第36話 一人舞台

 目を覚ました俊一は部屋を見回した。雛子が眠っている。パソコンの前にずっと座っていた青年の姿はなかった。机上にある時計を確かめて三時間ほど経っていることを知った。

 階段を下り、バラックの狭い入り口を抜けて外へと出る。日が暮れて辺りは薄闇に包まれていた。三十メートルくらい離れたところで、コンビニが明るく光っている。虫の羽音が耳元でして、反射的に手で払いのけた。寝相が悪かったのか首を少し寝違えており、ずきずきと痛んだ。

 数分歩いたところで、寺の前のスナックバーへとやってきた。階段を降りていく。ドアを開けると、思った通り澄んだ音色が部屋の中から溢れ出てきた。男のピアノはうまかった。男なのにやけに綺麗な細い指をしていて、その指が鍵盤の上を、ころころと転がる。俊一は男の脇でしばらくそれを観賞していた。

「よく俺がここにいるって分かったね」

 男が指をとめて言った。

「うん。なんとなく。ここも空き屋なんだ」

「絶賛廃業中」

「他の曲はないの?」

 西園寺と名乗る青年が、少し考えて返事をよこす。

「乗り気じゃないね。エリーゼが一番好きだ」

「そうなんだ。うまいね。習ってたんだ」

「基本教養だよって言われてプロの先生家に呼んでた。親が教育熱心だったからさ。特に親父と親父方の祖母がね。親父はマザコンだったけど、脳外科医だった。傲慢なやつさ。自分のこと貴族って言ってた。ゲームなんかしてるとバカになるって言われて、毎日塾に通わされた」

 鍵盤の高いキーを一つ叩いて、青年が続けた。

「祖母もひどかったよ。自分の息子のように立派になりなさいって、親父をずっと誉めてた。まるで自分の成果物みたいな言い方でさ。壊れてたよ。母さんしか味方がいなかった」

 俊一は無言で相づちを打つ。しばらく黙っていると、青年が静かな口調で話し始めた。

「母さんが俺を妊娠したときさ、まだ親父と結婚してなかったんだ。それで世間体があるから結婚することになったけど、祖母が母さんは大学を出てないからこのままじゃまずいって言い出して。低学歴に息子はやれないって、それで母さんは俺をおぶって短大を卒業したんだ。生ませたのは親父のほうなのに。母さんは家にいるとき、ずっと俺を守ってくれてた。壊れてる親父と祖母から。特に祖母のことを恐れてたよ。祖母は母さんのこと嫌ってたからね。次第に母さんは疲れていったんだ。それで俺が高二のときに首を吊って死んじまった」

 鍵盤をまた一つ叩いて、青年が俊一の方に向き直る。

「祖母が俺によく言ってた言葉分かるか?」

「分からない」

 俊一は首をふり答える。

「厳しくするのは、あなたのため。幼くても、すぐ見抜いたよ。この言葉がどれだけ底の浅いものかをね。祖母も親父も俺のためなんて、まるで思ってなかった。自分のエゴさ。自分の息子がこれだけ優秀なんだって他人に自慢したいんだ。自分は苦しい思いをしたくないから、代わりに息子を使うのさ。俺の気も知らないでね。そして唯一の理解者だった母さんを俺から奪ったんだ。もうこんな家には居られなかった」

 青年は再び指を動かし、ピアノを弾き始めた。

「この曲のタイトル知ってるか。エリーゼのために。でもこれも嘘さ。人は自分以外の者になれないから、すべて主観的結論しか出しえないんだ。他人のために、己を犠牲には出来ない。つまりエゴだ。この曲はエリーゼだとか、テレーゼだとかに送られた曲ではないんだ。エリーゼのために曲を贈った気になっているベートーヴェン自身のエゴのために、この曲は作られた。そして母さんは俺を残して、自らが楽になるために死を選んだ。エゴだ。君もあの子を助けるためだとか言ってるけど、本当は嘘だ。君もエゴさ。あの子が好きなんだ。あと三年もすれば自分好みのニンフェットに仕立てあげるんだ。下心さ」

「違う」

 俊一は否定した。しかし男が聞かずに続けた。

「ニーチェは言ったんだ。人はみな、一人舞台を踊っているってね。みなが舞台に立ちたがるんだ。観客は誰一人としていない。エゴとエゴのぶつかり合いだ。この気持ち悪い世界に嫌気がさして、彼は狂って死んでしまった」

 俊一は西園寺の言うことを納得出来ずにいた。自らが雛子を助けたのは、下心からではなかったからだ。雛子のことは確かに好きだった。しかしそれは一人の女としてと言うよりも、一人の少女として、たとえ血の繋がりがなくとも、少女を守りたいと願う父親の気持ちにも似たものだと感じた。どこへ行くことも許されず、与えられた環境で身動きが取れずに、苦しんでいる雛子を、俊一は間違いなく助けたいと思ったのは本当のはずだ。しかし男に指摘されて、その思いは次第にエゴではないかと揺らぎ始めた。なにが本当なのか。なにが嘘なのかの狭間で、俊一の心はかき乱された。

「だから俺は決めたんだ」

 青年が指を止めて、つぶやく。

「正直であろうとね。誰かのためとか言って自分のエゴを振りまくのはよくない。だから俺は誰とも干渉せずに、一人で生きていくことにしたんだ。人のためになにかをしても、所詮は無駄だよ。みんな自分のことばかりだ、それで無意味だって悟るんだ。あらゆるものは無意味だってね。だから、なにもしないのが正解だ。君やあの女の頭領とつるんでたのも気まぐれさ。素直に生きろよ。偽って社会性持って、人のためとか世のためとか、白々しいこと言うの辞めろよ。痛い思いするだけだぞ。君も、あの子もね」

 俊一は、なにかもやもやしたものを口に出しかけて、すんでのところで、それを飲み込む。男の表情は悲愴に満ちていた。仄暗いバーの中で、ピアノの音だけが、ずっと鳴り響き続けた。

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