第27話 悪夢に沈む

 ナーシャに高級蜂蜜酒を三杯ほどもふるまった夜。

 俺は、酒精が回りすぎた頭で眠気と戦いながら宿への道を行く。

 酒の席で和解したとはいえ、いささか気にも病んでいた俺は、仲間たちと別れた後にもう一軒別の店に行って一人で酒をあおっていたのだ。


 酒で悩みを飛ばすなど、情けない話だと思いながらも、旅に出る前に悩みを酒で洗い流すのも悪くないと思った。


「……ん?」


 近道をしようと入った細い路地の先に、ちらりとリズが横切った気がした。

 先に宿に帰ったはずなので、こんな場所にいるはずはないのだが。

 もしかすると、リズもナーシャのことで悩んで一人で飲んでいたのかもしれない。


 なんにせよ、確認しよう。

 ダマヴンド島以降、機会がなくて肌を触れ合わせる機会がなかったので、少しばかりさみしくも思っていた。

 この先、機会があるかもわからないしここならば別の宿に入ることもできる。

 いまだ心の奥でくすぶる悩みを、リズにおぼれて忘れ去りたい。


 そう考えて、俺は路地を出て通りを見回す。

 交易都市であるが故に、夜でも煌々と明かりが灯っており、人通りも多い。

 とはいえ、この地方で猫人は珍しく、特徴的なあの尻尾を探せば見つけられるはずだ。


 リズらしき人影が横切った方向に向かって通りを探す。

 そして、随分と歩き回ったのちにいよいよ俺はリズを見つけることができた。


「リ──……」


 声をかけようとして、俺は立ち止まる。

 リズが誰かを見つけた様子で手を振って、笑顔で建物へと消えた。

 誰だろうか?


 ティナやナーシャと待ち合わせでもしていたのか?

 いや、ナーシャはない。

 調子に乗ったあの幼馴染は、酒精の強い酒を最後にあおって酩酊し、ティナとリズに引き摺られていったからだ。


 では、ティナか?

 その可能性もあるが、可能性は少なそうな気がする。

 彼女が酩酊したナーシャを宿に一人置き去りにすることはないだろうし、なまじ飲みなおしに出たとしても、リズと一緒に出ればいいので待ち合わせる必要はない。


 歩きながら考えていた俺は、リズが消えた店を見上げる。


 ──『海烏のまどろみ』。


 そう大きく書かれた看板がかかったそこは、どう見ても連れ込み宿に見えた。

 よくよく見れば、周囲には似たような簡易旅館が立ち並び、港妻を伴った船乗りたちがうろうろしている。


 冷えた感覚が上がってきて、俺は焦燥感のままに『海烏のまどろみ』へと入る。


「あら、お客さんひとりかいね」


 じろじろとこちらを見る店主に、俺は作り笑いを向ける。


「こっちは金さえ払ってもらえば何でもいいがね」


 商売柄だろうか、こちらに興味なさげな店主に金貨を一枚握らせてささやく。


「……さっき、猫人が入ってきたろ? 獣人女がどんな声で啼くか興味があるんだ。隣の部屋を貸してくれないか」

「へぇ? いい趣味してるねぇ、お兄さん」

「静かにしてるからさ、頼むよ」


 にやにやとした笑いを向ける店主に、もう一枚金貨を握らせる。

 そうすると、番号のついた鍵を俺の手のひらにポトリと落とした。


「覗きはご法度だ。自己責任で頼むよ。声を楽しむのは好きにするがいいさ」

「ありがとう」


 足音を殺して階段を上っていく。

 渡された部屋番号の鍵を静かに開けて、音をたてないように慎重にベッドに腰を下ろす。

 安普請というわけではないだろうが、気配を悟られないようにして俺は耳を澄ませる。


「…… ……」

「……、……。……」


 内容は聞こえないが、隣から話声のようなものがする。

 そして、その声の一つは間違いなくリズのものだった。

 もう一つの声は、男のようだが聞き覚えがあるようなないような、判然としない。

 低すぎて、よく判別できない。


 しばし、その場でたたずむ。

 何も起こらなければいい。うつむいて床板の木目を数えながら俺は願って待つ。

 

