の力なの?」

まあそれだけではないだろうけど」

 辰は自分の考えが以前の陸郎じみていることに気づいた。ダンと仕事をするうちに思想が伝染ったのかもしれない。

武勇伝って言ってたけど、アリーはここで戦ったの?」

知らないで付き合ってたの? 元はガザルの英雄だよ」

ガザル? それじゃアリーは味方と戦ってるんじゃないか」

敵とか味方とか、そういう簡単な話じゃないんだよ。あいつの正義ってのは」

 遼子の話は予想もしないことだったが辰は納得した。アリーが南北両方の戦場を経験したことはそれで説明がつく。アリーはガザル兵の一人として新政府樹立のために、樹立後は新政府防衛のために戦い、そして裏切られたというわけだ。

遼子のことも聞かせてよ。生まれはこっち? それとも日本?」

 遼子はアクセルを踏み込んだ。慣性で遼子の体重が辰の体にかかった。遼子は質問に答えなかったが、辰はその出来事でなんとなく納得させられてしまった。

辰、そこの商店に寄ってからさ、遺跡へ行こう。ダマスクスにいたとき塔へ行ったでしょ。あそこみたいなもの。まあピクニック先だよ」


   *


 遺跡は新市街のさらに北西にあった。遼子の説明によれば地元民も滅多に訪れない隠れた名所らしい。人気がないのはユーフラテス川中流、ここから十数分の場所に位置する人工湖に観光客を取られるからというより、一神教以前の異教の神殿だからだ。道中で辰はダマスクスにあったのと同じ建築物と、そこから直線状に延びる工事の様子を見た。ダマスクスで建設されていたあの鉄道はここへ至るのだ。屋根のある所を見つけて固形燃料に火を灯した。さっき買った缶詰を全て開けてしまうとささやかながら豪勢な晩餐が出来上がった。当たり外れはあるが概して美味い。

私の生い立ち、教えてあげる。生まれはこの街。奪還直後で瓦礫の中だった。当時は小康期ってやつでね、独裁政権下ではあったけど人道支援がよく来てた。父はそれで派遣されてきた技術者で、ここで母と出会った。七歳のときに米軍が来た。わかる? もうボケてたんだろうけど、あの独裁者はイスラエルやイランに対抗して核武装を進めようとしていて、それを阻止するためならアメリカはずいぶん強引なこともした。復興のためにロシアや中国のお金を入れていたラッカは疑われてね、虐殺が起こった。ベトナム戦争のミライ村よろしく末端の兵士が暴走したにすぎないと向こうの偉い人は言ってるけど、そんなことで赦せるわけがない。あの頃はまだ高かったドローンに拡声器を乗っけてさ、言葉が通じないかもしれないなんて考えないで英語で言うんだよ。街から出ていくなら殺しはしない、って。どうかしてる。家財と、やっと元通りになろうとしている街を捨てて、どこかへ行けって? 誰が承知するもんか。みんなで石を投げてやった。奴らは撃った。撃ったんだよ。アメリカのどこかの基地でXboxのコントローラーを握りながら、耳が痛くなる銃声も血の生臭い匂いも感じずにね。私の両親も死んだ。瓦礫に隠れて生き残った私は日本にいる父の親戚に引き取られた」

そんな事件、聞いたことがなかった」

だろうね。骨のあるジャーナリストは独裁政権がみんな殺してしまっていたし、親米政権が立ってからこの話題はすっかり禁忌だもの。辰は私の話をただの妄想と言い切ってしまうこともできるよ。むしろそうする方が正常だ。この世界で狂っているのは私」

そんなこと思わない。続きを聞かせて」

東京で育った。日本のパスポートしか持たない辰が同じように感じたかは知らないけど、二十年代後半の日本は私みたいに他所のルーツを持つ人にとってはどうかしてた。あの頃、ポピュリズム政党が連立与党になって排外政策を推し進めたよね。裕福な連中を除けば外の人間は法外な低賃金労働者としてしか社会に受け入れられていなかった。そういう意識は子供の間にも浸透しきっていて、私はいつも疎外されてた。あいつらは私を軽蔑してた。。絶望した。まともな憲法を持っていて、まともに選挙もしてる国がさ、実態はあんななんだ。私の居場所はここじゃないと思って高校を出てからシリアへ帰った。親米政権が立って雰囲気はずいぶん変わっていたけれど、したいことはすぐに見つかった。不条理に人が死ぬことがもう起こらないように、銃を降ろさせるための仕事をしようと思ったんだ。女の体は道具になるってことを日本の生活で知っていたから、政府の諜報機関に入っていろんな勢力の偉い人と寝た。それでボスに出会った。ボスは素晴らしい人だよ。私はあの人とものすごく気が合うんだ。不条理に対して戦い抜く覚悟をもっていながら、人が殺されることを許さない。あのとき私たちを一方的に殺した無人機はもう貧者の兵器になっていて、直に戦場が無人になるって教えてくれた。私はボスについてくことにした。六年は前の話」

遼子が感じたこと、僕にもわかると思うよ」

わかるの? 辰に?」

ああ」

優しい人が言いそうなことだね」

優しくありたいもの」

でも優しいだけじゃだめだな」

 風が吹いて炎が揺れた。辰は遼子の後ろの壁に彫刻があるのを見つけた。七世紀に一神教の到来によって放逐された土着の女神たちだ。

辰、よく見てて」

 遼子は左手で右のまぶたを持ち上げた。右の人差し指で眼球に触れる。手をどけると、口の粘膜と同じ薄桃色だけがその場所にあった。

触ってみなよ」

 遼子は顔を寄せてきた。言われた通り辰はその穴に指を這わせる。柔らかかった。

なんだ、度胸あるじゃん。交渉の相手がろくでもない奴だったときはこれで脅かしてるんだ。あいつらすぐに小っちゃくなっちゃう」

これも子供のころに?」

日本でだよ。事故ってことにされちゃった。義眼はボスからスカウトされたときに貰った。私の財産はね、この目とバイクなの。ねえ、それだけ肝が据わってるならさ、私と組まない? 頼まれてほしいことがあるんだ」

なんなりと」

アリーを殺して」

 火がまた揺らいだ。遼子の後ろで女神たちが微笑んだり叫んだりするように見えた。

説明してほしい? 難しいことじゃないよ。アリーを消すことは戦場から人を遠ざけるために必要なんだ。うちの事務所が貰えてる無人機の数が他所より少ないことは知ってる? 戦術が二十年は昔のものだってことは? どちらもアリー率いる現場組ブルーカラーが優秀すぎるからなんだ。あいつは私たちくらいの頃から休みなく戦場を駆け回っていて、この辺りの武装組織のやり方はみんな知ってる。戦場では誰もアリーを殺せなかった」

引退させればいいだけじゃないか」

あいつは大人しく隠居したりしないよ。私があいつの子供を二人も生んで所帯を持たせてやったのに、銃を手放さなかった。そうやって説得しようとしている間にあいつの部下は何人も死んだ。昨日は辰だって死にかけたし、ボスも危なかった。ねえ、だから、アリーを殺そう。実はね、自分たちのテリトリーを横断しようとしている鉄道敷設計画を妨害するため、数日中にガザルと過激派が連合して攻撃を仕掛けてくるんだ。アリーは辰の言うことなら信頼する。支援中にちょっと意地悪してあいつを孤立させてくれればいいんだ」

