第3話 子どもみたい



「ちょっと待ってて、今作るから」


今度はスカートの端を摘まむ隙もなく身を翻してキッチンに入っていった。俺は彼女のぬくもりが残ったソファに上半身だけうつぶせにして沈み込む。淡いベージュのソファカバーは昨日洗濯していたせいか清潔な甘いにおいがした。


はじめはメンズ商品にありがちな清涼感のある香りが多い部屋だったのに、いつの間にかすっかり千明の趣味に塗り替えられている。肺いっぱいに広がる花の芳香に、自分まで中性的に柔らかくなったような心地がした。


キッチンに目をやると背の低い千明が冷凍庫の一番上の段から何かを取り出そうと背伸びしていた。友人からもらった旧型の大きな冷蔵庫は平均身長を大きく下回る千明には使いづらそうで「引っ越すときは責任もって引き取ってよね」とじっとりした目で言われたのを覚えている。あのときは「引っ越すってなんだよ」と笑ったけれど今は喉が引きつって枯れていた。




あれでもないこれでもないと見えない品物を取り出してはしまう彼女の背後に回って「これ?」と奥の方にあったジップロックを取り出してやる。


「そうそう、それ。ありがとう」


頷きながら振り向いた千明との距離は近く、胸の高さにある茶色い目がほとんど真上を向いていた。見上げるときの癖なのか口までぽっかりと穴を開けている。


小さいな、と言うと怒るので、代わりに冷凍のぶりを置き去りにしたまま彼女を抱きしめる。頭上からは波が寄せるように白い冷気が降りてきて、千明の長い髪に薄いベールが伸びていった。


「なあに?」


「千明が変なこと言うから」


口に出さずにいたことが喉まで押し寄せてきている。傷口を見ると痛みが体中を巡るように、一度自覚した感情は血液に溶けて全身に運ばれていった。




「変じゃないよ。わかってたことでしょ」




泣きじゃくる子供を宥めるような声に抱きしめる腕の力がこもった。自分が本当に幼くなったような気がして、千明の脱力した両腕を乱暴にとって背中に回してやりたくなる。


ゆるくウェーブのかかった髪に頬を寄せると驚くほど冷たくて自分の体温の高さを知る。自分の肌の、その沸騰したような熱さにどうしようもない衝動だけが増していった。




硬いフローリングの上じゃいやだと言う千明を抱えてリビングの電気を消した。暗闇の中で薄く微笑んだ口元が何を訴えるでもなく揺れている。


彼女の小さな体にぬくもりを与えることに夢中になりながら、顎を伝って落ちた汗の行方に目を走らせる。真下にいる千明の頬の高い位置を通ったところで目が合い、怖くなって反らした。


スローモーションみたいに一瞬間だけ静止画になった彼女の瞳の中に何もかもが写っている気がして直視できない。


千明もまた、視線が合わないように顔を背けた。何を思っているのだろう。こんなどうしようもない子供みたいな男に。

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