第30話:【正太】忍び寄る悪意─3
「また来たのね、今日はどんな用件かしら」
たいていの男の人に負けない背丈。すらと高いアーシェさんがお客さんを前にすると、また大きく見える。九歳としては小さい僕に、途轍もない巨人に見える。
「覚えているのか。また母の我がままなんだが、ここはまあまあ大きな建物だろう? もしかして、宿も兼ねているのか」
一階の作業室。玄関を入った最初の部屋で、応接室で、休憩室。
もうテーブルで一休みしているお婆さんは、以前に持ち込んだ魔女の隠し箱を大事そうに抱える。
脇へ立つのは、既に亡くなっている夫のレオナルトさん。二人とも、暖かなお日さまみたいに笑う。
息子である小父さんは、頭を掻き掻き。我がままとやらを恥ずかしげに話す。
「いやあれから、あちこち巡って帰るところなんだ。そうしたら最後の夜は、ここに泊まると聞かなくて。無理なら無理と言ってやってもらえないか」
小父さんの目は、草原と山しか見えない外へ向く。ずっと額へ皺を寄せて、なにを困っているんだろう。
「無理ではないわ。ここは宿屋も商売でやっているの。大したもてなしは出来ないけれどね」
「まあ、良かった!」
はっきり大きく答えたアーシェさんの声に、リリーさんが喜ぶ。しかし小父さんは顔を俯け、一層強く頭を掻く。
「いや、なんだ。悪く言いたいわけじゃないんだが、ここは他になにもないだろ? 危うい輩もだな、その」
「ああ、そういう心配? 大丈夫、襲われたことなんてほとんど無いから」
「ほとんど、ね」
うふふ、とわざとらしく。アーシェさんは微笑む。彼女なら盗賊くらい、どうってことないに決まっている。
もちろん小父さんは知る由もなく、意地悪く感じてないか冷や冷やした。
「これだけ離れてりゃ大丈夫か……じゃあ明日まで頼むよ。見ての通り、母と俺だ」
「請け負ったわ。ようこそ、アーシェの宿屋へ」
部屋は三階の一人部屋しか空いていない。リリーさんの足につらいだろうと、アーシェさんは一階の倉庫を空けると提案した。
納屋とは別に、本や布製品を置いている部屋だ。
「あたしが片付けてくるから。悪いけどショタァ、相手をお願い」
「分かりました。手伝わなくてすみません」
「こういうのは、分担って言うの」
蝋細工みたいな指が、僕の髪をくしゃくしゃっと散らす。思わず下を向いた視界にローブの裾が翻り、彼女はさっさっと倉庫へ向かった。
「お茶を持ってくるので。すみませんが、しばらく待っててくださいね」
「構わないよ。君も大変だな」
泊まると決めたら、小父さんも緊張を解いたらしい。「ふうっ」とリリーさんの向かいに座る。
厨房に上がり薬茶の用意をしていると、ベスさんに頼んだほうが喜ばれるかなと思った。
でも部屋に戻ってしまったし、なによりこれは僕が任されたんだ。半ば強引に言い聞かせ、いつも通りにお茶を淹れる。
「まあまあ。このお茶、とってもおいしかったの。これだけを飲みに、何回でも来たいわ」
「でも今日はかなり暖かいし、冷ましたほうが良かったかもしれませんね」
ひと口飲んで、リリーさんは「うふふっ」と上品に笑った。僕が子どもだから、気遣ってくれたんだろう。
そう思って、このお茶はそれほどでないと言った。すると白髪をふるふるっと振って、お婆さんは花の形のショールを外す。
「もしも暑ければ、自分で調節出来るわ。私にはね、あなたが私の為に、息子の為に淹れてくれたこのお茶がいいの」
ふうっ、ふうっ。シャボン玉を膨らます、幼稚園の子みたいに。リリーさんはお茶に息を吹きかけた。
本当っぽい。いや、疑ってはいない。でも信じれば、僕が褒められることになる。それがなにかいけない気がして、戸惑う。
「言ってるのは本当だよ」
僕の考えを読んではいないだろうけど、小父さんはカラカラと笑った。
「ここへ来るまで二、三日前のことも怪しかった。しかし最近は、五日くらい前も覚えてる。この店のことだけは、ずっとね。うるさいくらいだ」
しかめっ面で、耳を塞ぐ。でも、おどけた仕草で。
隣のテーブルのレオナルトさんも、頷いていた。僕の分と見せかけて置いた、同じ薬茶を飲みながら。
「お待たせしたわ。空気も入れ替えたけど、埃っぽかったら言ってね」
「随分と早いな」
「いつも綺麗にしてるから、そんなにはね。でもあたしの本を置いたままだから、それには触れないで」
本当に早い。たぶん魔法で、窓から窓へ運んだはず。魔女だからこその早業だ。
それから夕食まで、この家に集ったみんなが思い思いの時間を過ごした。
リリーさんたちは荷物を部屋に入れ、馬車を裏に回し、近くを散歩した。
ベスさんは姉と敬う人の家というのに、部屋に閉じ篭ったまま。魔法の質問をしていたからなにか思い付いたんだろうと、その先輩は言う。
ヨルンさんは、相変わらず。たびたび覗くのも悪いので、出来上がった夕食を最初に持って行った。
今日は燻製にした山鳥の、香草焼き。贅沢に、一人に一羽分だ。
「ああ、もうそんな時間か」
