エピソード2:汚れぬ花-10

 小川はもはや返す言葉が無くなったのだろうか。静かにその場にしゃがみ込んだ。

蓮は隣で不思議そうに覗き込み、話かけていた。


 「……ウソをついてたの?」


 「ええ、そうよ」


 「じゃあ、ごめんなさいしなきゃだね」


 「……そうね。でも、それはアンタのママのせいなのよ!」


 そう言うと突然、小川は鞄からナイフを取り出し振り上げた。

 しかし、


 パンッと乾いた音がして、次の瞬間にはナイフがコンクリートに転がり落ちた。


 「それも想定済みです」


 何が起こったのか理解できないといった表情の小川には銃口が向けられている。有瀬はゆっくりと近づき、蓮君の手を引いた。追い込まれたら蓮君を人質に取る事を読んでいたのだろう。


 「往生際が悪いですね」


 「そりゃあんな女のせいで捕まるなんて、絶対に嫌だもの」


 「坂戸さんのせいだと?」


 「そうよ、同じ穴の狢だったはずなのに、子供作って満足気に生きているあいつが悪いのよ。私はこんなに惨めに生きているのに、なんであの女は……」


 「ずるいとでも言いたいのか?」


 「ずるいじゃない!過去は忘れて、堅実に生きてきましたみたいなフリをして。私ばっかり惨めな想いをして。だから壊してやりたかったのよ」


 有瀬は呆れた表情を浮かべる。


 「自分が今惨めだと思うのは、自分自身のせいだろう。身体貼って稼いだ金を一時の快楽に溺れて散財した挙句、昔の同僚に金を借りないと生きていけないくらいに落ちぶれた、アンタ自身の甘さが招いた結果だ」


 「アンタに何がわかるのよ!」


 「理解する必要性を感じないな」


 「馬鹿にしないでよ」


 小川は子供が駄々を捏ねるみたいに泣き始めた。

 

 「馬鹿にしているのはアンタだ。坂戸さんがどれだけ苦労をして、どれだけの想いを背負って蓮を育てているのか、近くに居たアンタが何故わからない」

 「直に警察が来ます。もう大人しく捕まってください」


 有瀬は冷たく言い放つと、車の影に蓮君を連れて行く。そこには坂戸薫と思われる人物が待っていた。


 「ママだ!」

 

 「蓮、ごめんね、本当にごめんね」


 泣きながら抱き合う姿に、私の視界が水分で覆われていく。くしゃくしゃな顔で子供を見つめる母の顔は、とても美しく綺麗だった。


 「蓮、お前はお母さんから立派な身体と、綺麗な心と、素敵な名前を貰った贅沢もんだ。お母さんの事を大切にするんだぞ」


 有瀬は優しくも真っ直ぐな目で蓮を見つめている。


 「うん!」


 「蓮くん、本当に良かったね!これからはママをちゃんと守れる男になるんだぞ!」

 藍ちゃんも涙を浮かべながら、二人の再開を喜んでいる。


 「お姉ちゃん、ありがとう!また遊ぼうね」


 暫くして警察がやってきて、小川は連行されていった。これで一件落着のようだ。


 



 私達3人はとりあえず店に戻る事にした。もう空が暗い、開店時間か近づいている。


 開店準備をしていると、有瀬は珍しくコップを拭きながら私と藍に語り掛けた。


 「蓮(ハス)の花言葉って知ってるか?」


 「いや、知らないけど……急にどうしたの?」

 花言葉なんて似合わないセリフを吐くので準備していた伝票の束を落としそうになる。


 「『清らかな心』って意味らしい。蓮(ハス)の花は泥水のような池の中から、真っ直ぐに茎を伸ばして、その先に綺麗な花を咲かすそうだ。自分の過去を悔いている坂戸薫は、蓮っていう名前にそんな意味を込めたのかもな」


 「そんなに自分の過去を卑下する必要ないのになぁ」

 藍ちゃんが不思議そうに応える。


 「自分自身の為であれば彼女も納得するんだろう。だが、蓮が産まれる時に変わっちまったんだよ、価値観が」


 「価値観?」


 「生まれてくる子供の幸せを一番に考えて、自分に出来る事を不器用ながらに選択したんだ。立派なもんだよ」


 「そうね、ちょっと不器用さは感じるけど、今回の事も蓮君を思っての行動だったんだもんね」


 他にも手段はあったかもしれない。仕事選びも、子供を守る方法も。しかし、それを決めるのは彼女自身の想いであり、その想いが真っ直ぐだから薫さんと蓮君はきっとこれからも大丈夫だ。




 数日後、坂戸親子がこの町に遊びに来てくれた。駅前の喫茶店で頼んだパフェをめぐって藍ちゃんと蓮君が争っている。二人はすっかり歳の差姉弟のようになっていた。


 「お礼が遅くなり申し訳ございません。この度は本当にありがとうございました」


 薫さんに渡された封筒を見ると、決して少なくないお金が入っている。


 「いやいや、こんなの受け取れないですよ」


 「いえ、大変お世話になりましたから……」


 暫く攻防を繰り返したが、半ば強引に押し切られ受け取ってしまった。


 「まあ、薫さんがスッキリするなら良いんじゃない?」

 親子を見送った後の藍ちゃんの言葉もあって、素直に受け取る事にした。


 「まあ、今回一番頑張ったのはオーナーだからね、たまには労ってあげようか」


 「それが良いよ!ついでに私達もお零れにあずかろう」


  開店の1時間前に店に到着すると、功労者が気だるそうにテーブルを拭いている。


  私は、いろんな意味を込めて「ありがとう」とだけ伝える事にした。

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シタマチ・インシデント 亀井 圭 @kamei0531

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