第3話 矢合観音


 もうしばらくで目的地という少し手前に矢合観音やわせかんのんがある。

今から向かう儀長城主の弟で、やはり砲術家の矢合城主、橋本大膳が、

十一面観音菩薩を祀ったことが始まりだった。


 仙千代は御堂に足を向けた。自然とそうなる。

父とこの道を通る時、拝ませてもらうのが常だった。

 

 「どこへ行く、仙千代。遅れるぞ。

少しでも早く着き、橋本様を手伝うようにと言い付けられておる」


 「鉄砲玉じゃなぁ、いつも。迷子になっても探さんぞ」


 祭りにも似た規模の餅つき行事で、

橋本家と懇意の武家の男子が近隣から集められていた。

 師走の忙しさから人手が足りない上に、

餅が出来上がるまでに大変な手間と労力が要るということで、

猫の手も犬の手も今日は借りたいのだった。


 「参ったら直ぐに追い付く」


 と仙千代は言い、二人と別れた。


 小さな山門の前で合掌と共に一礼し、

敷居を踏まぬよう、男子たる自分は左足から入った。

 御手水で手と口を浄め、本堂へ着いたら賽銭を入れ、合掌し、


 「いつも御見守り下さり、有り難うございます」


 と心の内で呟いた。願い事はしない。

こうして参らせていただけるだけで功徳十分だった。

 うりざね顔の観音様はその時々で表情が変わって見えた。

今日は優し気な面立ちで、仙千代に微笑んだような気がした。


 再び一礼し、御堂を後にした。

 作法通りに山門を再度くぐった。

 人影はなかった。

 

 参道は両脇に銀杏いちょうの樹が植えられていた。

防風林の役目を果たし、実が採れる上、

根が深いので地震の備えにもなる。

 この時期は扇の形をした葉が地面いっぱいに広がって、

黄金こがね色の毛氈もうせんのようだった。


 実を探すともなく探していた仙千代だったが、

銀杏の葉は油分が多く、幾重にも厚くなったところで滑って転んだ。

 起き上がろうとした時、澄みきった蒼天が飛び込んできて、

そのまま仰向けで気が済むまで空を眺めた。


 朝まだき、家を出た時は、天の中央で極星が輝いていた。

極星は四季を通していつも同じ位置にある。

 道に迷ったらその星を探せば良いと父が言っていた。

極星の純な白い光は陽が強すぎて朝には分からなくなるけれど、

確かに変わらず天空に在り、

けして無くなるものではないと教わっていた。


 あの空のどこかで極星は輝いている、今も……


 見えないはずの星を目で追って、

星と星の間を駆け巡る自分の姿を想像するのは面白かった。

その時の仙千代は羽根が生えたように身体が軽く、

念じる前に目的の地へ着いている。

 静寂で清らかな永遠の世界がそらの彼方にきっとある、

そんな気がした。

 

 落ち葉の寝床は背中が温かだった。

葉を掴んでは投げ、降りかかる葉に塗れ、一人で遊んだ。

 無心になって、餅つきのことは忘れた。


 身を起こし、手水舎を見ると、

軒にとまった尉鶲ジョウビタキの雄が橙色の腹を見せ、

ピッピッと鳴きながらぴょこんと御辞儀をして、

尾をブルブルと震わせた。

 

 可愛らしく、思わず笑みがこぼれた。


 いつか、先ほどまで居た道に男達の姿があった。

御堂は東を望んで建っていて仙千代に陽が当たっていた。

 相手の正体は逆光でよく分からない。

 やがて、一人の男がこちらへやってきた。

いったい何の用があるのか。不安を掻き立てられた。


 仙千代は咄嗟に逃げた。

 少し前、父くらいの年齢の見知らぬ男から道を尋ねられ、

案内したものの途中で不穏な気配を察し、大声で泣いてしまった。

 男はそこで姿を消して、仙千代は解放された。

 その恐怖は誰にも話さなかった。言えば皆が心配すると思った。

しかし忘れられない出来事だった。


 仙千代は庫裡くりの裏へ隠れた。

 少しばかりの間、身を潜め、境内からざわめきが消えた頃、

そっと様子をうかがい外へ出て、

誰も追ってこないか幾度も振り返って確かめながら、懸命に駆け、

かなり遅れて儀長城へ着いた。

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