織田友里

三年後の会社

 午前六時半。プルルルルという、目覚まし時計としては控えめな電子音で私は目覚めた。まだ自分が出社する為には早い時間だが、結婚して以来、私は裕君の出社に合わせてこの時間に起きている。


 昨晩の話はショックだった。私が裕君を裏切った事もショックだったが、裏切ってしまうような関係に、私達がなっていた事の方がショックだった。私が持っている記憶なら、裏切るなんてあり得ない事だから。


 今現在の二人の関係がどうだったのか、裕君に聞いてみたい気持ちもある。だが、深く知ってしまうのも怖い。


 記憶を失う前の私が言った「裕君が分からない浮気の理由」、これも同じ。今の私にも思い当たる事があるが、裕君には言えない。これが浮気の理由だとすれば、私達の関係が本当に壊れてしまうからだ。


 私はあれこれと考えながら、部屋着に着替えて朝食の用意を始めた。


 ハムエッグと、レタスとトマトのサラダ。後は、コーヒー用にお湯を沸かして、食パンをトーストするだけだ。


 裕君が起きてきたら、どんな顔して挨拶しようか。とても笑顔で挨拶する気分ではない。でも、だからこそ笑顔でするべきじゃないか。


 そんな事を考えていると、廊下からダイニングに入るドアがガチャと音を立てて開いた。


「おはよう!」


 私は心の準備が出来ていないまま裕君を迎えたが、ぎこちない笑顔ながら、大きな声で挨拶した。


「ああ、おはよう」


 そんな私の気持ちなど察する事無く、裕君は玄関から取って来た新聞片手に、暗い表情で挨拶を返してきた。悲しい気持ちになったが、あえて気付かない振りをする。


「朝食を作ってくれたんだ」


 裕君の言葉には、意外だというニュアンスを込められていた。


「うん、いつもの事じゃない」

「ああ、そうだったな……」


 裕君がキッチンから遠い席に座ったので、私はテーブルの上に朝食を並べた。彼は小さく「ありがとう」と言うと新聞を広げて食べだした。


 新聞を広げながら朝食を食べる裕君の姿は、私の記憶には無い。それが今現在の普通なのか、それとも私と会話したくなくてそうしているのか、今の私には分からなかった。


 お互い無言の、重い空気のまま朝食を食べ続けている。でも会話があったとしたら、今以上に重い空気になったかも知れないと思うと、少しありがたい気もした。


 食事が終わり、裕君は部屋に戻り出勤の用意を始める。私も食器を食洗機にセットして出勤準備を始めた。


「あれ? 会社に行くのか?」


 洗面所で準備中の私を見て、裕君が驚く。


「うん、そのつもりよ」

「ええっ、記憶を失くしているんだから、しばらくは休んだらどうだ?」

「うん、でも、記憶がいつ戻るかも分からないから……ずっと休む訳にはいかないわ」

「そうか……」


 裕君は何か言いたそうな顔をしていたが、それ以上は何も言ってこなかった。


「私が会社に行くのは嫌? 会社を辞めるべきと思ってる?」


 裕君の立場では当然そうだろう。浮気相手が会社にいるのだから。


「いや、記憶が戻った後に、どんな話しになるか分からないからな。今の生活は崩さない方が良い」


 どんな話になるか分からないと言うのは、離婚も含めてという意味だろうか。確かに離婚となれば、私も正社員で働いていた方が良い。


「うん、じゃあ、今日から会社に行くわ」


 そう言って、お互いまた出勤の準備を再開した。


「これ、君のスマホだ」


 裕君は家を出る前に私のだというスマホを差し出してきた。変更したのか、記憶に無い機種だ。


「勝手に見たのは謝る。あと、浮気に関しての事は消してある。それ以外は手付かずだから」


 淡々とした裕君の口調から、その気持ちは推し量れない。


「いや、当然の事だから気にしないで。浮気の内容に関して、私は知らない方が良いの?」


 私は自分の浮気に関して何も覚えてはいない。何をどうしていいのかも分からない。


「俺もどうすべきか分からない。浮気の事実も話すつもりはなかったんだ。昨日は感情的に話してしまって後悔してる。出来るなら、今は浮気の事は忘れて欲しい」

「分かったわ」


 辛そうに話す裕君を見ると私も辛い。


「そうか……」


 裕君はホッとしたようにそう言った。


 その後は会話も無く、先に用意を終えた裕君が出て行き、私もいつもの時間に家を出た。


 通いなれている筈の通勤経路の様子が、三年間の月日で変わっていた。有った筈の店が別の店に変わっていたりする。そういう変化を見るにつれ、会社に向かう足が重くなった。会社には浮気相手だという同僚が居る。それに、三年間の空白がある仕事を上手くこなせるかも不安だ。


 私の勤める会社は小さいながらも五階建ての自社ビルを持っている。三年前と変わっていないのがありがたかった。一階のフロアに入ると何人かの社員とすれ違う。知った顔は居るが、特に親しかった人は居ない。形だけの挨拶を交わしながら更衣室に入ると、若い女子社員が「おはようございます!」と挨拶して話し掛けてきた。背の低い童顔の女性だが記憶に無い。どうやら、彼女は私を知っているらしい。


「ごめんなさい、実は……」


 私は三年間の記憶を失った事を彼女に説明した。


「そんな、友里さんがまさか……」


 三井と言う彼女は驚いたようだが、事情を知ると現在の会社事情を簡単に教えてくれた。幸いな事に、私は総務部の庶務課という所属部署は変わっていなかった。だが、課長が高宮に変わっていた。


 高宮は私も知っている。三年前に主任だった男だ。高宮は四十代後半になってようやく主任に昇格した男で、今はもう五十代半ばだろう。自分のミスでも平気で他人に擦り付けるような男で、ネチネチと嫌味も多く当然部下から信頼されていない。課長になっていると聞き、私はげんなりした。


「ありがとう、今日のお昼一緒にどう? お礼させて」

「いえ、お礼だなんて、とんでもない。お昼はご一緒しますが、気にしないでくださいね。友里さんには、いつもお世話になっていますから」


 記憶を失くして不安だったが、三井さんの笑顔を見て、私はほっとした。彼女に礼を言って、自分の部署に向かった。


「ええっ、記憶を失くしただと」


 私は真っ先に、課長のデスクでふんぞり返る高宮に、記憶を失った事を証明書を提示して報告した。すると、彼はあからさまに迷惑そうな表情でそう言う。続いて舌打ちしながら小さな声で、「これだから女は……」と社内コンプライアンスを守るべき総務部の課長とは思えない事を呟いた。


「大丈夫です。仕事はマスターしていますので、すぐに馴染めます」


 決して強がりな言葉じゃない。部署が変わっていない分、大きなシステム変更が無ければ、慣れるのも早いと思っていた。


「分かったよ。おい、津川!」


 高宮は私の後ろに顔を掛ける。振り返ると、一人の気弱そうな二十代半ばの男性が返事をして立ち上がり、こちらに向かって来る。

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