第42話 夢の国
入園の待ち時間は三十分くらいだった。平日だからかあまり人がごった返してはいなかった。入場するとつばのついた帽子を取って、白いマスクも外し一息つく。雛子に被らせていた麦わら帽子も、邪魔そうだったので、取ってやった。
「見える? すごい景色」
「うん」
路を進むにつれ、わくわくした気持ちが抑えられなくなってくる。俊一たちの眼前には、摩訶不思議な世界が広がり始めていた。左右に見える巨大なアトラクションと、陽気な音楽、手を振ってくる可愛らしいキャラクターに、青空を背にそびえ立つ白いお城、それらすべてが優しい世界の中で、二人を出迎えてくれた。ファンタジーへの扉をくぐり抜けてきたかのようだった。不満なんてすぐ忘れられる。思わず手を叩いて踊り出したくなる。来場者たちはみな、すっかり不思議の国に迷い込んでしまったのだ。
少し歩くと、甘い匂いが漂ってきた。
「雛子ちゃん。いい匂いがするね」
「する」
「食べてみる?」
雛子は首を横に振った。まだ早いかなと思い直し、俊一たちは近くにあるアトラクションに乗った。はじめのアトラクションに乗るまでは周囲の目を気にしていた俊一だったが、周囲の人たちもみなこの世界の虜になっているみたいで、気にする必要はないことを、すぐに知らされた。雛子は初めて経験する遊園地のアトラクションに声を出す暇も忘れているらしく、目を見開いて呆けたような表情をしていた。楽しんでいるように思えた。それでも何度か話しかけるたびに、どこか乗り切れない気持ちを抱えているような気がして、俊一は気がかりだった。
「雛子ちゃんは遊園地好き?」
改めてそう尋ねると、雛子はいつもより少しだけ元気に「うん」と答えた。
アトラクションを巡っていく。お昼までに三つのアトラクションを楽しんで、グッズを販売している店を見て回った。右回りに進んでいく。ちょうどお昼の時間になったので、二人は近くにあったレストランへと入った。昼時になると、レストランにも待ちが生まれている。二人は十五分くらい待って、ようやく入店することが出来た。待っている間、雛子の表情がまたちょっと暗くなった。もう少し時間を気にしておけばよかったと、俊一は思った。
「大丈夫?」
俊一が尋ねる。雛子はキャラクターのイラストが描かれているホットケーキを頬張りながら、うなずいた。食欲がないのか、半分くらい残してしまった。もったいなかったので、代わりに俊一が無理して全部平らげた。
「行こうか」
若干の休憩をとってまた次のアトラクションへと向かう。手をつなぎ、目移りしそうなくらい楽しげな路を進んでいく。俊一は先ほどからずっと楽しくて仕方がなかった。いつ以来だろう、と思い返してみる。心の底から楽しいと感じているのは。都会へ出てきて仕事に追われていた時などは、気が休まる暇などなかったし、フリーターになっても、誰かと外出する機会など持っていなかったため、一日の大半は自宅の部屋でネットサーフィンをしているか、アニメを見ているかくらいで、充実している毎日だとは、到底言えそうになかった。頭の片隅では理解していたのだ。このままじゃ駄目だと。なにをしていても、退屈さから抜け出せない日々の連続に、嫌気が差していたのだと、俊一はつくづく感じた。
「雛子ちゃん。次はどれに乗りたい?」
広げたマップを雛子の前に差し出し尋ねる。雛子が首を傾げて、低く唸り悩んだ。俊一の方へ顔を向け、なにかを伝えたそうにしている。俊一は急に熱が冷めていくのを感じた。雛子はあまり楽しそうにしていなかった。俊一は恥ずかしくなった。遊園地にやってきたのは、雛子を楽しませてやるためだったはずなのに、いつの間にか、自分だけが楽しんでいたのだ。どうやったら、雛子を楽しませてやれるのだろう。そんなことを真面目に考えた。
ベンチに座ってしんみりしていると、犬の着ぐるみがノコノコと二人の元へ寄ってきて、こちらをじっと見つめてきた。眠たそうにしている犬の着ぐるみは、雛子の隣に立ち、おかしなステップを踏んで、雛子に手を差し出してくる。雛子は、そんな着ぐるみを見て、少しだけ頬がほころんだ。
「よかったね雛子ちゃん」
「うん」
「ほら、僕の言ったとおりだ」
雛子の頭を撫でながら、俊一は続けた。
「ここの世界には嘘なんてないんだ。みんな雛子ちゃんのことが大好きで、誰も雛子ちゃんのことを悪く言わない。雛子ちゃんのために、みんなが優しくしてくれるんだよ」
雛子がうなずく。
「だから雛子ちゃんも、今はめいっぱい楽しもうよ。雛子ちゃんがいっぱい笑ってくれたら、みんな笑顔になるから」
「ママも笑ってくれるの」
雛子が言った。俊一はうなずいて答えた。
「なるよ。みんな優しくなるよ」
雛子が白い歯を見せて、やっと笑ってくれた。天使のようだと思えた。俊一はそれがとても嬉しくて、胸がちくりと痛んだ。
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