 しかし、そんな俺の願いは数分後に打ち砕かれた。


「──……ぁ」


 壁を通り抜けて、リズの声が俺の耳に届く。

 そして、隣室のベッドと床板がきしむ音が、静かな部屋へと響き……それが徐々に激しくなっていくのを、俺は呆然として聞き続けた。


「……ッ ──……!」


 隣室から聞こえる潤んだリズの声は、ベッドのきしむ音ともにどんどんはしたないものへと変わっていく。

 途中から絶叫じみたそれは、俺の時とは比べ物にならないくらい甘く蕩けていて、まるで下品なものだった。


 聞くに堪えないそれに耳を澄ませながら、俺は敗北感のまま涙を流す。


 何が起こっているのか理解できないし、したくなかった。

 ほんの数時間前までは俺の横で恋人の顔をしていたリズが、今は壁板一枚隔てた向こう側で別の男に抱かれている。


 そんなことがあり得るのか?

 これは本当に現実なのだろうか?

 酒に呑まれて実は眠っているのではないのか?


「──……ッ! ──……!」


 そんな幻想を、リズの絶叫が粉々に打ち砕いた。

 やがて静かになった壁を見つめながら、俺は絶望する。


 ……自分に、リズに。


 そう考えると、意識がふわりとして目の前が回転した。

 酒精を摂りすぎた頭に血が上りすぎたのかもしれない。


 再び聞こえ始めた隣室の音とリズの声を聞きながら、俺ぐるぐると回転しながら沈んでいく。

 吐き気と眩暈と激しい動悸の中、俺の意識は糸が切れたようにプツリと暗闇に落ちた。



「うっ……」


 激しい頭痛に目を覚ますと、俺の額にひんやりとした手が触れた。


「大丈夫?」

「……ナーシャ?」

「そうだけど?」


 視線をやると、引き寄せたシーツからむき出しの滑らかな肩をのぞかせたナーシャが俺の額に手を置いている。

 朝日に照らされる金色の髪はキラキラと輝いて美しく、俺を覗き込む青い瞳は安心感を与えてくれた。


「ここは?」

「私の部屋よ。覚えてないの……?」


 ジト目で俺を見るナーシャは、まるで幼い頃に戻った時のように親しみを感じた。


「本当に覚えてないの?」


 それを聞いて、俺は必死に記憶を手繰り寄せる。

 ……が、成果はない。


「昨日は……みんなと別れた後、もう一軒バーに行って……それから……」


 ずきずきと痛む頭で、必死に昨日のことを思い出す。


「リズ……」


 声に出した瞬間、のこぎりを引くような痛みとともに記憶が引きずり出される。

 あの、『海烏のまどろみ』での出来事を。


「もう。ヨシュアったら、よくこの状況でリズの名前が出せるわね?」

「へ?」


 よくよく見てみれば、ナーシャは寝間着すら着ていないようだ。そして、俺も。

 意識をはっきりさせてみれば、シーツの中では肌と肌が触れ合う感触。

 実感してみると、血の気が引いた。


「夜中、急に来たのよ? ほんとに覚えてないなんて」

「え?」

「残念。わたしは、うれしかったんだけどな」


小さくため息をつきながら苦笑したナーシャが抱き着いてくる。

 触れた豊満な胸が柔らかな弾力を主張して、俺は安心感に包まれた。


「リズと何かあったの?」

「わからないんだ。夢か現実かも。酔っていたし」

「……少なくとも、今は現実よ。ヨシュア」


 しっとりと笑ったナーシャの唇が、俺に触れる。

 夢にまで見たその柔らかで甘い感触。

 それが何度か繰り返されるうちに、俺は曖昧な昨夜を忘れて『現実』に夢中になっていく。


 夢かもしれない暗い記憶よりも、いま目の前にある甘い現実が俺の心と体を支配していった。

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