第二十五話「リンネ」
●
それから季節は過ぎ、2013年。あたしが高校二年生になった春。
平和だった軽音学部を揺るがす、あの事件が起こった。
「勝負だ――俺とバンドで勝負しろ!!」
あの高宮が、軽音の部室で三年のヤンキーグループに宣戦布告――お互いの退部を賭けて、なぜか三好先輩のハルシオンと戦う事になったあの珍事件。
現場で見ていたあたしは、他のギャラリー同様にポカーンと口を空け、内心呆れ返っていた。……ほんと懲りないなあいつ。一年生たちを助けてるところまではよかったけど、三好先輩に勝つとか、いくらなんでも身の程知らず過ぎる。
だけどその数日後。あたしは目を見張った。
(……え?)
廊下を歩く高宮のすぐ側に――あの香月ちゃんの姿があったからだ。
聞いた話では二人で学校中を回り、バンドのメンバーを集めているらしい。
あの香月ちゃんが、高宮とバンドを組んだ? ……ああいうタイプ、一番嫌いそうなのに。まさか本当に裏で付き合ってたとか? 暫く香月ちゃんと距離を置いていたあたしは直接聞くこともできず――更に、目を見張る出来事に出くわす。
昼休みの部室で、謎のイケメンがベースを弾いていた。
いや顔、美少女かよ? って感じの、中性的で線の細い男の子が。
高宮と香月ちゃんと、いきなり部室で三人で急にセッションを始めて。
部室棟全体が揺れてんじゃないかってくらいの爆音の嵐を巻き起こし、
――あたしは正直、ブッ飛ばされた。
(な、なんだよあれ!? ……あんなの、)
反則じゃん。
少なくとも去年の文化祭で、あんな演奏をできるバンドは一つも居なかった。
あたし達を含めた、初心者バンドとはまるでレベルが違う。あの三好先輩たちのハルシオンに届き得る――そう思ってしまう程の強烈なパワーを感じた。
音楽って、凄い。
バンドって、……こんなに凄かったんだ。
その時あたしは自分の現状に、本当は満足していなかった事に気が付いた。
腹の奥底で煮え滾っている
あたしも、あれが欲しい。
あんな風に。自分の全てを燃やし尽くすような演奏がしたい。
『……ほら、あいつら。こないだの軽音の』
『……あー。ダッサいよねー。いかにも痛いオタクグループって感じ」
学校という社会の中で、あたし達は誰からも見下され、日陰の場所に追いやられている。大通りから聞こえる騒ぎ声や嘲笑の声に耳を塞ぎながら、『平穏』という誰もが当たり前に持っているようなモノを、『幸福』として噛み締めている。
――どいつもこいつも、なめやがって。
――今に見てろよ。
練習スタジオで、カラオケボックスで。来る日も来る日も、あたしは独りでドラムを叩き、鍵盤を叩き、声が枯れるまで歌い続けた。焼けつくような胸の燻りを必死で抑え込むように。……だけど。寝ても覚めてもあの三人の演奏が頭を過ぎる。あの音の衝撃がどうしても忘れられない。
憧れちゃダメだ。欲しがっちゃダメだ。
頭で分かっていても――心はもう、言う事を聞かなかった。
「……ボーカルがやりたい?」
そして、ゴールデンウィーク直前の放課後。
スニーカーズのメンバーに、あたしはついにその提案を零してしまった。
「……うん。ドラム。叩きながらでも多分、練習すれば出来ると思うから」
「ふーん。まぁいいんじゃない? たまにはそういうのも」
「わ、私も良いと思う! みずきちゃんの歌、聞いてみたい」
「うん。私も同意見だ。では次にコピーする曲は、姫路がボーカルで――」
「あ、ち、違くて!!」
「ふぇぇ!?」
つい大きい声を出してしまって、横に居る平田さんがビクっとなる。
「あ、あたし。今度の選抜ライブとか、大会に出てみたい。皆と、一緒に……」
「……選抜ライブ? って、なんだっけ秋本」
「県大会に出るバンドを決める、軽音部内のオーディションライブだな。ほら、丁度今話題になっているだろう。高宮が三好先輩たちとそこで戦うという」
「でもあれって確か。今から一か月後、とかだよね?」
「一か月後!? え、じゃあ全然間に合わないじゃん。無理でしょ」
「……確かに。仮に出られたとしても、今の私たちの実力では、また笑い物にされてしまうかもしれないな……」
「……ふ、ふえぇ……?」
空気が劣勢になり、あたしは慌てて声を荒げた。
