第4話 新しい朝がにじむ



荷造りの済んだボストンバッグのポケットに手を突っ込むと、ライターは案外簡単に見つかった。


カチ、と弾いて火をつけると、薄闇と混ざって朝焼け色になる。くわえた煙草に近づけて先端を焼き、ゆっくり吸い込むと少しむせた。しばらくやめていたせいかやけに肺を締め上げるような熱さが染みた。


目が覚めると、セミダブルのベッドに千明はいなかった。綺麗好きな彼女が昨夜脱ぎ散らかした服もそのままで忽然と姿を消すなんて、と思ったがリビングのローテーブルに一枚のメモ書きが残してあった。




俺はシャワーで汗を洗い流し、のろのろと身支度を始める。「寝坊しないように目覚ましかけとくね」とシーツにくるまった千明がアラームをセットしてくれていたが、聞き慣れた音が鳴る前に起き出したせいか頭だけが妙に冴え冴えとしていた。


結局最後まで多くの言葉を交わすこともなく、彼女は静かに俺を受け入れていた。それが十二分すぎるほどに別れの言葉として脳裏を焼き、ことを終えれば手に取れるほどはっきりとした粘り気をもってこびりついていた。




何がいけなかったのだろう。上京を決めたことか。賞をとったことか。あの写真を、撮ったことか。




壁にかけられた一枚の写真に触れる。ありふれた朝のベランダではにかんだ笑みを浮かべる女性の、千明の写真だった。「洗濯物写ってるじゃない、恥ずかしい」と彼女はむくれていたけれど、コンペに出すと言ったときは止めなかった。


そのくらいに自信のあった一枚が俺を新しい場所へ連れていき、代わりに元の居場所を去ろうとしている。


遮光カーテンの隙間から差し込む光が強くなって、始発電車の出る時間が刻一刻と迫っているのがわかった。


千明だってきっと、いつ帰ってくるかもわからない男を待っていたくはないだろう。俺は彼女をおいていくのだ、生活の一部だったものをすべておいていくのだ。それが代償を払うということなのかもしれない。




支度を終えてボストンバッグと小さなキャリーケースを引きずり、最後に部屋を見渡してみる。


長年過ごしてきた場所の、いたるものたちが見送ってくれる。お気に入りのソファが、キッチンに置いた揃いの歯ブラシが、陽光に反射する写真立てが、ぺらりと一枚残されたメモ書きが、




牛乳買ってくるね。元気で。 千明



両手を強く握りしめていた。右の掌に小さく痛みが走るのを感じて見てみると、うっすらと細く血が滲んでいた。自分でも気づかないうちにできた瘡蓋が剥がれたらしかった。取り留めもない傷口だと思おうとした。


でも、ダメだった。


もたつく手足を空回しながら外へ出る。千明が本当に牛乳を買いに行ったとしたらコンビニかスーパーで、どちらも歩道橋を渡った右手側にある。始発の電車が出る駅も、右手側だ。


しかし彼女ならどうするだろうと考える。朝焼けが白く霧散して青みがかり、住宅街の隙間から覗く光の束も姿を消し始めていた。ランニング中の若い男や散歩中の犬が幾度も横をすり抜けていく。新しい一日がはじまろうとしていた。


俺は息を切らして歩道橋をのぼり、左手側の階段を降りていった。




確かに彼女は俺よりもずっと俺のことをよくわかっていた。苦手な食べ物のことも、好きな音楽のことも。そしてふたりのことも。しかし俺だって少しくらいは彼女のことをわかっている。


その証拠に大きな時計台とブランコが揺れる小さな公園で、あの花模様を見つけた。


遠目に見える千明の髪は少し濡れていて、朝露を飲んだ木々のきらめきに反射している。いつからここにいたのだろう。俺が起き出すよりもずっと前にひとりでベッドを出て、服に袖を通して、静かに家をあとにする彼女の背中が見てもいないのにちらついた。


俺たち、本当にこのままでいることはできないのだろうか。変わりたくないと思うのは強欲すぎるだろうか。そばにいてほしいと願うことは君の未来を食い潰すだろうか。


頭の中で白と黒の絵の具が混ざりあい、思考を行ったり来たりする。どっちつかずのその真ん中、ただぬかるんだ土に足を踏み込んで「千明、」と呼ぼうとしたその瞬間、朝露が落ちた。




頬のゆるいカーブをなぞって滴り、花模様に色を付ける。何度も何度も落ちては咲く花々と彼女の横顔が、新しい朝に滲んでいた。




それは言葉にすることすら躊躇われるようだったから、俺はボストンバッグからカメラを取り出して一度だけシャッターを切った。露出もピントも何もあわせていない、ただ指をボタンに押し込んだだけの一枚。


それが画面に表示される前に電源を落とし、何もかもがすでに終わっていたのだと項垂れて来た道を戻っていった。


最後に公園の時計台を見ると、ちょうど出発の時間だった。


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