浩司との出会い
「織田が例の薬品で記憶を失ったそうだ」
「あ、はい……」
津川と呼ばれた男性は、特に驚く事なく高宮の話を聞いている。
「お前、織田に今の仕事を教えてやれ」
「ええっ、僕がですか?」
記憶を失った事には驚かなかったのに、これには驚いたようだ。
「織田と同じ仕事しているんだから、お前以外いないだろ」
「そんな、僕なんかが……」
「迷惑をお掛けしますが、よろしくお願いします」
私はこの気弱そうな男に頭を下げた。
「あああ、そんな、友里さんに頭を下げられるなんて……」
男は私を友里と名前で呼んだ。親しいのだろうか? まさかこの人が浮気相手……いや、それは考えられない。こういう気弱そうな男には惹かれないから。
「決まりだな。席へ戻って話をしてくれ。今日は他の部署でも記憶喪失者が出てくるかも知れんから、朝から対策会議だ。全く、めんどくさい」
高宮はそういうと、手を振って私達を追い払った。
「私の席は……」
「ああ、ここです。僕の隣です。あ、忘れているかも知れませんが、僕は後輩の津川浩司です」
彼は津川浩司と名乗った。名前を聞いても、私の記憶に変化はない。
「本当にご迷惑をお掛けします。すみません」
席に着くと、私はもう一度津川君に頭を下げた。
「あ、そんなに気にしないでください。僕も転勤してきてから、友里さんに仕事を教えてもらって、一人前になれたんですから」
「そうなんですか」
「あ、その……敬語も大丈夫です。普通に話して貰って結構ですから」
「その普通がよく分からないけど、あなたがそう言うのなら、敬語はやめておくわ」
「あ、はい、それでお願いします」
津川君はホッとしたように口元を緩めて笑った。
その後、午前中は業務の流れを教えて貰った。
「ありがとう。これなら、何とかなりそうね」
「さすが、友里さんですね。三年前の記憶でもレベルが高いです」
仕事の方は何とかなりそうなので、ホッとした。後は浮気相手の事か……。
ちょうどその時、午前の終業を告げるブザーが鳴った。
「あ、お昼ね。仕事を教わったお礼にご飯奢るわよ。三井さんも誘うから一緒に行こうよ」
私は津川君をお昼ご飯に誘った。朝、いろいろ教えてくれた三井さんも一緒にお礼をしたいと考えていたのだ。
「あ、すみません、僕、弁当なので」
「ああ、そうなの。そっか、愛妻弁当なのね」
仕事を教えてもらっている間に、津川君の左手の薬指のリングに気が付いていた。気弱そうな彼が二十代半ばで結婚している事が少し意外だったが、真面目な性格みたいだから、惹かれる子も居るんだろうなと思っていた。
「あ、はは……」
津川君は曖昧な照れ笑いを浮かべた。
「友里さん」
ちょうどその時、三井さんが現れた。彼女は一つ上の階に居る営業部の事務社員だ。朝に約束したお昼ご飯を一緒に食べる為に来てくれたのだ。
「三井さん、じゃあ、私は三井さんとお昼に行くわ」
津川君にそう言って、私は三井さんと一緒に出口に向かった。
私達は会社の近くにある「ドリーム」という喫茶店に入った。三年前から昼食に良く使っていたお店だ。
「どうですか? お仕事で困った事は有りませんか?」
オーダーを聞きに来たウエイトレスに、二人とも日替わり定食を注文した後、三井さんが心配そうに尋ねてきた。
「すぐに全てこなせる訳じゃないけど、なんとかなりそうよ」
「そうですか、良かったー。さすが友里さん。何人か記憶を失くしていて、他の人は大変みたいですよ」
「私はラッキーだったわ。津川君もフォローしてくれるし」
「津川君は真面目な頑張り屋ですからね」
「彼を良く知ってるの?」
「ええ、結構仲が良くて、私達三人でよく飲みに行ったりしてたんですよ。気が弱くてオドオドしたところがあるけど、仕事はキッチリとこなしますから、友里さんも信頼していました」
「そうなんだ。結婚してるし、落ち着いているのね」
「その結婚なんですが、結構大変みたいですよ」
三井さんは声を低くして、顔を近づけて話す。
「大変?」
「酔って愚痴っていたんですが、津川君の方が一方的に好きで、頼み込んで結婚してもらったみたいで、奥さんは未だに元カレの事を忘れられないみたいです」
「えーそうなんだ」
私は津川君の気弱そうな顔を思い出し、有り得そうだと思った。
その後、私は三井さんから会社の事を詳しく聞いた。彼女は事情通で、大まかな部分ではかなり三年間の空白が埋められたと思う。
「ちょっと聞きたいんだけど……」
