第2話 隣に住む天使ちゃん

 小一時間かけてキャビネットを組み立て終わると、箱からまだ出していないフィギュアを、一つ一つ丁寧に、棚へと移し替えていく作業が始まる。並べる順番にもこだわりを持っていた。ツンデレを三人並べちゃいけない。主張が強すぎて、それぞれの個性が活かされなくなってしまう。ピンク髪は全体的に散らす。ラブホテルじゃないんだここは。ツインテールをとなり同士にするのも御法度だ。右利きの人間と左利きの人間が並んで飯を食うときに腕がぶつかる原理によく似ている。ポージングが近しいキャラは扱いが難しい。背丈の問題や世界観の問題、同じ制服を着ている同作品の女の子たちは、できる限り近くに置いて上げたい心情などを考慮して、的確な配置図をレシートの裏にメモ書きしていく。

 納得がいったところで、左端の上段からフィギュアを並べていった。

「ごめんよみんな。箱の中は窮屈だったよね。今新しいおうちに移してあげるから」

 金魚の引っ越しでもしているかのように、ガラス板上にレディたちを一人一人、几帳面な手つきで供えつけていく。角度が三度ズレているとそれはもう許せないことだ。

「いよしっ、これで完成だ!」

 万歳をした。少し距離をおいて棚を眺めてみると、実に感慨深いものがあった。背面のミラーガラスが奥行きを生み出し、女の子たちの背中をちゃんと映し出している。にぎやかな話し声が今にも聞こえてきそうなほどである。配置も文句なしだ。これなら秋葉の店のショーウィンドウにだって引けはとらない。圧倒的なレイアウトだ。他の棚のフィギュアもやがてすべて背面ミラーありのキャビネットに移し替えてやろうと、俊一は改めて思った。

 人差し指をたてて、数をかぞえる。

「いち天使、に天使、さん天使」

 女の子の単位は全部天使だ。

「じゅうろく天使、じゅうなな天使、じゅうはち天使」

 キャビネットの中には全部で三十二天使もの天使がいた。

「僕は今日、さんじゅうに天使もの天使を解放したんだ。まるで賢者だ。ふはは」

 俊一は悟ったような言葉を口にし、自らが創り出した自分だけの世界を、天使たちが舞い降りるその夢の世界を、誇らずにはいられなかった。

「どうして。どうして言いつけ守らなかったの雛子」

 恍惚の表情を浮かべ立ち尽くす俊一の耳元に、また、あの声が、迷惑なあの声が響いてきた。

 世界がとたんにぶちこわされた。

 ふいに真顔になった俊一は後ろを振り返る。壁の向こうから届く女の声は、甲高く、本能的にしゃくに障るカナキリ声であった。

「ママ言ったよね。出しといてって。ママ仕事だから、これ出せないから出しといてって、いったでしょっ。今日は何曜日? 何曜日なのっ? そう月曜日。月曜日は生ゴミの日なの。今日出さなきゃ、木曜日まで出せないから、臭くなるから出しといてって、言ったじゃない!」

 ゴミ袋をがしがし叩き散らす音がする。

「どうするの。虫が来たら。雛子退治してくれるの。返事は? 返事しなさい。なんで出しとかないの! 買い物は行ってきたの? ほら、また。言ってあったのと違うじゃない。卵入ってないじゃない! どうやってこれでお料理するの? もうママなにも作らないから。作れないじゃない!」

 女の声は骨の髄までよく響く。それとは対象的に、会話をしているはずの娘の声は、今まで一度も俊一の部屋にまで届いたことはない。それくらい小さな声だった。隣の家に住む少女、小林雛子ちゃんの声は。

 俊一は膝から崩れ落ち、頭を抱えこんだ。額が床にごつんと当たる。そして糸が切れたように大泣きした。大粒の涙を滴らせて、嗚咽を漏らす。

「うおぉぉぉ、うぉぉぉん。僕は、僕は無力だぁ。なにが、なにが賢者だ。賢者なもんかっ。隣に住む天使ちゃん、一人救えない賢者がいて、たまるか。うおぉぉぉん、うぉぉん、うぉん。うぉ……、うぉぉ……」