できないよそんなこと」

嘘だ。私は昨日の戦闘で一番心を痛めてるのが辰だって知ってる。一緒にやろう。これができるのは私たちだけ」

できない」

わからないやつだな。ご褒美が欲しいのなら私の体をいくらでも使わせてやるのに」

 遼子は辰の腕を引いた。辰は倒れ込み遼子に覆いかぶさった。

やめよう。僕は遼子が自分を虐げるところなんて見たくない」

 辰は哀しさと恐ろしさを感じた。それと同時に、目の前にある遼子の空っぽの眼孔に嫌な欲求を覚えないわけでもなかった。

見たくない? 傲慢だよ。そんなの私を妨げる奴の言っていいことじゃない」

 遼子の細い腕が辰を抱きしめた。遼子の吐息が辰の耳にかかった。

辰、日本にいた頃は片桐っていう先生に教わってたんだってね。過激派に殺されたんでしょう? どうして黙ってたの。やましいことでもある?」

僕がここに来たこととは関係ない」

私ね、調べてるうちに辰が過激派の勧誘をしつこく受けていたって知っちゃったんだ。私がこのことをボスに教えたらどうなるかな」

どうなるんだ」

作戦中だったら迷わず殺すだろうね。民間軍事企業なんてものは法に保護されている任侠に過ぎない。ボスが躊躇わない人だってことは知ってるでしょ? だからね、辰。期待してる」

 遼子はもう一度強く辰を抱きしめた。もう雨の音はしなかった。辰の耳に遼子と自分の鼓動が重なって鳴っているのが聞こえた。遼子の生き方がひどく悲しく思えた。


   *


 警報が鳴り渡った。それは不安を煽るように無調子に設定されていて、不整脈が出ているときの気持ち悪さを思い出させる。山繭蛾から受信している映像の前にダンと事務所組ホワイトカラーたちが張り付く。出遅れた辰へ向かって遼子が斜め向かいからウインクした。開いたままだったのは義眼の方だ。辰は事務所組ホワイトカラーたちの肩越しにモニターを覗いた。建設現場の警備にあたっていた現場組ブルーカラーたちが銃撃戦に巻き込まれている。

ARA SYRIAA班、そのまま防衛を続けろ。五分後に白鳥が到着する。爆装だ。巻き込まれるなよ』

 ダンの指示を受けてカタパルト係が白鳥を離陸させる。事務所の壁に垂らしたスクリーンへ白鳥の映像が投影される。時刻は午後六時、快晴。高度二百メートルからの映像には先日の雨で芽吹いた鮮やかな花が砂漠のあちこちに見える。夕日が尾を広げた孔雀のようだ。

 作戦テーブルに広げた地図上にダンは赤いバツ印をつけた。

アリーの読み通りだな。ガザルのことならあいつが世界一詳しいんだ』

 ダンは栄養剤を流し込んだ。シャツはよれによれていてポテトチップスの滓だらけだ。遼子が事務所常備の菓子類を兵糧と呼んでいたのは冗談ではなかった。実のところ遼子と辰がラッカから帰ったときには、ダンは既に軍から攻撃の予兆があることを明かされて防衛の依頼を受けていた。しかし連続する戦闘の間にも部下たちに少しでも休息を取らせようと考えて直前までこの作戦を伝えず、アリーと二人で情報収集と装備の補充に奔走していたのだという。もっとも遼子だけはダンがどこで何をしているか全て把握していて、辰が彼女無しでダンと同じ場所に居合わせる可能性を一切つぶしてしまったのだが。

 イラクとの国境から入った過激派の車列が南へ向かうのを自律飛行中の赤鱏が高高度から捉えた。二人の予想がまた的中したらしい。ガザルと過激派は不倶戴天の敵どうし、本隊同士を合流させ指揮系統を一本化するほどの思い切りの良さはないと考えていた。それならばSDCFにとって最も堅実な戦い方は個別撃破ということになる。だとしても戦力差には不安があったが、今回の作戦には南の国境に配備されている部隊とシリア正規軍が出るから問題ない。農耕カルティヴェーションを失敗させたばかりのダンに正規軍は冷たかったが、それでも北東部開発という重大政策のためなら投入を惜しむわけにはいかないらしかった。国際関係上の問題で正規軍が交戦しづらいガザルはSDCFの火力で追い返し直ちに転戦して正規軍と共に過激派を粉砕する。過激派が目指す鉄道工事の末端は実のところ作業員も資材もあらかじめ撤退させてあってもぬけの殻だ。ただしダンは注意深くアリーと一部の現場組ブルーカラーをはじめから過激派との交戦に割いていた。アリーの出自を考えての配慮である以上に、その戦場で何が起こるかを見届けるためだ。唐突な活発化や先日の予期しない敗北の背景にある何かの正体を、彼らは正規軍の圧倒的な火力の前では晒さざるを得なくなるかもしれないとダンは考えていた。

 ゴラン高原で鍛えられた南方部隊の練度はすさまじかった。青くペイントされた彼らの白鳥は対地ミサイルを撃ち尽くすと地上すれすれへ高度を落とし、現場組ブルーカラーたちと肉薄して混戦している敵兵だけを的確に機銃で撃ち抜いた。事務所で歓声が上がる。山繭蛾を使ったって北方部隊にこれほど精密な射撃はできない。太陽が沈むなりガザルは後退を開始した。既にあらかた武装を使いつくしているにもかかわらず青い白鳥は追撃を試みた。

ENG南方部隊、やめておけ。敵はスティンガーを持ってる』

 ダンの呼びかけに若い声が返事をした。

心配無用だ。墜とされたところで南にはたっぷり予算があるんでね。北はさっさと過激派の方へ行きなよ。面白いものが見られるかもしれないんだろ』

譲ってくれるのか? 南の国境にも関係するかもしれないのに』

お前の手柄は会社の手柄だ。好きにすればいい』

 北方部隊A班は新調したての輸送車へ乗り込み山繭蛾一機に護衛されながら建設現場の末端へ向かい東進した。

 赤鱏は引き続き過激派の車列を追跡していた。既に暗くなりはじめていたが、車列が時速一二〇キロで砂漠を南下していくのがくっきりと見える。辰は地図上で彼らに相当する駒を動かした。

ARA SYRIAボス、このままだと予想より東へ出ますよ』

正規軍が潜伏しているあたりだ。でも目印を見つければ西へ軌道修正するだろう。あの辺には大昔に放棄された遊牧民の井戸が残っていてね、連中は衛星よりもそれで位置を知るんだ。ただの座標より相対的な位置感覚の方が直感的だろう? 地を這うしかない彼らの場合は特にそうだ』