「ユリアさん、変わりないですか? アーシェさんは良くなるばかりって言ってましたけど、なにかあったらすぐに呼んでくださいね」
トレイを渡しつつ、聞く。失礼と思うけど、横目にユリアさんを眺めた。眠っていると知っていても、怖いくらいに静かな寝姿だ。
「……君は優しいな」
「えっ、そんなことないと思います」
謙遜でない。僕はアーシェさんの言ったことを、繰り返しているだけ。それなのにヨルンさんは、「いや」と首を振る。
「俺が何者か知って、そんなことを言った人間は初めてだ。きっとユリアも、日向を歩いていないからな」
トレイには、山鳥の頭から取ったスープもある。ヨルンさんはそのカップを取り、一気に飲み干す。
「あちっ! 熱いなこれは。それに俺には香草がきつい」
「ええっ、すみません」
吸血鬼でも火傷をするらしい。ヨルンさんの手は唇を押さえ、すぐに目もとを拭いた。
「いや、そうでもないか。こっちの焼いたのはうまい。俺が慌てたせいだな」
「いえ、気を付けます」
香草焼きは褒めてもらえた。でも口に合わなかったなら申しわけなくて、頭を下げる。
でもおかしいな。と思ったのは、厨房へ戻ってからだ。スープの鍋に入れたのは塩だけで、香草なんか使っていない。
悩んでもいられず、料理を下へ運ぶ。今日はリリーさんが居るので、僕たちも一階で食べるのだ。
ベスさんが手伝ってくれて、お代わりのあるかもしれないスープの鍋はアーシェさんが運ぶ。
「賑やかな食卓っていいものね」
今日のリリーさんは、ずっとニコニコとした。最初に会ったときの困り顔が、どんどん思い出せなくなっていく。
レオナルトさんの食事をどうしたものか悩んでいたけど、当人が要らないと言った。
「妻が食っておれば、儂は満足だよ。それより今日は賑やかだの。お前さんの主が、なにかやっておるのか」
「いえ特には。賑やか、ですか? まさか誰かに呼ばれているような感じとか」
頷くレオナルトさんは、幽霊だ。不思議に怖いとは思わないけど。そんな人が、ヨルンさんと同じようなことを言う。
やはりどこからとは分からないらしく、あちこち見回していた。
「まあ、こういう夜もある。なんだろうというくらいだ、気にせんで良いよ」
食事の後、必ずアーシェさんに伝えよう。そう決めて、とりあえずは僕も自分の席に。にこっと、隣のアーシェさんが笑い、夕食の時間を宣言する。
「さあ、お食べなさい」
丸テーブルを隣り合わせ、六人の顔は近い。お爺さんだけ料理が無いのは、やはり心苦しかった。
でも用意すれば、小父さんが変に思うだろう。後でなにか、別に用意してあげよう。
「一つ、教えてほしいんだけど。これだけ離れていれば大丈夫って、なんの話?」
それぞれがふた口ほども食べたころ、アーシェさんはおもむろに聞いた。僕以外に用意した、果実酒を傾けつつ。
「ん、ああ俺か。北の町さ。昨日はそこで泊まる予定だったんだが、避けて来たんだ」
答えたのは小父さん。香草焼きを豪快に齧り取って、もぐもぐと咀嚼する。
「なにかあったの?」
「よくは知らない。どこぞの兵士が、自警団の屯所を攻撃したんだと。何十人も関わって、ちょっとした戦争だってね」
ゲオルグさんだ。絶対とは言えないけど、きっとそうだ。立ち寄らなかったという小父さんも、噂の限りでしか知らないと言った。
「金銭の揉め事らしい。会計役の男が横領を働いてて? 死んで詫びろとかって話になったんだろうな。そいつを突然現れた兵士たちが、なぜか横領男の味方するもんだから収拾がつかない」
「へえ、妙な話もあるものね」
「こういうのは面白おかしく伝わるから、どこまでが本当か分からんよ」
ギュンターという人は、やっぱり嘘を吐いていた。自警団を組織しているというのが、自分自身のように。
だから気にせず、ゲオルグさんも自分のことを考えろと。
僕がゲオルグさんの立場なら、どうしただろうか。まずそんな気持ちに気付かないと思う。
なにもかも終わって、悪いことをした友人に「なんでそんなことを」と責めるかもしれない。お墓の前で。
「野盗が騒ぐかもしれないわね。気を付けておくわ」
「戸締まりをきっちりしなきゃな。出来ることがあれば手伝うよ」
それだけで、この話は終わった。目新しいニュースではあるものの、騒ぎ立てるほどでないようだ。
たしかに僕も、そういう話を幾度も聞いている。街道を辿ったすぐ先の町とは、これまでになく近いというだけで。
わいわいと、賑やかに夕食の時間が過ぎる。リリーさんの歯を心配したのだけど、パン粥なんて必要ないとは事実だった。
楽しげな雰囲気が終わりを告げたのは、アーシェさんが口もとを拭いた直後。
「ふう、おいしかった」
手拭いをさっと畳んで、テーブルにぽいと投げる。まるでその風圧が、火という火を全て消したように。全てのランプが、ジッと小さな文句を残して明るさを失う。
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