最終話:【正太】僕の帰る場所
「お詫びとお礼は、またいつか」
言葉少なで、ユリアさんは去った。やって来た時と反対に、ヨルンさんに支えられて。
あと何日か、ゆっくりしたほうが良かったんだと思う。しかしヨルンさんは、事情が事情だからと言った。また会おう、とも。
僕の手と、きつく握手を交わしながら。
「さて、あたしたちも準備しますか」
「ええと、どれくらいの荷物にすればいいですか。荷車とか無いですよね」
「ん? そんなの必要ないわ」
ヨルンさんたちより先に、ベスさんも立ち去っていた。あの人も引っ越すそうだけど、取りに戻りたい荷物があると言ってニーアへ。
アーシェさんとお互いに、どこへ引っ越すつもりか告げなかった。
「じゃあ、手ぶらですか」
「うん、間違ってはないわ」
食料を持つ程度で、残りは置いていくのかも。それもアーシェさんらしいと頷いた。
それなのになぜだか、彼女は魔法の言葉を唱える。僕も住み慣れて愛着の湧いた家に向かって。
「あたしの棲み処。始まりと終わり、魂の仮宿。根ざす場所を移す時が来たわ。雨風の盾として、役目を忘れしばし眠りなさい」
風船から空気を抜くみたいに。アーシェさんの家は、ぎゅぎゅぎゅっと縮んだ。ソフトボールくらいにまで。
「こんな魔法が。家ごとなんて楽チンです」
「まあね。魔女は同じ場所に何年かしか住めないから、これくらい出来ないと」
「えっ? 初めて聞きました。同じ所に居ると、呪われでもするんですか」
違うかなと思いつつ、けっこう真面目に聞いた。しかしアーシェさんは「フフッ」と笑う。僕の好きな、睫毛の長いいかにも大人な眼差しで。
「理由は簡単よ。同じ場所に住み続ければ、いつか気付かれるわ。あいつ、歳をとらないぞって」
「あっ……」
「だからね、長くても十年くらいが限界なのよ」
お化粧品だってそれほど無い世界。十年も見た目が変わらなければ、おかしいと思われるに決まってる。
実際は、五年くらいが限度と思う。どれだけ仲のいい相手が出来たとしても、必ずお別れしなくちゃいけない。人間では追いかけられないくらい遠くまで。
「あたしはもう、そういうのは通り越しちゃった。けど、ベスはこれからだと思うの。だからごめんね」
「アーシェさんが謝ることじゃないです。それにベスさんのこと、追い越さなくちゃいけないので」
「そっか。余計だったわね」
今度は威勢良く、「あははっ」と。笑った魔女は、東へ足を向けた。どんなところへ引っ越すのがいいか、と聞くこともなく。
聞かれても答えられないけど。
「ここは?」
黙って着いていくと、意外に近くで足が止められた。両岸を茂みに囲まれた、小さな川のほとり。
橋からも離れていて、特になんの用事も無さそうな位置に小屋が建っている。浅く流れる透明な水に触れられるほど近く、壁が無い。
「知らなかったでしょ? あたしだけの場所よ」
誰にだって、一人で居たい時がある。独りになりたいことはある。なるほどそういう場所かと呑み込んだ。
それ以上もそれ以下にも思わなかったはずなのに、先を進むアーシェさんが後戻りしてくる。
「もう、そんな顔しないでよ。内緒にしてたのは、理由があるんだから」
「い、いえ。なんでもないですよ」
抱き締められて、逃れようともがく。でも敵わない。水際まで、操り人形みたいに両手を吊られて歩いた。
「いち、に。いち、に。ほら着いた」
「そりゃあ着きますよ。理由ってなんなんですか」
誰に見られてもいない。分かっていても、なんだか恥ずかしかった。一瞬の隙を突いて、するっと腕の中を逃れる。
「ええぇ。どうして逃げるのよ、いい物あげようと思ってるのに」
「いい物?」
「うっふっふ」
わざとらしく意味を含ませた声と共に、アーシェさんは水に手を浸した。そこへ紐が沈めてあったみたいで、すっすっと手繰っていく。
「あっ、それって」
やがて浸かっていた物が姿を見せた。当たり前にずぶ濡れで、暗い色の塊。水から上げると、青い色の布と分かった。しかも衣服だ。