俺の故郷にもあったぜ。よく山羊に水を飲ませてた』

 アリーが会話に割り込んだ。

それよりボス、ちと妙だぜ。正規軍の連中、見たこともないような無人機を持ち込んでるんだ』

映像送れるか』

難しいこと言うなあ。写メで送るぞ。画質と秘匿性は期待するな』

 ダンの端末が鳴った。車載カタパルトに銀色の塊が鎮座している。細部を想像力で補填すればそれが翼を畳んだ航空機のように見えないこともない。

ああっ、車載カタパルトか。さすが正規軍だ』

 事務所組ホワイトカラーの一人が言う。

協定さえなければ俺たちだって固定式カタパルトを使い続ける必要はないさ。しかし、たまげたな。第三世代の電子戦機、おそらくイスラエル製だ』

イスラエルだあ? やばいだろう、それは』

危険を感じるなら後方にいてくれ。それと今のうちに山繭蛾を全機離陸させる。空にさえいれば自律飛行で結構やれるものなんだ』

 その瞬間、無線の向こうで金属の擦れる音が猛烈に鳴り始めた。

ひゃあ、あいつらあのデカブツを空に上げる気だ。通常離陸じゃ間に合わん。山繭蛾ぜんぶ放り投げちまうぞ。辰、遼子、うまく姿勢制御しろよ』

 辰の正面のモニターに制御画面が表示される。機体の高度は八メートル。人間脱法カタパルトの投擲力は伊達じゃない。カメラがアリーの顔を小さく捉えた。辰はローターを展開し出力最大で上昇した。宵の青い色に染まった大地が勢いよく遠ざかっていく。地上で白煙が上がり機体が激しく振動した。正規軍の電子戦機が射出されたところだった。

遼子、飛べたか』

 辰は斜め向かいへ叫んだ。

当然』

上手いぜ、二人とも』

 通信に激しく雑音が混ざる。カメラの映像ががたつき遂に砂嵐になった。

山繭蛾二号機通信途絶しました』

同じく三号機途絶。味方の弾を浴びなきゃいいけどね』

正規軍だからわからんな。辰、赤鱏は生きてるか』

怪しいですね。電波強度がかなり弱くなってます』

すると妨害電波はあの一機だけじゃないな。仕方ない。観測を中止して最高高度まで上げてくれ。成層圏ならレーザー通信に感づかれない。え、カタパルト係、何を言ってるんだ。聞こえないぞ』

 急に外が明るくなった。サーチライトが滑空してくる機体を照らしている。事務所組ホワイトカラーの一人が窓を開けて叫んだ。

電波妨害だ。ネットと誘導信号を出せ』

 サーチライトがレーザーの複雑な点滅に切り替わり、機体はそれを追って旋回を始めた。カタパルト上の人影がせわしなく動き回り巨大なネットを立ち上げる。白鳥はそこへ柔らかく飛び込んだ。

 ダンは黒電話の受話器を取った。呼び出し音が三コール目に入っても相手は出ない。

何をやってるんだ、南は』

そのホットライン、電話線ですか』

 辰が訊いた。

それが繋がらないってことは』

物理的に線を切られたな。全員銃を持て。真下に敵がいる』

 事務所の中があわただしくなった。辰もAKを受け取った。辰は遼子に目配せした。遼子は知らないとばかりに首を横に振る。

俺、年一の訓練でしか撃ってねえんだよ』

 辰の隣で中堅の事務所組ホワイトカラーがこぼした。

辰、お前新人キャンプやったばっかりだろ? 守ってくれよ』

自分以外を守れるほどのことは教わってませんよ。どうぞご自分で』

心配するな。無駄な死人は出さない』

 ダンが言うと中堅は笑った。

こないだみたいにならなきゃいいんですがね』

 遼子が彼をきつくにらんだ。

 ダンいわく回線はマンホールの下に通っていて、人が潜って様子を見なければならない。誰も志願しないのを見てダンは自ら行くことを決めた。遼子の監視を逃れられると考えて辰は同行を申し出たが、遼子は平然としていた。マンホールは一階のガレージに開けてある。ダンはその蓋を少しずらすと車の発煙筒状のものを投げ入れた。凄まじい爆音と閃光が漏れ出した。

閃光弾だよ。本当はこれを使えれば蜘蛛の子なんていらないんだが、うちはジャンクな商売をしているからな。そんな特殊部隊めいた訓練をしていては経営が成り立たない。俺が先に梯子を降りる。お前は下に明かりと銃口を向けておいて、もし動くものがあったら撃て』

 辰は銃身ごと穴の中を覗き込んだ。銃身に取り付けたライトが穴の底を照らす。深さはざっと二メートルあるように見えた。水の流れる音がする。

辰、来い』

 ダンの声が何重にも反響した。辰は恐る恐る梯子を降りる。錆が手に引っ掛かり痛い。

手、借りるぞ。ほら、これが電話線だ。ずっとラッカの方へ伸びてる。溝に水が流れてるのがわかるか? これはユーフラテス川から引いてるんだ。流れを遡っていけば絶対に川岸へ出られるから、もし自分の場所がわからなくなったら迷わず歩け』

反対側はどこへ続いてるんです?』

 辰は自分の質問が場違いなことに気づいていなかった。ただ思わず訊いてしまった。というのもちょうど辰のライトが照らしている地下水路の奥の方は細い道がずっと続いていて、伝説の類によくある黄泉の国への入り口のようだからだ。

さあな。この事務所が出来たときに探検しに行った馬鹿がいたが帰ってこなかった。何百年も前に作られた地下水路カナートの全体像なんて誰もわからないんだ。つまり、決してそちらへは行くなってことだ。俺が先行する。はぐれるなよ』

 二筋のライトが行く手を照らしている。辰は自分たち二人の他に生き物の気配を感じなかった。遼子のことを切り出そうと思ったが、上手く口が回らなかった。あの幼い兄妹が思い浮かんだ。二人ということからの連想かもしれない。

あの兄妹、遼子の子供だったんですね』

誰からそれを聞き出したんだ。諜報員の方が向いてるかもしれないな』

 ダンは特別声を潜めもせずに答えた。沈黙はそれほど恐ろしかったからだ。

遼子が教えてくれたんです』

父親は俺じゃない』

それは知ってます。政府の諜報機関にいた遼子をボスが引き抜いたって聞きました。娘みたいなものですか』

わからないな。父になったことはないから』

でも遼子の言い方は父親の話をする娘さんみたいでしたよ』

 ダンの歩みがほんの一瞬止まったように辰には感じられた。

だとしたら最悪の父親だよ。娘にあんな風な仕事をさせてしまっては』

驚かないで聞いてほしいんです。昨日、遼子は僕に——

伏せろ』

 ダンが振り返りった。銃声。辰の背後で柔らかく温かいものが崩れ落ちた。人だ。

そいつから銃を預かっておけ。電話線はこの辺りで切断されているはずだ』

 ダンは壁を辿りながら走った。

辰、手元に明かりをくれ』

 闇の向こうからダンの声が聞こえた。辰はすぐに追いつき銃からライトを外して電話線を照らした。

こういうことがあるからうちの回線はアナログなんだ』

 線は二本あり、その両方がねじ切られていた。ダンは持ってきた銅線でそれらを結び直し、さらにポーチから受話器のようなものを出した。その先端のフックを銅線に引っ掛けるとどこからでも通話ができるのだ。

