第36話:【正太】薬売りの正体─1
アーシェさんは着いてこいと言った。隠したつもりだけど、僕が怯えているのを気付いたと思うのに。
どこに居たいか考えろというのは、出て行けと言われてるのかな。だとしたら、お父さんとお母さんの家へ戻る他に、思い付かない。
「もしもーし」
黒ずんだ小麦ギルドの扉を、力強く叩く。彼女の顔は、出かける前より少しだけ機嫌良く見えた。
たぶんそれは、エトヴィンさんのおかげだ。町の近くの茂みへ着いてすぐ、こんな会話があった。
「この通り、あたしは魔女よ。言いふらしてもいいけど、エルゼを見つけるまでは内緒にするのを勧めるわ」
「ええと、見つけた後に言いふらしたほうがいいんですか?」
「そんなわけないでしょ。魔女狩りくらい、あんたも知ってるはずよ」
ダメだこりゃ。とアーシェさんは口に出す。でもエトヴィンさんは、同時に吐かれた盛大なため息を気にした風もなく答えた。
「知ってます。つまり言わないのがいいんですね? 良かった。私は口べたなので、みんなに知らせろと言われたら困ってしまいます」
「……なぜ? 魔女は嫌われ者よ。なにも考えず、兵士に知らせるものじゃないの」
「昔のことですし、私は魔女と会うのは初めてです。ええっと、結局知らせたほうがいいんですか?」
もちろんアーシェさんは「知らせなくていい」と答えた。
小さく噴き出したのが、なんだか懐かしく見えてしまう。数日前までは僕も、彼女とくだらないことを話せていたのにと。
それはさておき。建物の中から返事があったのは、間を置いて三度叩いてからだった。
「小麦ギルドは休業中だ、誰も居ねえよ」
重い小麦の袋も、二つや三つを一度に運べそうな筋肉。髪の毛が一本もない、中年の男性が顔を出した。袖なしのシャツの上から、あちこち掻き毟りながら。
「あなたが居るじゃない。ギルバルトに用があるんだけど、居るかしら」
「ああ? また美人の姉さんか、まだやってんのかあの野郎。奴に用なら、訪ねる場所が違う。下町のどこかに居るはずさ」
話すたび、強烈なお酒の臭いが降りかかる。アーシェさんとエトヴィンさんの後ろへ居るのに。
男性は町の反対、南の方向を指す。下町とは、裕福でない人たちの集まる区域のことだ。
「これ以上迷惑をかけるなら、本気でぶち殺すって伝えといてくれ」
「ギルド長ではなくなったのね?」
「そうさ。奴のおかげで、仕事になりゃしねえ。なぜ、とは聞くなよ」
じゃあな、と扉が閉められる。はみ出た空気は酒臭ばかりで、以前の冷たい感触がなかった。
「知らなかったの?」
「すみません。エルゼのことで頭がいっぱいだったもので」
「責めてやしないわ、聞いただけよ」
ギルバルトさんが女性を騙し、危害を加えていたのはバレているようだ。
でもエトヴィンさんは本当に知らないみたいだし、僕たちの他にも小麦ギルドを訪ねる人は居た。みんな居留守に首を捻って、帰って行ったけど。
街の真ん中の通りを歩き、真っ直ぐ南へ。豪華なのと簡素なのと、造りに差はあっても石造りの建物が並ぶ。
日本と比べれば、人出は大したことがない。でもすれ違う人はみんな、活き活きとしていた。
お店の呼び込み。どこかへ配達に行くらしい小父さん。屋台で売り物を自慢する小母さん。
お客になる人。ただぶつかっただけの人。誘いを無視して、お喋りを続ける人。
みんな自分の言いたいことを言っている。やりたいことをやっている。依太町はどうだっただろう。思い出せない。
「ショタァ。ここからは絶対に、あたしから離れちゃダメよ」
「えっ。あ、分かりました」
ぼんやりしていると、下町に着いた。蛇行する川を何度か越えたけど、最後にかかるこの橋の向こうらしい。
