第15話  恋に落ちて


「おはよう!」

次の週、遥子は皆にひと声掛けるとコートを脱ぎながら、一目散に自分のデスクに向かった。

何かを急いでいるわけでもないが、一直線に自分の部屋に入った。

コートとバッグをラックに掛け、デスクに置いてあった郵便物に手を伸ばす。

「おはようございまーす!」

香ばしい匂いを漂わせ、土門がコーヒーを手に入って来た。

「どうぞ。」

デスクにカップを置いて遥子にニッコリ笑い掛ける。

その笑顔に遥子の脈拍が急速に上がる。

「……ありがとう。」

顔が赤くなってないかと心配しながら、遥子は郵便物に注意を戻した。

そんな遥子の様子に、土門が少し不満そうに腕組みをした。

「時田DR、最近皆につれなくありませんか?もちろん、僕にも。」

「つれないって何よ?普通よ、普通。」

「そうですかね?何か、次の仕事において心配事でも発生したとか?」

遥子は軽く首を振って否定した。

「今のところ、順調よ。」

だが、やはり遥子は土門の顔から目をそらし手元の郵便物を開いては眺めるフリをした。

前とは違う事情だった。

昔好きだった人に顔が似ているから見るのが辛い、ではなく、顔を見るだけで心拍が異常に上がり、心も冷静でいられなくなる。

土門を見るたびにあの激しいキスを思い出すのだ。

そしてなんなら顔が熱くなり赤くなるような錯覚に陥る。

だから、困る。今はとても困る。

事務所の代表としても非常に困る。


「……なんか、僕のこと避けてません?」

土門がデスクに肘をつき、遥子の目の前で首を傾げた。

とたんに遥子の心拍が跳ね上がる。

「避ける理由がないわ。そろそろ仕事に戻ったらどうなの?」

遥子は軽くたしなめるように睨むと再び郵便物に注意を戻す。

土門はまだ何か言いたそうに口を尖らせたが、肩をすくめると諦めて部屋を出ていった。


遥子は土門が退出するのを待って、両手で顔を覆った。

仕事とプライベートを分けて動ける経験値は、どこへいったの?

持ち前の冷静さはどこへ消えたの?

気持ちの整理をするまで待ってくれると言ってくれたのに、整理どころか、あのキス以来混乱する一方だった。

土門を見ると高校生のようにドキドキと緊張する。

近くに居ると、体が熱くなる。

白岡 類の編集以来共に現場へ行くことはないが、グラフィックの打ち合わせなどをする時は、冷静に対応することがなかなか難しかったりもした。

まるで、恋愛体質に突然変化してしまったかのようだ。

「……恋愛体質……??」

遥子は頭の中に浮かんだ言葉を呟いた。

この仕事馬鹿の私が、まさかの恋愛体質!?

土門が持ってきてくれたコーヒーに口をつけながら、思わず苦笑いしてしまう。

この私が………。

江上に寄り添っていた時だって、こんな感情は抱いたことが無かった。

彼の男としての感情が自分に向かなかったことに酷く傷つき、失うことを恐れてもがいたが……今とは求め方が違った。

何が違うのだろう?