「はい?」
「私に関して、何か気になるような事は無かったかな?」
「気になるような事? 仕事の面ですか?」
「そうね。仕事の面はもう十分聞いたから、プライベートとかで何か気になるような事は無かったのかなって。例えば何かに悩んでいたとか?」
それとなく、自分の不倫が周りに知られていたのか、私は気になっていた。
「何かって……友里さん自身に何か思い当たる事があるんですか?」
急に真顔になった三井さんにそう聞かれ、思い当たる事があるから私は一瞬焦る。顔に出てしまったかも知れない。
「ううん、記憶を失って不安なのよ。自分の知らない自分が居たって事がね」
これは本心だった。
「そうですよね。うーん、特には思い当たりませんが、また気付いたら報告します」
「ありがとう。本当に助かるわ」
特に彼女が何か疑っている感じも無く、私は安心した。
昼食も終わり、午後からも津川君のサポートを受けながらなんとか仕事をこなしていく。繁忙期で無かったのも幸いして、定時で上がれる事になった。更衣室でスマホを確認すると、裕君からラインが入っている。
(今日は遅くなるから、食事は済ませて帰る)
感情のこもっていない、用件だけのメッセージ。こんなメッセージを裕君から受け取った事は無い。それだけ夫婦仲が冷めていたのだろうか? それとも、私の浮気の所為なのだろうか? 分からないから余計に不安な気持ちになる。
晩御飯はどうしよう。いろいろ気持ちが落ち着かず、食欲も無い。とりあえず、途中のスーパーでお惣菜でも買って帰るかと、会社仲間に挨拶を済ませ駅へと向かった。
結局、スーパーに行く気になれず、真っ直ぐマンションに帰り着いた。玄関に入ると、私は灯りが点いていない室内に「ただいま」声を掛ける。当然返事は帰って来ない。
奥へ向かう途中の灯りを、片っ端から点けてまわる。自分の寝室に入ると、スーツを着たまま、ベッドに倒れ込んだ。
疲れた……。体も心もへとへとだった。着替えないといけないと、思いながらも体が動かない。私はそのまま、気を失うように眠ってしまった。
どれぐらい眠っていたのだろうか。私はベッドの上で目を覚ました。帰って来た時は薄暗かった外からの光が、完全に夜へと変わっている。壁の時計を見ると午後七時半。一時間ほど眠っていたようだ。
私は重たい心と体を必死で起こし、部屋着に着替えて化粧を落とし顔を洗う。変わらず食欲が無かったので、カップスープを食べてシャワーを浴びた。
時間は九時前になっていたが、裕君はまだ帰らない。もうこのまま先に眠ってしまいたかったが、私は起きている事にした。三年前の私は、彼が遅く帰っても、寝ずに待っていたからだ。
十時前になり、「ただいま」と低い声の挨拶と共に、裕君が帰って来た。
「お帰りなさい」
私は精一杯作った笑顔で、玄関まで行って出迎えた。待っている間、そうしようと決めていたのだ。
裕君は私の顔を見ると、もう一度暗い顔と低い声で「ただいま」と返事を返してきた。
「お疲れ様」
私は裕君が手に持っている鞄を受け取ろうとしたが、裕君は「いいよ」と拒否し、玄関横の自分の寝室へ入って行った。その時、私の横を彼が通った瞬間、微かに香水の匂いを感じた。
「明日も明後日も夕飯はいらないから」
すぐに部屋着に着替えて寝室から出てきた裕君は、手持無沙汰で立っていた私にそう言った。特に理由も告げず、罪悪感などまるでない、ただの連絡事項としての言い方。私の記憶にある裕君の口調では無かった。
「分かった。悪いけど、今日は仕事で疲れたから先に寝るわ」
「ああ、仕事はどうだった?」
「うん、部署は変わってないから、なんとかなりそう」
「そうか……あ、朝も起きて用意しなくて良いから」
「えっ?」
「最近は朝は自分で食べて仕事に行っていたんだ。だから、自分が仕事に間に合う時間に起きれば良いから」
「そうなんだ……うん、じゃあそうさせて貰うわ」
話が終わると、私は寝室に行きベッドに入った。
疲れてはいるが、なかなか寝付けない。さっきの裕君の言葉はどういう気持で言ったのだろうか。私を気遣っての事だろうか? それとも気まずいので顔を合わせたくないのだろうか? 表情からは気持ちが読み取れなかった。でも今は私もあまり顔を合わせたくない。本当はもっと話し合うべきなんだろうけど、その勇気は無かった。
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