第32話 捕獲
混沌の中、思っていた以上に、みな本気で闘っていた。辺りでは機動隊と族たちがぶつかり合い、また別の場所では刑事や制服を着た警察官たちが、迫りくるヤンキーたちともみ合い押し合いを繰り返している。市原は、空き地の後方にまで下がり、男たちの罵声とがなり声と、叫び散らすような声が入り混じる半地獄絵図の中を、ただただ無意味に右往左往していた。後方にまでやってくる族たちは稀なので、一度も彼らと拳を交えていない。周囲の必死さとは裏腹に、どこか妙に冷めていた。
市原は手を挙げて男を呼び止めた。
「ちょちょちょっと、君。君ちょっと」
声をかけたのは自分よりも一回り体つきのいい制服警官だった。
「はい」
「あっちだよ。あっち、建物の裏手に回るんだ」
「裏手ですか?」
「そうだよ。ちょっと一緒に来て」
「分かりました」
警官を引き連れて、現場から離脱する。この場に留まっていると、いずれ族たちに襲われるかも知れない。市原はなるべく誰とも殴り合わずに済ませかった。自らは、小学生の頃から一度もクラスメイトと殴り合ったこともないような模範的生徒であった。この歳になって柄の悪い族たちと殴り合うなんて、生理的に不可能だった。
「こんな争い無益だ」
そんな言葉が、市原の口からこぼれ出る。骨でも折れたら大変だ。最悪の場合死んでしまう。身の危険を感じずにはいられなかった。
爆発音が鼓膜を激しく叩いた。思わず振り返る。火の手が上がっている。バイクだ。バイクが燃えたぞ、と誰かが叫んだ。飛び出していったバイクの中には警察車両とぶつかって、転倒したものもあった。そのバイクから引火したのだ。そちらに気を取られ、族や刑事たちの動きが遅くなる。
「行くぞ。早く」
引き連れている警官に呼びかけて、自らは急いで道を駆け抜けていった。道なりに進むと敵の数がどんどん増えてきて、危ないことに気がついた。仕方なく、大きく迂回する形で、いったん工場の裏通りとは逆の、工場と接していない通りに出ることにした。建物と建物の隙間を抜けて進む。
「こっちは人がいませんよ」
「そりゃそうだ。いったん回らなきゃまずいだろ」
警官は市原を信じきっていた。もちろん市原も裏手にはちゃんと戻るつもりである。でないと現場から逃走したと思われてしまう。市原はただ、なるべく安全な現場に向かいたかっただけなのだ。大きく迂回して、五百メートルほど駆け足で進んでいく。現場からの声は、ずっと遠くになってしまった。族たちがたむろっていた廃工場の五つか六つ隣の建物は、今や誰も住んでいない元ラーメン屋の店舗である。黄色い看板だけがずっと残っている。その隣にある一方通行の路から裏手に回り込もうと近づいたとき、人の動く気配がして、二人は足を止めた。
無言で観察していると、ラーメン屋の建物の隙間から、族が三人ばかり、ひょっこりと顔を出したではないか。その後に遅れて姿を現したのは、頭を丸めたジーパンにチェックシャツ姿の男と、幼い女の子だった。
「ホシだ!」
市原は思わず目を疑ってしまう。それでも、とっさに彼らに呼びかけていた。
「おい、そこでなにしてる!」
「やべ、見つかっちまった」
族たちがこちらに気がついて慌てる。
「二人だ、やってしまえ」
族のうちの二人がこちらへ走り込んできた。市原は振り返り、警官に指示を出した。
「おい、あんた行け! ホシは俺に任せろ」
「はい」
警官が飛び出していく。警棒を持って、二人の輩に応戦する。市原は逃げていくホシを急いで追う。少女を連れているため、向こうは遅かった。
「追ってきてんじゃねぇぞ。うらぁ」
最後のヤンキーが振り返り、道を塞いでくる。それでも目の前にいるホシをみすみす逃すわけにはいかない。目と鼻の先にいるホシを逃すなど刑事として間抜けの極地である。体格だってわずかに市原の方が有利に見える。勝てる、と感じた。
「どけお前!」
闘争心を奮い立たせ、ヤンキーに蹴りを入れた。市原の蹴りは見事に空振り、脇によけた男から、強烈な右エルボを顔面にお見舞いされる。大きくよろけて、鼻血が地面に飛び散った。思わずひるんだ隙に、男から腹に拳をたたき込まれ、息が止まる。痛すぎて死にそうだった。泣きそうになった。しかしホシはすぐそこだ。引き下がるわけには行かない。市原は相手の懐に入り込んで腕を取り、自らの身体を回転させた。低い姿勢から腰を使って、背中で持ち上げる。
「んんらぁ」
言葉にならない声を出し、一本背負いでヤンキーを地面に投げ飛ばした。驚くほど綺麗に決まり、相手は背中を強く地面に打ち付けた。
市原はすぐさまホシを追尾しようと振り返る。
「おい、放せよ!」
投げた男が足にしがみついてきた。続けてふくらはぎに噛みついてくる。
「いたったたっ」
激痛が走る。ヤンキーは意地でも市原を放さない。市原は男の頭を何度も殴った。
「いてぇ。おまえなに噛んでんだよ。止めろよぼけ」
ようやく男を振り解き、足の激痛に耐えて走り出そうとした。しかし今度は警官とやり合っていた二人の男のうち一人がこちらに飛んできて、また殴られた。防御するも拳が重く、吹き飛ばされる。連れの警官に目をやると、ヤンキーの下に敷かれて、キャメロクラッチをかけられていた。
族がじりじりとにじり寄ってくる。尻餅をついたままの市原は身の危険を感じ、腰に忍ばせていた拳銃を引き抜き、撃鉄に親指をかけていた。それに驚いた族たちは、市原が口にするよりも先に、自ら両手を上げて観念した。
「なんだよ降参するのかよ」
立ち上がり、族二人を建物側に寄せていく。警官にプロレス技をかけているもう一人のヤンキーに向かって呼びかけた。
「お前もそこ、辞めろ。打つぞまじで」
すると男は警官の上から退いて、背を向けて逃走を始めた。
「おい、逃げんのかおい!」
呼びかけるも、ヤンキーは戻ってこなかった。警官が起き上がり、寄ってくる。
「この二人連行だ。手伝ってくれ」
「誘拐犯は」
「逃げられちまったよ。くそっ。無線で連絡してくれ」
すでにホシと少女の姿はなかった。警官が無線で連絡を取ろうとする。しかし無線から思わぬ報告が漏れてきた。ホシ確保、少女を保護したという内容だった。
「捕まったようです」
「ほんとかよ。俺の努力はなんだったんだよ」
市原は急に力が抜けてしまった。鼻血で白のシャツが赤く染まっている。ふくらはぎがズキズキと痛んだ。
指令では族たちがいっせいに逃走を始めたらしく、可能な限り族たちを捕らえて、連行しろとのことだった。市原は目の前の二人に手錠をかけ、現場へと歩いて引き返した。
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