第17話  距離感



あの告白の夜以来、土門との関係がなんとなくぎごちなくなった。

もちろん、仕事場では代表者と従業員の関係なので、何ら変わりはなかったが……

以前とは明らかに違うことを遥子は感じ取り、酷くやりきれない思いだった。

土門は、相変わらず事務所のムードメーカーでもあり、どんどん仕事を吸収していく成長株でもある。

だが、以前のように遥子にまとわりつくことをしなくなった。

いきなり距離感を詰め、遥子を慌てさせることも鳴りを潜めている。

遥子は、傷ついていた。

彼を好きだと告白をして、過去を告白して、この距離感を取られたのだから。

簡単に彼を受け入れ、心を許したことを悔やんだ。

再び誰かに想いを抱いたことを酷く悔やんだ。

そしてその悔やみは、遥子から笑顔を奪っていった。


そんなある日、長谷部が事務所を訪れた。

「時田DR、長谷部さんがお見えですが、約束されていましたか?」

岩橋にそう声をかけられて、遥子は驚いた。

「長谷部さんが!?いえ、連絡は貰ってなかったけど……」

遥子は急いで隣の部屋に移動すると、長谷部がソファ前のテーブルに茶色い包み紙の束を置いていた。

「長谷部さん!どうされました?」

「あ!おはようございます。すみません、突然押し掛けて!いち早くお届けしたくて来てしまいました。」

長谷部は、コートも脱がずにその茶色い包み紙を開き、中から本を取り出した。

「白岡 類の初版が出来上がったんで、持参しました。」

長谷部が遥子に見せるために差し出した瞬間、部屋がどよめいた。

事務所最初の大きな仕事が形になって出来上がってきたのだ。

遥子は、満面の笑みで長谷部から本を受け取った。

出版元では無いにしても、編集者としてはこの瞬間が、感無量なのだ。

「……何度経験しても、いいですね、この瞬間……」

遥子が満足そうに本を眺めると、長谷部もにっこり笑った。

「編集者にだけしかわからない達成感です。」

遥子は、テーブルにあった残りの本を皆に配った。

「健さん、久しぶりの大仕事、お疲れ様でした。」

「……ありがとう、久しぶりだよ、この感覚…」

いつも冷静な桂木も、手渡された本を見ながらさすがにくすぐったそうに微笑んだ。

「……はい、土門君。初仕事の記念になるわ。」

「ありがとうございます!」

土門は、表紙も苦労して仕上げたこともあって渡された本を表や裏やとひっくり返しながら嬉しそうに眺めた。

岩橋にも差し出すと、彼女はちょっと遠慮がちに受け取った。

「女史も、お疲れ様でした。棚を作品でいっぱいにするわよ!」

「……はい!お手伝いさせていただきます。」


「長谷部さん、本当にありがとうございました。今日はコーヒーお付き合いいただけますか?」

「もちろん、喜んで。」

遥子は、微笑みながら長谷部を自分の部屋へと案内した。


岩橋が運んでくれたコーヒーを前に遥子は長谷部にあらためて感謝して頭を下げた。

「立ち上げて間もない小さな事務所に、大仕事をお世話して頂き、本当にありがとうございました。」

「いやぁ、お見事でした。今回は装丁デザインまでお任せしたので、ほぼこちらが作った本になりましたね。白岡先生も大変喜ばれていました。」

「白岡先生には、御出版のお祝いのご連絡させていただきますね。」

「そういえば……」

長谷部が面白そうな顔をした。

「先日、白岡先生から、こちらの土門君をなんとか引き抜いてくれないかと頼まれましたよ。ずいぶんとお気に入りのようでした。」

遥子は苦笑いで答える。

「それ、私も直接現場で言われましたけど、きっぱりお断りしました。」

「私からも丁寧にお断りしておきました。そんなことを引き受けて、伝説の編集者を怒らせようものなら……今後二度と仕事を頼めなくなりますから、と。」

そう言って長谷部はハッハッと笑った。

「長谷部さんたら!!」

遥子も思わず吹き出した。

この人といると、一人の編集者として本当に背筋が伸びる感がある。

昔の仕事一筋だった頃に戻れる気がして、とても大切な時間だ。


最近のお互いの関わっている仕事の近況報告が終わると、長谷部が少しの間を空けて、

「……ひとつ、お伝えしてもいいですか?」

そう尋ねた。

なんだかそれまでの話題と違う空気を感じて、遥子は心持ち緊張した。

「もちろん、どうぞ。」

「以前、お伝えしたと思うのですが……いよいよ、今月末で江上先生ご夫婦が軽井沢に移られます。」

「あ……そういえば、お聞きしましたね。そうですか…軽井沢ですか。」

「……それまでに一度、美月君に会っては頂けませんか?」

長谷部の思いがけない言葉に遥子は、さすがにハッとして押し黙った。

少し申し訳なさそうに長谷部は微笑んだ。

「すみません、驚かせてしまいましたね。」

「……ごめんなさい……なんとお答えしたらいいか……」

遥子は、困惑を隠さずに答えた。

彼女に会う……私が……?