ENG南方部隊、聞こえるか。ダンだ』

合言葉は?』

 金属音のような声で返事が来た。味方と連絡が通じた喜びで辰は叫びそうになる。

ルーマニア国歌でも歌えばいいか。歌うぞ』

いいよ。お前、あれ嫌いなんだろ』

ああ。ローマ人の血ってとこと戦いの中で死ぬのはいいことだってとこがな。戦況はどうなってる。正規軍がとんでもない電子戦機を上げてA班と通信が途絶した。ここも駄目だ。おまけにさっき鼠が入ってホットラインを切られた』

うちもだよ。白鳥がロスト。どの周波数も死んでる。いま正規軍司令部に電話をかけてるが知らぬ存ぜぬだと。噛まされたね、これは』

あの機体、イスラエルのものだった』

外交絡みかよ、やりたくねえな』

レーザー通信中継機を送ってくれないか。うちの山繭蛾は全部前へ出してしまってるんだ』

現地組ブルーカラー一小隊ごと有人ヘリで送ってる最中だよ。四十分後に着く』

四十分も持つかな』

アリーが出てるんだろ。あいつが死ぬわけない』

 通話を切ろうとしたところで男の声が入った。辰たちの事務所の側からだった。

ああ、繋がった。ボス、遼子が突然どっか行っちまったんだ』

どっかってどこへ』

わからない。気づいたときにはあのバイクで走り去ってた』

すぐ戻る』

 ダンは受話器を片づけた。遼子についての知らせを受けても特に動揺してはいないらしい。

辰、お前がさっき言おうとしたのはこれのことか』

そうです。驚かないで聞いてください。僕は昨日、遼子から、アリーの暗殺を持ち掛けられました』

嬉しくないもんだな。娘の非行を知らされるというのは』

 暗闇の中でダンが渋い顔をするのが辰には見えた気がした。


   *


 ダンはコンパスをとり作戦テーブル上の地図に大きく円を描いた。その内側が遼子のバイクで四十分以内に到達できる範囲だ。ラッカや昨日の遺跡が当然その中に入っているが、アリーたちのいる会敵予想地点はそれよりだいぶ北だ。遼子がアリーの所へ着くころには指揮系統が復活しているはずだから、結局、北方部隊としては遼子が何かをしたところで作戦に影響しないと結論した。事務所全体の緊張がやや解けた。

 南方部隊の増援が来るまで前線の状況が把握できない以上、電話線を切断した侵入者がどんな手段で侵入したかということが当座の問題になった。河川側の入り口に設置してある監視カメラの映像は全て問題なく送信されていて、直近のものを見る限り怪しい動きはない。すると未知の北側から流れを遡って来たということになる。

北で電子戦機が飛ぶのに合わせてここの孤立を図ったんだろう。そのタイミングを知っていたということはシリア正規軍だ。政府なら地下水路カナートの古い地図も持っているだろうし不思議じゃない』

正規軍は私たちを戦場から締め出そうとしたんですか』

 事務所組ホワイトカラーの一人が訊いた。

だろうな』

これも先日のボスの失敗のせいでしょう?』

 さっき辰に絡んだばかりの中堅が言った。

遼子だってあなたの監督不行き届きだ。あんたが連れ帰ってきたときからおかしな子だとは思ってたが』

私への批判は受け入れるよ。しかし遼子を悪く言わないでくれ』

はっ、あれを悪く言うなだって? ご愛人に随分と優しいじゃないですか。もっともその愛人もアリーに取られてしまったみたいだが。だらしない方ですね、ボスは』

やめましょうよ、先輩』

 辰が割り入った。ダンは怒りで赤くなるというより、むしろ青くなっていた。

ボスと遼子はそんな関係なんかじゃありませんよ。それにいまは味方どうしで揉めているようなときじゃない』

新人くんよ、お前も遼子にたぶらかされたのか。うぶなようだから教えてやるが、あいつは誰にでも股を開くんだ。それに、お前の横にいるその男は決して優秀な指揮官なんてものじゃない。ルーマニア軍でクビを切られてからコネでここに入ったんだ。碌に予算を取ってこないし部下を死なせる。最悪の上司だよ』

 辰は靴がひしゃげるほどしっかりと踏み込んで中堅の顔を思いっきり殴りつけた。彼は血でアーチを描きながら後ろへ倒れた。鼻が折れている。

くそっ、最悪だ。ダンもお前も、この事務所には最悪な奴ばっかりだ。お前たちみたいな最悪な奴らと一緒に生死がかかる仕事をしろってのかよ、畜生。俺だって昔は旧軍の将校だったんだ。それがこんなに落ちぶれちまって』

 ダンが中堅に銃口を向けた。彼は黙り凍り付いた。

そうだよ。俺は最悪な上司だ。だからお前がこれ以上騒いで作戦の邪魔をしようというなら俺は容赦なくお前を殺す。旧軍の将校ならこれが脅しじゃないことはわかっているだろう』

 ダンの指示を受けて辰は中堅から銃を預かった。さっきの地下水路カナートのものも含めて辰の肩には三丁のAKが掛かっている。辰の細い体にはあまりに重い。手錠をかけられて独房へ連行されながら中堅が辰に言った。

すぐに後悔するぜ。あいつは指揮官の器じゃない。あいつの優しさが人を殺すんだ。俺も、お前も』

昨日も似たことを聞きましたよ。その人はアリーについてだったけど。結局みんな、自分の気に入らない奴についてそんなことを言うんだ。だから僕はそんな言葉に惑わされない』

 独房の鍵をかける音が異様に大きく響いた。


   *


 通信が復活した。レーザー通信網には気候の影響を受けやすいという弱点があるが、この砂漠でまして夜ならまず問題にならない。赤鱏と事務所の間は高出力レーザーで通信している。赤鱏は低空の中継機——花笠水母はながさくらげ——と通信し、花笠水母はさらに下の白鳥や山繭蛾を統率する。花笠水母はレーダーに映らないように金属部品をぎりぎりまで減らした気球状の浮遊物で、世間でUFO目撃と騒がれるものの八割くらいの正体だ。妨害電波に晒されながら味方機を識別するため精巧に作りこまれた画像認識ソフトと高速で移動する物体を静止画のように補足できる追尾カメラを搭載していて、単価は赤鱏よりさらに高い。そのため北方部隊のようにローテクに頼る部分の大きい事務所には配備されず、シリア戦区では南方部隊が所有している一機を必要に応じて他の部隊へ貸し出すことが常態化していた。

 アリーが投げた二機の山繭蛾は南へ八キロ移動したところにあった。対地ミサイルが数本消費されている。しかし観測できる範囲にアリーの影は無く、そればかりかシリア正規軍も忽然と消えている。十メートルまで高度を落としライトを灯すと幾筋もの轍の跡がずっと南へ続いているのが見えた。

赤鱏に車列が映っていないか』

無理ですよ。成層圏でしかも夜じゃ』

 ダンの問に事務所組ホワイトカラーの一人が答えた。

赤外線にも映ってません。暗視迷彩、近頃安くなりましたもんね。赤鱏の高度落としますか』

いや、いい。あいつがなるべく高高度にいないと下の連中が動ける範囲が小さくなるんだ。花笠水母ごと南下させて山繭蛾で轍を追おう。南のヘリも飛んでるんだからすぐ見つかるさ』