恋愛という感情がこんなにも厄介なものだったとは……

遥子はまたため息をついた。


午前中に一件の見積りと打ち合わせに出掛け、昼からは部屋で校閲に没頭していた時、隣の部屋からドスンという大きな物音と、岩橋のものと思われる悲鳴が聞こえた。

遥子はぎょっとして慌てて隣の部屋に駆けつけた。

「どうしたの!?何事!?」

書類棚の前に3段ステップと共に倒れている岩橋がいた。

遥子が部屋に入るより先に土門が素早く駆けつけていた。

書類棚の上からコピー用紙の冊を下ろそうとしてステップの上でバランスを崩して落ちたらしい。

土門は素早くステップを畳むと、岩橋の腕を自分の肩に掛けさせ、サッと抱き上げソファに移動して下ろした。

「……ご、ごめんなさい……ドジ踏みました…」

岩橋が軽い動転と共に誰にともなく謝る。

「怪我は!?どこか痛い処ない!?」

遥子もソファまで近づき尋ねた。

「女史、とりあえず落ち着きましょう。ゆっくり腕を動かしたり、足を動かしてみて下さい。」

土門が岩橋の元に跪き、ジェスチャーで促す。

岩橋は、言われた通りにおずおずと肩を回したり、体を軽く左右に捻ってみたりする。

そして座りながら軽く前屈みになったとき

「……痛い!!」

岩橋が顔をしかめた。

「どっちですか?」

土門が何かを察知し尋ねた。

「左……みたい。」

「ちょっと失礼しますね。」

土門は岩橋のホッソリとした左の足首を持ち上げる。

その足首周りがみるみる内に腫れていた。

「捻挫ですね。腰周りとかはどうですか?落ちる瞬間を見ていなかったので……」

すると、桂木が立ち上がりながら左側の自分の腰をポンポンと叩いた。

「たまたま俺は目撃したよ。左から落ちてたから、打ってるなら左だろうよ。」

「健さん……見てたんですね…」

岩橋が気まづそうに苦笑いする。

「たまたまな。顔を上げた時、女史が落ちる瞬間と重なった。」

遥子は皆の会話を聞きながら、救急箱から湿布を取り出し、土門に手渡す。

「応急措置だけど、張ってあげて。タクシーを手配するからとりあえず病院へ行きましょ。」

遥子の言葉に岩橋は、慌てて手を振る。

「だ、大丈夫ですから!タクシーなんて呼ばないで下さい!」

紺のパンツのポケットから携帯を出した遥子は眉を上げる。

「自宅の近くに掛かり付けの整形外科ある?」

「いえ、掛かり付けとかはありません。でも、ちょっと足首捻っただけなので、病院なんて大丈夫です。」

岩橋の足首に丁寧に湿布を張る土門に、遥子は尋ねる。

「土門君、どう思う?このまま放置で大丈夫かしら?」

「うーん……僕は医者じゃないので、足首が腫れてる事はわかるけど、骨にヒビが入ってるかどうかまでは、わかりませんね。」

土門はそう言って桂木を振り返った。

「健さんは、どう思います?」

桂木は、腕組みをしながら眉を潜めた。

「俺が唯一の目撃者だが……どのタイミングで足を捻ったのかはわからん。もし落ちた瞬間に体重を乗せ損なって捻ったのなら、ちょっと問題だな。」

良いチームワークだと、遥子は内心微笑んだ。

「はい、皆の意見は一致したわね。女史、病院行ってとりあえずレントゲン撮って貰って!ついでに痛み止めも。就業中の事故だから病院代はうちが払うからね?」

「時田DR……健さんに土門君も…」

岩橋は、すまなそうに皆の顔を見回した。

「あ!提案!近くに整形外科あるなら僕がバイクで運んで付き添うっていうのはどうですか?」

土門の案を聞きながら、携帯で一番近い整形外科を探すと、車で十分の所に見つける。

土門が立ち上がり遥子の携帯を覗き込んだ。彼の腕が触れ、突然の接近に、また遥子の心拍が跳ねた。

「お!ここならバイクなら5分ですよ。」

バイクでという言葉にちょっと引っ掛かった。

「怪我しているのに、バイクって……危なくない?」

土門は、え?という顔で笑った。

「横座りで乗ればむしろ楽ですよ。乗り降りは僕がフォローしますしね。」

バイク、横座り、フォロー、付き添い……

遥子は、自分の注意が変な方向に走るのを振り払うようにテキパキと動き始めた。