「だ、大丈夫だよ! 今からでもスタジオとか借りて、いっぱい練習すれば――」
「いっぱい練習って……スタジオって結構お金かかるんでしょ? 大体ちょっと色々と話が急すぎない? そもそも姫路、なんで大会とか出たいの?」
「……え? そ、それは」
つい、言葉に詰まる。
「のえる。別にそれは不思議な事じゃないだろう? モチベーションが高いのはいいことじゃないか」
「いや、でもさ。今まであたしら大会に出るとかそういうつもりでやってきたわけじゃないじゃん。そんなん急に言われても難しいでしょ」
「それは、まぁ。そうかもしれないが」
「……大体。さっき秋本が言った通り、オーディションライブとか無駄に目立つ事したら、また変なバカどもに絡まれるかもしれないじゃん。そんなにリスク背負ってまでやる必要ないでしょ。たかが部活なんだし」
たかが、部活。――神崎の言い分は正しいのかもしれない。
だけどその時のあたしは納得がいかなくて、引き下がれなかった。
「っ……みんなは、見返してやろうとか、思わないの?」
「……? 見返す?」
「だって、あんな。キモいとか、ダサいとか。毎日毎日、誰かに理不尽にバカにされて。皆はそれで平気なの? ただ普通に生きてるだけなのに、何かにビクついて、縮こまって。……あたしは、もう嫌だよ。見返してやりたい」
「……姫路」
「……みずきちゃん」
あたしの言葉に感じ入るものがあったのか、全員が苦々しく視線を落とす。
「……姫路。あんたのその気持ちは、わからないでもないけどさ。でも――」
「っ……あたしなら! 皆を絶対、勝たせられる! だから、信じて!」
「は? 勝たせられるって――」
「とっ、とにかくあたしの歌、聞いてみて。そしたら絶対――」
手に取ろうとしたボーカルマイクを、神崎に奪われる。
「……いい加減にしなよ、姫路」
深い溜息を吐きながら、神崎はあたしに非難の視線を向ける。
「あのさ、自分が今冷静じゃないって気づいてる? 普段全然喋んないのに、ほんと急にどうしたの? ……見なよ、あかりとなほを。二人とも怯えてるじゃん」
「……、怯えさせたのは、ごめん。だけどあたしは、冷静に――」
「冷静? ……そう。じゃ、こっちも厳しい事言うけどさ」
静かな怒りを込めながら、神崎は冷たい声色で言い放つ。
「周りを見返したいとか本気で思ってんの、……悪いけどこの中であんただけだよ。そんなにやりたいってんなら、一人でやりな」
足元がぐらついて、視界が散漫に滲む。
胸に、黒い孔が開くようだった。
「の、のえるちゃん!」
「っいくらなんでも言いすぎだぞ、のえる」
「二人とも黙ってて。……姫路。バンドってさ、皆の協力があって出来るもんでしょ? もう一回ちゃんとその辺、自覚して――、」
自覚してる。自覚してるから――あたしはずっと、頑張ってたのに。
やりたくもなかったドラムを、皆に嫌われないように、毎朝必死で練習して。
なのに、なんだよ? さっきから。その、バカを諭すみたいな目つきは。
(――ああ、そっか)
あたしが、バカだったんだ。皆がやりたがらないドラムをやって、何か良い事をしたような気になって。その対価に、あたしのワガママを聞いて貰おうなんて浅ましい事を、無意識のうちに考えてたんだ。
(……何やってんだよ、お前)
見返り求めて他人と付き合ってんじゃねぇよ。自分がキモくて頭おかしい奴って事忘れてたのかよ。お前はただ、お情けで拾われただけなのに。この子達と対等な友達になった気でもいたのか? 馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しい。
ああ。――なんだか急に。ぼやけてた視界が晴れていくようだった。
「……じゃあ、一人でやるよ」
「……は?」
眉を顰める神崎に、あたしは平然と言葉を返した。
「神崎さんの言ってる事、正しいし。言われた通り一人でやるよ。……その代わり、お願いがあるんだけど。もうあたし、バンド抜けてもいいよね? どうせあたしが居たって、空気悪くなるだけだろうしさ」
「……何、言って――」
「……み、みずきちゃん」
「……少し落ち着け、姫路――」
「……っ触んないで!」
肩にかけられた秋本の手を、咄嗟に払いのける。