建設現場が空っぽだと気づかれて素通りされたってところですかね』

だろうな。正規軍はそれを追い東に潜伏している部隊と挟撃、俺ならそうするよ』

 二筋のヘッドライトが事務所へ差し込み壁を撫でるように照らした。A班の輸送車が帰ってきていた。

俺、迎えに行きます』

 ダンと話していた事務所組ホワイトカラーが飛び出していった。部屋に残っている人々はいそいそと場所を作りはじめる。怪我人を寝かせる必要があるかもしれないからだ。運転していたのは辰と同期の眼鏡だった。注いでもらった水に手を付けようともしないほど疲れ切っていて、震えながらあれが来る』と呟いている。二時間前にガザル相手に大勝利を収めた様子にはとても見えない。考えてみれば辰は正気の彼を見たことがないかもしれなかった。新人キャンプのときには例の蜘蛛の子試験運用のあと縮み上がって帰ってきたし、その後もどこか異常に臆病なところがあった。銃火に晒されれば人はこうなってしまうものなのか。荷台にいた他の三人も概して似たようなもので、呻くばかりで全く口がきけなかった。しかし銃創のあるものは誰一人いなかった。連れていたはずの山繭蛾はなく、八人が未帰還だ。

 南方部隊のヘリから過激派の車列発見の報が入った。

ENGしかしおかしいんです。正規軍がどこにも見えません』

壊滅?』

 ダンが焦りのにじむ声で訊いた。

敗走しておいて言うのも馬鹿らしいが、こないだの過激派はいつもと比べ物にならないほど優秀だった。しかし、まさかな』

案外あるかもしれませんね。正規軍のぐだぐだっぷりは南の僕らが一番知ってます』

彼らはどこに向かってる?』

このまま行けば二十分後にはラッカ』


   *


 事務所の戸が勢いよく開いた。事務所組ホワイトカラーたちが揃って不器用に銃口を向ける。アリーが二人の子供を連れて立っていた。呆然とする周囲を無視して彼は歩み入り兄妹をダンの机の下に隠した。

ARA SYRIA鎧戸を閉めてくれ。非常用電源を確認しろ』

おい、アリー。何があった』

 ダンが正面からアリーの肩を掴み尋ねた。しかしアリーはダンに気づかないかのように事務所中を見回して言った。

遼子はどこだ』

出て行った。行方が知れない』

じゃあ、幻ではなかったんだな』

おい、何があったんだ? 教えてくれよ』

B班は正規軍に拘束された。俺だけは連中から車を奪って逃げおおせたんだが、間を置かずに過激派と遭遇した。途中で遼子に似たバイクとすれ違った。すまない。俺は自分が逃げるのにばかり必死で、遼子を』

アリーさんだ。アリーさん、生きてらしたんですね』

 それまで放心していた眼鏡に瞳の光が戻った。彼は這い寄ってアリーの足にしがみついた。

赦してください。あなたの所へ向かっている途中で車が砂嵐に飲まれたんです。そしたら目の前が夕日みたいに真っ赤になって、音がなくなって。地面から黒い影がいくつも地鳴りみたいな音を立てて生えてきて、それでそいつらが車を通り抜けていったんです。気づいたら荷台の連中が死んでた。あれは魔神ジンですよ。すごく熱かったから焔霊魔イフリートかもしれない。俺らまで連れていかれるのが怖くて生き残った奴らで遺体を捨てました。それからアリーさんに連絡しようとしたんですが無線も繋がらないし位置もわからなかった。でも同じ所にとどまっていたらまたあれに襲われるんじゃないかと思って逃げてきたんです。でも、あなたが無事で本当に良かった』

毒ガスだ』ダンが言った。

誰がやったんだ。正規軍か、ガザルか、過激派か』

なあダン、そんなことより敵が迫ってるのわかってるよな?』

え、ああ。狙いはラッカか』

その前にここだろう』

じゃあ遼子はそれを知っていて逃げた。いや』

 ダンはそこまで言ってから辰の方を見た。

辰、遼子はアリーを殺そうとしていたんだよな』

 事務所組ホワイトカラーたちの視線がダンに集まった。

そうです。彼女はそう言っていました』

俺を? どうして』

アリーがいる限りこの戦場が無人化しないからって』

アリー、正規軍の構成は有人車両ばかりじゃなかったか』

ああ。戦車が山ほど出てた。あれは原始的な火力で殲滅するための構成だな』

だからだ。あの強烈な電子戦機を上げた時点で正規軍が陸上の火力で叩き潰すつもりでいることは明確だった。当然、人が山ほど死ぬ。遼子はそれを回避しようとしたんだ。正規軍指揮官のアブドゥルアジズ中将は遼子のかつての雇い主だ』

それじゃダン、遼子は』

正規軍と衝突した後の過激派へ向かって突っ込んだことになるな』

 建物が揺れ爆音が響いた。

くそっ、始まったか。白鳥は?』

もう空です』

搭載できる装備なんてあったのか』

弾薬庫から投下型の蜘蛛の子を引っ張り出して括り付けました。山繭蛾二機と南方部隊のヘリも来てます』

 ヘリから現場組ブルーカラーが懸垂下降するのが屋上のカメラで見えた。直後、ヘリは対空ミサイルの直撃を受けて市街へ墜落した。

北方部隊、見えてたか。目をくれ』

 事務所のごく周辺に限っては無線が通じた。南方部隊からの通信音声の背後に火焔が空気を吸う低い音と、無数の車両の走行音が聞こえる。ダンは山繭蛾の一機を彼らの護衛に当てた。観測できる限り、市街には百人を超える規模の敵兵と重機関銃を備えたトラックが六両侵入している。本隊は直接ラッカへ向かい、分隊でこの事務所を無力化しようとしているようだ。

ダン、俺に山繭蛾を付けてくれ。あいつらだけじゃ無理だ』

死にに行くようなもんだぞ』

まだわからんさ』

 アリーは子供たちにキスをした。それから辰の肩からAKを二丁もらい受け、ロッカーをあさって手榴弾三つと閃光弾を確保した。

白鳥で車両を破壊しろ。辰は山繭蛾やままゆがで俺を守れ。心配するな。俺はこのくらいの戦場をいくつも生き延びてきたんだ。特にダン、お前はボスなんだぜ。おどおどするな。また生きて会おう』

 アリーは事務所を出た。直後、建物が激しく揺れる。辰は倒れた棚の下から這い出て山繭蛾の操縦を開始した。近距離だから赤鱏を介さず花笠水母へ信号を送る。中継路の切り替えは初めての操作だったが、死が目の前にあるオペレーションだからだろうか、心臓の音は意識せずとも聞こえるほど大きいのに手元は落ち着いていた。事務所を狙ったのは低反動砲だった。その衝撃で外階段が崩落していたが、アリーは無傷だ。さっきまで階段だった瓦礫の中からアリーは猛然と立ち上がった。白鳥がミサイルを放ち低反動砲を搭載していたトラックを撃破した。砲撃で事務所を破壊する手段を失った敵は力業での無力化を試み多勢で突撃を仕掛けようとするが、百メートル以上手前でアリーの銃撃に倒れる。しかし彼らは直前に味方が死んだ角からまた顔を出すのだ。彼らは不気味なほどに人命を軽視していて、射撃が下手だ。

