第3話 母からの電話
翌日。アルバイトから戻ってきた俊一は上着を脱ぐと、Tシャツ一枚になって、早々と机に向かった。何枚かの付箋が貼ってある発声練習のテキストを手前の本棚から引き出して、青色の蛍光ペンを手に取る。その時、机の上に置いてあるスマホが光を放ち、ぶぅぶぅ震えだした。
「もしもし」
「俊一。母さんだけど」
「どうしたんだよ」
「あんたいつまで東京にいる気なんだい」
「東京じゃなくて神奈川だけど」
「同じようなもんよ。就職はもうずっとしてないんでしょ。六年もたつのよ。やることがないなら、戻ってきたらいいじゃない。一人でそっちにいるよか、ぜんぜんいいことよ」
「無職じゃないよ。フリーター。週三でシフト入ってるから。戻ってこいって、それは無理な話だね。だって俺いま勉強中だから」
「勉強って、あんた資格でもとるつもりかい」
「専門学校へ通うつもりなんだ。声優になろうと思って」
受話器の向こうで、母親がため息をついた。
「声優って。あんた前は漫画家になるっていってたじゃない」
「絵は諦めたんだ。やっぱり小さい頃から絵を描いてないと厳しいみたいなんだ。ピアノと同じさ。人には向き不向きがあるけど、漫画家は俺には向いてなかったんだ」
「あんたそうやって、いつも途中で投げ出して。今回だってちょっとその気になったくらいのことでしょ」
「そんなわけないだろ! ずっと思ってたんだ。仕事辞めてずっとフリーター続けてたかも知れないけど、ここ二年は本当にまじめに人生について考えてたんだから。声優って、感情を表現する仕事だと思うんだ。俺に向いてるはずさ」
「癇癪起こすのとは訳が違うんだよ」
「分かってるよ」
俊一が不満そうに返す。
母親が言った。
「どっちにしろ、勉強なら実家に戻ってきてすればいいじゃない。その方が、私たちも色々と支援してやれるのよ」
「試験は来年一月だから、今から八ヶ月先。その間戻ってこいって言ってるの? そりゃ十分な期間はあるよ。勉強自体は難しくもないし。だけど入学したら、どのみち東京に出てこなきゃならないんだ。そっちに帰ってる暇なんてないよ」
「まだ先じゃない」
「それに声優になるには単純に勉強して学校に入ればいいってもんじゃないんだ。実技が大切なの。発声練習とかやらなきゃいけないの。歌もうまくなくちゃいけないの。そっちにはカラオケボックスもろくにない。オーディションだって参加できない。都会の感覚とズレてくるのはまずいんだよ。いろいろと」
「そんな、なれるかどうかも分からないもの目指して。こっちに来れば仕事はちゃんとあるんだから」
「やりたい仕事じゃなきゃ意味ねーだろ。家業なんて潰れちまえバカ野郎! 廃れろ!」
俊一が苛立ち始める。
「とにかく今は無理なの。戻りたくなったらこっちから連絡するから。そっとしといてくれ」
電話を切って、携帯をぶん投げる。邪魔にならないように畳んであった布団の中に、ばすと音を立てて沈み込んだ。
机に向かおうとする気分を害された俊一は、部屋の換気もかねてベランダへと出た。
二階のベランダからは、渋沢駅が小さく見える。秋葉原まで電車で九十分だ。もう少し近ければよかったのだが。もともとここに住み始めた理由は、以前働いていた仕事先から近かったためである。辞めた後、そのままバイト先も近くで見つけてしまい、五年間居着いてしまった。
住み心地は悪くない。少なくとも青森の田舎より三十倍はよかった。
春のひやりとした風が頬をなでていく。だんだんと怒りが静まってくる。肌着姿だとやや寒いことに気づいた。部屋に戻ろうと振り返る。すると近くでなにかが動く気配がした。左隣のベランダからのようだった。
俊一は忍び足になって、隣のベランダへと近づいた。そっと身を乗り出す形で、仕切の向こうをのぞき込んでみると、窓に背をあずけて座り込んでいる少女の姿があった。
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