第18話 もう一度あの場所で 前編
毛利荘のベランダで、加村優はスマホを握り締めたまま溜息を吐き出した。
目の前に広がるのは、入れ替わらなければ見られなかった夕闇に沈む街並み。
それをボーっと眺めていた優は、右手で握っているスマホの画面に視線を移す。
ホーム画面には、先日、海で松葉芽衣と一緒に撮られた写真。
お互いに顔を赤く染めて、手を繋いでいる。
「なんで、この写真、ホーム画面に設定しちゃったんだろう? これが加村優のスマホだと認識させるための偽装工作? でも、どうして、この写真見てると、胸がドキっとするの? それに、なんでいきなり手を繋いじゃったんだろう。いや、そんなわけない。私は入れ替わっていることを隠すために、松葉芽衣のことが好きな男の子を演じてるだけで……」
ブツブツと独り言を呟きながら、優はベランダの中心で首を縦に動かす。
「そうだよ。ナンパ男から松葉さんを助けたのだって、あの体が傷つくのが許せなかったからで、お見舞いに行ったのだって、風邪をひいた自分の体が心配だったから……」
本当にそうなのだろうか?
優の頭に疑問が浮かび上がり、芽衣は眉を顰める。
本当にそうなのだろうか?
否定すればするほど、何かが引っかかる。
本当にそうなのだろうか?
もしかしたら、松葉芽衣は加村優のことが……
頭の中で堂々巡りが始まり、優の姿になった芽衣は、ベランダの柵を握って、夜空を見上げた。そんな彼の目に夜空に浮かぶ満月が映し出される。
「いつまで、このままなんだろう? 松葉さんを襲った人も接触してこないし、この銀のブレスレットだって……えっ?」
ズボンのポケットの中に隠していた銀のブレスレットを取り出した瞬間、彼は思わず目を見開いた。
昨日まで無地だった銀色のブレスレットの模様がなぜか浮かび上がっている。
それは、あの時と同じ赤と白の螺旋模様だった。
「ウソ、何? これ? 昨日までなんともなかったのに……はっ!」
優の顔で動揺した芽衣が周囲を見渡す。部屋の中には誰もいなくて、壁時計は午後7時10分を示していた。
「往復する時間も考えて、今ならなんとか門限に間に合いそう」
そう考え、頷いた優は、銀のブレスレットをズボンのポケットの中に仕舞い、スマホを握り締めたままで、部屋から出ようとした。
すると、ドアが開き、ルームメイトの福坂徳郎が顔を出す。
「優、どうしたんだ? 急いでどっかに出かけようとしてるみたいだけど?」
徳郎が焦る彼の顔を見て首を捻ると、優は首を縦に動かした。
「徳郎、近所の公園で松葉さんと会ってくる。門限までには絶対帰るから、安心してくれ!」
「なんかよく分からないけど、俺は信じてるからな。優は絶対に門限までに帰ってくるって!」
「ああ」と短く答えた芽衣は優の足を素早く動かした。
「ソフィー、聞くけどさ。このゾンビ狛犬騒動が終わったあとのことって考えたことあるの?」
どこかの外国の街の路地裏で金髪の青年が赤髪の少女に問いかける。
そんなゾンビ映画を松葉家のリビングにあるソファーに座り、退屈そうに見ていた松葉芽衣は手にしていたスマホに視線を向けた。
「うーん。まさか、日本で劇場公開されてなかったこの作品が、配信で見られるなんて、最高♪」
一方で、杠叶彩は芽衣の近くにある椅子に座り、ワクワクとした表情でテレビに映し出された映画を見ていた。
「っていうか、ゾンビ狛犬って何?」
芽衣がボソっと呟くと、杠叶彩は視線を彼女に向けた。
「芽衣ちゃん、マジメに見てないでしょ? ゾンビと狛犬。キセキのコラボレーションなのですよ!」
「意味が分からない!」と呆れ顔になった芽衣の頭に、先程聞いた映画のセリフが浮かび上がった。
「ソフィー、聞くけどさ。このゾンビ狛犬騒動が終わったあとのことって考えたことあるの?」
もしも、元の加村優の体を取り戻したら、そのあとはどうなるのだろうか?
入れ替わる前の生活に戻って、周囲から破局したと認識されるのか?
