第5話 頭のねじが外れてやがる!
その日の夜、お菓子の袋と毛布が返却されていた。毛布は俊一の部屋のベランダと少女の部屋のベランダの、真ん中あたりに、宙ぶらりんの形でぶら下げられている。少女の母親には幸い見つかっていないようだった。
その後、何日かは安寧な日々が続いた。俊一の留守中に、どうやら児童相談所から人がやって来ていたみたいだ。雛子ちゃんの母親はさぞ驚いただろう。己がヒステリー女であることを少しは自覚してくれただろうか。これで雛子ちゃんの扱いも、少しはマシになるだろうか。そんなことを思いながら、俊一は何事もなく過ぎていく日々に、いささかの安堵を覚えた。自らの行いで一人の少女が救われるのかも知れないと、喜ばしい気持ちになった。
しかし、一週間が過ぎた頃からヒステリー女のヒステリックな金切り声は、再び部屋に届くようになる。以前にも増してヒステリー強度が上昇している。
「雛子、ママをこれ以上怒らせないで。頼むからママの言う通りにしてちょうだい。じゃないとママ、悪者にされてしまうの」
俊一は自らの通報が裏目に出たのかも知れないと、その時はじめて気が付いた。隣の女を刺激してしまったのだ。部屋のドアをものすごい音をたてて閉めるようになった。周囲に住む人間を警戒するように、あるいは牽制するかのように、窓をがんがん拳で叩く音がした。
俊一は恐ろしくなった。自らに危害が及ぶことを恐れたのではない。隣に住む少女が自らの通報によって、余計に苦しむことになるかも知れないことが、怖くなったのだ。
再度、福祉事務所に電話をかけたのは、最初の通報から十日が過ぎてからであった。
昼過ぎ、アパートの住人がいなくなるであろう頃合いを選んで、俊一は電話をかけた。
「もしもし」
苛立った声で俊一から話かける。
「前に電話した瀬上ですけど」
「ええっと、瀬上さんですね。その」
「いつになったら雛子ちゃん、いえ、隣の女の子を助けてやれるんですか」
「ええっと、少々お待ちください」
保留音が流れてくる。
五秒くらい待って、別の男が電話に出た。
「あの、もしもし。瀬上さん。以前その件に関して担当しました松木です」
「覚えてます」
俊一が言った。
対応してくれたのは、この松木であった。
「以前に通報を受けた後にですね、児相の者が少女の安否を確認しておりまして」
「はい。それで」
「現在、少女が通う教育機関と連携をとって、対応に当たっている次第です」
「具体的にはなにをしてるんですか」
俊一が尋ねる。
松木が言葉を探すように、答えた。
「その、具体的にはですね。実際に女の子が虐待を受けているのかどうかを、判断するためにですね、女の子の身の安全を確かめた上で、学校での生活だとか、その、プライバシー上細かく申し上げることは難しいのですが、家庭の事情ですね、保護者の方の置かれている状況を十分に踏まえた上で、私どもも今後対応して行かざる負えないわけでして」
俊一は苛立ちの声を上げた。
「あの女はヒステリーですよ。虐待されてない可能性が残ってるんですか」
「断定は出来ません。子育てに負担を感じた母親が、その、ちょっとばかり神経質になることは、ままよくあることなんです」
松木が言った。
俊一は声を震わせながら、応じる。
「よくあることだから、問題ないと、そう言いたいんですか」
「いえ、そんなことはありません」
「ヒステリーな女が自分の娘に叫び散らすのは問題がないと。頭から血を流して初めてあんたらは動くんですか」
「いえ、とんでもないです。そんなことは。これは非常に難しい問題なわけでして」
「難しい問題だと? 簡単な問題しか解かないのか! お前らは!」
電話口に唾を吐きかけながら叫ぶ。
「適当なこと言ってんじゃねぇぞ!」
その後の松木の言葉は、俊一の聞く限りひどいものであった。母親のしつけなのか、虐待なのかを見極めないと行けないだとか、各関係機関、地域住民と連携を密にしてだとか、母親の相談にも乗ってだとか、出てくる言葉すべてが言葉以上のなにものでもなかった。あの女の隣で暮らして見ろと叫びたくなった。雛子ちゃんをもっとよく見てみろと言いたくなった。
「あなたには分からないんでしょうね」
俊一が松木の話を遮り言った。
「隣の女の子は、雛子ちゃんは心の虐待を受けてるんだ」
松木がはい、と相づちを打つ。
「メンタル上の問題も、やはり繊細な問題です。だからこそ近隣住民の方からの情報が、とても大切になってくるんです。あなたから頂いた声も、重要な判断材料となります」
俊一は怒りで卒倒しそうになる。
「そうやって理由をつけて問題がなくなるまで、やり過ごすんだ。はは。貴様等は。口だけなら何とでも言える。その間に雛子ちゃんの、見ろ、あのうぶ毛の生えた透明な羽根は、あのヒステリージャンクババアにむしり取られてしまうんだ」
「どのようなことがあったか、詳しく話してください」
「俺になにを話せって? 女の子がひどい仕打ちを受けています。死んだ魚のような目をして、腹から内臓が飛び出していますって、言えばお前たちはあの子を助けてくれるのか」
「実際にあったことを話してください」
「なにも問題はありませんって、言うんだろうがぼけぇ!」
俊一はキレた。
「おい松木! 貴様は、貴様等にとっては、数ある相談のうちの一つで、雛子ちゃんがどうなろうと知ったこっちゃないんだろうがな! 女の子が社会から一人消えようが、お前等の生活になんらの影響も及ぼさないんだろうがな! 天使を守れない貴様は、悪魔だ。醜い顔した悪魔だ! 松木!」
「て、てんし? 悪魔? おち、落ち着いてください。いったいなにが」
「ふぁっく! ふぁっくふぁっくふぁっく! ふぁっく!」
ふぁっくと繰り返し、携帯を床に容赦なく叩きつけた。
キツい音が鳴り携帯が二枚に分離して左右へ飛んでいった。部品が床に飛び出した。
俊一は額に血管を浮かび上がらせて、フィギュアの棚にしがみつく。棚の中の少女たちが、がたがた揺れた。棚をぶん投げてしまいそうなほど怒りのこもった表情で、憎憎しげにはき捨てる。
「くそっあいつ! 頭のねじが外れてやがる!」
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