第44話クナイ11


 家の前まで来た時、誰かと話すハンナの声が聞こえた。

 誰かが家を訪ねてきたのかと警戒を強めながら駆け出すと、隣家の息子と夫の姿が目に入る。無表情の息子に対し、妙に愛想よく話しかける夫の様子に嫌なものを覚えて、ハンナと相手の間に割り込むように立ちはだかる。

 隣家の夫は、突然どこからともなく現れた俺に腰を抜かしそうになっていたが、目が合うと気まずそうに逸らして息子の手を引いて家に入っていった。


「……何を話していた?」


 大丈夫かとは訊けず、つい厳しい口調になってしまう自分に舌打ちしたい気持ちになる。


「ええと、おかえりなさい。食事の準備がまだ途中なの。家の中で話しましょう?」


 ちら、と隣家に目を遣るハンナの様子から、何か話したいことがあるのだろうと気が付く。

 家に入ったところで、ハンナが隣家側の窓を閉めながらおもむろに口を開いた。


「息子さんがうちを訪ねてきて……家に遊びに来ないかと誘われたんです。お母さんがお菓子を準備しているからと言われたんですが……お断りしたら旦那さんと一緒に再度訪ねていらして」


 ハンナはその言葉に『嘘』が含まれていると心眼で見えてしまった。

 忙しいからと断るが、息子は困った様子で帰ろうとしない。そうしているうちに隣家から父親のほうが出てきて、お茶だけでもとしつこく家に来るよう誘ってきたらしい。

 俺が出くわしたのはちょうどその時で、無遠慮に肩を掴まれたり腕を引かれたりして対処に困っていたところだったと言われ、カッと頭に血が上る。


「隣家の奴等とはもう口をきくな。息子が来ても相手をするんじゃない」


 妻が、と言いながら本人が現れないのもおかしい。初対面からあの男には嫌なものを感じていた。ハンナは俺の言葉に頷きかけたが、ふと顔を上げて、息子のことが気にかかるのだと言い出した。


「あの男の子の様子が気になるの。実は、隣家側の窓を開けて掃除をしていた時、くぐもった声でよく聞こえなかったけど、泣き声だったかと……あの子がすごく父親の顔色を窺っていたのも気に掛かるわ」


 虐待まがいの扱いを受けているのではと思える様子だったので、息子がもし助けを求めてきたら無視はできないと、ハンナはこちらの顔色を窺いながらも了承できないと意思表示してくる。


 これまで俺の指示には頷くだけだったハンナが意見を言ったことに驚いたが、同情心でハンナ自身の身を危険に晒すのは俺も了承しかねる。

 だが、子どもの身が危険だとハンナが判断したのなら、きっと俺が息子と関わるなと厳命したところで聞きはしないだろう。

 


「……分かった。隣家の様子を俺も気にかけておく。だから一人の時に対処しようとせず、何かあったら俺を呼べ」


「……ええ」


 ハンナが我が身可愛さに他人を見捨てるような人間でない。それどころか、我が身を顧みないところがある。だから余計に他人と関わらせたくなかった。

 生きる希望などきっと今のハンナには持ち合わせていない。赤の他人のためにあっさりと自分の命を犠牲にする選択をしてしまいそうで怖かった。


 呪いに侵された夫の醜悪な姿を目の当たりにしてなお、なんのためらいもなくその呪いを自分に移す決断をした。男でも耐えがたい醜い見た目になり、常に痛みに苦しめられ、じわじわと死に近づいていくような呪いだというのに、ほんの少しも迷わなかった彼女に恐怖すら覚えた。


 彼女を手放す選択ができないのも、その後にハンナが幸せに暮らす未来が見えないからだ。今は俺がもらい受けた身だから勝手に死ぬこともできないと考えているのだろうが、解放されたらそのまま死んでしまうのではないかという考えが拭えない。

 俺はハンナに死んでほしくない。

 だが、死にたいような目に遭わせておいて、死ぬななどどの口が言えようか。だから賭けの権利で彼女の命を縛る俺の身勝手さに嫌気が差すが、それでも生きてほしかった。


 俺が強張った顔をしていたせいか、ハンナが不安そうにこちらを見つめてくる。


「ああ……そういえば、今日も刺繍のハンカチが全て売れてしまったんだ。昨日買っていった客が、別の柄も欲しいともう一度来たんだ。滞在中はまた見に来ると言っていた」


 話題を変えて今日の客の話をすると、彼女はパッと顔を明るくした。


「そうなの? えっと、全部お花の刺繍だったけど、今日は鳥とか猫の動物の刺繍にしたの。お花のほうがよければ別の花模様で作るけど……どうかしら」


「花の刺繍を褒めてくれていたが……試しに違う模様も作ってくれるか?」


「うん、じゃあまた別のお花のを作ってみるわ」


 客の話をしただけなのに見るからに嬉しそうにしている。隣家の子どものことから気が逸れてくれたことにホッとしてそのまま仕事の話を続けた。


 この地に来てから少し元気を取り戻したように見えたから、この地にしばらく腰を据える選択をしたが、隣家のように距離を詰めてくる者がいるリスクに少し不安を覚える。

 だが、そのリスクよりも作った刺繍を買った客の反応を聞いて嬉しそうな顔をするハンナの気持ちを優先すべきかと考え、この時感じた不安を無視してしまった。


 後に、他者との関わる機会が増えてしまう危険性をもっと警戒するべきだったと後悔することになる。



 ***



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る