それとも……
そんなことを考えると、近くにあるテーブルの上に伏せられた加村優のスマホが震え始める。
振動音を耳にした芽衣は、テーブルの上にある自分のスマホに手を伸ばした。
「あっ」と声を漏らして、画面に表示された文字に目を通した芽衣の顔が赤くなる。
そんなリアクションの彼女の顔を、杠叶彩はニヤニヤと笑いながら、見ていた。
「加村くんからメッセでも来たのかな?」
「うん」と短く答えた芽衣の姿の優は、スマホに表示された彼女からのメッセージに目を通す。
「加村くん。今すぐ、あの公園に来て!! 急にブレスレットの模様が浮かび上がったの。もしかしたら、あの場所で1か月前と同じことしたら、元に戻れるかも!」
「マジで!!」と驚く優は目を見開き、スマホを握り締めたまま、ソファーから急に立ち上がった。それを見た杠叶彩は口をあんぐりを開ける。
「いきなり何? こっちもビックリしちゃったよ。それで、何があったの?」
「えっと、その、今からちょっと加村くんに会ってくるから。午後8時過ぎに帰る予定」
そう芽衣の声で答えた優が、松葉家のリビングから出て行く。そんな後ろ姿を叶彩は右手を前に伸ばして、呼び止めた。
「待ちなさい。埼玉で芽衣ちゃんを襲った犯人も捕まってないのに、夜に一人で外出なんて認めるわけにはいかないわ」
「夜って、まだ午後7時過ぎだよ。私は高校生なんだから、子ども扱いしなくても……」
立ち止まった芽衣が体を半回転させ、杠叶彩と向き合う。
「子ども扱いするつもりはないけど、お母さんは夜勤だから、今この家にいないんだよ。今日は実質、私が保護者ってことになる。もしも、埼玉で芽衣ちゃんを襲った犯人が、夜、人気のないところで狙ってきたらって考えると、保護者代理としても、担任教師としても、許可できないわ。どうしても行きたいんだったら、私も連れて行きなさい! ちゃんと、告られるところ見守ってあげるから」
「えっ?」と芽衣の姿の優は目を点にした。
「あれ? 加村くんから大切な話があるってメッセが来て、ビックリしたのかと思ったけど、違うの?」
「違うから。これでやっと元の……」
失言してしまった優は思わず芽衣の口を両手で塞いだ。
誰にも言えない秘密をうっかり洩らしそうになった芽衣の前で、叶彩は両手を叩く。
「そっか。加村くんとケンカしてたんだ。それで直接謝って、元の関係に戻ろうとしてるんだね。そして、その勢いで愛の告白をして、ふたりは正式なカップルになるのであった」
「だから、愛の告白から離れて!」
「はいはい。じゃあ、行こっか」と明るく答えた杠叶彩が自動車の鍵を芽衣に見せびらかす。
「結局、一緒に行くのね」
「当たり前でしょ?」
「まあ、別にいいけど、ふたりきりで過ごしたいから、駐車場で待ってって」
溜息を吐き出す芽衣の頭を叶彩が撫でる。
「ありがとうね。松葉家に担任教師が居候してるってことを秘密にするために配慮してくれて。でも、大丈夫。私は高校教師なのだから、夜間の見回りという大義名分がある! 見回り中に偶然、松葉さんと会ったと言えば、誤魔化せるよ」
今日、あの場所で元の姿を取り戻したとしても、杠叶彩に加村優と松葉芽衣が入れ替わっていたことがバレてしまう。
なんとかしたいけど、妙案は思いつかない。
芽衣の姿になった優は、密に焦りながら、玄関で靴を履き、外へ足を踏み入れた。
そうして、担任教師が運転する自動車の助手席に腰を落とし、シートベルトを締めた瞬間、芽衣の頭に先程まで見ていたゾンビ映画のセリフが浮かび上がった。
「聞くけどさ。このゾンビ狛犬騒動が終わったあとのことって考えたことあるの?」
もしも、これで元の加村優の体を取り戻したら、そのあとはどうなるのだろうか?
入れ替わる前の生活に戻って、周囲から破局したと認識されるのか?
それとも……
不意に浮かび上がった疑問に、芽衣の姿の優は頭を抱え、流れてくる夜の街並みを見つめていた。
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