第16話  告白



バイクを駐車場に停め、マンションの5階にある遥子の部屋の玄関に入る。

「どうぞ。」

「……お邪魔します。」

木目調の薄いベージュの壁とマロンブラウンのフローリングの廊下を進むとダイニングキッチンとリビングの部屋に続いていた。

ダイニングテーブルは二人用で、リビングには三人掛けのターコイズグリーンのソファがローテーブルを挟んで大きめのテレビと向かい合っている。

ただ、特異だったのは、テレビの置かれた壁にテレビを中央として両側にびっしりと本が並んだ本棚で埋め尽くされていた。

おそらくは、今まで手掛けた本や作家の本達なのだろう。

それ以外は、余計な装飾も家具もない、コンパクトで無駄なく綺麗にまとめられた遥子らしい部屋だった。


遥子は、コートを脱ぐと土門のダウンジャケットも受け取り、ハンガーラックに掛ける。

そして、リビングではなく、ダイニングテーブルに手で座るように促した。

「熱いお茶入れるから、座って。」

対面式キッチンでブラウスの袖を捲り手を洗うと、マグカップを二つ出して、手際よくお茶っ葉を急須に入れてポットからお湯を注ぐ。

土門はテーブルに座りながら一挙一動見逃さず、見つめた。

温かい湯気の立つマグカップを二つ手に、一つを土門の前に置くと、遥子も向かいに座った。

「コーヒーもいいけど、たまには日本茶もいいわよ。温まるわ。」

「いただきます。」

やけどしないようにゆっくりすすると、香ばしい緑茶の香りが鼻から抜け、不思議な安堵感に包まれた。

「なんか、予想通り過ぎる部屋ですね。無駄が無くて、キチンとしていて、ある意味驚きです。」

「なんか、それって褒められてるの?もっと散らかってるイメージだった?」

遥子が苦笑いすると、土門は面白そうに笑う。

「褒めてます。仕事通りのイメージですよ。ちょっとくらい散らかってる方が可愛いけど。」

「褒めてないじゃない!すみませんね、可愛げの無い部屋と住人で!」

遥子は不機嫌そうに睨んで見せたが、二人は顔を見合わせた後、吹き出した。


「一つ……確認してもいいです?」

「どうぞ。」

「僕達は、両思いになれたんですよね?」

笑いの無い真剣な眼差しで土門が尋ねた。

遥子も迷いの無い顔で頷いた。

「そうね。さっきの告白に、嘘はないわ。」

「……そうかぁ……なんか、感激というか、感動です……」

少しうつむきながら、噛み締めるように呟く土門は、テーブルの上の拳に力を入れた。

「こちらこそ、私なんかを好きでいてくれてありがとう。」

遥子も素直に微笑んだ。

「……何から話しましょうか?土門君は、私の何を知りたいの?」

「あの……一つお願いきいてくれませんか?」

「なぁに?」

土門は少し照れ臭そうに、口をすぼめた。

「僕のこと、名前で呼んでくれませんか?二人きりの時だけでいいですから。」

予想外のお願いに、遥子はちょっと驚きながらも、微笑んだ。

「いいわよ……駿平。」

彼の名を口にしたら、思わず顔が赤らんだ。

それを見て、土門も赤くなり、飲み頃になったお茶をもう一口飲む。

“ 駿平 ”……口に出して呼ぶと好きな響きの名だなぁと思っていると、土門が意を決した様に真顔で顔を上げた。

「僕が知りたいのは、遥子さんと江上龍也の間に何があったかです。」

そのひと言で遥子の顔からすーっと笑みが消える。

「……そう、貴女にそんな顔をさせるような何があったか、知りたいんです。」

「それを知って、どうするの?何か変わるの?もう済んだ事で、私の中でも終わってる話よ?」

淡々と尋ねる遥子に、土門は真っ直ぐな眼差しを向ける。

「終わっているとしても、無かったことには出来ていないですよね?貴女の中の悲しみも、おそらくは受けた傷も、消えないでしょう?……ましてや、僕は彼にそっくりときてる。」