「半年……いえ、もう一年近くになりますね、貴女と偶然再開してから。あの時は、思いもしなかったことですが、独立されてこうして頑張っておられる今の時田さんを見ていて、素直に思ったものですから。」

長谷部は、悪びれるわけでもなくそう白状した。

「美月ちゃんに……頼まれていたのですか?」

おずおずと尋ねると、長谷部はとんでもないと手を振った。

「私の勝手な希望ですよ、これは!彼女は全く関係ない話です。誤解のないように。」

長谷部は、コーヒーを口に運んでから続けた。

「あの当時、彼女にとって時田さんは神様のような存在でしたから。女性編集者として尊敬し、目指し、女性としても憧れていましたからね。」

「あの頃は、そうだったかもしれませんが……今は違うはずですから。」

遥子が自嘲気味にそう答えると、長谷部は一笑した。

「それだけは、変わってないと保証しますよ、彼女はそういう娘です。今も尚、貴女に憧れ、いつか再会したいと願っていると思います。」

「いつか……」

美月のかつての満面の笑顔を思い出し、遥子にもふっと笑みが浮かぶ。

だが、遥子は断ち切るように目を閉じた。

「長谷部さん……今は、まだその時ではないと ……思います。ごめんなさい」

そして丁寧に頭を下げた後、真っ直ぐに長谷部を見た。

「でも、いつか必ず会いに行きます。私にとっても、彼女はとても大切な人ですから。」

「わかりました。すみません、余計なことをお願いしてしまいました。」

長谷部は頭を下げた。

「誤解のないように言うと、私から彼女に時田さんの独立のことは何も話していません。ただ……個人的には、その“ いつか ”が来ることを願っています。」

遥子は長谷部の心中を察し、しっかりと頷いた。


帰る長谷部をエレベーター前まで送りに出た時、なぜか土門が一緒に送りについてきた。

暗く怒りを含んだ目で長谷部を睨むように見つめていることに気づいた遥子は、無言で土門を睨み付けた。

長谷部はエレベーター前で振り返ると、その土門に話しかけた。

「白岡先生から、君がとても素晴らしい仕事をしてくれたと聞いたよ。」

「…ありがとうございます。」

「伸び代が大きいことは、この先この事務所の未来にも関わってくるし、盛大頑張るといい。ただ……」

「なんですか?」

挑むように土門が長谷部を見る。

「時田さんの片腕を目指しているのなら、彼女にフォローされるんではなく、フォロー出来るように器を大きくしなさい。」

「どういう意味ですか?」

土門の目の怒りの色が強くなったのを見て、遥子は声で制止した。

「土門君!」

エレベーターのドアが開くと、長谷部は乗り込みながら振り返る。

「彼女にこういう顔をさせない、ということだよ。」

そう言うと、遥子に軽く会釈をしてドアは閉まった。

「長谷部さん、すみません!」

遥子が慌てて頭を下げたが、エレベーターは降りて行ってしまった。


「いったいどういうつもりなの!?」

遥子は、土門を怒鳴り付けた。

「彼は!私と事務所の恩人なのよ!その人に失礼な態度を取ることだけは許さない!」

黙り込む土門に、遥子は息巻いた。

「……彼も…遥子さんを傷つけようとしたから……」

怒りを抑え込んだ声で答えた土門に、遥子は目を細めた。

「何を言っているの?どういう意味?」

土門は、遥子から目を反らしながら不機嫌に

「コーヒーを入れようとしたら……聞こえたんですよ。彼が昔の話を平然としていた……」

遥子は、うんざりと目を閉じた。

「そういうのを、質の悪い立ち聞きって言うのよ!?あり得ない!」

そして、冷たい眼差しと冷えきった声で

「貴方は間違っているわ。私を傷つけたのは長谷部さんではなく……貴方よ。私を傷つけないと言った貴方が私を傷つけた!」

そう吐き捨てるように言うと、踵を返して事務所に戻った。


ずっと抱えていたモヤモヤを吐き捨てると、空虚のような感覚が残った。

遥子は、勢いと怒りに任せて、このタイミングで彼を責めたことを少し後悔しながら、自分のデスクで頭を抱えた。

自分の過去の話を聞いて距離を空けたくせに、長谷部が昔の話をして傷つけようとしたと怒りをぶつける。

土門が何に怒っているのかが、見えない。見えないから苛立つ。

その負のスパイラルから抜け出せなくなっている二人がいる。


その日の午後、土門は三日間の有休願いを出して早退をした。

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