「ほんとにごめん。悪いけどさ、ドラムはもう、別に探してよ。……あたしじゃなくても、何の問題もないでしょ? それじゃ」
そしてあたしは、部室を後にした。泣きながら、がむしゃらに廊下を走り抜け、息を切らしながら体育館の裏に辿り着き、思い切り口元を歪めて笑った。
「ふ、ふふ」
さっき、神崎に問い詰められた時。
あたしは自分の、あまりにも醜い本音を垣間見てしまった。
感謝はしてる。本当に。あたしを拾ってくれた事も。優しくしてくれた事も。
良い子たちだってわかってる。皆にはそれぞれ、自分の生活があるって事も。
だけど、心のどこかで。あたしはあの子たちにドス黒い不満を抱いてた。
なんで、もっと練習しないんだよ。
なんで、もっと上手くできないんだよ。
あいつの隣には、あんなに凄い二人が居るのに。
なんであたしの隣に居るのは――、
「あは、あははははは……」
ほんとに最低で、最悪な気分なのに。一周回って最高の気分だった。
人間のフリをしていたクズが、正真正銘のクズに堕ちた。
もうこれで、失うものはない。誰に気を遣う必要もない。
ああ――なんて、清々しい。
それからあたしは、ずっと一人で過ごすようになった。バンドメンバーからは逃げるように立ち回り、虎視眈々と一人でライブで演奏する曲の練習を進めた。毎日のように説得に押しかけてきた四人のメンバーも、その内あたしを探さなくなった。
ただ、一人は除いては。
「……みずきちゃん」
喜多川あかり。あの子だけは、本当にしつこくあたしに付き纏った。
おどおどしながら、潤んだ瞳で、あたしを良い人だと信じ込んでるかのように。
「あの、今日。一緒に帰らない? 近くに新しいスイーツのお店がね、……あっ」
「……」
いつものように目も合わせず、あたしは無視して席を立つ。
口を開けば傷つけてしまうような気がして、怖かった。
「……じゃあ、今日はあれコピーしようぜ。ピロウズの、その未来は今!」
「またピロウズかよ。昨日もやったし、別のにしねえ?」
「いや昨日やったのはプレデターズだろ? 全っ然ちげぇよなぁ、響」
「ああ。まあでも、似たようなもんですよね。ボーカルは一緒だし」
昇降口に行くと、あの三人が楽しそうに会話しているのが目に入った。
羨望や嫉妬よりも先に、怒りに似た感情が煮えたぎった。
あたしだって、やれるんだ。
お前らみたいに――群れなくたって、独りで。
「……一人で、選抜ライブに出たい?」
翌日。あたしは職員室で顧問の松本先生にそう相談を持ち掛けた。
「姫路さんって確かドラムだったよね。他のメンバーとは相談したの?」
「はい。だけど今少し揉めてしまってて。まだ正式に脱退はできてないんですけど」
「なるほど。うーん……それじゃあちょっと許可を出すのは難しいね」
「……どうしてですか」
「いや、一人で出るってこと自体は問題ないんだけどね。関係が拗れたまま物事を進めるのはよくないからね。ちゃんと話し合って結論を出してから――」
なんだそれ。別に関係ないだろ。一人で出たいっつってんだから一人で出させろよデブ教師。――この頃のあたしはもう、完全に病んでいた。些細な事にもイラついて、他人に対する憎悪に歯止めが利かなくなっていた。辛うじて、それを表に出さない理性は保っていたけれど。あの時ばかりは、そうもいかなかった。
「……姫路」
昼休み、体育館の裏。
一人で弁当を食べていると、神崎が一人であたしの元にやってきた。
「……あの時の事は、ほんとにごめん。あたし、本当に言い過ぎて――」
「……別に。言い過ぎでもないでしょ。ただの事実だし」
「……っ、いや、だから。事実とか、そういうんじゃなくてさ」
神崎は私の横に座りながら、諭すような柔らかい口調で言う。
「……いい加減もう、戻ってきなよ。こんなところで、一人で昼飯食べてないでさ。秋本も、あかりも、なほも。勿論、あたしも。みんなあんたのこと心配してるよ? だから――」
「……心配? なんで?」
「なんで、って。……友達の事心配すんのは、当たり前でしょ」
「……友、達?」
そして神崎は、あたしの中の地雷を踏み抜いた。
「く、くく。あっはははは」
「な、何。なんで……笑ってんの?」
