第43話クナイ10


 家に帰り玄関のドアを開けると、なにやらいい匂いが漂ってきた。

 疑問に思いながら台所に行くと、ハンナが料理をしている最中だった。


「……なにをしているんだ?」


 驚いて声をかけると、ハンナは困ったように眉を下げ、調理器具があったから夕食を作ったと言った。


「……ダメだったかしら」


「いや、そんなことはない。助かる」


 当たり前のように食事を用意されて少し戸惑っただけだ。

 家には前の住民が残して行った鍋や食器があったのだが、全て綺麗に洗ってしまわれていた。よく見ると部屋の中も床や窓が拭き清められているし、煤けていたカーテンも洗ったようで綺麗になっていた。


 空き家特有の薄汚れた感があった家だったのに、見違えるようだった。

 掃除だけでも時間がかかったと思うのだが、その上ハンナは買い物に行って食事の準備までしていた。どこにそんな時間があったのかと不思議に思う。


 席に着くよう促され椅子に腰かけると、俺の前に皿が並べられた。

 料理を見ると、雑穀と鶏肉を煮込んだ粥だった。


「これは……」


 懐かしい祖国の料理が出てきて、俺は思わずハンナの顔を見上げた。


「あなたの嫌いなものが分からなかったから、これなら慣れた味だし食べられると思って」


 幼い頃俺の母がよく作っていた郷土料理だ。匙を受け取り、料理を口に運ぶと、懐かしい味が口に広がった。


「美味い」


 俺は一瞬我を忘れて食事をむさぼった。

 味がする。

 美味いと感じる。

 懐かしい記憶が蘇る。


 もうずっと、食べ物の味など感じなくなっていたのに、この料理を食べた瞬間、記憶と共に味覚が戻って来た。ああ、美味いというのはこういう感覚だったかと、食事をかみしめていると、ハンナがこちらを凝視しているのに気付いて我に返った。


「懐かしい味で驚いた。昔に食べたものと同じだ」


「食料品店で米と調味料が売っていたの。同じ味に作れてよかったわ」

 

 そう言ってハンナは自分も煮込みを口に運ぶ。

 祖国の料理など幼い頃に食べたきりだっただろうに、よく覚えていたものだ。味わうように料理を噛み締める彼女を眺めながら、ひとつの疑問が浮かんでくる。


「なぜこれを作ってくれたんだ?」


 どうして祖国の料理なんかを作る気になったのか分からない。ハンナにとって俺は卑怯な賭けで彼女の自由を奪った憎い相手に違いない。それなのに、この料理からは俺に対する気遣いが感じられた。

 

「なぜって……いつも食事が口に合わないみたいだったから」


 ハンナには俺が、食事を食べたくないのに嫌々食べているように見えていたらしい。確かに何を食べても味がしないのだから、俺にとって食事は義務のようなものだった。

 なんと返事をしたものかと分からなくなり、俺は黙って食事を平らげた。


「そういえばお前の刺繍が全部売れてしまったんだ。悪いが他に売りに出せるものはあるか? それとも……安定して作れるのなら、小間物店に卸すかたちで販売するほうがいいかもしれないな」


 自分の作ったものが売れたと聞いてハンナは目に見えて嬉しそうにしていた。ここ最近特に表情が豊かになってきたように感じる。


「ハンカチに名前や小さな刺繍をするだけならすぐに作れるわ」


 昨日、売り物にしたいと俺が言ったせいか、夜のうちにハンカチに小さな刺繍を入れたものを何枚も作ってくれてあった。

 

「仕事が早いな。刺繡の注文を受けたらまた頼むことになるが、余裕をもって注文を取るからそこまで急がなくていい」


 ハンナは笑顔で頷いて、糸と布を買い足さなくちゃと嬉しそうに笑った。

 仕事を褒められると嬉しいものなのだろうか。

 ハンナを連れてここにたどり着くまでにいろんな国を経由してきたが、彼女が何かを欲しがったことはなかった。服や装飾品を買い与えようとしても、必要最低限の物を買うだけで余計なものは必要ないと言う。どんなに美しい町や景色を見ても、彼女の表情が動くことはなかった。

 それなのに、働かせたらこんなにも嬉しそうにするのかと不思議でならない。

 掃除をさせて食事を作らせて、金を稼ぐための仕事までさせるほうが、ハンナは嬉しいらしい。


「……いってくる」


 出かけに声をかけると、当たり前のようにいってらっしゃいと言葉が返ってきた。


 ハンナはどうして俺に恨み言を言わないのだろうか。

 家族や友人と引き離して国を捨てさせた俺に対し、彼女は一度も責めるような言葉を言ったことがない。それどころか、この町に来てからは俺に笑顔を向けるようになって、まるで親しい友人のように振る舞う。

 

 賭けに勝った俺が彼女自身をもらい受けたかたちだが、『本当』の賭けに俺の負けたのだ。


 あの時に手放すべきだったのだ。

 たとえ彼女が絶望に打ちのめされて死んだとしても、『ハンナ・アストン』のままで死なせてやるほうがきっと彼女にとっては幸せだったはずだ。

 何者でもない今の状態で生き続けるほうが苦しいだろう。

 それなのに未だこうしてそばに置いているのは、俺のエゴだ。




 今日も港の近くにある露店通りで商品を並べていると、昨日も来た客が待ち構えていたかのようにすぐ現れた。


「やあ、今日も店を開いてくれてよかった。昨日買ったハンカチだが、花の刺繍が美しいと好評でね、他にもないのかと妻にせがまれてしまって今日も買いに来たんだ」


「ありがとうございます。今日はこれくらいしかないのですが……」


 ハンナが急ぎで作ってくれた刺繍ハンカチを並べると、悩んだ挙句別の絵柄のものを二枚買って行った。わざわざもう一度買いに来る客がいたことに驚いたが、しばらくこの港に滞在するからまた来るよとまで言い置いていったのだから、更に驚く。


 貧乏な移民を装う目的で露店販売を始めたはずなのに、港町で人の行き来が多いせいか、並べていた商品のほとんどが売り切れてしまったため、夕方を待たずに店をたたむことになってしまった。

 あまり目立ち過ぎるのは好ましくない。

 ちらりと他店を観察すると、どこもそれなりに人でにぎわっていて、こちらに注目している目線がないことを確認してからその日は早々に店をたたみその場を離れる。

 帰路につく間は、念のため姿くらましの術を施し万が一にも誰かに後を辿れないように注意を払った。


 

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