いつか見たような、木製のオンボロではなかった。一応は石造りで、馬車が走っても問題なさそうに見える。
でも端に手すりなんかは無く、あちこち雑草だらけだ。越えた向こうに、木造の小屋しか見えなかった。
たぶん、たくさんの人が居る。物を動かす音や、くしゃみなんかは聞こえた。デタラメに建つ建物のどれからかは分からない。歩く人の姿も、ほとんど見かけない。
道端に、僕よりも小さな男の子が脚を投げ出して座っていた。五歳くらいだろうか。
片方だけ袖のあるシャツは、裾がかぎ裂きになっている。半ズボンはきっと、元は長ズボンだったはず。
どこを見ているのか、力の抜けた視線が空のほうを向き続ける。それは目の前に、僕たちが立ち止まっても変わらない。
「ねえ。この辺りにギルバルトって、新入りが来なかった?」
しゃがみ込み、アーシェさんは尋ねる。でも一瞬、視線が動いただけで返事はない。
「教えてくれたら、食べ物かお金をあげるわ。どっちがいい?」
「……甘い物」
「いいわ。誰かに見られたら盗られちゃうから、すぐに食べなさい?」
取り出された飴は二つ。男の子の口には、一つでもいっぱいになるような。奪うように受け取り、すぐさま舐め始める。
「返せなんて言わないわ、ゆっくり味わいなさい。食べ終わるまで、見ていてあげるから」
もう一つをぎゅっと両手に抱え、男の子は頷く。虚ろだった視線が、とろんとしているものの生気を戻した。
「あっち。石の建物に住んでる」
「石の建物ね、ありがとう」
一つ目が無くなったところで、男の子は教えてくれた。それで立ち去ろうとするので、アーシェさんが止める。
「持って行くのは危ないわ」
「お姉ちゃんにあげるの」
ここへ呼んだら? などと提案したけど、男の子は大丈夫と譲らない。
仕方なくアーシェさんは辺りを見回し、誰も見ていないのをたしかめた。「気を付けてね」と送り出し、男の子はすぐに物陰へ消えた。
その場所からすぐ。男の子の指さした方向へ、石造りの建物はあった。
ただし元の形が分からないほど、崩れている。たぶん二階建てだったんだろうけど、入り口以外は瓦礫の山と言ったほうがいい。
「入っても平気なの?」
「さあ、どうでしょう」
問うたところで、エトヴィンさんが知るはずもない。残った入り口まででさえ、瓦礫が降り積もって危うい足場が続く。
「全員で行くのは足場が持ちそうにないわね。かと言ってあんたを行かせられないし、あたしが行くしかないか」
建物の危うさもだけど、ギルバルトさんがどういう状態かが知れなかった。小麦ギルドで遭ったようなことがあれば、エトヴィンさんの命が危ない。
「エト、ここでショタァと待ってて。手を握って、絶対に離れちゃダメ」
「分かりました、任せてください」
細かいことを聞かず、エトヴィンさんは請け負った。僕の隣へしゃがみ、肩と左手を掴む。
「行ってくるわ。すぐにギルバルトを引き摺ってくるから、気を付けて」
アーシェさんは一歩踏み出したところで、振り返らずに言った。これはたぶん、僕に言ったのだ。
「アーシェさんも気を付けてください」
答えると、彼女は頷いて瓦礫を登っていく。一歩ずつ、崩れないか足先で触れてみながら。
たぶん五段くらいの階段が埋まっているんだと思う。たったそれだけの先に行ったのが、随分と遠く見えた。
「ギルバルト居るの?」
名を呼びながら、入り口をくぐる。怖ろしくも頼もしい魔女の姿が見えなくなった。
その、次の瞬間だ。
強く握っていた力が緩む。そのまま手が離れ、エトヴィンさんが地面に倒れた。
「えっ」
なにが起きた、と考える間もなく。僕の視界は真っ黒に染まった。
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