辰、さっきから奴らが出てくるところに八秒間制圧射撃をかけろ。俺はその間に南の連中と合流する』

 アリーの指示を受け、辰はジョイスティックのトリガーを引きながら心の中で八つ数えた。機銃の残弾が二割になった。アリーは事務所の正門からほとんど信じがたいような速度で西へ移動していた。

俺の正面にミサイル』

誰もいませんよ』

いいから』

 着弾点へ吸い込まれるように敵のトラックが滑り込んできた。爆炎の中をアリーが駆け抜ける。アリーは既に南の現場組ブルーカラーたちの中にいた。

固まっているな。広がれ』

 アリーの指示を受けて現場組ブルーカラーたちが四方に散開する。異変に気付いた敵兵たちは事務所への接近をやめてアリーを囲み始めた。しかしそれが彼らの運の尽きだ。既に外側へ回り込んでいた現場組ブルーカラーたちとアリーに挟み込まれ、彼らは蜂の巣のように穴だらけにされる。血が川になって街路を濡らした。

残りは?』

 アリーが訊いた。

本体に合流するらしい』

ボス、追撃しよう』

南方部隊も賛成します。ラッカに着くまでに数を削りたい』

承認するが、無理はするな。狙いがラッカならこれ以上の戦闘には報酬が出ないし法的にもグレーだ。ここから先は言わば善意の戦いになる』

ラッカが占領されるようなことがあれば北方部隊は解体されるさ。しかし俺も、ボスも、ここでしか生きられないだろう?』

そうかもしれないな。よし、ラッカへ急ごう。俺たちにはまだできることがある』


   *


 アリーたちは輸送車に乗り込み過激派の車列を追った。敵の車列は荷台に重機関銃や低反動砲を備えたトラックとバイク、対戦車ミサイルの起爆位置を騙すためにたくさんの房飾りを付けたバスが無数に集まってできていた。白鳥で上空から観測するとその車列はざっと一キロメートルの長さがある。

イラク国境から入ってくるのを確認できた連中だけじゃこの量にはならない。通信が断絶してる間に別部隊と合流したんだ。白鳥に積んだ蜘蛛の子で攻撃する。距離を取れ』

 ダンが白鳥の操縦を代わった。もし責任を問われたときのためにそうするのだと辰にはわかった。

待ってくれ』

 アリーが叫んだ。

遼子が』

 アリーとの無線が途絶した。事務所からあまりに離れすぎた。ダンの額を大粒の汗が伝うのが辰の席から見えた。

やめましょう。ラッカに到着させてから探せばいい』

 辰が言った。

だがそれではラッカが火の海になるぞ』

遼子と街とどっちが大事なんです』

遼子だよ。しかし、俺は遼子のために無数の市民を見殺しにするのか』

あなたはその死に責任を負わなければいけないんですか』

俺は全てに責任を負う』

 分針がかたりと鳴った。考えている時間などなかった。

やろう。遼子は故郷を守ることを望むはずだ』

 ダンは白鳥の高度を落とし、車列に沿って蜘蛛の子を全て投下した。蜘蛛の子は車両に吸いつき、燃え上った。山繭蛾のカメラがその様子を捉えた。炎が一筋の川のようだ。軽くなった白鳥は自ら生み出した熱風に吹き上げられた。車列は完全に停止している。路上が昼のように明るくなっていた。

あの中に、遼子が』

 銃声が静まり大人たちが沈黙したことに気づいて、ダンの机の下に隠れていた兄妹がのこのこと外に出た。ダンは両手で顔を覆い、声を殺して泣いた。その袖を上の子が引っ張った。

 卓上の黒電話が鳴った。ダンに代わって辰が応答した。

ENGうちの赤鱏から見てたぜ。大戦果じゃないか。あれで過激派の戦力はほぼゼロだ。しかし嬉しくないニュースも伝えないといけない。ガザルが北から大群で押し寄せてる。南方部隊の全戦力をそちらへ送ってるところだ。トルコ戦区からも増援が来る』

正規軍はどうなりました』

そのことさ。ダマスクスまで交渉人を走らせて軍の高官をとっちめたんだ。この作戦、陸軍のアブドゥルアジズ中将の独断で行われていて軍の大半は認知していなかったらしい。領土の北半分で通信がすっかり遮断されていて大騒ぎになってる』

彼はまだ生きてるんです?』

これも大ニュースだ。ガザルの後方に正規軍の車両が多数確認できる。おそらくはアブドゥルアジズもそこにいる』

それじゃあ、これは彼のクーデーター』

ああ。それも諸勢力を巻き込んだ飛び切り大きい奴だ。北方部隊も出せる戦力を全てラッカへ結集させてくれ。ここ十年で最大の戦闘になるぞ』

 ダンが目を赤くして電話を代わった。

すまない。うちにはもう山繭蛾二機と赤鱏以外に残ってないんだ。大規模な戦闘では力になれそうにない』

アリーはどうした』

お前のとこの現場組ブルーカラー一小隊を連れてラッカへ向かってる。無線は断絶した。輸送車はレーザー通信に対応していない』

あいつは一騎当千だ。じゃあ、せめて彼を安全にラッカへ届けてくれ。ダン、手柄を逃しただなんて思って落ち込むなよ。お前の戦果はさっきのでもう十分すぎるくらいなんだから』

 辰はガンロッカーから代えの弾倉を二つ取り出してポーチに入れた。彼はもう意志を固めていた。

ARA SYRIAどうするんだ、辰』ダンが訊いた。

地下水脈カナートを通ってラッカへ行きます。遼子はもしかすると生きて正規軍と合流したかもしれない。僕は僕のやれることをやってみます』

 辰はダンの言葉を待たずポールを伝ってガレージへ降りた。マンホールの蓋は重いと言っても一人で開けられないほどではなかった。地下水脈カナートの中は相変わらず静寂で涼しい。辰は水に手を浸し上流の方向を確かめた。AKに取り付けたライトを灯し、走った。闇と無音の中で辰の脳裏に無数の考えが交錯した。正義や信仰のこと、片桐と陸郎のこと、民族、内戦、アリーとダン、やさしさ、遼子の失われた右目。地下水脈カナートは無限として体感され、思考もまた終わりがない。五感の中断という形で与えられた永遠に近い一瞬のあと、辰は星の見える川岸にいた。背の高い草の中に身を潜めながら土手を這い上り、ラッカの街を見た。あちこちで火が起こっている。市街戦が既に始まっていた。


   *


 辰は砲火を潜って反乱軍を探した。迷彩服の兵士とすれ違ったが腕章が違った。彼らはダマスクスから派遣されてきた本隊に違いない。思い切って声をかけアブドゥルアジズ中将の部隊の所在を訊いた。

SDCFからはぐれたのか。反乱軍は新市街からこちらへ向かってる。そうだ、ついでにおつかいを頼まれてくれ。商業地区のビル群に狙撃手が潜んでいて前進できない。お前たちならどうにかできるだろう?』

