織田裕樹

思わず出た言葉

 俺は今、車に津川浩司を乗せて、奴の家に向かっている。


 二人の間に会話は無い。津川は泣いてはいないものの、暗い顔をして俯いている。鬱陶しい事この上ない。


 俺はどうして、こいつと一緒に幸田義人の家に行ったんだろう。放っておいても、こいつに義人や愛佳を殺す勇気など無かったのに。


 はあーと津川が溜息を吐いた。帰りの車に乗ってから何度目だか分からない。


「いい加減諦めろ。お前の嫁さんは義人って奴の方が好きなんだろ。慰謝料貰って別れろよ。あんなだらしない奴に惚れるなんて、お前の嫁も大した女じゃないだろ」

「愛佳の事を悪く言わないでください! 愛佳は純真で優しい良い娘なんです」

「その純真で優しい女は、夫であるお前を裏切ってあの男から離れないみたいだぞ」

「愛佳は記憶を失くしているだけなんです。記憶が戻ればきっと……」


 津川の言葉がそこで途切れた。言い切る自信がないのだろう。情けない男だ。


 そこまで考えて、俺はふと気付いた。


 じゃあ、こんな情けない男に、妻を寝取られた俺は何なんだ。よりによって、どうして友里はこの男と浮気したんだよ。もっとマシな奴が居なかったのか? 俺はこんな奴に嫁を取られるほど情けない人間なのか……。


 考えれば考えるほど、胸が苦しく、苛立たしい。


 俺は一番近い駅に向けて進路を変更した。


「着いたぞ。降りろ」


 俺は駅に着くと、ロータリーに車を停めて津川に降りるように促した。


「えっ? ここは……」

「子供じゃないんだ。ここからでも帰れるだろ」


 津川は、しぶしぶと言った感じで車から降りた。


「良いか、友里には絶対にお前との関係は話すなよ。もし話したら、お前は全てを失うと思え」


 俺は脅すように、津川に念を押した。津川は今、友里の事を考える余裕は無いのか、心ここにあらずと言った感じで頷いた。


 

「ただいま」

「おかえりなさい」


 家に帰ると、友里が笑顔で迎えてくれた。その笑顔が逆に俺の心を締め付ける。


 奥から美味しそうな匂いが漂ってくる。友里が夕飯の支度をしてくれていたようだ。


 俺は服を着替えてリビングに行き、ソファに腰を下ろした。


「疲れてるみたいね。友達の話、上手くいかなかった?」


 友里が俺の横に膝をつき心配そうな顔で話し掛けてくる。そう言えば、友達の妻が浮気して、相談を受けに行っていた事になっていたんだ。


「ああ、やはり別れるみたいだ」

「そうなの……」


 友里は悲しそうな顔になる。


「どうする? ご飯出来ているけど後にする?」

「いや、食べるよ」


 料理はどれも俺の好物ばかりで美味しかったが、心は晴れなかった。友里も何も言わずに食べ続ける俺に気を使ってか、話し掛けてくる事も無かった。二人とも無言で食事は進んでいく。


 俺は酷く苛立っていた。


 浮気されて、友里の気持ちも分からないまま、保留となってしまった。もし記憶が戻らなければ永遠に俺の気持ちは持って行き場を失うだろう。


 記憶を失くした今の友里に、怒りをぶつける気持ちにはなれない。だが、浮気の事実を忘れて昔のように愛する事も出来ない。


「ごちそう様、お風呂に入ってくる」

「うん、お湯はもう張ってあるからすぐに入れるわ。着替えも用意しておく」

「そうか、ありがとう」


 今の友里はこれ以上ないくらい、最高の女性だ。元々こんな良い女を妻にしたのに、どうしてこんな事になってしまったのか。


 俺は湯船に肩まで浸かりながら考える。


 なぜ浮気したのか? その理由を俺が分からないから離婚すると、記憶を失う前の友里は言った。考えてみても思い当たることが無い。仕事に夢中で友里への気遣いが無かった事は反省している。だが、それが浮気する程の事なのか? 不満があったとしたら、浮気する前に話し合うのが夫婦じゃないか。


