第42話クナイ9


「待っていたわけじゃないわ」


 ハンナの声が揺らぐ。

 そんなに動揺してあからさまな嘘をつくほどに、未だにあの男への想いがハンナの中で大きく占めているのかと、考えるだけで胃の腑が煮える。


「一縷の望みを捨てられなかったのだろうが、あの男はお前に呪いを移したあとすぐに女の元へ通い始めた恥知らずだ。別荘に送られるよりもずっと前から、裏切られているとお前なら気付いていたはずだ。お前の献身に対してむくいることなく、呪いと共に死ねと願うような男だぞ? どうして復讐してやらないんだ」


 ずっとあの男の話題は避けていた。

 ハンナがまた泣く顔を見たくなかったからというのもあるが、俺自身冷静に話せる気がしなかったからだ。けれどどうしても訊かずにはいられなかった。

 屋敷の外から夫の姿を見て、泣きながら恨んでいないと言った理由を知りたいとずっと思っていた。


「夫の呪いを引き受けたのは、ただ私が夫を救いたいと思ってしたことなの。それに見返りは求めていない。呪いを貰って醜くなってしまった私を、夫が嫌悪してしまったこととそれは関係がないことだわ」


 呪いを引き受けてやったのだからその恩に報いろだなんて傲慢な考えだとハンナは言い切る。


「……お前のそれは理想論だ。逆に、それだけの献身を受けておいて、平気で裏切るような腐った人間性の男を、どうして許せる?」


 この問いは踏み込み過ぎだと分かっていながら、言葉を止めることはできなかった。もし今でもハンナがあの男を『愛しているから』と言ったら、冷静でいられル自信がない。

 だが彼女の答えは、予想したどれとも違った。


「……結婚式で、神様に誓ったから」


「は?」


「どんな困難に見舞われても、夫となるものを信じ愛し続けることを誓ったからよ。それは私自身への誓約でもあったのだから、たとえ彼のほうが裏切っていたとしても、私が誓いを破っていい理由にはならないでしょう?」


 夫のほうがその誓いを破ったとしても、神との誓いは自分自身と神との約束。そこに夫の事情は介入しないとハンナは言い切る。

 もっと未練がましい答えが返ってくるのかと身構えていた俺は予想外の答えに思わず吹き出してしまう。


「はっ、はは。なんだその理屈。正しいようで激しく矛盾しているだろ。二人で誓いを立てるのに、どうして夫の裏切りは関係ないって結論になるんだよ。じゃあ、お前はあの男が新しい妻を迎えて子を設けた今でも誓いを守り続けるってことか?」


「……それはないわ。だって私はもう死んだ人間だもの。レイモンドを愛して、最後まで彼が迎えに来る夢を見ていたハンナ・アストンは、あの冬の別荘で死んだの。死んでしまった私はもう彼の妻ではないから」


 顔を上げたハンナと目が合う。

 その瞳には静かな湖のような穏やかさがあるだけで、悲しみも怒りも感じられない。あえて言うならば、諦念だろうか。

 それを見てようやく、ハンナがあの時『恨んでいない』といった言葉は、強がりでも自己暗示でもなく本当に心から出た言葉だったのだと知った。


 ハンナはあの男を諦めたのだ。

 ずっと捨てきれなかった『期待』を、あの瞬間に手放した。

 期待するのを諦められてしまったと知ったら、あの男はどう思うのだろう。復讐されないと安堵するのだろうか。それとも嘆くだろうか。

 諦められてしまったあの男のことを、少しだけ哀れに思った。

 



 ***



 家を借りた以上、この町で仕事をしている実績を作らなければならない。隠し資金は腐るほどあるが、金があると周囲に思われるような生活をすると人目を引いてしまう。あまり裕福ではない移民の夫婦と思わせておくほうが安全だ。


 俺は薬草を取り扱う行商という身分を名乗っているので、自分で薬を作って小売をすることにした。露店での販売は許可を得ればすぐにでも始められる。

 そこで、俺はハンナにも声をかけた。


「ハンナ。お前が時々作っていた刺繍を売るつもりはないか?」


 旅の先々でハンナは空き時間があると布に絵を描くように刺繍をしていた。それは町の風景だったり、珍しい鳥の姿だったり、変わった形の建物だったりと、覚書のように色々なものを針と糸で表現していた。


「刺繍? そんな、売り物として丁寧に作ったものじゃないし……」


 刺繍を見るたびに、どれも空き時間でさっと作ったとは思えない出来栄えだったので、ただ手慰みとしてしまい込むのは勿体ないと思っていた。

 それを伝えると、ハンナは少しだけ嬉しそう頬を緩ませた。


「以前、戦争寡婦の方の手仕事として、刺繍を請け負うお店を作ったの。手持ちの服や小物に名前や家紋を入れる仕事で、最初は私が皆にやり方を教えてたくさん刺繍をしたから、人よりも早く縫えるのかも」


 あの男の妻であった時、ハンナは戦争寡婦の支援団体を立ち上げて色々な活動をしていた。その頃のことを思い出したせいか、刺繍を売ることに乗り気になったようで、手持ちのいくつかを俺に渡してくれた。


「上手いな」


 誉め言葉が口をついて出る。すると意外なことに、ハンナが笑ったのだ。


「あなたから褒めてもらえると思わなかった」


 そう言って笑顔をこちらに向けてきた。

 思ったより動揺していたのか、魔力が揺らいでしまったのをハンナが気付いたようだった。これ以上話しているとハンナに心眼を使われそうなので、話を切り替える。


「金を渡しておくから、生活に必要なものは自分で買うといい」


 集落には多くの商店が立ち並んでいる。俺が出かけてしまう日中は好きに過ごせばいいと言うと、不思議そうな顔をしていたが、特に聞き返して来なかったので、金の入った袋をハンナに渡して、部屋に戻らせた。


 ひとまず売る商品を作るため、手持ちのもので薬を調合する。とはいえ、ただ仕事の体裁をとるだから、それなりのものを揃えるだけでいい。



 翌日から露店を開くための許可を取り、港町の一角で店を開く。

 こんなところで露店を開いても売れるとは思わなかったが、他にも露店が並んでいる一角なので、旅の人々が観光がてら見て回っていて、俺のところでも足を止めて品を見ていく者が多かった。

 ハンナの刺繍は特に一目を引いたようで、独特の図柄が珍しいと言われ、出してあったものがほとんど売れてしまった。

 俺が作った香油や塗り薬も、刺繍のついでに買っていくせいで夕方には並べる商品が無くなってしまった。元々売れると思っていなかったので数を用意していなかったことを後悔した。

 

 

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