「……ああ。ごめん。あたし、友達居ないからさぁ。神崎さんが何言ってんのか、全然わかんないや」
「……は?」
「友達ってさ、お互いの事よく知ってる人同士の事を言うんでしょ? あたし、今まで自分から何か話したっけ? 神崎さんに何か聞いた事あるっけ? 大体、一人でやるって何度も言ってんのに、そうやって無理やり連れ戻そうとすんのが友達なの? 勝手な友情押し付けないでよ。――鬱陶しいから」
あたしは立ち上がり、その場を後にしようとする。
「……っ待って!」
だけど、神崎が後ろからあたしを大声で呼び止めた。
「姫路。あんたの言いたい事は分かったよ。……あたしの事は、嫌いでも、別に友達って思ってなくてもいいよ。戻りたくないんなら、戻らなくていい。……だけど。お願いだから。……あかりの事は無視したりしないでよ」
ずきり、と。胸が痛んだ。
「あいつ、毎日毎日あんたの所に行ってるでしょ? せめてあいつとは、普通に接してやってよ。ほんとに良い奴なんだって、あんたにも分かってるでしょ?」
分かってる。分かってるからこそ。
あの子も、神崎も、他の子も。もう、あたしなんかに関わるべきじゃない。
――やりたいことを、やる。
あたしはもう、自分でそう決めてしまった。
その我儘を通す以上。あたしは、捨てなきゃならない。
今、ここで。全ての迷いを断ち切らなければならない。
「……勘弁してよ」
「……え?」
振り向きながら、あたしは大きく溜息を吐く。
「さっきから鬱陶しいって言ってるじゃん、そういうノリ。大体、うざいんだよね、あの子。毎日毎日、頼みもしないのにやってきてさ。いちいち恩着せがましいっていうか。別にこっちは何とも思ってないっつーの。いい加減にしてほしいよ、全く」
あたしは表情を歪めながら、声を鋭利に尖らせる。
「……姫路。あんた、今、なんて?」
「あれぇ? 聞こえなかった? ……あの子もアンタも、ウザいって言ったの。ちょっとバンド一緒にやってたからってさ、気安く友達面とかしないでもら――」
そしてあたしは、神崎に思い切り平手を打たれた。
「……。気ぃ済んだ?」
「姫路……。あたしは、あんたを。――絶対に許さない」
憎悪と悲しみが入り混じった表情で、神崎は今にも泣きそうな声を震わせた。
「……そ。じゃ、他の皆によろしくね。ちゃんと、もうあんな奴に関わるなって言ってあげなよ。じゃないとあたし、何言うか分かったもんじゃないから。あっはは」
バレない嘘を吐くコツは、ほんの少しだけ真実を混ぜる事だ。
昔、何かで見たような台詞。あれはどうやら本当らしい。あたしの安い演技が通じるか不安だったけど――思った通り、直情型の神崎には効果的だったようだ。
これでもう、
どこまでもあたしは、独りで墜ちていける。
「……そうかそうか。じゃあもう仲直りしたんだね」
「……はい。すみません、報告が遅れて」
選抜ライブの一週間前の職員室。あたしは松本先生に選抜ライブに出場するという旨を伝えに来た。バンドの皆と仲直りしてきたと、嘘を吐いて。
「いや、いいんだよ。それより大丈夫? もうあと一週間くらいしかないけど」
「はい。練習自体は続けてたので、ぎりぎり何とか」
「なるほどなるほど。じゃあ名義の方は、どうしよっか」
「名義?」
「ライブ自体は、結局姫路さん一人で出るんでしょ? だったら完全な個人名義にする? それともスニーカーズのって付け足そうか?」
少し迷った後、あたしは答えを返した。
「スニーカーズで、お願いします」
卑怯な真似をしている以上、卑怯を貫き通す。
とにかくこれで、あたしは選抜ライブに出るための準備をほぼ全部終えた。
最後の準備は、演出だ。
せっかくの晴れ舞台に、今みたいなダサいオタク丸出しの見た目じゃ格好がつかない。失敗して砕け散るにしても、半端な事はしたくなかった。
そしてあたしはいつも行ってる近所の小さな美容室じゃなく、東谷の街の美容院に足を運んだ。鬱陶しい前髪を多めに梳いて貰って、真っ黒な髪を栗色に染めて貰った。鏡に映った新しい自分の姿は、キラキラと輝いて、まるで自分じゃないように見えた。生まれ変わったような高揚感に酔いしれたまま、あたしは選抜ライブの当日を迎え、ついに一人でステージの上に立った。
「……誰だあれ?」