 俺は立ち上がり、湯船から出た。


 結局、考えても堂々巡りだ。友里が浮気した理由なんて、本人しか分からない。俺がいくら頭を抱えて考えたところで分かる訳ないのだ。


 俺は風呂から上がって着替えを済ませると、そう結論付けた。


 ダイニングに戻ると、友里が考え事でもしているかのように、両肘をテーブルにつき、両手を頭に当てて座っている。


「お先に」

「あっ、うん……」


 友里は浮かない表情で生返事した。


「どうした? 頭でも痛いのか?」

「ううん、ちょっと考え事していただけ。私もお風呂に入るわ」

「そうか。俺は疲れたから先に寝るよ」


 椅子から立ち上がった友里にそう言って、俺は寝室に向かおうと背を向けた。


 歩き出そうとした瞬間、後ろから友里が抱きついてきた。何も言わないが、友里の気持ちが伝わってくる。


「ごめん、寝るよ」


 俺は友里の気持ちに応える事はせず、まわされた腕を振りほどいた。


「どうしてよ!」


 友里が俺の背中に叫ぶ。何と言うべきか分からないまま俺は振り向いた。


「どうして、私を無視するの……」

「無視してなんかないさ」


 悲しそうな友里の顔を見る事が出来ずに視線を落とした。


「裕君の事がよく分からないわ……凄く優しいかと思えば、急に私を避けるし……」


 俺の揺れ動く気持ちが、友里にそう思わせているのだろう。許したい気持ちと裏切られて苦しい気持ち。せめて、浮気した理由と謝罪があれば、気持ちは落ち着くと思うのに……。


「三年間で私達に何があったの?」

「何も無いよ」

「嘘、あなたの態度は三年前と明らかに違うわ」

「そりゃあ、結婚して時間が経てば、いつまでも新婚気分じゃないだろ」


 俺がそう言っても、友里は疑いの眼差しを向けてくる。


「信じてくれよ……俺達は三年間上手くやってきたって」


 それでも俺の言葉が信じられないのか、とうとう友里の瞳から涙がこぼれてきた。


「じゃあ、どうして抱いてくれないの? どうして拒否するの?」


 確かに浮気を知る前の俺なら、友里から求められたら抱いていただろう。だから、言い訳する言葉に詰まる。


「理由を言ってよ!」

「お前が……」


 俺はもう、やけっぱちな気持ちになった。


「お前が浮気したんだよ。会社の同僚とな。それで離婚したいって言いだしたんだ」

「嘘……」


 友里は驚きのあまり、涙が止まったようだ。


「嘘じゃない」

「どうして? どうして私は浮気したの?」

「その理由を俺が……」


 あの時の友里の言葉がまた頭に浮かんでくる。


「俺が理由を分かっていないから、友里は離婚すると言っていた。でも、考えてみろよ、浮気したのはお前なのに、俺がその理由を分かる訳ないだろ? 無茶言われたんだよ、俺は。浮気が分かった翌日に、お前は記憶を失った。結局、理由も分からないまま、謝罪も無いまま、何も分からずじまい。俺はお前を憎み続ける事も、許す事も出来ないままなんだよ」


 俺は正直な気持ちを、記憶を失った友里にぶちまけた。友里は悲しそうな顔で聞いている。


「あなたが浮気の理由が分からないから、別れる……私が浮気する理由って……」


 友里はそう呟くと、何かに気付いたように、ハッとした表情を浮かべる。


「何か思い出したのか?」

「あ、いや……」

「何でも良い、言ってくれよ」


 俺は少しのきっかけでも良いから、友里の気持ちを知りたいと思った。


「いや、本当にそれが理由か分からないから……」

「間違いでも良い、少しでも可能性が有るなら言ってくれよ」

「裕君は、本当に分からないの?」


 友里は急に冷静な表情になり、そう聞き返してきた。その言葉に責められているような響きがあり、答えられない事に、少しの罪悪感を覚えた。だがすぐに、被害者である筈の俺が、なぜそんな気持ちにならないといけないのかと、怒りに変わった。


「やられた俺が、やった者の気持ちが分かる訳ないだろ」


 俺は怒りに任せて言い返す。


「そう……」


 友里は俺の怒りにも表情を変えない。


「なら、間違えた情報で、本当の事が分からなくなると困るから、言わないでおくわ。私ももっと考えてみる」

「えっ? いや、間違いでも良いから言ってくれよ」

「ごめんなさい。どうしても今は言いたくない、言えないの……」

「そうか……」


 理由は分からないが、友里の気持ちは変わりそうもない。


「ごめんね……」


 友里は悲しそうな表情を浮かべ、逃げるようにお風呂場に向かう。俺はどうしようもないもどかしさを感じた。

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