「女史、今日はもう帰っていいわ。何かやりかけの作業ある?あれば引き継ぐわ。」

「あ、いえ、急ぎの作業は特には……。コピー用紙の補充をしようとしていただけですから」

「そう、了解!それと土門君、作業止めて大丈夫?私か健さんが引き継いでもいいわ。病院のあと、女史を家まで送ってあげてくれる?そのまま直帰でいいから。」

土門は了解と頷き、桂木も頷いた。

岩橋が動かなくて済むように、バッグやコートなどを取り纏めて渡し、土門にはお金の入った封筒を渡す。「頼んだわね。領収書忘れないでよ!」

土門もダウンのジャケットを着込むと封筒を受け取り、敬礼をした。

そして、岩橋がソファでコートを羽織り立ち上がろうとした時に、すかさずかがんで肩を貸した。

「土門君、ごめんね……」

土門の肩を手で掴みながら、立ち上がった岩橋は、その激痛に小さく唸り顔を歪めた。

土門はちょっと間考えてから、岩橋の前に背中を向けてスッとしゃがんだ。

「女史、おぶりますから乗ってください!」

「えぇ!?そ、それは……」

岩橋は土門の提案に立ち尽くした。

さすがに遥子もちょっと驚いた。

「そうだな、その細い靴でケンケンは無理だろう。小僧に下までおぶってもらえばいいさ。」

桂木が土門の代わりに説明してくれた。

「……鞄は私が下まで持っていくから、そうして貰いなさいな。」

遥子は岩橋の鞄を肩に掛け、ニッコリ微笑んだ。

岩橋は顔を赤らめながらも土門におぶさり、遥子に付き添われ下の駐車場へ降りた。


丁寧に岩橋を抱き上げバイクの後ろに乗せ、かつて自分に教えてくれたように捕まり方を教え、病院に向かう2人を見送った遥子は、暫くその場に立ち尽くした。

くだらない感情に支配されていた。

土門が自分以外の女性をおんぶしたり、抱き上げたり、バイクに乗せたり……どれもとても不快だった。

従業員が怪我をして、一番若い同僚が病院へ付き添ってくれる……シンプルなアクシデントで当たり前の処置だというのに。

この胸の消せないモヤモヤは、明らかなジェラシーだ。

事務所代表でもなく、岩橋を心配する仲間でもなく、只の女のくだらないジェラシーだった。

遥子はそのくだらない感情を振り払うように頭を振った。

その昔も、嫉妬心に蝕まれ、人の道を外しそうになったというのに……

あの時のようなどす黒い感情ではないにしても……誰かに恋愛感情なんて抱くものじゃないと、つくづく思った。


その後、桂木と二人で土門の作業途中だった校正を手分けして終わらせ、自分の校閲作業を一人残って続けていた。

昼間のくだらない感情を打破するように、文面に集中した。

1時間ほど経ったところで、パソコンからようやく顔を上げると、ぎょっとした。

遥子の部屋のドア口に土門が寄りかかり黙ってこちらを見ていた。

「な、何してるの!?」

あまりの驚きに声がうわずる。

「遥子さんを見てました。」

「そういうことを聞いているんではなくて!」

遥子は動揺している自分に苛立ちながら、冷静さを取り繕った。

「仕事のことは大丈夫だから、直帰しなさいと言った筈よ?現に、貴方の仕事は健さんと私で終わらせたから。」

「ありがとうございます。」

「……なぜ戻ったの?何か忘れ物?」

土門はドア口にもたれたまま、軽く腕組みをして考える振りをした。

「うん、そうですね、忘れ物です。」

「じゃぁ、それを持って帰りなさいな。」

遥子は軽く首を傾け促すと、視線をパソコン画面に戻す。

「その作業、まだ掛かります?」

「私のことはいいから、忘れ物取って帰りなさい。」

そこで土門が初めて動いた。

「忘れ物は……遥子さんなんで、じゃぁ、まだ帰りません。」

「私が……忘れ物?どういう意味?」

遥子は訝しげにデスク前に立った土門を見上げた。

「うーん……説明は難しいんですが、僕と女史を見送ってくれた時の遥子さんの顔が頭から離れなくて……帰って来ちゃいました。バイクで送って行くんで一緒に帰りましょ?」

そう言って優しく微笑んだ土門に、遥子は言葉を失った。

そして気恥ずかしさから、顔が赤くなるのを止められなかった。

