第22話 接触

 公開捜査初日。

 午前十時までに何件かの目撃情報が警察署に寄せられた。だが信憑性の高いものはなく、依然として誘拐犯と少女の所在は不明のままであった。

 渋沢署前で村越はたばこを吸って一服していた。早朝の電車に乗って浅草から戻ってきていたのだ。そこへ市原とその相方がちょうど署から出てきて、目があった。

「村越さん戻って来てたんですね」

「おまえもな。うまくやってるか市原」

 市原は首を振って答える。

「さっぱりですよ。向こうへ飛んだら早々に戻ってこいですよ。はずれくじ引いた気分です。主任も収穫なしですか?」

「もって、おまえと一緒にするな」

「なにか掴めたんですか」

「あるわけねーだろ。ホシはハイヤ乗り継いで逃げてるらしくてな、二人を乗せた車を探すだけでも一苦労だ」

 市原が肩を落とした。

「じゃあ主任はこんなところで、なにしてんですか。さぼってるんでしょ」

「冗談じゃない」

 たばこの煙を天に吹きかけ、村越が理由を話す。

「生真面目な相棒がウイルス性の胃腸炎になってよ。薬もらいに行ってんだ。たぶん戻ってこねえがな」

「あー、あの交通課の」

「お前もあまり根詰めすぎんなよ。適度に休みを取って、それから死ぬ気で働け」

「死ぬ気では働けませんよ。やれるだけの努力はしますけど」

 市原が村越の正面で足を止める。隣にいるのは所轄の刑事だ。年は村越より十ほど若い四十代半ばくらいではないかと思えた。紺色のワイシャツに明るいネクタイを締めて、濃い茶色のカーゴパンツを穿いている。市原の身なりはジーパンとTシャツのいわゆるアメカジであった。サイズが妙に大きいのが市原の性格をよく表している。

「それより主任。この新聞見て下さいよ」

 市原が手に丸めてある新聞を広げて言った。

「公開捜査が始まってからの注目度がすごいんですよ」

「いい意味で注目されたいもんだな」

「ホシも追い込まれますよ。ほら、これ部屋の様子まで取材してる。あの部屋やっぱりネタになってますよ」

「あまり面白がるもんじゃない。ホシを追いつめるのが先か、向こうが妙な気を起こすのが先か」

 また一口、マルボロを吸って煙を吐き出す。

「これだけの事件になったら下手打てませんね。デスクのメンツがかかってますよ」

「どうだっていいよ、んなこと」

「おや、無関心ですか村越さん」

「首がどうとか、出世がどうとか、被害者とその家族からすれば、どうだっていいことなんだよ。どんな事件であれホシを確実に捕らえる。そんでもって、証拠揃えて、出すべき場所に出す。あとは法が裁くんだよ。それが刑事の仕事だろ」

「そりゃそうですけど、捜査本部の空気吸ってたら、これは結構シビアな話ですよ。実際、真面目にやっても僕らが責められるときだってよくあるじゃないですか」

 市原の不満に村越は答えることはしなかった。しかし長年、組織の中で捜査を続けてきて感じていた不条理と、市原は同じことを言っているような気がした。いつの間にかそれが当然であるかのように慣れて、怒りを持つことさえも忘れてしまう。筋の通らないことにいちいち腹を立てていては、息苦しくて生活さえままならないのだ。市原のような若者を見ると、自分は年を食ったなと、つくづく感じさせられた。

「じゃあ僕ら行くんで。お疲れさまです」

 近くの自販機で買った珈琲をさっさと飲み終えると、市原は相方の刑事と二人で、正面の交差点の向こう側へ立ち去ってしまった。

 村越は吸い殻を飲んでいた珈琲缶に入れると、それを空き缶入れに投入して署の内部へと入って行った。どこの署も似たようなものだが、一階は交通課や警務課のスペースになっている。正面には受付があり、地元市民が五人くらい相談事を持ち込んでいる。一番前のベンチに腰を下ろして、村越は、二日くらいろくに眠ってないなと、ぼんやりとした頭で考え、ふと気を緩めてしまった。

 扉が開く音がして、薄い縦線の入った灰色のスーツを着用している細身の男が、受付に向かって歩いていくのが目に映る。髪を七三分けにしている男を、特に意味もなく目で追った。

 男はカウンターにまで寄っていくと、親しみのある声を上げた。

「あのー、よろしいですか」

「はい」

 婦警が気づいて応対する。

「ここの署でいま誘拐事件の捜査をしていると思うんですけど」

「はい」

「捜査関係者の方っておられますか」

 それを耳にして村越は腰を上げた。目が一気に醒めた。男はマスコミ関係者というわけではなさそうだ。飛びつくように男の元へと歩み寄っていた。

「ちょっといいですか」

 二人の会話に割り入る。

「ちょうどその事件の捜査に当たっている村越です。話は私が聞きますよ」

 警察手帳を示すと二人とも納得して、婦警はその場から離れて行った。

「場所を移しましょうか」

 村越が提案する。男はそれに応じて、二人は署を出て一つ隣のビルの前で向かい合った。道路沿いは車の音でいささか声が聞き取りにくい。それでも村越は一刻も早く話を聞きたかった。

 七三分けの男が村越に一礼してから、切り出した。

「あの私、秦野保健福祉事務所生活福祉課の松木と申します」

「福祉事務所? なんでまた」

「ええ、それが今女の子を連れて逃げている男なんですが、ちょうど事件の起きる前日に、私らのところに電話がありまして」

 村越はたばこを吸おうとしていた手を止めた。

「それで誘拐された女の子がですね、その母親から虐待を受けているという連絡でして。私らも事実関係を調べていたところなんですよ」

「松木さんといいましたか」

「はい。松木です」

 村越はたばこを持った手で、道路を挟んだ向こう側にある喫茶店の看板を指さし、低い声で言った。

「いいところに来られました。その話、詳しくお伺いしてもよろしいですか」

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