 アスファルト上に缶が転がる音がして辰は建物の影に身を隠した。熱風が吹き寄せ爆音がとどろいた。AKを構えて再び路上へ出ると正規軍の兵士たちだったものがばらばらになって散らばっている。ガザルたちが現れ辰に気づかないまま旧市街の中心へ向かっていった。辰は彼らが来た方向へ進み、看板が色鮮やかな通りへ出た。所属のわからない山繭蛾が左側のビルへ向かって機銃掃射をかけている。辰はその下を潜り抜け、噴水のある環状交差点に至る。反乱軍の戦車が道路を埋め尽くしていた。その上や隙間で、兵士とガザルたちがある一点を見つめている。彼らの視線の先にはビルの屋上に立つアリーの姿があった。彼は辰の知らない言語で演説をしている。アリーの母語だ。

皆殺しのアリーだ』

ラッカ奪還戦の英雄だっていう奴か?』

馬鹿言うな。あいつはガザルを裏切ったんだ』

 反乱軍の兵士たちが騒めく。アリーが空へ向かって撃った。おしゃべりが止まる。アリーは標準語フスハーを選んだ。ここにいる全員に聞かせるために。

ARA STANDARD我が同胞諸君に問う。この醜態はなんだ。アブドゥルアジズの国家転覆に利用され過激派どもと手を組もうとはどういう考えだ。そんなことではガザルの英霊たちに申し訳がつかないと思わないのか』

GZL□□□□□アリー□□□□□□□□□□□□□□』

 ガザルの一人が激しい憤怒を込め、乾いた喉を血でかすりながら叫んだ。同じ感情が噴水の周囲全体へ波及していく。アリーは耳が痛くなるほどの音量で叫んだ。彼らは再び黙った。

ARA STANDARD俺がお前たちと袂を分かつことになったのはこれまでのやり方が時代に合わないと信じるに至ったからだ。独裁政権が倒れてから無数の同胞がシリア社会に溶け込んでいった。もちろん彼らは到底許されないほどの迫害を受けた。しかしな、彼らは今まさに芽を出そうとしている自由と尊厳の種子に誰よりも熱心に水を注いだんだ。お前たちは知っているのか。我らの言語を以って雑誌を出版している同胞を? 我らの権利を主張する政党を? シリア社会の中で生まれながらガザルの誇りを継ぐ子どもたちを? それを知ってなおお前たちは銃で語るのか。我らの英雄サラディンは、神は、それを認めると思っているのか。我が同胞、今一度考えなおせ。ラッカを炎に包むことは俺たちガザルの未来のために有益か。否。正義にかなうか。否。我が同胞、そしてシリアの兵士たち、共に戦おう。この社会と、自由のために。勇気と責任ある戦士たちは銃を掲げろ』

 まばらに、しかし確かに動揺が広がった。一人のガザルが銃を高く掲げた。波紋が広がるように一人、また一人とガザルや兵士たちが銃を掲げていく。彼らの考えが大きく変わりつつあった。その瞬間、銃声が響きアリーが倒れた。群衆にどよめきが起こる。辰は彼らの間を縫って進みアリーのいる建物の階段を駆け上った。ダマスクスの塔のことが頭をよぎった。アリーは仰向けに倒れていた。腹から勢いよく血が噴き出している。

ARA SYRIAいけねえや。辰の幻が見える』

僕は本物ですよ、不死身のアリーさん。止血します』

ガザルを、俺の同胞たちを赦してやってくれ。あいつらと上手く、善く生きてくれ』

喋らないでくださいよ』

 辰は突然強い力にのしかかられた。鋭い風の音がした。辰はアリーに覆いかぶさられていた。アリーは力なく倒れた。彼の頭を銃弾が貫いていた。後ずさろうとした辰の手に柔らかいものが付いた。噴き出した脳だった。向かいの建物で狙撃手が撤退するのが見えた。これがアリーの最期だった。

 辰は屋上の端に立ち噴水を見下ろした。彼はざわめきが収まらない群衆へ向かって呼びかけた。そうすることが義務であると感じられた。

ARA STANDARDアリーは死んだ。たったいま卑劣な弾丸に殺された。僕は彼の友人だ。いまとても混乱している。しかし彼の遺志を継ぐことが使命だと確信している。だから、あなたたちも』

 辰は掌に付着したアリーの脳を飲んだ。食人はどんな宗教でも禁忌だということがふと頭に浮かんだ。この神聖な食人を否定するどんな信仰も、自分のためにはなりえないと辰は考えた。辰はアリーが所持していた装備を貰い受け階段を降りた。


   *


 アブドゥルアジズ中将を殺そう、この無謀なクーデターを終わらせよう、そんな声が兵士たちの間から聞こえてきた。彼らは揃って新市街の北西へ戦車を進めている。辰にはもう遼子のいる場所が鮮明に想像できた。辰は路上に乗り捨てられていたバイクを拝借した。快い夜風が辰を包み、なまぐささを遠ざけていくように感じられた。辰は遺跡の手前でバイクを停めAKのライトを頼りに中へ入った。

JPN遼子、いるんだろ」

 辰の声が壁に反響した。返事はない。辰は斜めに崩れているアーチの上へ登った。アブドゥルアジズを裏切った戦車の群れが遺跡を包囲している。異変を嗅ぎつけてきたのであろう山繭蛾や白鳥が集まりつつあり、天の光がことごとく人工物のようにさえ見える。

遼子」

 辰は遺跡の中心で叫んだ。また反響ばかりが聞こえる。しかし辰はその中に確かに一つ、彼の呼びかけに答える声を聞いた。辰はアーチを滑り降りた。声のした空間は壁で覆われていて大きく迂回しなければ入れない。辰は壁から離れ手榴弾を投げつけた。壁で跳ね返ったそれは砂に沈み、地面ごと壁を消し飛ばした。

 軍服の老人が遼子を絞め殺そうとしているところだった。老人は辰に気づくと遼子を蹴って飛ばし拳銃を抜いた。老人は続けて三発発砲したがどれも辰には当たらない。辰は撃ち尽くすつもりで撃った。一発がまぐれ当たりして老人の拳銃を弾き飛ばした。拾おうとして屈んだところを辰の弾丸が襲う。老人は遺跡の奥へ逃げた。

遼子、息はできるか。あれが、アブドゥルアジズ中将なのか」

ARA SYRIAアリーは? アリーは死んだの?』

死んだ』

 遼子の表情が和らいだ。

君はアブドゥルアジズに殺されようとしてたのか』

怒らないで。話せばわかる人だから』

何を言ってるんだよ』

 また壁が吹き飛んだ。その衝撃で辰と遼子は抱き合って砂に飛び込んだ。遺跡を包囲する車両からの砲撃だった。

私、行かなきゃ』

 遼子は辰の手を振りほどき老人が去った方へ走った。辰はそれを追う。

なぜ誰も俺を信じない。なぜみんな俺を裏切る』

 遺跡の次の間で老人が言った。遼子はその肉体へ体を這わせようとしている。媚びだ。辰はそれに憤りを感じた。虐待されて形成された遼子という人格の結晶のような行為だからだ。辰は遼子のそんな姿を見たくなかった。

JPNやめろ遼子」

 辰は叫んだ。老人には蠱惑的な、しかしあまりにも幼い遼子の姿など目に入っていなかった。彼は辰を見据えた。

 老人は辰に銃口を向けた。辰はまた撃った。一度下がった遼子がまた飛び出してきて老人の手から拳銃を奪った。辰の弾が遼子に当たったが、辰はどうにもできなかった。恐怖と興奮で身体が言うことを聞かなかった。老人は姿勢を崩しながら遼子を庇い、体側へ無数に弾丸を浴びた。老人の左腕がぼとりと地面に落ちた。遼子と老人は砂の上に崩れ落ちた。

