第44話 終幕

 村越たちが千葉の遊園地に到着したのは、十六時半頃であった。犯人がいるかどうかも明らかでない中、遊園地側に協力を求めることは忍びなかった。営業に支障をきたさぬように、一人が入り口付近で張り込みをし、もう一人が中に入ってホシを探そうという段取りを組む。村越が張り込み役だ。入場していく者と退場していく者をくまなくチェックすることは、骨の折れる作業であった。日が沈むまでに市原からホシ発見の連絡が来なければ、捜査はさらに困難になるだろうと思われた。

 忍耐強く待ち続ける。しかし三十分経っても市原から連絡はこない。園内の広さを考えるともう少し待っても良さそうであった。五時を回ったところで、日が西に傾き、空が茜色に染まり始める。残り五分待っても連絡が来なければ、村越も自らパーク内へと踏み入ろうかと、意を決した矢先のことだった。

 着信が入った。

「俺だ」

 携帯を耳に当て応答する。

「場所はどこだ。今すぐ行く」

 村越は、五十代とは思えないほどの早さで、駆けた。わき腹がすぐに痛くなってくる。身体が思うように付いてこないのは、今に始まったことではない。気力をふり絞る。ホシが見つかったのだ。ようやくホシを追い込んだのだ。焦る気持ちが、重い足を前へと進めてくれた。

「市原」

「こっちですよ村越さん」

 市原が手を振って呼びかけてくる。岩山の麓にいた。市原は後ろにあるロープをまたぐと、再び村越を促してきた。

「この先です。早く」

「おまえ悟られたのか?」

「いや、呼びかけたら逃げられて。逃げるとは思わなかったんですよ」

 市原がしどろもどろになって答える。

「まさかおまえ、一人で捕まえようとしたのか?」

 村越が言った。

「おまえバカか」

「すみません。でも初めから顔が割れてました。とにかく、今はそれどころじゃなくて、この先です。この岩山の」

「登るのか?」

 村越はロープをまたいで、一般客が入ってはいけない場所から、岩山の上を仰ぎ見た。すると視線の先にホシの背中を捉えた。少女を抱きかかえて、岩肌にしがみついている。

「危ないぞ降りてこい」

 ホシは村越の呼びかけに応じない。

「俺が行く」

「大丈夫ですか」

「行かなきゃどうしようもねぇだろ」

 村越はシャツを捲り上げて、岩山をゆっくりと登り始めた。岩山の外側は傾斜になっており、実際の高さ以上に恐怖を覚えた。何人かのギャラリーの視線が集まっていることに気が付く。西日はかなり低い位置にまで落ちていた。

「瀬上俊一」

 名を呼ぶと男は振り向き、村越を睨んでくる。

「そこは危ないから、降りて来るんだ」

「降りたらどうする気だ」

「その子を解放してやってくれ。親御さんの元へ返してやるんだ」

 ホシの男は少女を抱えたまま、岩山の平らになっているところに腰を下ろし、そして答えた。

「近づいてくるな。それ以上近づくと、どうなるか保証は出来ない」

「とにかくその子だけでも」

 村越がもう一歩進む。とっさにホシが叫んだ。

「それ以上近づくな」

「分かった」

 村越は足場の悪い岩肌にしがみついたまま、動くのを止めた。

「これ以上は近づかない。まずは冷静になろう」

「俺は冷静だ。母親の元へ雛子ちゃんを返せだって。あのヒステリックジャンクババアの元に? 貴様になにが分かる」

 ホシの男はえらく感情が高ぶっている。まともに話を合わせていてはうまく行かないと判断して、しばらくの間、村越は黙り込んだ。自らも落ち着く必要があったためでもある。男は村越に自らの不満をぶつけてきたが、やがて声のトーンが下がってきて、話が途切れた。村越はタイミングを見計らい、静かな口調になって男に語りかけた。

「君のご両親に会ったぞ。お袋さんも親父さんも、君のことを心配していた」

「だからどうした。これは俺の意志だ。親なんてどうでもいい」

「もちろんそうだ。でもな、君はお袋さんを頼ったじゃないか。真っ先に電話をかけた。そうだろう?」

「金がなかったからだ」

「そうだ。その子を助けるために金を工面したんだよな。でも君は真っ先に、お袋さんを頼りにしたんだ」

「それがどうした」

 男が声を張る。村越は、言葉を選び選び続けた。

「君がお袋さんを頼るように、その子もママを必要としてるんだ。その気持ちが分かるだろ? 親元に返してやってくれないか」

「必要とされてなかったんだ。この娘は、あの女から守ってもらえなかった。守ってもらえなかっただけじゃない。脅されて、叩かれて、自分を否定されてたんだ。なんの罪もないのに。助けも呼べずに。俺はそれを隣でずっと見てた。耐えられなかった」

 男が歯を噛みしめてそう言った。

「知ってるよ」

 村越がうなずく。

「君がその子を誘拐した理由は、俺はもう知ってるんだ。だからなおさらだ。これ以上、君に罪を重ねて欲しくはない」

「罪だと」

 男が問うた。

「俺に罪があるのか。雛子ちゃんを守ろうとした俺に。おまえたちは、法律を破った奴らをただ職務で捕まえてるだけなのか。本当のことをなにも見ようともせず、俺を悪だと決めつけるのか」

「君を悪だとは思っちゃいない。ただ罪は罪だ。俺はそう考えてる」

「おまえらは、いつもそうだ。社会の規範だとか、ルールだとかを振りかざして、大切なものを忘れるんだ。ルールに背けば罪だという。規範が、そんなに偉いのか。俺にはこの子の方がよっぽど大切だ。理解されないなら法律なんて破ってしまった方がマシだ」