「……あんな子、うちの学校に居た?」
「……ってか、一人? 他はみんなバンドなのに?」
ざわめく体育館の中、ゆっくりとあたしは歩を進めた。
キーボードとボーカルマイク。たった十数歩の距離が、無限に感じられた。
椅子に座って観客を見渡したその時、処刑台の上に立っているような気がした。
――ああ。本当に、独りだ。
震えが止まらない。ここに立つために、一体あたしは何を犠牲にしてきたのか。
自分のしでかしてきた事の全てに、吐き気を催した。
怖い。怖い。ごめんなさい。ごめんなさい。怖い。怖い。怖い。
――だけどもう戻れない。
人差し指を白鍵の上に置く。ポーンと鳴ったのは
それでざわつきは収まり、厳かな静寂が体育館の中に満ち満ちる。
――覚悟は決まった。
さよなら、あたしの青春。
今日ここで、全部終わってもいい。
『――世界の始まりの日、生命の樹の下で』
そこから先は、ほとんど覚えてない。
気が付いたら、あたしは立って歌ってて。
それが終わった時には、数えきれないくらいに沢山の拍手の中に包まれていた。
深々と頭を下げて、逃げるように体育館を出て。駆け込んだトイレの中で、ぴょんぴょん飛び跳ねながら、何度も何度もガッツポーズをした。
やった。やった。やり遂げた。やり遂げた。これで、あたしは――。
あたしは、――いったい、何を?
「う、っ……ぷ」
そしてあたしは、思い切り便器の中にヘドを吐き散らした。
酸っぱい匂いで満ちた水の中に、ぽつぽつと汗と涙が落ちてくる。
まず思い浮かんだのは、喜多川さんの顔。秋本の顔。平田さんの顔。
悲しみと憎悪に歪んだ、神崎の顔。
――これで、何かが変わったのか?
――これが、あたしの。本当にやりたいことだったのか?
――本当は、あたしは。
――ただ、みんなといっしょに。
「……香月、ちゃん」
震える指先で、スマホを操作する。
優しいあの子に、今すぐ泣きつきたかった。助けてほしかった。
だけど通話は通じない。今どこに居るのか、考えるまでもなくすぐに分かった。
体育館が、爆音で揺れている。
よろよろとあたしは群衆に紛れ、ステージの上の光景を茫然と見上げた。
高宮が歌っている。その後ろで香月ちゃんがドラムを叩いている。
あの時以上の、生命が迸るような激しい演奏を奏でている。
眩しいな。――悔しいな。
何であたしは、あんな風になれなかったんだろう。
どこで何を、間違えてしまったんだろう。
嫉妬と羨望。後悔と自己嫌悪。
ぐるぐる巡る感情も、零れてしまう情けない嗚咽も、あいつの歌が掻き消してしまう。心臓の音にドラムのビートが重なって、地鳴りのようなベースの衝撃が肌を伝い、鋼鉄の怪物みたいなエレキギターの咆哮が、世界の全てを塗りつぶす。
(……ああ)
そうだった。あの輝きに魅せられたんだ。
狂おしい程に、憧れたんだ。
「……っ」
気が付けばあたしは、握り締めていた拳を解いて、静かに涙を流していた。
あの四人の演奏を聴いていると、不思議と憑き物が落ちていくような気がした。
かっこいいな、本当に。……あたしも、あそこに。少しは近づけたのかな。
そして最後の曲。残響が轟く光の中で。
あの高宮が、泣いているのが見えた。
(……よかったね)
自分の事でもないのに、自分の事みたいに嬉しくて、また涙が零れた。
過程も、結果も。ぜんぶ違ってしまったけれど。
あいつのあの孤独の戦いが、ようやく今、報われたんだ。
綺麗だな。あたしもあんなふうになれないのかな。
あともう一回だけでいいから、……やり直せないのかな。
●
自分を変えよう、だなんて。人生で何度思ったことだろうか。
例えばそれは、地元を離れて遠くの高校に行くと決めた日。
例えばそれは、一人でステージに立とうと決めた日。
いつだってあたしは、劇的な何かを期待してた。
オタクでも、陰キャでも、友達の一人もいないクソぼっちでも。
頑張ればきっと、何かが変わるはずだって願ってた。
けれど、そんなもの。結局叶わないって知ってしまった。
「……やっほー! 高宮くん!」
だけどあたしは仮面を被る。
そしてまた、同じことを繰り返すんだ。
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