——ARA SYRIAおじいさん、私わかるよ』

 自分と老人の血で真っ赤に濡れながら遼子が蛇のように掠れた声で言った。

おじいさんは自分の正しさのためにあまりに手段を選ばなかった。自分の正しさを受け入れてもらうことにあまりに無関心だった。だからこんな風に人がたくさん死ぬの。最後に私の言うことだけ聞いてくれればこんなことにはならないかもしれなかったのに』

 遼子は老人の拳銃を咥えた。引き金に指をかけ、銃声と同時に遼子の頭蓋が吹き飛んだ。遼子の右目が砂の上に転がった。辰にはそれが一つの宇宙のように見えた。


   *


 辰は留置場で朝を迎えた。アブドゥルアジズ中将発見の場に居合わせた彼は警察にとって確実に拘束する必要のある人物だったからだ。SDCFが手配したという弁護士が午前の一番早い枠で彼と面会した。彼女はまずアブドゥルアジズ中将があの場では死ななかったということを辰に伝えた。彼は血液の半分を失いながらもしぶとく生き残りラッカ市内の病院の集中治療室にいる。あくまで司法によって彼に死刑を言い渡さなければならないと考えている政府は名医の手配に忙しいらしい。

 アブドゥルアジズ指揮下にあった数名の兵士の言葉として、弁護士はその日の軍の動きを次のように説明した。アブドゥルアジズはシリア北部一帯の電波を制圧したあと作戦行動を妨害したとしてSDCFの社員を拘束、さらに増援を寄せ付けないために毒ガスを使った。国内犯が相手となればこれらの使用が黙認されていたという事情もあり誰も異議を唱えなかった。過激派と衝突した直後、彼は北への不可解な撤退を指示。バイクでやってきた若い女の伝令が何か重大な極秘事項を伝えたからだろうと兵士たちの間で噂が広がった。部隊は北上を続けトルコとの係争地へ進入、そこでガザルの本体と合流した。ここに至ってアブドゥルアジズはこの作戦の目的が高速鉄道の防衛でなくラッカ占領とそれを足掛かりとする政権掌握であることを明らかにする。ガザルと反乱軍は大編成でラッカへ進撃、正規軍および複数の民間軍事企業から成る軍と市街戦を繰り広げるも証言者を含む一部の兵の離反により自壊した。またあるガザル幹部によれば、ガザルはアブドゥルアジズ中将ら正規軍内部の反乱分子を利用してシリア北部に独立国家建設を企図していた。そのために過激派の戦力を利用すべくシリア資本による高速鉄道敷設の阻止という共通目的のための一時的な連合という建前を用意した。実際には過激派に協力するつもりなど毛頭なかったし、ラッカ占領が済めばアブドゥルアジズを旧体制の後継と言う正統性を利用して傀儡化するつもりだったのだという。

ARA SYRIAまあでも、戦いなんていつもそんなものね」

 弁護士が言った。

あまりに多くの意図が絡み合って、その結果生まれた制御の効かない理不尽のために人が死ぬの。私の息子も昔、兵隊にとられた」

アブドゥルアジズと話すことはできますか」

 辰が訊いた。

無理でしょうね。あの人はもう国家転覆を図ったテロリストであって、一般人が面会を許されるような立場にはないもの」

尋ねたいことがいくらでもあるのに」

そうでしょう。どうしようもないことばっかりなのよ。この世は」

 辰の拘留は三日で終わった。アブドゥルアジズ中将と面識すらなかった彼は思いのほか早く警察の関心対象から外れたのだった。例のトラックでダンが迎えに来ていた。辰がこの車の助手席に乗るのはもしかすると初めてかもしれなかった。警察署から出るときに受け取った私物の中に覚えのない紙袋があった。遼子の義眼だった。

君を拘束したとき掌にきつく握っていたから」とメモが添えてあった。あらゆる田舎と同様に共同体的な義理や人情が近代的な倫理と道徳に置き換えられつつあるこのシリアでも、まだそんな対応が許されていることを辰は意外に思った。義眼は底がわずかに湾曲した半球で、見た目よりずっと重い。よく見れば瞳孔も虹彩も人の目とはいくらか違っていて、いわばどこにもいない幻獣の目のような趣がある。

遼子はアブドゥルアジズを親しげにおじいさんと呼んでいて、彼の境遇に同情しているようでした」

本物の祖父じゃないさ。俺が本物の父じゃないようにな。あんな奴でも、遼子は日本から来たばかりで右も左もわからない自分を救ってくれたと思ってそれなりに恩を感じてたらしい。だがあいつは骨まで軍人でな。独裁政権の熱烈な支持者だった。遼子はそれが気に食わなくて、軍人としては丸っきり失格な俺なんかについてきた」

結局のところボスは遼子と寝たんですか」

そんなことが気になるのか」

遼子についてボスは知っているのに僕は知らないことがあるのが気持ち悪いんです。なぜか」

そりゃあ恋だな」

恋ですか。なんだかとても嫌だ」

わかるよ。恋って言葉はあまりに多くの感情の機微を覆い隠してしまう。俺が嫌いな言葉は三つある。友情、恋、栄誉だ。うっかり過激派を殲滅してしまったせいで俺は栄誉賞とやらを授与されることになったらしい。正直受け取りたくない」

 車は赤信号で止まった。市街戦からほんの数日しか経っていなくてもラッカの街はあちこちで規格化された秩序が顔をのぞかせている。

なあ辰、お前随分とここの言葉が上手くなったじゃないか」

あっ、確かに。母語じゃないことを意識してませんでした」

何だろう。アリーもそんな奴だったな。演技というか、わざとらしさというか。そういうホットミルクの油膜みたいに残る気持ち悪さがあいつといるとなくなっていくんだよ。辰もそんな経験ないか」

ええ、あります」

あいつと働いてるうちに俺はどんどんあいつに似ていったよ。それは君も同様みたいだ」

 二人は事務所に着いた。日の光の下で見ると倒壊しなかったことが不思議なくらいにあちこちがひび割れ鉄筋が露出している。ガレージで眼鏡が兄妹と遊んでいた。

おじさん」

 女の子がダンに飛びついた。

お引越しはまだなの?」

何度も言ってるだろう。遼子とお父さんのお葬式を済ませてお墓を作ってからだ」

おばあちゃんが死んだときはこんなに何日もかからなかった」

アリーとおばあちゃんじゃ葬式の規模も手間も違うんだよ」

引っ越しってどこへ行くんです」

 辰が訊いた。

鉄道の見えるところにね。高速鉄道が通ればこの辺りも賑わう。ガザルも過激派も銃で生活するのが馬鹿らしくなって経済に組み込まれる。そうすればひとまずの平和だ。俺はこんな仕事を辞めてひとまずの平和の中で平凡に死んでいくよ」

 辰は遼子の義眼をダンに渡すべきか迷った。しかし義眼などというものは平凡な死を望む人の生活にはあまりに似合わない気がした。辰は遼子の一部を永遠に自分で持っていることに決めた。

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