「確かに似てはいるけど……似ているから好きになったんじゃないわ。貴方を土門駿平として、一人の男として好きになったの。それじゃ、ダメ?」

遥子の正直な説明に、土門は優しく微笑む。

「もちろん、ダメじゃない。遥子さんが僕の中に彼の面影を探して好きになってくれたなんて、微塵も思ってませんから。」

だが、そこで土門の顔が少し曇った。

「でも、人間の記憶って時に残酷じゃないですか……。もちろん、僕は最初に約束した通り、遥子さんを傷つけたりしません。でも、この僕の顔が、遥子さんが閉じ込めてる痛みみたいな物を思い出させることもあるとしたら……僕には何も出来ない。時々見せる貴女の悲しそうな表情に、僕は潰れそうになる……」

土門の初めて口にする弱気な言葉に、遥子は、思わず黙りこんだ。

絶対に重ならないと、約束する自信はまだ無かった。

思い出すことも、あるだろう。

だが、痛みは時と共に薄れていくだろう。

土門を好きになればなるほど、薄れていくと思える。

なんなら、自分の江上へのあの頃の気持ちは、本当に恋愛感情だったのか?と疑う時もあるほどだ。

そのくらい、今の土門に対する感情は、身近で特別なものだった。


「彼、江上龍也とは、七年間仕事上のパートナーだった。彼が二十六歳、私が二十五歳の時に、出会ったの。」

遥子はマグカップを両手で包み、視線を伏せたまま語り始めた。

当時、人生に絶望して酷い人間不信に陥っていた彼をBarで見つけたこと、なぜか彼に興味を抱き、なんとなく寄り添い、そして執筆の世界に引き込んだこと。

一度絶望した彼をもう一度成功させて立ち直らせることに心血注いだこと。

「一目惚れだったんですか?」

土門が尋ねた。

遥子は少し思い出す様に首を小さく傾けた。

「そうでは無かったわ、多分。長い時間共に過ごしているうちに……かもしれない。」

「なんか、他人事ですね?」

「そのくらい……近い存在だったんだと思う。好きとか嫌いの感情すらわからないくらい。」

土門の眉間にシワが少し刻まれた。

「当時、私には野望があった。編集者として作家を育て上げ世に出したいと。彼に文才があると知った時、まずは彼の才能に夢中になったのかもしれない。彼を立ち直らせることが、私の成功に繋がる……今思えば利害関係が一致してのパートナーだったのかもしれない。」

「……いつ、彼を愛していると自覚したんですか?」

遥子は、軽く目を閉じた。

「……いつなのか、正直自覚がないの。どこかで、彼には私しかいないという強い思い込みがあって、いずれ自然と結ばれるものだと……勝手に信じ込んでいたのかもしれない。」

土門の眉間のシワが少しずつ深くなる。

「でも、そうはならなかった?」

遥子は、小さく頷きながら苦笑した。

「そう。だから、私は今ここでこんな話をしているんだけどね。」

土門の強張る顔を見て、遥子は自嘲する。

「長い長い、片思いのようなものだったのよ。彼にとっての私は、戦友…親友…同志…そういう存在だと言われた。」

「昨年、彼は結婚していますよね?遥子さんとのパートナー解消した後に知り合った人ですか?」

土門の質問によって当時の記憶が甦り、遥子の表情が暗くなる。

「……ある日、私達の前に編集者見習いの元気で素直なが現れたの。結果、それが彼にとっての運命の出会いになった。その娘が現れたことによって、私は自分の想いをあらためてまざまざと自覚させられた。彼を失ってなるものかと……もがいた。」

土門の眉間のシワが更に深くなり、抑え込んでいた怒りのようなものが現れ始めた。

土門の全ての怒りの的は、江上龍也だった。

どんな絶望感に陥っていたかは知らないが、遥子に救われ、尽くされ、成功と名声までも与えられたというのに……見事に彼女を切り捨てた。

遥子を愛している土門の側から見れば、そういう答えにしか辿り着かない。

「運命の出会いですか?だから自分を支え尽くし、絶望から救ってくれた貴女を切り捨てる……そんな理不尽なことを遥子さんは受け入れたんですか?何もせずに?」

何もせずに……土門の最後の言葉に遥子の表情はことさら暗くなり、沈んだ。

「……受け入れるんではなく、諦めれば済むことだったのよ。人の気持ちなんて無理強い出来るわけもないし……美月ちゃんは本当に純粋で真っ直ぐな娘で、私だって大好きで、妹のように可愛がっていたんだから……」