 男がかすれた声を震わせながら叫ぶ。その主張を耳にして、村越は目を見開き、低い声で唸った。

「バカ言うなよ」

 糸が切れたように、今度は村越が怒声を上げた。

「こちとらそんなこと百も承知だ。バカにするなよ。俺だって刑事である以前に人だ。そして二人の子を持つ父親だ。俺が言ってる罪はな、法律なんかじゃねぇ。そんな罪はもう俺の中じゃどうだってよくなってんだ。俺の言ってる罪はな、ママからその子を引き離した罪のことだ。親子の中を引き裂いた罪は、法律違反よりずっと重てぇんだよ。おまえがいくらその娘を守ろうとしてもな、だめなんだよ。おまえは、その娘の親じゃねぇんだ。それだけは選べない。そうだろ」

 男が唇をぐっと結んで、沈黙する。

「不満があるなら、そこじゃなく法廷ですべて話せばいい。母親が不適切なら保護してもらえる。でもそれは最後の手段だ。本当に母親だけの問題なのか? そうじゃないかも知れないだろ。周りが二人をもっとよく見守ってやって、助けてやれば二人は仲良く暮らせるかも知れねぇだろ。おまえはな、なにもかもすっ飛ばして、その娘を連れ去ったから問題が余計にややこしくなったんじゃねぇのか! このまま街をぶらぶら放浪して、その娘を連れ回して解決するのか? しねぇだろ。その娘をまず母親の元へ返す。そしてみなで考えるんだよ。それがその娘を救うための方法じゃないのか」

「なにが保護だ。児童相談所だって、周りの連中だって気付きもしなかったくせに。もっと早くに助けろよ!」

 男の頬を涙が伝う。

「おまえたちはいつもノロマだ。事件が起きてからしか、捜査を始めない。取り返しのつかない状態になってからじゃ、間に合わないじゃないか。だから、どうしようもなかった。俺が助けるしか、なかったんだ」

 男が顔を伏せた。村越は岩肌にしがみついた状態で、小さく相づちを打つ。柔らかい口調になって答えた。

「申し訳なかった。本当にすまなかった」

「謝るなよ。いまさら」

「俺もおまえも、その娘を助けたい気持ちは同じなんだ。だからよ、もういいだろ。その娘を返してやるんだ」

 男がうつむいたまま黙った。

 村越はゆっくりと岩山を登り、ホシとの距離を詰めていこうとする。

「寄るな」

 男が短く言った。

「雛子ちゃんは、俺と一緒にいることを望んでるんだ」

「その娘の顔をよく見て見ろ。おまえには、そう見えるか?」

 少なくとも村越には、そうは見えなかった。しかし男は、抱き抱えている少女の顔を、見ようともしなかった。見たくないものから目を背けているかのように、男は、ずっとこちらに視線を注ぎ続ける。

 村越はさらに進んだ。

「寄るな!」

 ホシの男は、とっさに少女の右腕をつかみ、少女の小さな身体を岩山の外へと引きずり出していた。足場のないところで宙吊りになる。

「おい止めろ」

 村越が慌てて呼び止める。

 ホシの男はぐらつきながら、危なっかしい足取りで立ち上がると、村越から距離を取ろうとして、二三歩、後ろに退いた。

「俺は間違っていない。雛子ちゃんは俺と一緒にいるべきだ。俺が守るって決めたんだ」

「どうしてそうなる」

「黙れ!」

 男が村越の言葉を一蹴した。男は激情に駆られていた。肉体と精神が極限にまで疲労しきっており、獰猛な獣のような目つきで、正面の村越を睨みつけていた。

 頼み込むように、村越が言った。

「その娘の顔をよく見てくれ。なにが見える」

 誘拐犯の男の目には、少女の姿が映っていなかった。日没間近の薄暗がりの中、少女はずっと黙って二人のやりとりを聞いていた。泣いたり喚いたりすることもなく。少女は、先ほどから男に気づいて欲しそうに視線を送り続けていた。自ら、伝えたいことがあるかのように。村越がそれを汲み取り伝えると、男は厳めしい顔つきのまま、少女のほうに向き直り、泣き枯れた声で呼びかけた。

「雛子ちゃんは帰りたくないよね。またひどい目に遭いたくはないよね」

 少女は下唇をぎゅっと噛み締め、首を横に振った。

 男がもう一度、問い直した。

「僕は、君のことを救いたいんだ。君を悪魔から守り続けるよ。嘘じゃない。誓うよ。だから、僕と一緒に来たいって言って欲しい。ほら、早く。言うんだ」

 岩山の外へと少女の身を放り出そうとしている男が、ただただ懇願する。少女はもう一度首を横に振って、か細い声で意思表示をした。

「ママみたい」

 傍でそれを聞いていた村越は、言い表せない衝撃を受けた。男の倒錯した状態は、まるで追い込まれた獣のようであり、少女にとってそれは、とても身近な相手に映っていたのだ。

 少女に自らの好意を否定された男は、叫び出していた。空まで響き渡る、憎悪と悲しみが入り交じったような奇妙な嗚咽、それは村越に危機感を募らせた。次に男がどんな暴挙に出たとしても、不思議ではなかったからだ。

「おい止めろ!」

 岩肌を上りきり、男を取り押さえようとする。だが次の瞬間、男は自らが放り出そうとしていた少女の小さな身体を素早く引き寄せると、少女を強く抱きしめて、その場で丸くなり泣き崩れてしまった。

 男を取り押さえる必要のないことを、村越は知った。男は少女に対して、繰り返し謝罪の言葉を口にし続けていた。

 村越は遠くで揺らめいているパレードの光を眺めて、胸をなで下ろした。すべて蹴りが付いたのだと思った。

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