バレていたのだ。

あの時の自分の感情が。

「……なんとなく、遥子さんが淋しそうに見えて……その淋しさは僕がすくわないといけない気がして……」

追い打ちだった。

自分の中に閉じ込めている感情をこういう風に拾われた経験が無い。

こういうところだ。彼のこういうところが、自分の心を乱し揺さぶる。

遥子は敢えて答えずに、パソコン作業に戻った。

何かを感じ取った土門は、

「あっちで待ってますね。」

そう言って部屋を出ていった。

悔しさと、複雑さと、そして嬉しさに包まれた遥子だった。


その後、特に反論もせず、ソファで待っていた土門に従い、大人しくバイクの後ろに乗った。

彼の腰に手を回した途端、久しぶりの彼の温もりと香りに胸が熱くなり、思わず抱きつく腕に力が入った。

遥子の心情を知ってか知らずか、土門は自分の腰に回した遥子の手を優しくポンポンと撫でた。


もう11月に入った東京は、一気に寒さが増し、バイクに乗っての風はかなり冷たい。だが、その分ダウンを通してでも伝わってくる彼の温もりが愛しく思えた。

顔も見られないで済み、ドキドキと早鐘のような鼓動も聞かれることなく、遥子はその僅かな時間を心行くまで楽しんだ。


以前、タクシーで送って貰ったマンション横の公園に着くと、バイクは止まった。

土門が先に降り、遥子からヘルメットを受け取った。

遥子がバイクを降りようと、跨いでいた右脚を左脚の横に揃えると、土門がピッタリと前に立ちはだかり、

バイクの後部座席に座った遥子と土門の目線が同じ高さになった。

不意に土門が顔を近づけ、遥子のおでこに自分のおでこをコツンと当て

「……キスしたい……」

そう囁いた。

遥子の心拍はとうに跳ね上がり、おそらく顔も赤いはずだった。

だが、断る理由が見つからない。

この10日ほど、ずっと求めていたキスなのかもしれない。

遥子は、両手で土門の冷たくなった頬を包み込むと、自分から唇を重ねた。

この前の激しいキスではなく、ゆっくりお互いの熱を確かめるようなキスだった。

唇を味わい、徐々に舌を絡め、深く深く唇を重ね合う。

遥子の両脚を割って土門がキツく抱き締め、遥子もまた土門の背中をキツく抱き締めた。

ここが、家の中なら、ホテルのような場所なら、このまま二人は縺れるように倒れ込むのだろうと思えるようなキスだった。


土門が持てる限りの理性をかき集めて遥子をキスから解放した。

「……クソッ!これ以上はダメだ!でないと理性が利かなくなる……」

切なそうな辛そうな眼で、遥子を見ながら呟いた。

遥子も自分の胸に手を当て、激しい鼓動と吐息がおさまるのを待つ。

理性を失いそうになるという心境は、同じだった。

少しずつ落ち着いてきた鼓動と共に、遥子は決心をしてバイクから降りる。

そして自分を抑えるように立ち尽くす土門の手をそっと取った。

「……貴方が好きよ。」

土門がハッと目を見張る。

「好き、という言葉で伝わるのか、この気持ちをちゃんと伝えられるかはわからないんだけど……貴方が好きで仕方ない。無視も知らん顔も出来ないほど、好きだわ。」

土門の目がこれ以上ない程に見開かれた。

遥子のストレートな告白に言葉まで失っているようだ。

遥子はそんな土門にクスっと笑った。

「なんとか言いなさいよ!告白してるんだから。」

「……な、なんとかって……いや……その……」

しどろもどろに答える土門が無性に可愛く見えた。

遥子は、両手で彼の手を包むと微笑んだ。

「話をしましょう。でも、ここでは2人とも風邪を引いてしまうから、うちに来ない?」

「……いいんですか?……僕で…」

色々な意味が込められたその質問には敢えて答えずに、遥子は先立って歩き出した。

「来るの?来ないの?来ないのなら気をつけて帰ってね!」

遥子の言葉とコツコツと歩き去る足音に、突然我に帰った土門は、慌ててバイクを押して追いかけた。

「行かない選択肢なんてないです!」

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