第2話 上京前夜



「あ、牛乳買うの忘れちゃった」


買い物袋の中身をあけていた千明がつぶやいた。


街に流れる夕焼け小焼けを聞いてからしばらくが経っていた。外はじっとりと闇に囲まれ、窓枠にわずかな朱色が引っかかっている。その繊細なコントラストの美しさに「カメラは、」と思ったが、目を離した一瞬の隙に景色は姿を変えていた。




何の予定もない休日の夕方は色違いのサンダルをつっかけて千明と買い出しに出る。料理ができない俺はただの荷物持ちだったが、確かに彼女が選んだ食材たちの中にお馴染みの牛乳パックはなかった。


しかし千明はそれ以上何を言うでもなく手際よくレタスや鶏肉を閉まっていき、空になった袋は三角形に畳んで専用のカゴに放った。




リビングのソファで先に寛いでいた俺のとなりに千明が座る。彼女が履いていた花模様の長いスカートがふうわりと広がり、手の甲に触れた。


くすぐったくて払おうとしたが、そのままスカートの端をつまんで少し引っ張ってみる。無造作に束ねられたポニーテールから落ちる後れ毛がゆっくりと揺れた。


「なあに? もうお腹すいた?」


まるで子どもに聞くような口調に「違うよ」と言いかけて、腹がぐるりと鳴いた。


「なんでわかったの?」


「わかるよ。どれだけ一緒にいたと思ってるの」


千明は少し得意げに口角をあげた。確かに彼女は俺よりもずっと俺のことをよくわかっていた。苦手な食べ物のことも、好きな音楽のことも。


嬉しい気持ちと悔しい気持ちとがない混ぜになって「今日はぶりの照り焼きが食べたい」と無茶を言ってみる。しかし千明は困った顔ひとつせずに頷いた。


「いいよ、今日で最後だからなんでも好きなもの作ってあげる」


「最後ってなんだよ、大袈裟だな」


いつの間にか重なっていた手をぎゅっと握り込み、浅くへこんだ寂しさを埋めるように言った。


明日の朝、俺は最寄駅から始発の電車に乗って上京する。淡くぼやけていた夢の輪郭をなぞるために。




千明と住んでいるワンルームの壁には一枚の写真が飾られていた。半年前に小さいながらも賞に引っかかった自信作だった。それをきっかけにあれよあれよという間に上京して働く運びになり、ついに一日を切るところまで迫ってきている。


会うのに電車で約3時間を必要とする距離がいわゆる遠距離恋愛であることはわかっていた。しかし手に馴染んだ毎日は素知らぬ顔をして今日まで過ぎていった。


俺をよそに千明はパッと手を離して立ち上がった。また手の甲に花模様が触れる。彼女だってこれまで上京の話題にはほとんど触れてこなかったのに、どうして今になってそんなことを言うのだろう。


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