遥子の言葉には“ なのに… ”という続きが読み取れた。

土門は黙って待った。

遥子は迷いに迷った。

そもそも江上が元バスケット選手でドーピング事件があったことは、伏せて話していた。

そこは江上のパーソナルな事であり、かつて自分が守り通した彼の過去をここで話すことではないと判断したからだ。

だが、そうなるとその後の自分が犯した罪の説明がしにくい。

「一つ理解して欲しいのは……江上さんに関わるパーソナルな事は私の口から言うべきことではないから、そこは話せないということ。だから……私が彼達にどんな罪を犯したのかは、彼に関わってくるから言えない……」

遥子は正直にそう伝えた上で、続けた。

「ただ、私は……どうしても許せなかった。2人が結ばれること……幸せになることが……」

その台詞を口にした瞬間に、当時のどす黒い感情が甦り、遥子の顔は苦痛に歪んだ。

土門はすかさず、手を伸ばし指の関節が白く浮き上がる程マグカップを掴んでいた遥子の両手を包み込んだ。

突然温かい手に包まれ、遥子はハッと顔を上げた。

土門が大丈夫だよと言うように頷いてくれている。

浅くなっていた呼吸を戻すようにゆっくり息を吐いた。

土門の手の温かさを感じながら、遥子は最後の告白を続けた。

「……全てを壊したかった。彼の作家としての人生も、彼女の編集者になるという夢も……そして……二人が結ばれることも……」

遥子の声は次第に小刻みに震え、なぜか涙が溢れそうになった。

「嫉妬と憎しみのような感情でおかしくなっていた私は……あんなにも真っ直ぐで……純粋なあの娘を…利用して……二人を陥れて何もかも壊そうと……」

遥子の目から涙が溢れ、声は嗚咽に変わった。

なぜ、今更、こんなにも泣けるのか……ましてや土門の前で、こんな告白をして泣けるのか……。

遥子はいつの間にか土門の両手をぎゅっと掴み彼の手に突っ伏すように泣いていた。

「遥子さん、落ち着いて。大丈夫、大丈夫、大丈夫、僕がいる……」

静かで優しいゆっくりとした彼の言葉が遥子を包み込んだ。

今更ながら、あの頃の自分を思い出し、なんと最低なことをしたのだろうと実感したのか?

どこかで、ずっと、あの時の自分の惨めさは、自分だけのせいではないと、甘やかす自分がいたのか?

そんな自分がやはり許せないのか?


一気に溢れた感情と涙が収まるのを待つ間も土門の手を離さずにいた。

この手があるから、泣けたのだ。

この温もりがあるから、振り返れた。

「……駿平……貴方のおかげ。ありがとう……」

遥子は涙でぐしゃぐしゃになった顔で土門の顔を見た。

「貴方を好きになって……私の止まっていた時間が動き出した。駿平が私なんかを好きだと言ってくれたから……私の人としての感情も息を吹き返したんだと……思う。」

土門は、酷く複雑そうな顔で遥子を見つめた。

「“ 私なんか ”……は、やめましょう。遥子さんだから、好きになったんです。」

「……聞いてもいい?」

「もちろん。」

土門はようやく僅かに笑った。

「……最低な女だと思ったわよね?いつか、自分も潰されるかもしれないって思った?……そんな犯罪まがいなことするような女、引いたでしょ?」

そう問いかけた遥子の眼差しは何かに怯えているように見えた。

土門は、軽く目を閉じ小さく首を左右に振った。

「僕にそれを言わせたいんですか?……でも、無駄です、口が裂けても言いませんよ。」

ちょっと不機嫌にそう言った土門の顔を不思議そうに遥子が見つめる。

「ここまで辛い話を遥子さんにさせて……今更、偽善ぶるつもりはないです。なので、思うままの気持ちを伝えます。」

何かを抑え込んでいるせいなのか、不機嫌で怖い表情に見える。

遥子は微かに息を呑んで頷いた。

「許せないです。遥子さんが許せても、僕は許せないです。貴女を踏みにじってのうのうと幸せになっている江上龍也が。彼を救った遥子さんが、なぜ今も苦しまなければいけないのか、到底理解に苦しみます。」