僕はこれに、心当たりがある。
「そうよ。お揃いがいいって言ってたでしょ。今度はあたしのが破れちゃったけど、またすぐ新しいのを用意するわ」
袖なしのシャツみたいな自分のローブと、水中から取り出したローブとを比べて見せる。濡れていて、同じ色とは思えなかった。
「びしょびしょですね、乾かさないと」
「そんなの、あたしを誰だと思ってんの」
近くに大きな岩があった。僕なら十分にベッドとして使えそうな平面に、アーシェさんのより随分と小さなローブが広げられる。
日常のちょっとしたことにも魔法を使っていないと、腕が落ちてしまう。いつもそう言う面倒くさがりの魔女は、濡れた布を乾かす魔法を使った。
「わあ、同じ色ですね!」
「当たり前よ。どっちもあたしが染めたんだから」
受け取ると、乾燥機から出したてという熱気に襲われた。着てみると、ちょうどピッタリだ。
「うん。魔女の弟子っぽい」
「魔法を教えてくれるんですか?」
「教えてあげる。人間に使えたって話は聞いたことないけど」
ライターも無しに火を点けたり、人を吹き飛ばすような風を起こしたり。僕が魔法を使えるなんて、それは憧れる。
「だから行きましょう。あたし、今がいちばん強くなれた気がするの。誰かを殺す力とか、そういうんじゃなくて。ショタァが居てくれれば、凄く楽しい。使い魔でも弟子でも、好きなほうでいいから」
ああ、気付かれてる。
二人きりになったとき。家を縮めたとき。出発だと足を動かし始めたとき。この川へ辿り着いたとき。
僕がずっと、言いたいことを隠してるって。
きっとこの先、なにも無い道の真ん中で。最初に泊まる町の宿で。箒に乗って飛ぶ空で。落ち着く先の新しい土地で。
僕は迷い続けていたと思う。いつ、なんと言えばいいか。
でもきっと、今なんだ。アーシェさんは決断の機会をくれた。
「あの。僕、やりたいことがあるんです」
「……うん、なに?」
見つめ合っていた視線を、アーシェさんが外した。ほんの一瞬、俯く方向へ。
しかしすぐに戻ってきて、にっこりと笑った。少し唇を噛んで、とても悲しそうに。
「お父さんとお母さんに謝りたいんです。ずっと嘘を吐いていて、ごめんなさいって。二人の言うことを聞くのは、とても嫌だった。もっと優しくしてほしかった。もしも正直に、そう言っていたら。僕は二人の子で居られましたかって」
両親の教えてくれること全てを、僕は実行しようとしていた。
いいえ。出来ません。嫌です。怖いです。そんな言葉を知っていたのに、使おうとは思い付かなかった。
だから、僕のせいかもしれない。僕が正直な気持ちを言えば、無理をさせていたと気付いたのかもしれない。
たぶん、そんな答えは返ってこない。けれど今のままでは、僕の勝手な思い込みだ。どうしても、真実を知りたかった。
「聞くの? あんたにつらい答えだったら、どうするの?」
「聞くだけ聞いて、もう一度呼んでもらうことって――」
ヨルンさんを倣って、軽薄にねだろうとしてみた。でも全然そんな風にならなかった。自分の信じていないことを気安く言うのは、とても勇気の要ることらしい。
アーシェさんは難しげに目を細め、眉根を寄せた。どんな使い魔が召喚されるかは、ギャンブルと聞いている。契約が出来なくて送り返したのを、やっぱりもう一度っていうのは不可能と。
「出来ないですよね、仕方ありません。それでも僕は、誰かの気持ちを無視したままの臆病者にはなりたくないんです」
親に向かって最悪の問いをして、逃げ出す場所もないのに僕はどうするんだろう。やっぱり魔法を習ってからにしようかとか、弱気が首をもたげる。
寒気がして、俯いた。目に入るのは、真っ青なローブ。自分の両腕を抱きしめて、僕は歯を食いしばった。
「そんなこと言われても……」
出来ないものは出来ない、という言葉は続かなかった。けど、しつこいくらいに何度も首が振られる。地面と水平に。
「いいんです、アーシェさん。僕、一度でもあなたに出逢えて――」
