第41話クナイ8


曰く、亡命後ハンナは食うや食わずの日々もあったのだという。追手から逃れるため、第三国を経由したため、隣国にたどり着くまでに時間がかかり、その間は食事もまともに食べられなかったらしい。

 その後、敵国の国家機密を持って亡命してきたハンナの父親は、丁重に迎え入れられたものの、スパイの可能性を疑われ長い間監視対象だった。使用人など雇えるはずもなく、幼いハンナは数年間学校にも行けずひとりで家のなかで過ごしていたと語った。


「父は仕事でほとんど家に帰ってこなかったから、家のことは自分でやらないといけなかったし、食事も作らないと食べるものがなかったから」


 監視期間が明ける時まで、ほぼ軟禁生活をしていたと聞かされ内心驚きを隠せなかった。数年間、父親と取り調べの調査官とくらいしか口をきかない日々だったため、学校に通う許可が下りても馴染めるか不安だったと、どこか懐かしそうにしながら語った。


「……学校は通えたのか?」

「父の友人の、息子さんが……色々助けてくれたから……」


 その息子というのが、ハンナの夫となった男だということは問わなくても分かる。将校の息子だったあの男が、妹分として表立って彼女の世話をしていたのなら、あからさまな差別や嫌がらせはされなかっただろう。

 初めてあの国で友達になってくれた相手だから、あの男に恩を感じていたというのが、言葉の端々から伝わってくる。

 

 だから、あんな仕打ちを受けてもなお、あの男を憎めないのかと問いたくなる。

 控えめに過去を語るハンナは、こちらを見ずに手元のスープを眺めていた。あの男のことを思い出しているのかと思うとチリチリと怒りが胸のなかで燻り始める。


「あの国での生活は、楽しかったか?」


 何を聞きたいのか、どういう答えが欲しいのか分からないまま問いかけてしまった。


「そう……かな。敵国の出身だと知っても仲良くしてくれる人もたくさんいたし、恵まれていた、と思う」


 ハンナは曖昧に答えた。


「初任務で、隣国に潜入した時、お前を見かけたことがある。幼い頃の面影が残っていたから、一目で分かった」


 俺の言葉にハンナは目を丸くして驚いていた。呪術師の生き残りを探していた時より前に俺がハンナの居場所を認識していたとは思わなかったのだろう。



 潜入部隊に指名されたのは、隠遁術に長けていたことと、あとは純粋に潜入部隊のなかで、死んでも惜しくない人材として選ばれたにすぎない。


 隠遁の才能以外、特筆すべきことがないと評価されていた俺は、早々に危険な隠密部隊に加えられていた。

祖国では、教育課程を終えた十二歳から強制的に軍の各部隊に配属される。今にして思えば、それほどまでに人員が逼迫していたのだ。戦争に負けるのも当然だ。


「いつ頃、のことか……訊いてもいい?」

「お前が十三くらいの頃じゃないか? 綺麗なドレスを着て、日傘をさして貴族の集いに参加している姿を遠くから見かけただけだ」


 目を伏せるとあの時見た光景が今でも色鮮やかに思い出せる。何度も何度も思い出しては反芻した記憶だからだ。



 ハンナとは五歳で別れたきりだったが、一目見てすぐ彼女だと気が付いた。

 亡命先で父親と暮らしていることは調査報告で知っていたが、生きている姿をこの目で見られて思わず胸にせまるものがあったのを覚えている。


 ハンナは淡い色のドレスの裾を優雅に揺らしながら、整えられた庭園をゆっくりと歩いていた。服装も所作も、すっかり隣国の人間に染まっているように見えて、少しのぼせていた頭が冷えた。


 輝くような笑顔を見せる彼女の隣には、あの男がいた。白いレースの手袋をはめたハンナの手を取り、庭園の花々を愛でながら二人で歩いていた。


 二人を見て、一服の絵のようだと、どこかで誰かがつぶやくのが聞こえた。幸せそうに微笑み合う二人は、確かに絵に描いたように完璧な情景に見えた。

 

 しばらく茫然とハンナの姿を眺め、ふと我に返った俺は、自分の姿を顧みる。


 血と泥が沁み込んだ服。

黒く染まった爪。鏡など見ていないからわからないが、顔も泥と血で汚れているだろう。もし姿を晒したら、女性など卒倒してしまうようなひどい見た目をしているはずだ。

日の当たらないところで気配を消して木々に紛れているから、自分がどんな姿をしているかなど考えてもいなかった。


 染みひとつない服をまとい、磨き上げられた靴で歩く彼らに比べ、自分はまるで地面を這いずり回る虫のようだった。

 再会したハンナと俺の間には透明で分厚い壁が立ちはだかり、二度と俺たちの運命が交わることはないのだと痛感させられる。

 きっとこの先、言葉を交わすこともない。

 幼馴染だった小さな『ハナ』はもういないのだな、と理解したあの瞬間の気持ちを思い出す。



「……祖国を捨てた、私を恨んだ?」

「お前が選んだことじゃないだろう。俺もお前も」


 ハンナの問いによどみなく答える。

 彼女を恨んだことなどない。美しく着飾ったハンナを見かけたあの時感じたのは、途方もない虚しさだけだ。彼女と自分の間にある絶望的なまでの距離に、ただ虚しくて悲しくなった。


「お前こそ、どうして自分を捨てた夫を恨まないんだ?」


 ずっと気になっていた疑問がつい口をついて出る。

 あの別荘に独り取り残された時のハンナが何を思っていたのか、俺には理解が及ばない。

 男が迎えに来る気などないことを、嘘を見抜けるハンナならば分かっていたはずだ。

使用人の老婆が来なくなって、このままでは冬が越せないと早い段階で気付いていたはずなのに、ハンナは誰に助けを求めることなく、あの家に留まり続けた。


最後の日まで、毎日玄関から続く小道はハンナの手によって丁寧に掃き清められていた。

 呪いに蝕まれた体は酷く痛んだだろうが、雪が降り始めてもその小道だけは道がみえるように雪かきされていた。

 来ないと分かっている夫を、そうやって待ち続けているハンナのことを俺はずっと見ていた。ハンナがいつ夫への怨嗟の言葉を吐くのかと待ち続けたが、結局死が目前に訪れても彼女は恨み言を口にすることはなかった。

 

「夫が私をあの家に送った理由が分かっていたから……心の準備ができていたのかもしれないわ」


 別荘に行くことを了承した時点で、もう夫の気持ちに気付いていたから、と言ってハンナは目を伏せる。


「だがお前は、あの男が迎えに来るのを、ずっと待っていた」


 あの道を通って、夫が迎えに来ると希望を捨てられずに、痛む体に鞭打って毎日掃き清めていたんじゃないか? という言葉はかろうじて飲み込む。

 

女を作って、呪いを引き受けてくれた妻を捨てこんなところに押し込め死ぬように仕向けている男だというのに、夫の言葉が全て嘘だと知りながらそれでも待ち続けた。その光景を俺は姿を消して眺めていた。


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