エピローグ

エピローグ

 俺は夏莉と共に階段を上っていた。目指す先は、終末が訪れる直前である。雷田の話では、空気が振動し、苦痛に塗れていた──と。それから、苦しむ彼を俺が介抱したのだとも言っていた。だが俺は彼を見かけたことなどなかった。

 ふたりで終末より数分前に向かうと、まだ平穏な町並みが見えて、胸が苦しくなった。これから俺たちは目を覚まし、お陰で彼らの苦悩が始まってしまうのだ。

 終末まではまだ時間がある。なので、時刻が午前零時丁度になるのを待って、俺は少し辺りを散歩することにした。

「零時になったら、これを飲んで」

 去り際に、夏莉から赤い薬を受け取った。

「これは?」と聞いてみれば、

「これを飲めば、お話はもう終わり。貴方は研究室で目を覚ます」

 頷くと、俺は導かれるように町を彷徨った。

 儚い夢のために作られたセカイを記憶に残したくて、細部に至るまで目に焼き付けていく。足音を立てながら歩いていても、誰も俺のことを気にも留めない。俺は夢の住人ではないからだ。特別であるというよりは、疎外感を感じる。

 終末より先に、俺たちの居場所はない。ピアスが喧しいアラームを鳴らし、言う通りに薬を飲んだ。瞬間、身体中が震え出し、意識が遠ざかっていく。痛みはない。どちらかと言えば、成仏するようなイメージが近いだろう。

 細胞のひとつひとつが脆く崩れ、灰のように舞い散っていく。もうすぐ俺は、長い夜の夢から醒めてしまうのだ。壁にもたれ、星空を瞳に映していたそんな折に、呻きながらもがくように移動する雷田を見かけてしまった。

 俺は衝撃に包まれて、呆然とするしかなかった。狼狽えながらも、彼の元に寄り添い、非常階段まで連れてやる。やがて雷田は苦しそうに非常口を抜けていき、その身を陰に隠していった。

 俺は笑いたくなった。

 それから、重力が無くなったかのような錯覚。

「ああ、これが目覚めか……」


 炭酸の抜けたような音がして、俺は浮遊する。

 意識は急速に雲を突き抜け、上へ、上へと落ちていく。

 時層を越えている。

 仮想から現実へ。

 夢から現へ。

 精神から肉体へ──


 真っ暗な闇が、すべてを覆い尽くした。


 瞬きすると、そこは大学の一室。

 次第に周りの音が聞こえてきて、今までのことは夢だったのだと自覚する。意識はもう現実に適応して、今度は肉体の疲労が広まった。時計を見てみれば、かれこれ三時間は椅子に座りっぱなしだったようだ。

 心なしか、肩が凝ったような気がする。

 ヘッドホンを外し、上体を起こす。

 目の前に座る夏莉が小さく声を漏らし、薄く目を開けた。

「ここはまだ小説の中?」と、彼女が目覚めながら言う。

「ここはもう小説の外だ」

「おはよう」夏莉が言った。

「おはよう」俺は返事する。

 窓の外を見た。

 澄み切った青空が広がっていて、終末なんて嘘のように感じてしまう。俺は──プラネタリウムの投影機みたいな見た目をした──記憶装置に、一冊の文庫本が置かれてあるのを見つけ、手に取った。中身をぱらぱらと捲って、中身を読み進める。

 ふたりの秋乃による視点で、世界は動いていた。

 側に夏莉が立って、一緒に中を覗く。

 次第に、夢と片付けるには、あまりに鮮明に思い出せる出来事に、涙が止まらなくなった。この世界には、秋乃も、了も、確かに生きている。そこは仮想世界ではない。あり得たかもしれない未来──つまるところの並行世界だ。

 アルバムのように思い出が蘇り、そして、物語は書きかけのまま途切れた。記憶装置はもう止まっている。

「皆はどうなるのかな」夏莉が微かな声で言う。

「消滅したとは書いてない。それに、小説はまだ未完成だ。きっと、これからも生き続けるさ」

 夏莉は目を瞑り、何度も噛み締めるように頷くと、顔を覆って泣き出した。俺たちはまだ、このセカイと決別出来ていないらしい。目には滴が溜まり、外界から発せられた光が、捻じ曲がって網膜に届けられる。

 だしぬけに冬人から連絡が届いた。

 通信を許可すると、彼のホロ身体が研究室に現れる。俺たちふたりの哀れな姿に驚いて、

「一体どうしたの?」

「俺たちのことは良いだろ。それで? お前こそどうした」

「今日本に帰ってきたばかりなんだ。まだ、葬式に出ていないからさ。間に合うかな……」

「多分、な」俺は何とか笑ってみせる。

「もし良かったら、久しぶりに三人で会わない? いつもはホロ通話だからさ。あの、良かったらで良いんだけど……」

 俺は夏莉を見た。彼女は涙に塗れた顔で頷く。

「よし、決まりだ。どこで合流する?」

「着いたら、また連絡するよ」

「わかった」

「ところで、何があったの?」

「うるせえ」

 通信を切った。

 俺は立ち上がり、居心地の悪い椅子から解放される。夏莉に手を差し伸べて、

「俺たちも行こうぜ」

「うん」

「冬人が待ってる」俺は伸びをしながら言った。

「待つのは私たちでしょ……」夏莉は微かに笑う。

「そうだな」

「置いてかれて、いつだって待たされてる」

「ああ、そうだな──」

「でも待ちくたびれちゃったよ」彼女は項垂れた。

「なら、外に出よう。どこへ行く?」

「どうしよう。何も考えてなかったな」

「まあ、それでも良いだろう。ぼちぼち行こうぜ。待ち時間は長いんだ。それに、未来は未確定なんだし」

「そうね。うん──その通り。後のことはゆっくり考えよう。何だか疲れちゃった」

「俺たちにはきっと、気晴らしが必要なんだよ。過去よりも、未来に希望が持てるような」

「私、きちんとお別れ出来た」

 夏莉は窓辺に立つと、空を見上げた。視線を追うも、そこにはやはり、誰も居ない。溜め息ついでに笑みが溢れる。

「俺もだ」

「見て、もう昼だよ。お腹が空いてきた」

「どこか食べに行くか?」

「それが良いね。そうしよう」

「じゃあ、行くか」

「うん」

 研究室を後に、過去への扉を閉めた。

 もうそこに彼らは居ない。

 だから、ここには訪れないだろう。

 未来へと針を進ませるのだ。

 俺たちはもう振り返らない。

 先に行ってしまったふたりのことを、待たせるように。

 あり得た未来と、別れを告げて。

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秋、落ちる、すべてのために 八田部壱乃介 @aka1chanchanko

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