 しばらく沈黙した後、今度は鬼のような形相になって、歯をぎりぎりいわせ始めた。

「くそ、あのくそばばぁ! よくも、よくも天使ちゃんにゴミだしなんぞさせやがって。貴様がゴミになりやがれぼけなすが! 買い物だって? お前が行けぼけなすが!」

 硬く握り締めた拳をわなわなと震わせる。腹の底からこみ上げてくる激烈な感情を、押し殺すことは出来ない。

 隣に住む母子家庭について、俊一はよく知っていた。昼夜問わず叫び散らすあの女が、自らのことを怒り任せによく口走っていたからだ。いやでも知っている。あの女はヒステリーで怒りを娘にぶつける。前の旦那と別れたのも、娘が理由だと叫び散らしていた。ネイル関係の仕事をしていて、朝十時から晩十時過ぎくらいまではだいたい仕事に行って部屋を空けている。こんな鉄骨アパートの低家賃の部屋に母娘二人で暮らしているほどだから、豊かなはずもない。生活苦にいつも不満を漏らしている。娘は小学校にあがったばかりで誕生日は八月七日。名前は小林雛子。たぶんO型。下校しているところを俊一は何度か目にしていた。四五人くらいで集まって下校している女児たちの、最後尾を、うつむき加減に歩いていた。玄関先でおはようと声をかけたことがある。雛子ちゃんから遅れて躊躇うように、おはようと返事がきたときは、心が洗われていく気がした。たった一言で、俊一の心を鷲掴みにしてしまった。後ろで一つにまとめあげられた黒髪、奥二重の澄んだきれいな瞳。手足はすらりと細く伸び、色白で小柄な体躯に、質素な肉付き。大人しめの性格の雛子ちゃんは、間違いなく二次元美少女にも劣らぬ理想の女の子だった。羽の生えそろっていない天使そのものであった。

 俊一は隣に住む雛子ちゃんのことが、それ以来、気になっていた。妄想が具現化したのかも知れないと何度思ったことか。魔法にかけられた気もした。ハッピーバースディと口ずさんでいた。雛子ちゃんには、守りたいと本能的に訴えかけてくるものが確かにあった。そんな雛子ちゃんは、どこか切なげで、いつもなにかに怯えているように見える。あの女の存在を思い出さずにはいられない。隣の部屋からあのヒステリー女の声が聞こえてくるたびに、俊一は怯え切った雛子ちゃんのことを想うと、胸がはちきれそうになるのだ。我を忘れ、激情にかられ、同時に痛烈な無力感に襲われ、一人さみしく床を濡らしてしまう。そしてあのくそばばぁの死を願うのだ。

 依然として続くあの女のがなり声に、俊一は引きつけを起こしたように床に寝そべり身体を左右に揺すり、自らの気持ちをなんとか落ち着かせようと、賢明になっていた。

 俊一は感情の起伏が激しかった。それは小学生の時からずっとそうであった。かつて同級生だった男の子の鼻の骨を、バットでへし折ったときも、怒りで我を忘れ、気がついたときには地面に血溜まりを作っていた。九歳の時だった。そんな気性の荒さを心配してか、実家にいる母親が俊一をカウンセリングに連れていったことがある。そこで胡散くさい担当のカウンセラーのおじさんに、感情のコントロールが不慣れですねと、当たり障りのないことを言われたのを覚えている。大人になるに連れて次第に収まるでしょうとも言われた。俊一は今二十六歳である。いつ大人になれるのか。俊一には検討がつかない。ぼんやりと、このままでは一生大人になどなれないと、俊一はなんとなく予感していた。そしてこのあふれ出す怒りをうまくコントロール出来る大人になどなりたくはないと、隣の天使を想い、涙を流し続けるのだ。

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