遥子は、土門の解釈の違いに小さく首を振った。

「……そうじゃないの。私が今も赦せないでいるのは、彼が美月ちゃんと幸せになったことじゃない、そこじゃないの。むしろ、二人が幸せになってくれたことで救われたの。」

遥子の言葉を受けて土門の顔は尚更険しくなった。

「今更、綺麗事ですか?自分を踏みにじった人間が幸せになって救われた?じゃぁ、何が許せないんです?」

遥子はため息をついた。

彼の今の意見は、当時の自分のまんまの感情だ。

なぜ自分だけが惨めなのだと…

なぜ自分だけ幸せになれないのだと……

「赦せないのは、当時の私自身よ。これは綺麗事じゃない。以前聞いたことあったでしょ?私が元犯罪者だったら?って。」

土門は険しい顔のまま、黙っていた。

「私は……見当違いの自分勝手な腹いせで、彼達に犯罪まがいなことをして、一旦は二人の仲を裂くまでに到ったの。訴えられたっておかしくなかった。そうすれば私は本当に犯罪者だった。でも……私が今もこうしていられるのは、彼等が私を…赦したからなのよ。」

「彼等が赦した……遥子さんが赦された……傷つけたのは彼等で、傷つけられたのは遥子さんで……話の結末がぐちゃぐちゃだ。」

「駿平……お願い、そんな風に言わないで。江上龍也との事は全て話したわ。今だかつて、誰にも話したことの無かった事まで……駿平だから話したのよ?すべて終わったことなの……」

遥子に少し懇願気味に抗議され、土門は再び黙り込んだ。

遥子の受けた理不尽な仕打ちが、まるで自分が受けた仕打ちのように同化している感覚が強かった。

激しい怒りが収まらない。

この怒りをどう収めたらいいのかがわからない。

「……もしも……」

土門は、歯を食い縛るように低い声で言う。

「……もしも、その時、僕が貴女の傍にいて……苦しむ姿を目にしたら……僕は彼を、殺してしまったかもしれない……」

予想だにしなかった彼の激しい怒りに、遥子はショックを受けた。

なぜ、自分の過去の話しにそこまで感情を入れ込むのかが理解出来なかった。

土門の様子に混乱し、言葉を見つけられずにいた遥子だったが、先に土門が動いた。

彼は、遥子が握りしめたままでいた自分の両手をそっと引き抜いた。

「今夜は……帰ります。」

温かい手を引き抜かれ、突然突き放されたような錯覚に陥る。

「遥子さん、辛い話を話してくれてありがとう。そして、ごめんなさい。」

遥子はたまらずに立ち上がった。

「なぜ……駿平があやまるの?何に対しての“ ごめんなさい ”なの?」

土門も立ち上がると、ゆっくりとした動作で遥子の側まで動いた。

そしてそっと遥子の頬に残る涙の跡に触れた。

「……貴女を泣かせたから。」

「駿平のせいじゃないわ……」

二人は一瞬、見つめ合う。

だが、先に目を逸らしたのは土門だった。いつもの真っ直ぐな目ではなく、暗い目をしていた。

「遅くまで、すみませんでした。明日も仕事ですからおいとましますね。」

「……こちらこそ、遅くに誘ってごめんなさいね。」

そのまま、ジャケットを手渡し、玄関まで送る。

「くれぐれも、気をつけて帰ってね。」

「はい、気をつけます!」

最後に土門は、いつものように敬礼をして笑ってみせた。

そして、おやすみなさいを告げてドアの向こうに消えた。

おやすみのキスもくれなかった。

抱きしめてもくれなかった。

優しく微笑んでも、くれなかった。

遥子は力無い足取りでリビングからベランダに出た。

暫くすると、駐車場から土門のバイクが出て公園の横を国道に向かって走って行くのが見えた。

遥子の瞳から涙がはらはらと零れる。

酷く淋しかった。

やはり、私の中の闇を知って、がっかりしたんだろうか?

なぜか彼は怒っていた。

貴方が好きだと告げたのに、自分の過去にとても怒っていた。

彼が心底好きだと思えたから、誰にも話せなかった事を話したというのに……抱きしめてくれるでなく、怒って帰ってしまった。


遥子はベランダの手すりに顔を埋めて泣いた。

やはり、話さなければよかったと。



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