「出来るわ」
宙でなにか噛み千切ったみたいに勢い良く、アーシェさんは天を仰ぐ。もういい、という僕の言葉は最後まで言わせてもらえなかった。
「出来るって、え?」
「だから、出来るの。あたしもやったことないから、必ずとは言えないけど。半々くらいかな」
細く息を吐きながら、アーシェさんの視線が下りてくる。
最後はしゃがんで、僕と同じ高さに目線を合わせた。と思うとすぐ、彼女の腕から真っ赤な血が。
「あ、アーシェさんなにを!?」
誰になにをされたでもない。アーシェさんが自分の歯で、肌を裂いた。
つうっと流れる赤い紐に、白い石が押し付けられる。丹念に、念入りに。元が白とは想像もつかなくなるほど、血の色で飾られた。
「いい? これからちょうど一日後、あたしは使い魔の召喚をするわ。その時までにあんたは、この石を指輪に擦りつけなさい」
僕の左手を取って、赤く染まった石を翳して見せた。それから空の小袋に入れ、右手に持たせてくれる。
「意味は分かるわね?」
「戻ってきたいなら今度こそ使い魔になれ」
目を閉じて、薄く笑って、僕のご主人さまは頷いた。そうして彼女は、僕の首に腕を絡ませる。
また抱き締めてもらえるんだ。暖かくて、温かくて、僕の幸せを簡単に創り出す。アーシェさんは世界一の魔女だと思う時間。
「帰ってくるのもこないのも、きちんと自分の気持ちを考えなさい。誰かに気を遣ってでなく、よ」
「はい、必ず」
目を吊り上げて、厳しい口調。僕も顎を引き、緊張に喉が詰まりそうだ。
でもこれは、叱られているんじゃない。だといいな、でなく。はっきりと分かる。
ただ、お別れは笑ってほしいと思った。どんなアーシェさんも好きだけど、笑顔がいちばん綺麗だから。
「じゃあ、送り返すわ」
「――お願いします」
青い石が六つ、二人を囲むように投げられた。魔法の言葉が「召喚の星よ」と始まる。
大地の魔女。笑顔がいちばん綺麗と思うけど、その次は魔法を使っているときだ。どんな態度をしていても、目だけは真剣で。
「とても綺麗です、アーシェさん」
「あ、ありがと」
目を見開いた顔を見て、このタイミングでは言ったことが無いと気付いた。
喜んでもらえたなら言って良かった。でもなんだか、落ち着かなくもある。たぶん僕は世界の終わりの日に、普段と変わらない日常を望むんだろう。
「そこの綺麗なお姉さん、結婚してください」
「普通に断るし」
即座に断られる。ニヤっと、からかう笑みで。
でも、これがいい。いつか叶うと願うのは忘れず、何度でも同じことを繰り返させてくれる。それが楽しい。
「でもね」
同じでないことも、たまにはある。絡んだ腕に引き寄せられて、僕とアーシェさんの顔が近づく。なにをされるか、予想する間が無かった。だから鼻と口を塞がれて、すぐに苦しくなる。
行き先に当てのない腕が震え始めたころ、土の香りが離れていった。
「また会えたときには、考えてあげるわ」
なにが起きたんだろう。呆然と棒立ちの僕を置いて、アーシェさんは立ち上がった。
一歩ずつ、後退りながら手を振ってくれる。唇が動いていたけど、もうなんと言ったのか聞こえない。
囲んだ石から、光が立ち昇る。ゆらゆらとオーロラみたいに揺れて、外に立つアーシェさんの姿をぼんやりと隠した。
とても眩しい。目を開けていられなくて、瞼を閉じると倒れそうな気がした。
蹲り、この世界のことを考える。たくさんの出会いがあって、今はどうしているだろうと気になった。
ゆらゆら、ゆらゆら。ちょうどに温かいお湯の中へ、浮かんでいる心地。
彼女の胸に抱かれているような気もして、眠くなった。ゆったりと、誰に気兼ねすることもなく、大好きな魔女の名を僕は呟く。
――大地の魔女と使い魔の少年 完結――
大地の魔女と使い魔の少年 須能 雪羽 @yuki_t
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